寝所を離れたハォは洞内を大股に抜け、垂れ布を払って外へ出た。
蹄の音は既にすぐそこまで来ている。ほどなくして、薄ぼけた黄丹の衣が立ち木の間を縫って見え隠れし、のらりくらりと急ぐ様子も無くやって来る。単騎のようだが、どうせ手近に護衛を潜ませているだろう。
「──あん?何だよ起きちまってたか、
馬上から声をかけてきたリェは大仰に呆れた素振りをする割に、さして意外でもなさそうな顔つきをしている。例によっておくれ毛をひねくり、特に可笑しくもなさそうにせせら笑う。
「おめえの事も久々に水入らずでじっくり可愛がってやろうと思ったのによ。やれやれ頑丈なこった」
ハォはその意味深な挑発には応じず、嫌味を返す。
「こんな事で俺に勝ったと思って満足しているのか。程度が知れるな、兄上よ・・・何のつもりかは知らんが、奪られたものは返してもらったぞ」
兄上、と敢えて呼んだのは皮肉を込めての事だ。日頃ならば顔を合わせても「貴様」、良くて「お前」である。
「さあて、何の事だかねえ」そう嘯きつつ、リェは鈍くさい動作で鞍上から降り立った。「──ああ、おめえんとこの躾のなってねえあの下僕の事か?もう見つけやがったのかよ、必死になっちゃってまあ。ちょいと性根を叩き直してはやったが・・・どうだい、ちったぁいい子になったかよ?ひひひ!」
手近な松に馬をつないだリェは、殺気を滲ませる弟と一定の距離を取りながら半円をえがくようにじりじりと移動する。
よく解らない奇妙な手振りを交えて話す兄が何を仕掛けてくる気かと、ハォは突き刺すような視線を片時も外さない。
「また下らぬことに手間をかけおって、暇な事をする。なぜ、そう要らぬちょっかいを出してくるのだ」
「さあね、嫌いだからじゃねえの。──でもこれで理解したろ?俺はその気になりゃ、いつでもてめえを殺せるんだよ」
ハォは押し黙った。確かに、飲まされた毒の内容次第では己はとっくに死骸に変えられている。図星を衝いた手ごたえに、リェはにやりと笑った。
「ほらな?だから素直に俺の下に付けって。てめえ一人じゃ陛下を斃すのはまず無理だ。俺がてめえをもっと上手く使ってやるよ、考え事は俺がやってやるから俺の鉾となって働け。悪いようにはしねえからよ」
「ふざけるな」ハォの語気が思わず強まる。「王位継承の儀は一騎討ちが伝統ではないか、共に誅殺しようなどと片腹痛い。やはり貴様など王の器にあらず」
青みの散った美しい翡翠色の妖気がハォの手元に湧き、剣を形づくった。薄曇りの鈍い日差しに刀身が白々と照り映える。
「いつでも殺せるというならばそれはこちらの台詞だ。貴様など取るに足らんと思ってこれまで相手にしてこなんだが、早々に潰すべき害である事がよく解った。殺し映えはしないが、この機に今ここで片付けてやる」
「へえ、その女物みてえな細い剣でか?そりゃ映えねえわな」
リェが揶揄した通り、それはハォが普段好んで使うようなずしりと重厚な刀剣に比べてかなり細い。
妖気不足だった。
怒りに任せて無数の槍を降らせ、そのうえスウに大量の妖気を譲り渡し、さすがに乱費が過ぎたようだ。
しかしハォは冷笑を浮かべる。素手でも斃せるような
「この細身の剣すら満足に振れぬ貴様に言えた事か。無駄口はもういい、相手をしてやるから最期くらい貴様も剣を執るがいい。せめて誇り高く戦って死ね」
リェは動かない。
ハォは構えようとしない兄を見限り、一方的に斬ろうと判断した。──が、一歩出たとたん脚がもつれ、その場に膝をついた。
毒の名残りと妖気不足による立ち眩みではなかった。何かに足を取られたのだ。
(?!──しまった)
眼を凝らさねば視えぬ程の細い糸が足元に張り巡らされていた。
その極限まで微弱に絞られた妖気量ゆえ、いつの間に仕掛けられたものか全く察知できなかった。しかもその糸は粘着性を具えており、まるで蜘蛛の糸だ。
(くそ、先程からの不自然な挙動はこれだったか)
何かを仕掛けてくる事をハォも警戒してはいたが、その時には既に仕掛けを施されていたのだとようやく気がついた。
リェは話しながら妙な手ぶりを装い、この微細な糸をひたすらにハォの足元へと投げていたのだった。
「小癪な事を・・・、」ハォは剣先で払おうとするが、ふわふわと軽いその糸は細いわりに驚くほど強かった。振り払おうと躍起になるほど剣にも腕にもまつわりつき、身動きすら困難になってゆく。
「・・・!」
「おめえ、蜘蛛の糸の頑丈さは知ってるか?俺の計算じゃ、小筆の軸ぐれえの太さに縒り合わせば十万貫近い大岩を吊り上げたとしても切れねえんだぜ」
リェは蜘蛛の巣状に編まれた妖気の糸を投網のように投げかけ、既に逃げられないハォの体を易々と絡め捕った。「けっ。くだらねえ・・・こうなっちゃ得意の体術も何にもならんなあ?」
ハォが脱出を図ろうと剣を突き立てるも、不思議な弾力に押し返され破れそうもない。刃を長く引けば何とか切れそうではあるが、網に包まれ動きが制限されていては思うようにいかない。
「無様なもんだな。いいか、力ってのはこういう使い道もあるんだ。どうよ、てめえのような体力ばかには真似できねえ高度で繊細な技だろ」
リェは手元からハォに向かって伸びる糸の一本を勿体つけた仕草で選び、じわりと引いた。
ごく軽い力で引かれたように見えたが、いつの間にか周囲の木々にまで架けられた糸が複雑に作用し、ハォの手首に絡みついた糸が骨を軋ませる程きりきりと締まる。みるみる鬱血して手首が痺れ、ハォは剣を取り落とした。
手を離れた剣は網目をすり抜け、乾いた金属音を響かせて地に転がった。しばし形を保っていたが、再び手にする事が叶わずやがて霧状に崩れて消えた。
「く・・・、」
本調子であったなら体内の妖気を爆ぜさせ、この程度の術など吹き飛ばせたはずだ。だが今のハォにはそれができる程の余力が無い。
体内に残る毒の代謝にも妖気を消費するというのに、剣を落とし、その妖気を回収し損ねたのは痛手だった。やはり、屈辱的でもさっきフェイが持ってきた怪しげな薬を使っておくべきだった。
なおも抵抗を図るハォの体は、リェが翻花縄《あやとり》のように糸を手繰る動きに従ってひょいひょいと軽く引かれ、巨松の根元にびたりと張り付いた。
「おいおいどうしたハォよ、いやに動きが鈍重だったが。体調が優れねえのか?まあそうか、俺がそうさせたんだもんな。毒入りの水は美味かったか?」ろくに身じろぎもできなくなったハォの顎にリェは手を掛け、じろじろと顔じゅうを眺めまわした。「・・・んー?なんだア?紋様が随分と薄いな。まさかお前、ぼろ雑巾みてえになったあの従僕を憐れんで妖気を分け与えたのか?恥知らずめ」
「・・・、触るな」リェが何をしようとしているかを察し、ハォの相貌に明らかな焦りが浮かんだ。
「従僕なんぞに分けるほど有り余っているくらいなら、俺にも馳走しろ」網越しにリェが顔を寄せてくる。
「ふざけるな・・・、」
我ながら、スウに奢り過ぎた。これ以上妖気を失っては、いくら何でも意識を保てるか怪しい。何より、リェに口をつけられる事が凄まじく嫌だ。
動かぬ体で必死に身じろぎをするうちに髪をまとめていた簪が抜け落ち、足元の石に当たって澄んだ音をたてた。
「何だよ、兄上と口吸いするのが恥ずかしいのか?ガキの頃は時々可愛がってやったろ。あん時ゃおめえ、かわいい声で切なそうに哭いたっけなあ」
男色趣味など有さないと自称する割に、かれがハォに対して劣等感とは別に歪んだ感情を抱いている事は明白である。
実際、ハォは幼い頃に練習台として何度かリェの性処理をさせられた苦い経験があった。今となっては信じられない事だが、その頃のハォはまだ小さく力も弱かった。リェの貧弱な膂力でも体格差が勝ってハォをねじ伏せる事ができたほどだった。
幼いハォが以前に増して熱心に鍛錬を積み、より本格的に体術を学びだしたのは思えばその時分からかもしれない。
「黙れ、あれは幼かった俺に貴様が無理強いを・・・、──よせ・・・!放せ、この──、んっ、・・・──!」
嫌がる弟の引きつった唇を、リェは無理やり吸った。
幼い日に味わわされた屈辱と無力感が甦る。ハォは妖気を渡すまいと必死に抗ったが、抵抗力が弱っている。吸わせる気は全く無くとも、このままではじりじりと強引に吸い上げられてしまうだろう。
引き結ばれたハォの唇を開かせようと、リェが舌をこじ入れてくる。うっかり噛み千切られないよう、ハォの唇の裏側を舐めるように巧みにその舌先を逃がす。
「──────!むぅっ・・・!!」
「・・・・・・・・・、」
ぢゅうぢゅうと汚い音をさせながら、リェは吸った。流れ落ちるよだれがハォの顎を伝う。さらにハォの羞恥心を煽って抵抗力を削ごうと、股間に膝を擦り付けるという細工をもリェは加えた。
(な、何をする、気色の悪い・・・!姑息な!!この、──やめろ!!)
身の毛もよだつ嫌悪感に思わず力が緩み、その隙に妖気が少しずつ吸われてゆく。
(まずい・・・、奪られる────)
意識が曖昧になりだし、いよいよハォが焦った時だった。
「?!」
二人とも、揃ってぎくりと身を強張らせた。
ほぼ同時に、頭上に枝を張る巨松のそこここで翼を休めていた鳥たちが狂ったように声を上げ、ばらばらと飛び去った。枝が揺れ、松の葉に残っていた雨水が二人の上へまばらに降り注ぐ。
洞を深く囲む松の森では小動物や妖しのたぐいがてんでに逃げ惑い、木々の梢に身を隠していた無数の鳥という鳥が一斉に飛び立ち、ざわざわと空へ散って行った。
ハォは兄の強引な口吸いから解放されたが、それどころではなかった。
すさまじい妖気の波動が、あたり一帯を重く圧していた。
ハォが発したものではない。無論、リェのものであるはずもない。
圧倒されるあまり、二人とも咄嗟に位置がつかめずにいたが、そのおぞましい気配はどうも洞の内から押し寄せてくる。
怯んだリェは思わず気が逸れて術を解き、じりじりと後ずさりをした。リェの馬もただならぬ気配に怯え、つながれた松の周りを落ち着かなげに行ったり来たりしている。
全身を締め付けていた網から不意に解放されたハォはその場に力なくへたり込んだ。各所をきつく締めあげられ滞っていた血の巡りが急に解放されたのと妖気不足とで頭がくらくらしたが、それでも松の根に腕を突っ張って無理に身を起こす。
何事が出来したものかは心当たりがあった。
「──貴様、僕の殿下に何をしている」
ぴしりと響いた声は凍てついたように硬く、陰鬱な気を帯びていた。
垂れ布の陰から夢遊病者のように姿を現したのは、ねぐらで眠り込んでいたはずのスウだった。
姿が霞むほど大量に漏れ出る濃密な妖気を透かし、喉元の三角紋様がどす黒く変色しているのが確認できた。満身に受けた傷や痣も、ユゥの施した呪符も、跡形なく消えている。
(・・・。なぜだ?俺の妖気が既に
自身が施した行為が生んだらしい想定以上の結果を目の当たりにし、ハォは瞠目した。
「てめえ、ばかじゃねえの??たかが下僕にどんだけ大量の妖気を注いだんだ!」その悪夢のような姿から視線を外す事ができないまま、リェは弟を罵った。「・・・そんなに大事かよ。いかれてやがるな」
その時、リェの馬が大きく首を振り、結びの甘かった係留を自ら解いた。リェが轡を捉える間もなく、馬は無情にも逃げ去った。リェの背中を嫌な汗が伝う。手下を呼び寄せようと取り出した笛が、震える手からぽろりと落ちた。
所詮呼んだところで全くの無駄である事を理解していただけに、落ちた笛を敢えて拾う事もしなかった。
「・・・けっ、ばかどもめ。俺を殺せばこんな頭の足りねえ蛮族なんざ、あと百年も数えず亡びの途をたどるだけだぜ。いいのか?この俺様にやらせりゃ、一族を幾千年も永らえさせる事だってできたのによ」
声のふるえを必死に押し隠し、リェは凄んでみせた。──これはあながち
実のところ、妖獣族は後の運命がどう分岐したとしても何らかの形で滅亡する事になる。
刹那的ともいえる思想を持つこの種族の中にあって、かれはなかなかに先見の明があるようだ。伝統にとらわれないリェのような者が王となれば、あるいは拓かれる道もあったのかもしれないが、この時は──いや、今後も永久に誰も知る由の無い事である。
「殿下、御定を」あるじに向かい、抑揚を伴わない声音でスウは促した。
「やれ」兄の抹殺を、ひどく短い文句でハォは命じた。
〇
洞の前に佇むスウの姿が掻き消えるや、リェは後頭部に鋭い衝撃を受け激しく地に転がった。
我ながらよく気を失わなかったものだと、この時リェは妙に達観して思った。
〈空間跳躍〉で背後に回ったスウに蹴られたのだと理解する前に、次の一撃が脾腹に食い込む。息が詰まり、曖昧になった視界が辛うじて捉えたのは、こちらを恐ろしいほどの無表情で見下ろす死の遂行者の姿だった。
「・・・、ふん、そうかよ・・・なら勝手に亡べ。てめえのせいだ、──
「いいから死ね」スウは淡白に言い放ち、リェをつかんで跳んだ。
ハォは周囲を見回したが、既に目視できる範囲からは消えていた。鳥も獣もほとんど逃げ去った松の森は恐ろしいほど深閑としている。後れを取ったらしい小鳥らがいくらか、思い出したようにばらばらと飛び立った。
ちなみにこの時スウが放った妖気に驚いて散って行った鳥や獣は数日にわたり全くと言っていいほど姿を見せず、近辺では狩りができずに難儀したという。
昆虫だけは影響を受けないのか、それとも単に逃げ遅れたものか、どこかで
〇
「なあ、結局てめえは一体何ものなんだ?前から気になってはいたが」
リェの最期のことばに、スウは答えなかった。
〇
「済んだよ」
無造作な報告の声に、ハォはふと目を覚ました。
妖気がほとんど枯渇して体が動かず、漠然と座したままでいたが、巨松の根元に身を預けているうちに微睡んでしまったらしい。
「そうか」ハォも、世間話を聞き流すかのような軽さで応えた。
「こんな所で寝て、危ないなあ。そんな美味しそうなかっこでいたら、誰かにたべられちゃうよ」
スウはあるじの着崩れた襟元を掻き合わせ、乱れた裾を繕い、顔にかかった紫紺の髪を後ろへ撫でつけた。露わになった額と頬の紋様は消えそうに薄い。
「やっぱり妖気、くれすぎだよ。ちょっと使っちゃったけど返すね」スウの紋様は深紅と漆黒の間をぐるぐると不安定に変化している。
「当たり前だ、さっさと寄越せ」
「あのねえ」あるじの傲然たる態度にスウは呆れた。「これはハォのせいでしょ、合わない妖気をこんなに注ぎ込まれちゃって僕だって苦しいんだからね」
「早くしろ、さっきの騒ぎで他の近習たちが来る」
「わっ、ちょっと。痛っ」
髪を引っ張られ、スウはあるじの上へ倒れ込んだ。
「もう仕方ないなあ・・・、えい。こうだっ」
スウはおもむろにハォの帯を解き、着崩れを直したばかりの衣をはだけさせた。
妖獣族は下着のたぐいを着ける習慣をほぼ持たない。衣を一枚はぐれば、無防備なハォの裸形がそこにあった。
「何をする」
「ふふん、だって動けないんでしょ?さっきのお返しだよ。普通のやり方で妖気を渡すと思わないでよね」
従者が嬉々として施す愛撫を無抵抗に受けながら、ハォは不敵に睨み上げた。
「・・・ふん。できるものならやってみろ、・・・そのぶん後で酷いぞ──・・・んっ、──、」
松の葉が風に鳴る閑けさの中、ふたりは短い交わりを愉しんだ。
〇
灰紫に紫紺の混じったまだらの毛色をしたケモノが墜死しているのが、風裂嶺界隈の谷底で発見された。
第三王子厳烈の横死を伝え聞いた父王は「然にあろう」と、別件の書簡に目を落としたまま気にも留めない様子であったという。元来、妖獣族の倫理観とはその程度のものである。
こうしてあるじを失った鋭鎴嶺は王の命により、まだ縄張を持たされずにいた末の王子
リェの臣下だった者たちは、薬師フイなど才を見出された者に関しては他の王子に引き抜かれたようだが、そうでない者たちについては杳として行方が知れない。大方、どこかの野山で他の妖しや並みの獣に交じって適当に生きているのだろう。
リェの遺した毛並みの悪い皮は、縄張付近で死骸が発見されたという事でハォの物となった。
かれとしても特に欲しくも無かったのだが、それは足裏の泥を落とすための敷物に丁度良かったので松焔洞の出入口に敷かれ、今でも使われている。
双子の洗濯娘たちが時々は陰干しをし、棒ではたいて手入れをしているとの事である。
─終劇─
キチゲ発散の目的で自分用にこっそり書きたいとこだけ書いてニヤニヤしてる旨をそっと白状してみたところ、「見せなさい(圧)」と言ってくれる人がいたのでお言葉に甘え前後を埋めて仕上げました()
なるべく面白くしようと張り切った結果、こんなにも長々と書いてしまい申し訳ない事をしました。置いといたら本当に読んでくれました。ひとのエロ心を安易に覗こうとするからそうなるんだッ!!ww後押ししてくれてありがとう!!
たまたま見つけて読んでくださった方もありがとうございます。他人から見てどうなんですかね、これ。万が一お気に召したのなら幸いです。
カクヨムでは解説や裏設定も載せてます。pixivだと登場人物紹介にイラストが多めです。べ、別に見て欲しくなんかないんだからねっ!!//////
ご高覧ありがとうございました。