見事な炎の文様があしらわれた絹織物の垂れ布に隔てられた先は居室になっている。書き物机に書棚、燭台。ケモノ姿で寛ぐ時の籠。ハォの好みで、調度は最低限の品しか置かれていない。隅の横穴を潜ればスウの控えの間がある。
垂れ布をもう一枚潜って瀟洒な敷物の敷かれた通路をたどり、途中で右へ折れれば書庫と物置に通じ、左には今は特に使われていない幾つかの空き部屋。直進すればその先は応接の間という事になってはいるが、訪う者は稀である。
さらに進めば通路は途中から緩い斜面になり、上りきると少し広い空間に出る。そこだけは天然の洞穴ではなく、ハォが棲みつくずっと前の時代に岩を積んで延長された部分で、その短い隧道状の空間を抜けた先に出入り口がある。
王子の住まいとしてはひどく簡素なようだが、これはハォだけが特殊なのではない。妖獣族は高貴な身分の者であろうと皆このような洞穴を整えただけの住居に棲む。
さすがに父王の棲む洞ともなれば迷宮のように広く、更に石材や木材が足され、複雑な彫刻で装飾された立派な造りになるが、平民などに至っては適当な巣穴を掘ってねぐらとする程度でろくに住居をもたない者すらいる。かれらによれば、ケモノ姿で丸まって眠れる空間とちょっとした物入にする穴さえあればそれで事足りるという。
ハォの洞は王のものには格段に劣るが、身分相応にまだ広い方だ。周辺を松の森に囲まれている事と、燃えるような深紅の尾をもつハォの印象から、その名を現在は〈松焔洞〉と呼ばれる。
目隠しと防寒のために掛けられた、これも美しい炎の文様が織り込まれた厚手の垂れ布をするりと潜って外に出ると、明け初めの空に半欠けの残月が浮いているのがぼんやり見えた。
(また眼が悪くなったかなぁ、ただでさえこの姿の時は眼が利かないのに。書物の読み過ぎかな)
スウは咥えていた葫蘆をいったん地面に置き、ぶるぶると体を振って毛並みを整えた。くしゃくしゃだった白銀の毛が、ふわりと膨らむ。山の朝のしっとりと冷えた空気が毛の中に含まれ、くしゅんと小さなくしゃみが出た。
(まだちょっと寒いや・・・お腹が空っぽだから余計に冷えるな)
昨日は狩りをしなかった。
狩猟によって糧を得る妖獣族は本性が肉食獣ゆえに、狩った獲物を調理するという習慣をほとんど持たない。携行食として干し肉を作ったり、病や怪我でまともに肉を消化できない者のために味の無い汁物を煮る事はあるが、基本的には血も内臓も余さず生のまま食らう。そして、ひとたび満腹すれば三日は食事を必要としないのが普通であるが、ハォもスウもまだ若く食い盛りの年頃であるため、二日ともたずに腹がすいてしまう。
〇
松焔洞の脇を護るように、古い松の巨木が根ざしている。庇のように枝を張ったその梢を隔てた東の空を見れば、朝焼けが鉄火のように燃えている。天気が崩れる兆しだ。大気の中にも、既に雨のにおいが混じっている。
(きょうは降るな・・・、その前に、何か捕って食べとこう。途中でハォの好きな兎でも見つかるといいな、きっと目が覚めたら腹ぺこに違いない。獲れたてほかほかの肉を持ち帰ってあげたい)
スウは前脚をうんと踏ん張って伸びをした。葫蘆を再び咥えようとして──突然、鋭く顔を上げた。
(──?やだなぁ。来るなんて一言も聞いてないぞ、こんな早くに何の用だろう)
よく知った気配と匂いのする方を訝しげに見やる。
「──よお、
育ちの悪い平民のような粗暴な口調。遠目にも目立つ、黄丹地に蜘蛛の巣の図柄が仰々しく織り込まれた悪趣味な衣に、姿勢の悪い立ち姿。ふらりと木叢の間から現れたのは、やはり第三王子
この男はいつもこうだ。どこで覚えたか知らないが、見下している相手にはわざと品位に欠ける、王子らしからぬ口の利き方をする。
いつも無粋な色柄の衣をぞろりと着て、背を丸めながら奇妙な足取りで歩く。そして身体が弱く、すぐ「疲れた」と言って僅かな移動にも馬を使う。
髪結いもだらしなく、不格好に飛び出たおくれ毛を手でいじる癖がある。その髪の色だって、ハォや他の兄弟たちと同じように父王ゆずりの紫がかった色ではあるものの、どう血をたがえたものかリェ一人だけは洗いざらしたように薄い色をしている。濃い紫紺の毛束が申し訳程度に混じってはいるが、まだらで美しくない。
ハォの実兄とは思えないその見目の悪さよろしく内面も一段とねじ曲がっており、一族の間では鼻つまみ者として有名である。
かれが縄張とする鋭鎴嶺の民さえも、この薄気味の悪いあるじを忌避する。それは風裂嶺の民のハォに対する畏怖の念とは違う。明らかな嫌悪である。
いや、はっきり言ってしまえばイェン家の王子達は軒並み、お世辞にも性格がいいとは評価しがたいのだが。
しかし中でもこのリェに関しては格別に性格が悪い。
格上の者には媚びを売るが同格や格下と見なす相手には隙あらば当てこすりを言う。傲慢で自信過剰。そのくせ、二言が多い。一部の腹臣にはなぜか心酔されているようだが、ただでさえ親密とはいえない兄弟間でも特にハォとは全く反りが合わず、側近のスウにさえ何かにつけて突っかかってくる。
無論、スウもこの男の事は大嫌いだった。本当なら同じ土を踏むのさえ汚らわしい。視界に入るだけで不愉快だ。できる事なら、こいつの匂いが混じった空気を吸いたくない。そのうえ、
(今、不出来って言ったよね??僕のハォを!ふん、出来損ないはお前の方だろうが。この軟弱虚弱貧弱脆弱痩せ狐。死ね)
今すぐにでも飛び掛かって喉笛を喰い破ってやりたいところをスウはぐっと堪え、憤りで逆立ちかけた毛並みをどうにか静まらせた。
忌々しいが、相手は腐っても王子。仮にも父王から月牙山の嶺の一つを預かる、少なくとも王の実子には違いない、第三王子イェンリェ〈様〉。己の主人である第四王子イェンハォ様より一応は格上であるはずの兄王子殿下だ。うわべだけでも礼を尽くさねば、方々で何を言われるか分かったものではない。
口惜しいが、ここは最低限の拝礼ぐらいはせねばなるまい。あくまでハォの顔を立てる意味でだ。
不本意だがその場にちょこんと座り、揃えた四つ足を尾で巻くように隠した。この所作は、ヒト姿でいう所の拱手に該当する。
「うんうん、苦しゅうないぞ。下僕の分際で王子殿下たる俺様に対して挨拶もできぬのかと一瞬心配してしまったが」
所作が一呼吸遅れた事に、さっそく嫌味を言ってくる。
(下僕って言うな、お前の下僕じゃないぞ。いちいち頭に来るなぁ)背中の毛が、また逆立ちそうになる。
「ふっ・・・まあいいや」リェは背後の適当な松の木に大儀そうにもたれ掛かり、衣の袖に隠れた手でおくれ毛をいじくりながら薄気味悪く笑った。左右の目の下から頬に向かって伸びる、細く尖った氷柱のような紋様が醜くゆがむ。
「それで、あいつは?大方まだ惰眠を貪って全然起きそうにないんだろ、え?なにしろ昨夜はムキになって稽古しまくって疲れ切ってるハズだからなぁ、それも
スウの尖った耳が、ぴくりと震えた。──ハォが昨夜遅くまで稽古に励んでいたことを、なぜこいつが知っているのか。
(おかしい。あの時、傍にいたのは絶対に僕だけだった)
スウのみに限らず、妖獣族の五感はヒト姿の時もケモノのように鋭い。どこかから覗き見られていたのなら、まずハォか自分が気配や匂いで察知できなかったはずがない。
その戸惑いを、リェは見逃さない。
「当たったろ?ああ、言っとくけど見張ってた訳じゃないからな?俺様そんな暇人じゃねぇもん。そんなの別に見なくても分かるし──ひひっ。なぁ、何で分かると思うぅ?」
(は・・・?いや、訊かれてもなあ)
ケモノの形をとっているスウには、問われた内容に対して見解を述べられるほどの複雑な言葉を使う事ができない。
また嫌味が飛んでくる前にひとまず「不明」の意味に該当する鳴き声でも発しておこうかと思ったが、リェも特に返答を求めてはいないようで、額にかかった中途半端な細い毛束をひねくりつつ一人で勝手に話し続ける。「・・・ちなみに、大刀の稽古だったろ。これも当たり?だよねー。そうだと思った」
(??・・・・・・)
確かに、昨夜のハォは珍しく大刀の稽古に励んでいた。「長物は利点もあるが、好かん」という理由で普段は使わない得物だ。
しかし、それが何だというのか。予告も無しに朝一番に訪ねてきてまで、いったい何の話をするつもりか真意を測りかねる。
困惑するスウをよそに、リェの独り語りは続く。
「いや、きのう俺がさ。ほら、あいつって少しばかりの武芸を鼻にかけててムカつくだろ。でも、ちびなせいか大刀の扱いは全然
そしたらやっぱ真に受けて稽古に勤しんじゃったか、うけけけ。素直というか単純というか・・・まあ要するにバカだな。けっ、かわいいぜ。笑えるぅぅ」
特に可笑しくもなさそうにリェは嘲笑う。
(お前が云うか、生まれつき虚弱なうえに修練を怠けて大刀どころか短刀もまともに振るえないくせに。・・・だけど、そういえば昨夜のハォはいつにも増して何だか不機嫌そうに見えた。
なるほどね、こいつが絡んでいたとは・・・まったく、いつもながら要らない事を。ハォにちょっかいをかけて何の得があるっていうんだ)
いや、特に理由など無いのだろうか。目的不明でこの男は日頃からしょっちゅう絡んでくる。
だが、しかし。暇つぶしにしたって、こんな夜も明けきらない早くから、しかも自ら足を運んでまでわざわざそれを話しに来たのはどういう意図だろうか。
これは何かあると見ていい。こうして出くわしたのも、おそらくスウが出てくる瞬間を狙い澄まして待ち構えていたのだろう。いつも乗り回している馬の姿が見えないのも、蹄の音で接近を悟られないよう、途中で繋いで置いてきたのかもしれない。
いやに勿体ぶったリェの物言いも気になる。いや、気になるように仕向けられている気がする。確実に何か企んでいる。
「ウェイよ、何か言いたげだな。ん?ははあ、ご多忙であらせられるこの俺様が、畏れ多くも直々に愚弟の所なんぞにお出向きになられてまで、しかも卑しい下僕ごときを相手に、何のために、わざわざ、このようなお言葉をお掛けにおなりか?気になる感じ?教えてもいいけど、その前にさあ」
リェはおくれ毛をいじるのを中断し、スウの足元に置かれた葫蘆を袖で示した。
「それって、ハォのだろ。あいつ、それどれくらい飲んでくれた?それ訊いときたいね──いや、ちょっとした実験を兼ねててさ。経過観察は自分でしたいからよ、もったいなくも俺様おん自らご足労してやったんだよね。そこ大事だから・・・ま、それが本題じゃねえけど。ついでにな、ついでに」
(また、ごちゃごちゃと訳の分からない事を・・・実験?何を言って──まさか、)
葫蘆の中の水に何か毒でも盛られていたというのか。
スウの目が、細く細く吊り上がる。
(いや、ありえない。そんな事、出来たとしたら一体いつ・・・葫蘆は常に持ち歩いていた。何かされた痕跡はどう考えても無かったはずだ。だけど。──)
昨日一日の行動をくるくると思い起こし、手落ちが無かったか逐一点検する。が、思い当たる節は何も無かった。しかし、そういえばハォが不自然に目を覚まさないのも確かだ。リェのはったりとも思えたが、それにしては。──
得体の知れなさに心がざわざわと掻き乱され、嫌な色に染まる。
このところ怠惰な日々が続いてつい忘れそうになっていたが、イェン家の王子達は基本的に敵対する宿命にある。
王位継承権を巡って牽制し合い、邪魔になるようなら殺し合う。はじめに触れたが、かれらの王位継承の条件とはただひとつ──弑君である。長幼による序列はあまり大きな意味を持たず、王息のうちの誰かが文句なしの一人前となって父王を斃し、王座を受け継ぐ。それまで、このささくれ立った関係は終わらない。
欲しくば簒奪せよ。古くからの慣わしで、代々そうしてきた。
その血塗られた風習は王家に限った事でもない。かれら妖獣族は赤子でいる期間が極端に短く、幼くとも自力で獲物を捕らえることを覚えしだい独り立ちし、力がつけば親兄弟から縄張を奪う例も珍しくはない。肉親に愛着を持たないのは妖獣族の文化の一つである。
ゆえに、覇権闘争における有力候補の一人ではないかと近ごろ山中のそこここで囁かれる弟のハォを、いっぽう陰で無能のそしりを受けるリェがいつどんな汚い手を使って殺しにかかったとしても何の不条理も無いのだった。
「答えよ、下僕。裸形の無礼を許すから
口調をいくらか王子らしく改め、リェは横柄に命じた。
○
命じられるまでもなく、小さな狐に似た姿は既に煙のようにほどけていた。
瞬く間に再び形を成したスウは、一糸まとわぬ少年の姿に身を変じていた。くせのある白銀の髪が、ふわりと肩を覆う。
ハォと同じくらいの年恰好で、身の丈は大きい方ではないが小柄なハォに比べればやや上背がある。妖獣族特有の色白な肌に薄い筋肉を内包し、可憐な乙女戦士にでも喩えたくなるような躰つきだ。
前を隠そうともしないのは、本性がケモノであるかれらが裸を恥じらう感覚をあまり持たないためであるが、それでもヒト姿をとる時に限っては一応、衣をまとわない事は行儀の悪い振る舞いとされてはいる。仮にも貴人の前で裸形を晒すなど、本来もってのほかだ。
しかもこの時のスウはそのまま膝もつかず、拱手もしない。淡い鼈甲色に透き通る瞳を憎悪に燃やし、王子であるリェを毅然と睨み据えた。
「おのれ・・・、僕の殿下に何をした」礼節を忘れ、語調が荒くなる。
「おっとぉ?」リェはもたれていた松を離れ、ひょいひょいとケモノのような足取りでスウから少し距離をとった。「貴様、下僕の分際で何だァその目は、その態度は、その口の利きようは。問われたくせに問い返すな、ばかか。答えよと言われたら愚直に答えりゃいいんだよ下郎が」
新たな松を盾に取ったリェは、ケモノ姿の時のように手足を地につけて座り込んだ。ヒトの形をとりながらケモノのような仕草をする、これも王子らしからぬ下品な癖だ。血色の悪い顔を松の陰から覗かせ、さも面白そうにニタニタと笑いかけてきて不気味な事この上ない。
「いいか、俺の訊きたい事はだ。その葫蘆を空に──あ、空だって事は知ってる。お前、軽そうに置いたもんな。──そう、空にしたのはハォか、それともお前も図々しくご相伴に与りやがったのか、はたまた飲む以外の事に使っちゃったのかって事。答えによっては俺様のご足労が無駄になるんだよな」
スウは冷ややかに睨み返し、
「殿下の御瓢に何か一服盛ったとでも?そんな出鱈目に惑わされはしないぞ、殿下からは薬のにおいなんかしなかった。
この御瓢には僕と殿下以外の誰も触っていないし、中に入っていた水も僕がご用意したのだから、誰も小細工ができたはずがない」
きっぱりと言い返した。
つい不安になり取り乱してしまったが、何の事はない。やはり、こいつの
「用が無いなら、──」
──お引き取りを。と言いかけたスウの言葉尻を、リェが喜色満面で遮った。
「そうかそうか、その口ぶりなら全部あいつが飲んだんだな?いや正直一瞬ヒヤヒヤしちまったが・・・お前が葫蘆を持って出てきたもんだから、こりゃ薬効に気付きやがったのかなって。
でも、それを聞いて安心した。俺様に対するその不躾な口の利き方は気になるが、まあ今は特別に目をつぶってやるとしよう。──今はな」
耳まで裂けんばかりに口角を広げ、にたりと笑う。
「出鱈目とか抜かしやがったな?誰も小細工ができたはずがないってか?ひひっ、本当にそう思ってんの?くくく、ひゃはははは!」リェが腹を抱えて笑いだした。
「そうやって不安を煽ろうという魂胆か、見え透いている」
平静を装ったつもりのスウの表情に動揺の色が滲むのを見て取り、リェはここぞとばかりに畳みかける。
「ひひひ・・・、信じねえのはてめえの自由だがよ、実際のとこ、薬はもうハォの腹ん中だぜ。今から吐かせても無駄だ、ちと間に合わねえな。
あれなぁ、俺様のとこの有能なる薬師ちゃんが偶然作っちゃった薬なんだがよう、ちょっと面白い神経毒でさ。せっかくだし、まずは可愛い可愛い弟のハォにでも味わってもらおうと思って改良を──おっと、」リェは、今にも飛び掛かってきそうなスウを手で制した。
「いちいち殺気立つなって。躾がなってねえな、ひとの話は最後まで聞けよ・・・神経毒といっても薄めてあって毒性はごく弱いんだ。
ま、要するに疲れた奴を更に死ぬほど疲れさせて泥のように眠らせる薬だが、もちろん心地よい眠りなんかじゃないぜ。目覚めた後もガチガチに疲労が残るはずだ。
濃いまま大量に飲ませばさすがに死ぬらしいが、それじゃ味でバレるから使えないわな」
どうせ薬師からの受け売りだろうが、さも己の手柄のようにリェは講釈を垂れる。
「うんと薄めれば味も匂いもしないようには改良されたが、それなりの量をじわじわと飲ませなきゃならねえのよ──だから、ちゃんと全部飲んだのかって訊いたんだぜ。
特に運動の合間なんかに飲ませば違和感なくいい感じに疲労感を増幅してくれるんだってさ。
どうだ、色々と面白え使い道がありそうだろ?な、これであの体力バカをわざと煽ってクソ重たい大刀を振らせといた理由、理解できたか?今回の量だと、そうだなあ」
得意げに語りつつ、袖の中に隠し持っていた物を取り出す。猟で使う竹製の小さな鳥寄せ笛だ。
「早くて夜、具合によっちゃ明日にならなきゃ起き上がれねえかもな。けけけ、ざまあみろだ──ああ楽しいねぇ、いくら頭の足りねえ戦闘ばかども相手とはいえ、こうも思い通りに事が運ぶとは思わなかった」
したり顔のリェは、おもむろに笛を吹き鳴らした。山鳥の声そっくりの音色が響き渡る。
妖獣族は通信手段の一つとして普通は指笛を吹く。地形や天候などの条件にもよるだろうが、かれらは二十里あまり離れていてもその音を聴き取る事ができるとされ、さらに微妙な音色の違いで誰が吹いたものか判別がつくというが、リェは不器用で指笛を鳴らす事ができないために竹で作った笛を持ち歩くという不自由な事をしている。
「──いや、あいつの間抜け面を今すぐにでも確認したいとこだがね。その前にちょっと遊んでやるよ、お前だって退屈だろ?」
○
(──まずい)
ハォを起こさねば。曲がりなりにも王子の一人であるリェが供も付けずにいるのは、思えば不自然だった。鋭鎴嶺からここまで単騎でやってくる訳がない。風下に人数を伏せてあるのだろう。
普段の通信に使っている笛ではなくあえて鳥寄せ笛を使ったのは、自分の手の者以外に合図を気付かれにくくする狙いか。ここで通信用の笛を吹けばリェが来ている事が風裂嶺じゅうに知れ渡り、不審がったハォの近習衆をも呼び集める事になる。
「ッ──、」
「無駄だぜ」
スウが洞に向かって叫ぼうとするのを、すかさずリェが遮った。「──ちなみにだがよ、」勝ち誇ったリェはケラケラと嗤った。「どうやってお前らに覚られずに薬を仕込んだかって種明かしだけどさ。昨日もお前、水を汲みに沢までバカみてえにわざわざ降りてったな?あの時な、でけえ蜂が一匹ぶんぶん飛んでたろ。で、葫蘆の口にとまったろ。あれな、実は俺様んとこの〈変身術〉使いだったんだぜ」
〈変身術〉とは、通常のケモノ姿とヒト姿のほかにも姿を変じる事のできる妖術である。
余談だが、人間族の間で「キツネ七化け」などという語り草が存在するのは、おそらくこの術を目の当たりにした者の口から広まった話で、実際のところ誤解である。
これは全てのキツネ族にできる訳ではなく、〈変身術〉をもつ妖獣でさえ、七通りもの変化は高等技術だという。そもそも人間族に目撃されがちなキツネというのは大方、姿を変える芸当など持たない並みの野狐の事であろう。一括りにキツネという事にされているが、別種である。
妖術を操るキツネ族など妖獣族のほかには妖狐族くらいなのだが、人間族にはそのあたりの区別がついていないらしい。
──あの時の蜂。
スウの貌いろが、さっと蒼ざめた。
「眼の悪いお前の事だ、見た目で気づけたはずがねえよな。しかもそいつは蜂ぐれえにしか化けられんほど妖気が希薄な奴でな、おかげで気配すら覚られずに済んだってわけだ。だから、濃縮して粉にして花粉団子よろしく丸めた薬をそいつに運ばせて、葫蘆の中に落とし込ませたんだよ。
ひひっ──あとはウェイよ、てめえが仕上げをしてくれたんだぜ。てめえの手で汲んだ水に薬が溶けて、誰にもバレずに仕掛けの完成ってわけだ。ひひひ、ばーか。ざまあみろ」
後半はほとんど耳に入らなかった。更にくどくどと何か言っているが、おしゃべりに付き合っている場合ではなくなった。
(まさか!もし本当なら僕のせいだ、あの時に見抜けていれば。──)
あの蜂が妖獣の化けた姿であったなら、小さな赤い紋様が体のどこかにあったはずだ。スウの視力では眼を近づけて見ない限りはただの蜂にしか見えず、何の注意も払わなかった。
「────、」
スウは白い裸体を翻し、ハォの寝所に舞い戻った。帳幕をはねのけて寝台に飛び乗り、眠り込んだままのハォを乱暴に揺する。後で怒られる覚悟で、ばしばしと叩く。きつく頬をつねる。
「敵襲!!ねえハォ、起きて!!ハォ!!このままじゃやられちゃうよ!!起きてよ!!」
どんなに耳元で叫んでも、ハォは低く唸っただけで全く目覚めそうにない。
(──!どうしよう、本当に起きない・・・!!)
──だったら、さっき我慢すること無かったな。衝動のままにハォの躰を味わっておくんだった。損しちゃった。
ちらりと、そんな思いが頭をよぎった。
いや違う、そうじゃない。今はそんな事を考えている場合ではない。今、洞内に油でも撒かれて火を放たれたらおしまいだ。きっとリェは、新しい薬とやらの効果を試すついでにハォを亡きものにしようとしている。不仲で邪魔な弟に力で全く及ばないものだから、こんな卑怯なやり口で早々に片付けてしまおうというのだろう。
もしくは、無防備なハォを連れ去ってもっと酷いことをするつもりかもしれない。
薄暗いどこかに監禁されたハォがリェの手によって様々に加虐される姿が脳裏に一瞬浮かび、スウはぞっとした。
怪しげな薬によって無抵抗となったハォに、あんな事やこんな事を。何をされているかすらも自覚せず、されるがままのハォ・・・
(何それ官能的、・・・いや、だからそうじゃなくて。──させるもんか)
スウは、寝台を囲う格子に掛けられた自分の剣を手に取った。使い慣れた武器を眠る時も傍らに置くのは、戦闘民族の習慣である。
素早く抜き放ち、その場に鞘を捨てた。
(守らなきゃ)
確か死ぬような毒ではないような事は言っていたが、信用できない。一刻も早く──いや、一刻どころではない。直ちに敵を片付け、ハォを薬師に診せねばならない。
衣をまとう暇はない。裸形のまま外へ駆け戻る。
○
「な、起きねえだろ?だから無駄だって言ったじゃん、薬が切れるまでは何したって起きっこねぇっての。ばっかじゃねーの?・・・で、何?その剣。どうしようっての?」出入り口の垂れ布を大きく捲って、リェが突っ立っていた。
「話の途中でいなくなったと思ったらいきなり抜き身を提げて帰ってきやがって、おっかねえ奴だな。主人が愚鈍なら従僕も頭が悪いねえ。どうせなら戻りついでに身支度ぐらい整えてこいよ、確かに裸形の無礼を許すとは言ったけどさ」
洞の外には、既にリェの手勢が集まっている気配がした。
──リェを除いて六人。全員ヒト型をとっている。どれも知っている匂いだ。
一人はリェのすぐ後ろに控えている。妖術〈水羂呪〉の使い手、
それから、やや離れた位置に
あとは確か、大した術は持っていないやつらだ。妖気も強くないし、武術の腕前だって並かそれ以下だと知っている。おそらくスウの退路を断つために適当に配置されているだけだろう。
松明の匂いはない。炎系の妖術を使う奴も来ていない。火を掛ける気はないと判り、不安要素が一つ減った。だが、かれらの妖気の弱さゆえに、その気配も周囲に覚られにくい。もっと強い妖気の持ち主が来ていたなら、とっくに近辺を巡回中の衛兵が嗅ぎつけていたろうが、このままでは誰にも気づかれそうにない。そこを狙った人選と思われる。
どう動くべきか、スウは考えた。
術を使ってこの場を脱し、応援を呼びに行くか──いや、その隙にハォが奪られる。ならば指笛を吹いて呼べば近場にいる誰かが気付いて──、
「ほらほら、『誰か助けてー』って、呼べばぁ?・・・ひひっ、できる訳ねえよなあ?
起居を共にする事を近習の中で唯一許されるほど有能なはずの、なあ?特にハォ殿下の寵愛を受ける、あのウェイスウ殿が、なあ?やっぱり何かあるとすぐ真っ青になって他人に助けを求めちゃうんだー?って、みんなに思われちゃうの嫌だもんなぁ?」スウの思考を見透かしたように、リェが煽ってくる。
「ふ・・・、誰がそんな事するもんか。たかが数匹の蚤を潰すのに助力を乞うほどずぼらじゃないよ」
──読み通りの反応に、リェは肚の内でほくそ笑む。
利発で抜け目が無いと専らの評判であったこの少年近習だが、あるじの名を出して愚弄されると妙に冷静さを欠くところがあった。更に、この時は空腹も手伝って少々気が立っていたことも悪かった。
持ち前の利発さは埋没し、スウの頭は完全に濁っていた。
──いいだろう上等だ、こうなったら一人でやってやる。のろまなルェンの放つ〈水羂呪〉にさえ捕まらなければいいだけだ。リェがどんな小細工をしてくるか今一つ計り知れないのが不気味な所だが──今だって、ハォを無力化しておきながら洞へ踏み込もうとせず、スウが出てくるのをわざわざ待っていた。何を考えているのかは知らないが──大将であるリェが目の前に突っ立っているので都合がいい。人質に取って手勢を追い返すなりすれば・・・、
・・・・・・。
いや、追い返したところで。
いつかまたちょっかいをかけてくるに決まっている。
二度と足腰の立たぬよう、ここで叩き潰さねば。
何なら後腐れのないように殺してやる。全員。この場で。
僕は早くハォを救けなくちゃいけないんだ。
邪魔なものはみんな殺す。殪す。戮す。
後の事など、かまうもんか。
敵は殺さねば滅びない。
──スウは無造作につかんでいた剣をとりなおし、腰を低く落とした。
「ハォ様にこれ以上手出しはさせない」
怒っていた。どうしようもなく腹を立てていた。
不憫だが、スウの敗北はこの時点で確定した。ちなみに、ここで冷静にリェを盾に取っていたならば間違いなくスウの勝ちであった。だが、あえてスウがそうしないであろう事を、かれの性格からリェは鋭く見越していたのだった。
(ハォに、僕のハォに、よくも)
激しい怒りで膨張した妖気が、全身からちりちりと漏れ出る。誤解の無いように述べると、それは力の増幅を意味する徴では決してない。小さな釜の中で煮えたぎった湯が吹きこぼれるように無駄に妖気が溢れ出たに過ぎず、却って不利になっている。
○
「お前さあ、なんか勘違いしてるだろ」リェは全裸で剣を構えるスウの姿をつらつらと眺め、せせら笑った。
「今日はさ、別にハォを直接どうこうしようってんじゃないんだぜ。言ったろ、あいつの事はついでだって。いろいろ考えたんだよ、あの薬の使い道。どう使うのがあいつへの一番の嫌がらせになるかってな。──それで、思いついちゃったわけよ。あの小癪で気位の高い小生意気なハォが一番、いっちば~ん嫌がりそうな事」
「・・・・・・?」
リェの魂胆がますます解らない。ハォを攫うなり、殺すなりが目的ではないというなら一体何のために。
「要するにウェイスウ、お前に用があるんだよね。ちょっと
「・・・は?」
「怖がらなくていい、たぶん殺しはしない。たぶんな。知らんけど。・・・お前も存外鈍いな──だからぁ、あいつのお気に入りの側近であるお前を拉致して寄ってたかって辱めて、骨の髄までボロボロに犯し尽くすだろ。そしたらそこらに捨てといて、後でようやく起きてきたあいつに見つけさせて悔しがらせようってんだよ。・・・皆まで言わせんなよな」
「何を・・・、」思いもよらぬリェの計画に呆れ、スウは目を瞠った。こいつは何を言いだすのか。
「ここで輪姦《まわ》してやってもいいけど、ほら、主人のハォも生意気なら下僕のお前も輪をかけて日頃から生意気でムカつくからさ。腹いせしたそうな連中を募ったら結構集まっちゃって、全員は連れてこれないから待たせてあるんだわ──ああ、それとも寝てるハォ様の隣で犯されたかった?何だ、その方が興奮しちゃう感じ?なら予定外だがそれもいいなあ、よし採用。けけけけ」
首を捻じ曲げ、ケモノのような声を上げてリェは嗤った。
──こいつ!
「ふざけるな」逆上したスウは地を這うように低く踏み込み、ケモノのように突進しつつ剣先を力任せに跳ね上げた。別に切れなくてもいい。この穢い連中を、あるじの洞から一歩でも遠ざけたかった。
「おっと、」
スウの予測通り、リェは身を引いた。引きつつ、その手から鈍い翡翠色の妖気によって創られた細縄が伸びる。ここまでは予測していた。
〇
〈剣戟創造術〉──妖気を瞬時に研ぎ澄まし、刀剣や槍戟の姿を頭で思い描き、実体化する妖術。戦うためだけに編まれる術。
ケモノ姿になると武器の携行が困難になる事を大きな悩みとする妖獣族だけに、望んだ武器をいつでも手にできるこの術は誰もが羨望する。これはイェン家の者だけが持つ、妖獣族王家たる証ともいうべき力である。
・・・が、この術はかなり術者の集中力そして想像力が問われる。武具の質感、かたち、重量などの特徴を細部までありありと想いうかべ「創り」出す力が乏しい者には、瞬時に強い武器を「造り」上げることができない。
逆に想像力にものを言わせ、戦いに必要な武具の類いであると術者が認識し、さらに原理を完璧に理解した物でさえあれば──身に宿す妖気の絶対量にもよるが、極端に言えば何でも自由に創り出すことが可能であり、伝説によれば歴代の王の中には巨大な砦を再現してみせた者や、戦車を馬ごと出現させた者もあったという。(もっともそれらはハォに云わせれば、「そんな訳があるか、誇張に決まっている。時を経て語り継がれるうちに尾鰭にまみれた、胡散臭い話だ」との事だが。)
リェもイェン家の血を引く王子には違いなく、例に漏れずこの力を受け継いでいるにはいるが、どうにも不得手だった。
密度の濃い翡翠色の妖気は王家の血を引く何よりの証しなのだが、どう頑張ってもリェの造る刃は不格好で脆い。武器として役に立たない代物しか出来上がらず、兄弟たちからも揶揄されてきた。幼い時分から武術の才に乏しいリェには想像が及ばず、・・・というか戦うためだけに存在する道具になど興味が薄く、緻密な再現ができないのだろう。
そのかわり、妙な仕掛け武器──特に、縄や網のたぐいを含む道具の再現が誰よりも巧かった。
──これも余談になるが、リェは幼かった頃、よく武術の稽古を嫌って乳母の室に身を隠していた。その時にいつも乳母が縄をなったり編み物をするさまを眺めて時を過ごしていた事で糸や繊維状の物体への理解を深め、その結果、〈剣戟創造〉に奇妙な独自性が顕れたのだった。
「そんなものは武芸とはいえない」と、一族の多くが蔑視した。だが相手にしてみると、これが強かった。
まず、造り出される縄の精度からして異常に高い。繊維の一本一本に至るまで精巧に再現されており、細いながら頑丈で断ち切ることが容易でない。その縄によって正確に綿密に編み上げられた投網に絡め捕られれば、どんなに優れた体技を身につけていようが手も足も出ず、出来の悪いなまくら一本で易々と息の根を止められてしまう。
軟弱とされるリェが卓越した他の兄弟たちと渡り合えるのは、この技があるためだった。もし相応の身体能力が具わっていたのなら、おそらくリェの技が最強であったろう。
第二王子
〇
閑話休題。
そのリェの放った細縄に絡め捕られまいと躱せば、避けた位置にルェンの〈水羂呪〉が襲ってくるはずだ。この術は視界から外れた対象、遠すぎる対象には掛からない。そこを衝けばよい。
スウは飛んでくる細縄とすれ違うようにして、リェの懐へ突進した。──ここで殺してやるのは容易だったが、その瞬間が隙になり後ろのルェンにやられる。リェなど後でいい。
そのようにスウは判断してしまった。
捲れ上がった垂れ布の隙間が閉じる刹那を半身になりつつすり抜け、岩魚のような敏捷さでリェの脇を掠めるや、その数歩後ろに立つルェンの眼前へ放胆に躍り出る。
こいつさえ潰しておけば、あとは大したことはない。どいつもまだ若輩といえる年恰好、術の練度も未熟。半端な役立たずばかりで、何ならスウが目を塞いでいても勝てるくらいだ。だが、ここでもまたスウは殺さなかった。ユゥを含む四人が遠巻きに洞を囲み、きりきりと弓を引き絞ってこちらを狙っている。ルェンが死骸に変わった瞬間に射かけてくる事を恐れ、ひとまずスウは距離を取る事を選んだ。
これも悪手であった。
(僕もずいぶん舐められてるんだな。もっと精鋭だっていただろうに・・・これっぽっちの雑魚でこの僕を仕留めようだなんてさ)
スウの底意地の悪そうな笑みが鼻先に突き付けられたのを、ほんの一瞬だったがルェンの視界は辛うじて捉えた。「あっ、」
──リェの放った縄を嫌ってスウが洞内へ退がった所でルェンが踏み込み、大気中の湿り気を集めて〈水羂呪〉を掛けられれば上々。最低限、鼻と口を塞げればよく、あとは呼吸ができなくなったスウの動きが鈍ったらユゥが〈麻痺〉の術を施し、体の自由を奪ったうえでさっさと連れ去る。簡単簡単。
・・・というのが、リェから告げられていたおおよその筋書きだった。
これはリェの云い方が悪かった。動き回る標的の顔面に術を命中させるなど容易ではない。どこでもいいから体の一部にさえ当てられれば、そこから肌を伝って顔まで水で塞いでしまえるというのに、ルェンはリェの指示通りにスウの口元を狙おうと躍起になっていた。そのうえ予想外の動きをされ、かれは完全に調子が乱れてしまった。
「この・・・、」
意表を突かれたルェンが慌てて術を放った瞬間、スウは弾けるような勢いで鮮やかに跳んだ。
ルェンは対象を失って虚しく霧散した術を引っ込め、視界から外れたスウの姿を追って振り仰いだ。重ねて放った第二弾が危うく鼻先へ届こうというぎりぎりの所でスウの体は軽やかにとんぼを切り、宙を踏んでさらに高く跳ねた。
〈跳躍術〉。それが、スウの持って産まれた力だった。
この術を得た者は物理法則を無視した跳躍力を発揮し、また、普通なら脚を折るほどの高さからでも、すとんと軽く着地する。
修練を積めば虚空を足場に多段跳躍をも可能にするが、それ自体は珍しい能力ではない。〈跳躍〉の術使いは割と
「待て待てルェン、焦るな」なおも術を放とうと身構えるルェンを、リェは落ち着いた様子で制した。「初手をしくじったからって数撃ちで妖気を無駄に使うな、まだだ。あれが使うのは普通の〈跳躍術〉とは違う・・・まあ見てろよ」
リェは不気味に笑みを含んで言った。
「一手狂って駒はひとつ失う羽目になるが、これもまあ計算のうちだ──なんだルェン、その顔は。安心しろ、取らせる駒はお前じゃねえぞ」
〇
松焔洞に寄り添う巨大な松。スウの姿はその樹頭をゆうに見下ろすほどの高さまでひらりと舞い上がった。矢が何本か飛んできたが、かすりもしない。
「下手だなあ、今のは当てとかなきゃ損だったね」
スウは髪をなびかせて落下し、巨松の梢に取り付いた。近くの枝に鳥の巣があったらしく、スウに驚いた親鳥がびいびいと騒いでいる。
「ごめんごめん、すぐ離れるってば・・・」
スウは枝葉に身を隠しながら目を細め、場の形勢に素早く目を配る。──目が悪いので鮮明には見えないが、動くものは識別できる。ルェンの他に、ユゥを含む四人の射手。
近くにあと一人いるはずだが、上から見る限りでは姿が見えないのが気になる。洞の周りを点々と囲う松の木のどれかに身を寄せてじっとしているのだろうか、匂いは確かにあるが風向きが悪く位置までは特定できない。また、かれら妖獣の聴力であれば、相手が隠れていようが足を踏み換える微かな音だけでも居場所を知る事ができるものだが、間近で騒ぐ鳥が少々うるさくて気配が聴き取れない。
「ウェイ殿ー、素直に捕まっといた方が怪我せずに済むんだよー?諦めて出ておいでよう」「怖くないですよお」「そうだぞ、いい思いを存分にさせてやろうというのだぞう」「貴殿が出てこぬなら代わりにハォ殿下にご同行願うが、よいのかあ」挑発のつもりか、弓矢を構える四人が口々に声をかけてくる。スウは取り合わない。
リェの手勢が配置されていない箇所は、くすんだ翡翠色の網罠や括り罠のようなもので巧みに逃げ場を埋められているのが見て取れた。スウがハォを起こそうと場を離れた僅かの間に、リェが妖術で造り出したものだ。
(あの短時間で・・・しかも、どれをとっても絶妙に嫌な位置にある。ほんと、性格悪いな)
姿を隠せそうな木立や岩陰、ルェンの視界を遮るような笹薮や灌木の茂みの周辺は全て、これ見よがしに罠が張られている。
(でも、それぐらいで僕を捕らえた気になってもらっちゃ困るね)
スウは、深く息を吸った。
(僕が跳んだら射落とそうって魂胆だろうけど、お気の毒さま。絶対に当たらないよ)
吸った息を細く長く吐き、意識を集中する。
──と、スウのいる枝より下、幹を挟んだ対角の位置の枝を軋ませ、飛び出した人影があった。
(──!そんな近くにいたのか)
虚空を蹴り、スウの上空へと身を躍らせた小柄な若者──スウと同じ〈跳躍〉の使い手。名を確か
「あれっ?」無防備に落ちてゆくスウの後を、ミャオは不審に思いつつ宙を蹴って追った。手にした槍を構え、スウに向かって真っ直ぐに穂先を落とす。
無論の事、手練れで通っているスウがこのまま大人しく串刺しに縫い留められてくれるとは、ミャオも思っていない。
ここは躱されてもいい。
スウが槍先を躱した隙を狙って矢が射かけられる手はずだ。矢尻には痺れ薬が塗られている。自分は山羊の頭骨片を綴った鎧も革の防具も着込んでいるし、射程を妨げないように立ち回る限り当たらずに済む。
地表が迫る。飛来した矢のうちの一本が白銀の髪を掠め、上から追いついたミャオの繰り出す槍がスウを襲う。
〈跳躍〉術は、上へ上へと跳び上がる分には宙を踏み続けることができるが、空中に静止はできない。そして、ひとたび落下を始めれば、物理的な足場を得るまで次の跳躍を重ねられないのが欠点だった。
つまり、落下中はほとんど身動きが取れない。
──並の術者ならば。
だが、スウの操る〈跳躍〉の術にはもっと先がある。
(集中。・・・恍。虚。──よし。跳)
スウは意識を整え、跳んだ。
○
「?!」
ミャオは地に槍を突き立てて呆然とした。躱しもせずに槍先にいたはずのスウは忽然と消え、幽かな妖気の残滓が漂うばかり。
(〈地行術〉か?──いや)
瞬時に地中へ潜り、土の中を自在に移動できる術というのも確かに存在する。しかし、スウの持つ術は〈跳躍〉だ。複数の術を有する術者など存在しない。
(ならば誰か〈地行術〉の使い手が予め地中に潜んでいて、ウェイスウが地に触れた瞬間に地中へ匿ったのだろうか──ハォ殿下の手の者に、そんな奴がいただろうか)
「ミャオ、上だ」
「えっ」
誰からともなく警告の声が飛んだのと同時に、今まで確かに下にいたはずのスウが真上から落ちてきた。
しまったと思う間もなかった。逆さに握られた剣は術を解いたスウの体重を伴い、ちょうど鎧の隙間を縫ってミャオの肩口から心臓まで深々と刺し通していた。
鎧を綴っていた糸が切れ、ばらりと山羊の頭骨片が落ちる。
──空間跳躍。
〈跳躍〉の術使いの間でも高難度とされる技で、空間を跳び越える──即ち瞬間移動を可能にする。しかし会得できた例は少なく、しかも古い文献に記されているのみであるため、昨今では実在をさえ疑われていたほどの至難の技。
「ふーん。あれがそうか・・・噂には聞いちゃいたが、見たのは俺も初めてだ」
リェが呟いた。見世物でも見物するような、呑気な口ぶりだ。
スウはふわりと着地し、大きく息をついた。その傍らでは絶命したミャオが剣を突き立てたまま、どさりと崩れ落ちる。すぐにその身がほどけ、衣服に包まれたケモノの死骸が残った。
(ふう。久しぶりにやったから感覚を忘れかけてたな・・・それに、やはり子供の頃ほど遠くへは跳べないか──いや、)
それは日頃から自覚していた。すっかり長じてしまった今では、もう目視できる範囲までしか跳べない。その範囲も、近眼が進んだ事で随分と狭まってしまった。
幼い頃は体が軽く、眼も良かった。まだ力が安定しなかったせいもあり、距離も遮蔽物も何もかも無視した出鱈目な跳躍を平気でしていたものだが、もし今でもそれができたなら、とっくにハォを抱えてこの場を脱している。
(できなくなった事について考えても、なんにもならないね)
スウは剣を取り戻そうと、急いでミャオの死骸から引き抜きにかかった。そこへリェの手筈通り、すかさず矢が射かけられる。スウは咄嗟に剣を離し、ぽんと跳んだ。
「下手くそ。そんな腕で僕を獲れると思うなよ」
かれは軽妙に跳ね、くるりと宙返りを打ち、次々に飛んでくる矢を曲芸のように躱した。
「ざんねん、外れ。ほら、矢がもったいないよ」
──久々に大技を使い、少しばかり気が増長していた。
「ルェン、やれ」
リェの淡白な号令で、ルェンは反射的に術を放った。
「!──」スウは大きく跳び、虚空へ逃れた。剣は諦めるしかなく、衝動に任せて下手を打ったことをスウは悔いた。丸腰を免れるには剣は端から捨て、代わりにミャオの槍を取っていればよかったのだが、後述の理由により、つい自分の剣に固執してしまった。
さらに宙を踏んで跳び、飛来する矢を腰をひねって躱す。ルェンの術も空を切った・・・かに見えた。
(あっ)
顔を狙って飛んできた術は確実に避けたのだが、宙で跳ねたスウの足先がわずかに濡れた。
(しまった)
振り払おうと試みたが遅かった。ルェンが両手をかざすと、拳大ほどだった水の玉に大気中の湿り気が集まり、たちまち量を増してスウの脚にまつわりついた。まずいことに今朝の空気はふんだんに雨気を帯びており、水系の術使いに有利な環境なのだった。
(どこか物陰に・・・、)
〈水羂呪〉は視覚できない相手には掛けられない。ルェンの視界から身を隠せる位置まで移動できさえすれば術は切れる。さっきまでミャオが潜んでいた巨松の梢が、すぐ眼前にあった。そこへ姿を隠そうと跳躍を重ねるが、その瞬間には既に五寸ほどの厚みにまで膨れ上がった水の塊に腰まで包み込まれていた。
──重い。
それ以上の跳躍を重ねることが叶わず、スウはやむなく落下した。術の効果で自重は軽くなっているが、まとった水がずしりと重い。猫のように身を捻り、四つ這いに着地して衝撃を極力和らげたつもりだったが、全身が鳴るように痺れた。
「う・・・、」
(まずい・・・!──滅。汎・・・、──虚・・・、──跳!)
気を静め、よたよたと立ち上がり再び空間跳躍を試みるが、やはり水が重い。姿が軽くぶれた程度の移動にしかならなかった。そうするうちにも水は這い登り、もはや口元まで覆われかけている。
今度は姿をケモノに変え、激しく身を震わせて水を振り飛ばそうとする。その苦し紛れも虚しく、辛うじて出ていた鼻先で目一杯息を吸ったところでとうとう全身を水に包まれてしまった。
二尺の厚みにまで量を増した水が小さな体を包み込み、毛並みを川底の藻のように揺らしている。なおも厚みを増す水の重みに耐えかね、白銀のケモノはぼしゃりと音を立ててその場に倒れ伏した。鼻先から、わずかに息のあぶくが漏れる。
全身にかかる水圧で地に押さえつけられ、思うように動けない。
スウは焦った。
○
苦しい。ただ水中に身を沈める事とは訳が違う。三尺ほどの厚みに膨れ上がった水の塊が全身を締め付けるように包み、重く圧し掛かってくる。そのうえ早朝の空気中から集められた水は身が竦むほどに冷たく、スウの体力を余計に奪っていく。
揺らめく視界の向こう、すぐ目の前にリェが立った。水を通してくぐもった嗤い声が聞こえる。
「『斃敵之時亦最易能爲敵所斃(敵斃せし時また能く敵に斃さる)』・・・乳母やに教わんなかったのかね。ひひひ、ばーか」
目の前の敵を斃す瞬間はついそちらに気を取られ、自らに隙ができやすい瞬間でもある。──といった意味の、妖獣族なら子供でも知っている格言だ。
そんな事は骨身にしみて自覚していた。我ながら実に軽率だった。つい頭に血が昇り、また非凡な特性をもつ己の力に慢心してもいた。更にそれをよりによってリェに指摘される自分が心底腹立たしく、スウは小さなあぶくを吐きつつ歯噛みをした。
「悔しいか?そりゃ何よりだ」リェが屈み込み、顔を寄せてくる。
「ハォにしたみてえに、薬やなんかを使ってもっと簡単に捕らえても良かったんだぜ。なのに、何でこれだけの大立ち回りをさせたと思う?──そのぶん、てめえの必死なつらをいくらでも拝めて笑えるからだよ。どうだ、傷つくだろ?まだまだ徹底的に屈辱を味わわせてやるからな、楽しみにしとけよな・・・おっと」
スウが再びヒト形に身を変え、水の塊の中からリェに掴みかかろうとした。しかし、ずしりと全身に張り付く水圧で立ち上がる事さえできず無様に倒れ、水中から悔しそうにリェをねめつけた。
「危ない危ない。ほれほれ悔しきゃもっと反撃してみな、できるもんならな」
リェの手には、ミャオの死骸から手に入れたスウの剣が握られているらしかった。その柄尻を水中に差し入れ、水の重さで身動きできずにいるスウの躰を剣穂でくすぐり始める。
──リェは知る由もないが、この剣穂にあしらわれた翡翠玉《ひすいぎょく》はハォが与えたものだ。以前ハォが、ちょっとした用があってスウを伴い人間族の町へ下りた事があった。その際に覘いた小間物屋で見つけたもので、ハォはこれを必要な備品として何の気なしに買い与えたのだが、スウは嬉しかったのでとても大切にしている。
矢に狙われつつもミャオの死骸から剣を回収したかったのは、この玉《ぎょく》に固執したためだった。
その大切な玉《ぎょく》が、まともに身動きできぬスウの肌の上をころころと彷徨う。鮮やかな緋色の房飾りが白い尻を左右交互になぶり、その左右の尻肉の合わせ目を下の方に向かってなぞるように這う。
菊座をいたずらさせまいとスウは何とか脚を閉じ、尻を引き締めて抵抗した。行き場を失った緋色の房は、尻の割れ目に沿って今度はじりじりと上へ引き返してゆく。
「お前、こんなとこにも紋様あるのな」
ぴっちりと閉じ合わされた尻の割れ目が途切れる地点の更に上。尾骨の上あたりにある小さな三角紋様を、リェはねっとりとくすぐった。
(──あ・・・!待って、そこはだめ・・・!!)
スウの唇の端から、いくつもあぶくが漏れたのをリェは目ざとく見て取った。
「お?何、お前ここが弱いわけ?あっそう、ここ?ここが好きぃ?ほれほれほれ」
そこはあるじのハォのみが知る、スウの自覚する中で最も敏感な性感帯の一つだった。夜伽の相手をする際など、スウの反応を面白がったハォに指でぐりぐりと刺激され、しつこく舌でなぶられ、また唇をあてて強く吸われ、他にも筆舌に尽くしがたいあらゆる手を施され、終いには絶頂させられた事さえあった。
ハォだけが恣意にできたその哭き所が、いまリェによってめちゃくちゃに蹂躙されている。リェが剣穂を動かすたびに房飾りの糸の一筋一筋が集まったり解れたりを繰り返し、ぞわぞわと微細な性感をスウに与えた。ハォにされた時の感覚が呼び起こされ、不覚にも躰が疼く。
不本意に昂ぶり、スウは水圧の中で狂おしく悶えた。胸に溜めていた息が徒らに消費され、着実に苦しくなっていく。身を悶えるたび、地に押し付けられた肌をじゃりじゃりと砂が噛んだ。
(やめろ・・・、やめろ!!)
逃れようと重い腰をよじれば、当然だが伏せられていた大事どころが露わになった。
「よしよし、前も苛めて欲しいのか?何だァ、もうおっ勃てやがって淫猥な奴め・・・ん?何だおい、ここにまで紋様があるのかよ──どれ」
ゆらりと水中に勃ちあがった一物の裏にも見つけた三角紋様を、リェは剣穂の房でなぞり上げた。スウがびくりと胸を反らせば、「お、チクビも好きか?まあそうせっつくな、今構ってやるから──こうか?こうがいいかぁ?」と、すかさず左右の乳がなぶられる。
(・・・!もうだめ、苦しい──)
ついにスウは詰めていた息をすべて吐き出し、ごぼごぼと水を吞んだ。