聖騎士イズヴァルトの伝説【新編】・まとめ 作:CHACOとJAGUAR
大きな積乱雲だ。灰色というより、真っ黒い。
その車の助手席にいた少女は、これから向かう街の中心地の空に浮かぶそれを見て、ポケットから何かを取り出した。
スマートフォンだ。エレノアは少々太い指を、液晶画面にタップした。
いくつものアイコンが現れ、スライドするとカメラアプリが起動すると、黒い雲にカメラを向けた。
ハンドルを握っていた彼女の母はチラと見ると、くすりと笑った。
娘は誕生日のプレゼントとして、父親に買ってもらったのだ。その日からずっとこれを、肌身離さず持ち歩いていた。
「エレノア、呆れちゃうぐらいにお気に入りなのね? 今度は何を撮るつもりなの?」
「あの雲よ、ママ。灰色どころか黒に近いわ。まるで火事の煙みたいね?」
そう言われればそうだ。しかし積乱雲があんなに黒くなっているのは初めて見た。エレノアがそれにカメラのレンズを向けてシャッターを押す。
その時だった。雲の下からいくつも雷光が放たれ、轟音が鳴り響いた。1つ1つが、尋常じゃないほどの大きさだった。
「……ちょっと、止めたほうがいいかしら?」
この近くに、コンビニエンスストアがあったはず、と運転手は思った。
エレノアは最新式のスマートフォン、裏がなめらかな曲線を描く、iPhone3Gの画面を戻した。
「13時16分か。間に合うかな、稽古に?」
エレノアは14時までに、あの街の中心地に行かなければならかった。所属している劇団の稽古があるからだ。
エレノアの母はコンビニではなく、ダイナーを見つけた。一旦あそこに止めよう、と言ったその時だった。
雷を落とし続ける雲の中から、黄色く太い何かが現れ、鞭のように大きくしなると、中心街のビルをなぎ倒していった。
そして街のあちらこちらに、火の手があがった。他の車が速度を落としたのを見て、ブレーキを踏んだ。
「……なんなの、あれ?」
再びスマートフォンのカメラを起動させた娘に呼びかけたが、同時に悔やんでいた。ビルをなぎ倒し、炎を巻き起こす黄色い何かが、更に伸びてこちらに飛んできたからだ。
「……ママ」
その声が、彼女が聞いた最後の娘の声だった。
同時に、死ぬ間際の彼女が耳にした声でもあった。
□ □ □ □ □
真っ黒な煙のようなものをくぐり抜けると、大きな街のミニチュアが、真下にあった。
真っ逆さまに落ちていた。強い風を真正面に浴びながら、金色の髪をなびかせ、古傷だらけになった可愛らしい顔に、満面の笑みを浮かべていた
肩当てをつけた黒のビキニアーマーに、マントを羽織っている格好だった。胸を強調する服をまとっているが、乳房は無かった。代わりに、幅の厚い剣で斬り落とされたと思しき、醜い傷跡が広がっていた。
落下が止まった。浮遊術式を用いたのだ。右手側、たぶん東の方角だと思うが、湖のようなものが広がっていた。
「ここはどこだろう! あの『異界の門』からどんなところにたどり着いたのかな!」
呼びかけたのは紐で縛って背負っていた、虚ろな目をした四肢が欠けた女か。
あるいは、彼女の真上にいる、浮かぶ氷の球体の中に閉じ込められた2つの影か。
背負っていたほうが口を開いた。かすれていて聞き取りづらいが、骨伝導を用いた術式を使い、わかるように響いていた。
「たぶん。でとろいと……かもしれないなあ」
「ふーん★ あれがアメリカの。前世のあたしの敵がたくさんいる街、ということね?」
背中の娘は生気の無い目を向けた。
「そーかもー」
「ふふ♥ そうであるわけだと思うよ♥ じゃあさ、はじめちゃったほうがいいかもね★」
右手の『獄炎の凱歌』を手から離した。左手に持っていた片手持ちの剣、『姫竜の牙』で印を切った。
鋳物製に見える不格好な剣は落ちること無く留まると、磁石で吸い寄せられるかのように、『姫竜の牙』の切っ先に近づいていった。
「魔剣が合わさったらどんなふうになるか、あの2人に見せてあげる!」
叫ぶと『獄炎の凱歌』から、黄色く伸びる巨大な刃が飛び出てきた。熱線の刃でもある。この魔剣が秘めている炎の力だ。
そして『姫竜の牙』は、その剣が引き出した力に変化を加える。高い熱を帯びた刃はとても長く伸び、鞭のようにしなりだした。
「うふ♠ この街は中心地だけにしておいてあげる♥」
とても広いというのもあるが、あまり人口がいなさそうだというのもあった。
どうせ焼き尽くすんだったら、もっと人が多い街がいい。例えばシカゴとかである。
彼女はそれを振り回した。頑丈そうな建物が面白い様に切り刻まれ、激しい炎を起こした。
「あはは♥ はははっ♥ ……ねえ見てる?」
彼女は真上の閉じ込めていた2人に向け、念話術式で呼びかけた。大柄な男の影と、そこそこ小さな女の輪郭があった。彼らは生きていた。デトロイトの街が切り刻まれ、火の海になる様を見下ろしていた。
「アナタは見てみたかったんだよね? あたしと同じく、戦争をしていた敵だったものね?」
呼びかけた相手は返さなかった。喜びも憎しみも感じていなかった。今、その目で見ていた光景があまりにも凄まじ過ぎて、何も考えられなかったのだ。
「だんまりになっちゃったのは仕方がないよね。でも、もっとすごいことをあたしが見せてあげるから!」
西暦2008年。9月15日。
2000年代最大の大恐慌が始まるはずだった日であるが、異界からの来訪者により何もかもが書き換えられてしまった。
それはデトロイト中心地の上空に現れた黒雲の中から突如として現れ、またたく間に中心地区を灼き尽くした。
『火の七日間』とも、『ゲヘナの黒い9月』とも呼ばれた、アメリカ東部からヨーロッパを中心とした、世界的大惨事の始まりの日でもあった。