薄暗がりの中、
ふわふわとした白銀の尾にうずめていた顔を上げ、小さく丸めていた体をあるじの足元からそろりと起こす。あるじは横たわったまま、まだ眠りの底にいるらしい。
(おや、珍しいな)
狐に似た白銀のケモノは不思議そうに眼をしばたたく。無心に眠る小柄なあるじを、じいっと見つめた。
──スウのあるじ。名を
常に気配を尖らせ、まなざしを鋭く光らせ、他人に気を許すという事が無い。
武術の才に秀で、人間族の年齢に換算するならばまだ十五、六ほどの少年ながら、既に「寄らば斬る」と言わんばかりの威迫を纏って歩くかれを大抵の者は畏れ、嫌う訳ではないがどこか敬遠する。なんでも風裂嶺に棲む妖獣の民の間では、幼子がむずかって収まりが利かない時などは「ハォ殿下が来るぞ」と脅せばぴたりと聞き分けるとさえ謂われているらしい。
今こうして寝床の足元を護る白銀の側近
同じ乳母に育てられた乳兄弟という事もあり、主人であるハォに物怖じしないどころか、むしろ二人きりになれば友人のように砕けた態度で接しさえする。本来であれば主従の間柄にあるまじき無礼にあたるが、それが許されているのはまだ幼かった時分、そのように振る舞えとハォ自身がスウに対し密かに命じたためである。
王族の事情を抜きにしても妖獣族はただでさえ肉親間の絆が薄い種族であるが、それゆえか自ら目を着けた特定の相手に対してはどこか執着する習性がかれらにはある。
幼き日のハォも、王子たらんと常に気を張る境遇からいっときでも逃れられる秘密の拠り所のような役割を、天真爛漫な性格のスウに求めたのだろうか。
何事にも泰然と構えるよう教育を施され、大抵の事には眉ひとつ動かさないかれだが、心なしかスウの前ではその冷たい印象の容貌にそれなりの表情が宿る。あくまで、それなりの。
とはいえ、そのスウにさえもハォはほとんど隙を見せない。そこは戦いに生きる者の性分か、眠っていてもスウが足元で身じろぎをしただけで鋭く目を覚ましてしまう。
はずなのだが。
(変だな。もしかして、どこか具合でも悪いのかな・・・?)
スウは小さな四つの足で注意深く寝台を踏み、ハォの枕元に近づいた。ここまで接近すればさすがに目を覚まさせてしまうだろう、そして「何をしている。勝手に持ち場を離れるな」などと叱言を食らうだろうという危惧に反し、ハォは依然として静かな寝息をたてている。まぶたが、時折かすかに震えた。夢を見ているのかもしれない。
スウはそっと鼻を寄せ、寝息を嗅いだ。からだを壊していれば、匂いですぐにわかる。鋭く突き出た鼻の両脇からぴんと伸びる髭であるじの顔をくすぐらないよう慎重に首を伸ばし、ぎりぎりの所まで鼻を近づけた。──が、概ね健康な匂いだった。特に異常は感じられない。
スウは薄闇を透かし、あるじの顔と四肢を彩る紋様をよく観察した。額、ふたつの頬、それに左右の手の甲から肘まで。それから両の脛から足の甲にかけて・・・これは
ハォの紋様はイェン家の者特有の複雑なものだが、やはり普段と変わらず血のように濃い赤に見える。体内の妖気が充分に満ちている証だ。
これといって目立った不調は無いらしいと知り、スウは安堵した。
(・・・なら、よほど疲れてるんだな)
そういえば、昨夜は随分と武術の稽古に精が出ていた。今日は特に急ぎの所用も無いし、強いて起こすのも酷だろう。
熟睡する姿を見るのはいつぶりだったか。スウは、改めてあるじの寝顔をしげしげと眺めた。こんなに無警戒な姿はなかなか見られるものではない。
戦闘民族の王子らしく厳めしい態度を常に崩さないハォだが、こうして見ればまだ面差しにあどけなさを残す、やはり外見年齢相応の少年に違いなかった。常に解れる事のない気難し気な眉間の皺も、今は心持ち緩んでいる。
薄闇に融けるような紫紺色の髪が枕から流れ、美しい。
スウは穏やかに眼を細め、耳をぺたりと伏せた。
(ハォ、綺麗だなぁ。四つ足の時の姿も綺麗だけど)
妖獣族は皆ふたつの姿をもつ。
妖獣とは読んで字のごとく、妖しのケモノである。四つ足というのはケモノとしての本性を顕した形態の事をさし、ハォもヒトの形を解けばスウと同様、狐をやや小さくしたようなケモノ姿となる。ぴんと立った三角形の耳に尖った鼻先、つややかな紫紺の毛並み。たっぷりとした深紅の尾はそこだけ毛足が長く、光に透けると炎のように煌めく。その燃えるような尾は父王そっくりで、この特徴はどの兄たちにも弟たちにも無く、ハォのみに遺伝した。
炎に喩えられる事は妖獣族にとって誇らしい事である。全てを無情に焼き尽くす炎は絶対的な力を象徴し、王家の紋章になっているほか、妖獣族の間で一般的に衣服などの図柄としても好まれる。
(ハォ──僕のちいさな、たいせつな焔。やがて時が来れば燃え盛る劫火となる、絶やしてはいけない灯火。消えないように、僕が絶対に守らなきゃ)
──いとおしい。
スウは何ともいえない衝動に駆られ、昏々と眠るこの小柄な少年に躰を激しく擦り寄せたくなった。
ふわふわの毛に覆われたこの身を、耳の先から尾の先まで余すことなく擦り付けたい。
小柄ながら逞しく引き締まったハォの体躯に鼻を押しつけて隅々まで存分に匂いを嗅ぎ、全ての突起箇所を甘咬みしたい。
胸板に飛び乗り、その精悍に整った顔をめちゃくちゃに舐め回したい。
それから、その次は、・・・
──・・・。
(・・・いやいや、だめだ。やめておこう)
いつにない安眠から目覚めさせてはかわいそうだ。そして、突然そんな好き放題をすれば間違いなく怒られる。いや、怒られるだけで済むくらいならここで思いとどまりはしない。疲れて熟睡しているところへ水を差すような真似などすれば、もっときつい折檻に見舞われるはずだ。それこそ半殺しの目に遭いかねない。痛いのは嫌だ。
我に返ったスウは頭部に密着するほど倒れていた耳をぴょこんと立て、乾きかけた黒い鼻先をぺろりと舐めた。
〇
(そうだ。お水、もう無かった。ハォが起きぬけに飲めるように汲んできてあげようっと)
普通は棲み処の片隅に大きな水瓶でも置いて飲み水をある程度溜めておくものだが、ハォは不便なようでも水を汲み置かない。戦闘民族たる妖獣族の王子として畏敬される一方、敵対者も少なくないハォは、いつ何者の手により密かに毒を服されるか判ったものではないと警戒し、水は必要になる都度スウに調達させるか、そうでなければ自ら沢へ汲みに降りるという神経質なところがあった。
眠る主人の足元を離れる事は本来なら作法に反するが、このまま悶々としていても手持無沙汰だ。スウは枕元に転がっていた大きな空っぽの葫蘆(ひょうたん)を咥えると、帳幕を鼻先で掻き分けて音もなく寝台から降りた。
ふたり分の体温で温もった帳幕の内から一歩出てみれば、岩壁に囲まれた洞内はひやりと薄ら寒く感じた。明り取りと通気のために洞壁に穿たれた穴からは、まだわずかに顔を出したばかりの朝日の気配が薄ぼんやりと差し込んでいる。
(ちょっと待っててね、すぐ戻るから)
このケモノ姿の足なら素早く行って帰れる。術を使えばもっと早いが、そこまで横着をする必要も無いし、妖気を出せばハォが敏感に目を覚ましてしまうだろう。
それに昨日、沢で大きな蜂を見た事を思い出した。あの近くに巣があるのかもしれない。昨日は水を汲もうとした葫蘆の口にちょっと止まられただけだったが、用心して近寄らなければ。下手に術を使って巣の間近に着地でもしたら今度は驚いて刺してくるかもしれない。やはり足を使う事にした。
ちょっと沢まで下りるだけだ、どうせ何の問題も起きっこない・・・という不吉な