薄明りの中、ハォは目を覚ました。
「・・・・・・、」
重いまぶたを薄く開ける。寒いと思ったら、
(もう昼か・・・?妙だな、俺が寝過ごすなど)
すぐに起き上がろうとしたが、頭の中がふわふわして全身が異様にだるい。
(・・・?夢精でもしたか?──いや)
手をやって確認するが、乾いている。特に汚れてはいないようだ。
(・・・・・・?)
気のせいか、口中にスウの唾液の味を感じる。
(何だ?・・・昨夜は確か、まぐわった覚えはないのだが)
昨夜は普段あまりやらない大刀の稽古をしたらなぜか極端に疲れてしまったので、少し仮眠を取ろうと寝所に帰るなり倒れるように眠ってしまったのだった。
(腹が減った)
(・・・スウはどこへ行ったのだ)
足元に気配が無い。そういえばさっき、薄い意識の向こうでスウが何やら喚いていたような気もするが定かでない。夢だったかもしれない。
(──雨のにおいがするな・・・この明るさでは、もう止んだ後か)
──におい。
(────??)
この洞内に自分とスウ以外の匂いが複数ある事に、ここでようやく気が付いた。
しかも、この匂いは。
(リェ・・・?!ばかな)
うとうとと開いたり閉じたりしていたハォのまぶたが、ぱちりと見開かれる。意識を覆う靄がにわかに晴れ、反射的に身を起こした。
「うっ」
──頭がずしりと重く、思わず手で押さえる。
(・・・?寝すぎたせいか?──何やら胸やけもする・・・くそ、気分が悪い・・・、水は)
枕元に手を伸ばすが、葫蘆が無くなっている。昨夜の寝しなに殆ど飲み干して枕元に転がしておいたはずだ。
そして白銀の毛色をした忠臣の姿もやはり足元に無く、代わりに黒塗りの鞘だけが落ちている。
(スウのものだ・・・。どういう状況なのだ、これは)
何かあったのは確かだが、残された匂いの他に洞内には誰の気配も無い。侵入者どもは既に立ち去ったらしい。
スウとリェの他に五人ほど、覚えのある匂いが周囲に残っている。それどころか、リェともう一人──名を何といったか、リェの所にいる力自慢の近習──に至っては寝台の上にまでしっかりと匂いがつけられているではないか。
(おかしい・・・侵入を許したばかりでなく、これほどまでに接近されて俺が目覚めなかったなど。何か術を掛けられたか・・・?この身体の違和感はそのせいか)
ほかに異常がないか、全身をざっと検める。──外傷は特に見られず、呪符などを施された痕跡もない。ただ、
(ん・・・?)
やはり、気のせいではなくスウの汗と微かな体液のにおいが躰についている。更に、股座には唾液のにおいを感じる。既に乾いてはいるが──どうも、しゃぶられたらしい。
(
それだけでは片付かない何かがある。仮に、スウにいたずらされても全く目覚めないほどにハォの眠りが深かったとしてもだ。
(ここに鞘が落ちているからには剣を執って迎え撃ったのだろう。・・・にしては場が全く乱れていない)
微かにスウの血の匂いが残っているが、血痕は見当たらない。それに、スウ以外の血の匂いが無いのも妙だ。かれが剣を抜いたのなら敵が全員無傷で済むとは思えないし、寝台の上に残るリェと近習の匂いにしたって、ほとんど動き回った形跡が見られない。まるで、眠りこけるハォの傍らにどっかりと腰を据えて──気色の悪い話だが、あたかも寝姿を見物されていたかのような。
そんな事をスウが傍にいて許す訳がない。何らかの理由で場を離れ、その隙にリェたちに侵入されたのだろうか。
(痩せ狐め、また何を企んでいる・・・?この身体の不調、妙な毒でも吸わされたか?──いや、ならば俺を屠るまたとない好機だったというのに、俺を無傷のままにして立ち去るとは考えにくい。他にも何かをされたはずだ・・・実害の有無を別にしても、俺が知れば激昂するような何かを)
嫌な予感しかしない。
鉛をまとったような気だるい体を動かして寝台を降り、衣装籠に用意されていた衣を適当に着ける。隣の籠にはスウの衣一式も手付かずで残されていた。
(スウは四つ足のまま出て行ったのか?・・・いや、しかし剣は鞘だけを残して無くなっている。二本足に変じたはずだ。単に衣を着けるいとまが無かっただけか)
匂いを追って足早に歩きながら髪をたくし上げる。腕が重い。指先にも微かな痺れがあり、髪紐を結ぶのが億劫になったのでその辺にあった銀の簪を取り、ざっくりと簡単な形にまとめ上げた。
〇
霞む眼を擦りつつ、洞内と外界とを隔てた垂れ布を跳ね除ける。この眼の違和感も、おそらく寝起きのせいだけではないのだろう。明るみに身を晒したとたん、頭が少しくらくらした。やはり身体の調子がおかしい。
痕跡はそこで途切れていた。外一面、一切が雨に洗われて匂いの行方がわからない。
(・・・厄介な。・・・ん?)
足元に葫蘆が転がっているのが目についた。枕元に置いてあったものだ。よく磨かれた愛用の品で、雨上がりの水滴をつややかに弾いている。
(どうも無いと思ったが、なぜここに?まさか、リェが盗んで落としていったのでもなかろうが・・・無関係ではないな)
持ち上げた拍子に、表面についた雫がつるりと流れ落ちた。何となく振ってみるが、中身はやはり空に近い。
(──ん)
ふと見慣れた剣が落ちているのが視界に入り、葫蘆から視線を外す。植物の蔓を二つ折りにしてねじり合わせたような風変わりな形状の鮮やかな朱塗りの柄に、翡翠玉と緋色の房飾りの剣穂をつけた細身の剣。スウのものに他ならない。
近寄って検分する。雨に洗い落とされて何の痕跡も残っていないかに見えたが、地に接していた面を裏返して見れば、雨水で薄まった血がわずかについていた。その匂いは印象に薄いが、覚えがある。確かリェの配下の者に、こんな匂いの奴がいた。
(やはり、やり合ったか。剣を手放したという事は、ここで四つ足に変じたか・・・あるいは──いや、
・・・敗北し、どこぞへ連れ去られたか。
だが、何のために。
無防備に眠りこけたハォには手を出さず、なぜスウだけを。
(──初めから、スウをどうこうするのが目的だったという事か。いったい何を)
同族の間でも珍かな白銀の毛皮欲しさか、単に殺す目的か。いや、リェの性格上、それならどちらにせよ死骸を一部でもこれ見よがしに残していくはずだ。しかし、それらしい様子もない。ならば、無理のある話ではあるが懐柔するなり何らかの術を掛けてあちらの配下にでも仕立てるつもりか。そうでなければ、──
(・・・。悪趣味なリェの奴が考えそうな事だ)
思い当たる節があり、ハォはひとり苦い顔をした。
〇
「殿下」
野草を摘んでいた青年は、思いがけず姿を見せたあるじに慌てて畏まった。
「
フェイはハォに仕える薬師である。リェの所の薬師フイと同じく、薄青い上っ張りを身に着けている。
「毒・・・、それはどのような」出し抜けに淡々と告げられた一大事に、フェイはぎょっとしてあるじの顔を見た。それから、ちらりと周囲へ目をやった。
(ご近習を誰も連れておられない・・・スウ殿はどうされたのだろう)
詳細は不明だが、ハォが自ら不調を訴えに来る時点で既に普通ではない。そういった事なら遣いを寄越すなり、指笛の合図なりで薬師の方があるじのところへ呼び寄せられるのが筋というものだ。それに、どうも特にフェイを捜していた風でもない。偶然行き遭えたから良かったものの、何らかの毒に侵されたらしい身体のまま動き回るとは剣呑な事をする。あるじは独りでどこへ行くつもりなのか。
(お顔にこそ出されないが、・・・もしや狼狽しておられるのか?稀有な事だ)
行動できているところを見るに、倒れる程の強い毒ではないらしい。
このフェイという男は妖獣族の中でも、いっとう鼻が利く。特に薬の類いを嗅ぎ分ける才にかけては、恐るべき技量を発揮する。
だが、そのかれの嗅覚をもってしても、それらしい匂いは無いように思えた。ハォの様子を観察する限り、目立って汗をかいている様子も無い。紋様は──やや薄いような気もするが、概ね色味が良い。ただ、確かに顔色が優れない。
なにしろ日頃から渋面を崩さないハォの事なので分かりにくく、あくまでフェイの主観ではあるが、たとえば一晩中早駆けの鍛錬でもしていたかのような、または父王陛下から直々に稽古をつけられた後の疲弊した様子にも似た、げんなりとした印象を受けた。
「どうやったかは知らんが、おそらくこれだ。何なのか後で調べておけ」
ハォは腰に提げてきた葫蘆をフェイに押し付けた。
受け取るやすぐに栓を抜き、嗅いでみるも、フェイにも水の匂いと葫蘆そのものの匂い以外は別段何も感じられなかった。
「いい、今は間に合わせで構わん。何か手持ちの薬はあるか」
何だかも判明しない毒をあり合わせの薬で何とかしろという、実に乱暴な命令が下った。
「・・・、かしこまりました。ではお身体を少々拝見します」
──委細承知。ただでさえ言葉少ななハォの命令からも本質を汲み取る賢さが、フェイにはあった。皆まで言われずとも察し、四の五のと余計な質問をしないこの青年にハォは信頼を置き、また気に入ってもいた。
ハォはその場で身体を診立てさせながら、事の経緯について淡々と語った。話を聞くにつれ、フェイは妙な顔つきになった。
「・・・すると、やはり御身は御承知でなかったのですね」
「どういう事だ」
「その前に、お薬を。しばしお待ちください──ええと」
フェイは束の間まぶたを垂れ、視線を地に深く沈めた。うなじに手をやって襟足の辺りを掻きつつ、瞳を彷徨わせる。地面に散らばった視えざる文献から文字を拾い読むかのような挙動は、この男がものを考える時の癖だ。それから瞬きを一つして短い思案を終え、懐から薬袋を取り出した。
「ひとまず、こちらを。──ただし」フェイは丸薬を何種類か選って差し出し、「効能は過信なさいませんよう。なにぶん未知の毒ですゆえ、きちんと調べたうえで改めて調薬したものを取り急ぎお持ち致します」と、釘をさした。
「それで何だ、話は。手短に云え」ハォは丸薬を口に放り込みつつ、先を促した。
「はっ。──先ほど警邏の兵から聞いた話ですが、今朝がたに松焔洞の方角から妖気を使う微弱な気配があったと。
血の匂いもあり、何事かと数名の兵が近辺まで様子を探りに行ったところ、やはり洞内に複数の気配があり、どうもリェ殿下とご近習衆と思われる方々がお越しになっている様子であったそうですが・・・、」
ハォの纏う気配が、さっと鋭さを増した。
「俺があいつを洞に呼ぶはずが無かろう、明らかに異常だのにその兵もなぜ捨て置いたのだ」
「それは──ええとですね・・・、これは由々しき事態かと、かれらも一瞬身構えたそうなのですが・・・いえ、俺も話に聞いただけで確かな事は分かりかねますが──ただその、かれらが申しますには」ここでフェイは言いにくそうに声を落とす。「──お邪魔をしてはならぬ雰囲気、を感じてそっと引き返したのだそうです」
いつもならば物事を理路整然と話すフェイにしては抽象的で煮え切らない物言いに、ハォは眉をひそめた。
「要領を得んな、何が言いたい」
「つまりですね、あー・・・、洞内よりお声が漏れていたと」
「・・・、声とは?」
ハォは、直接的な表現を避けようと配慮するフェイに情報開示を強いる。
(ううっ、もう概ね察しておられるだろうに・・・まだ決定打に欠けるか)
フェイは観念し、敢えて伏せていた部分をおずおずと詳らかにした。
「・・・そのう・・・どうもスウ殿と思われる、何やら盛んに営むお声・・・がしていたとの事で・・・しかし御身はその時眠り込んでおられたとなると、恐れながら邪推しますに──、」
ただでさえ険しいハォの表情に一段と険が増してきているのを察知し、フェイはそれ以上出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。
かなり言葉を選び、極力ぼかして伝えたつもりだった。ちなみに、その様子を見に行ったという兵たちの言を借りれば「どうも兄殿下とご家来衆をお招きして何か変わった趣向で大いにお愉しみのご様子であったゆえ、とてもお声がけできなんだ」「然り。妨げようものなら後でどんな懲罰を喰らわされるかと思うと恐ろしゅうてな」「いやはや殿下もお盛んな事だ、お若いうちは羽目を外すのも致し方ないとは思うがスウ殿も苦労なされておるなあ」との事で、とてもそのまま伝える訳にはいかない内容だったのだが。
「もういい、わかった」口ごもるフェイを、ハォは制した。なぜ覚えのない情事の痕跡が己の躰に残されていたのかも何となく合点がいってしまい、眉間に刻まれる皺はいよいよ深い。「この事は内密にしろ、あまり大ごとにしたくない。俺の沽券にかかわる」
「御意・・・、あの」
「余計な気を回すな、これは俺一人で始末をつける。何もなかった事にしておけ」
「はっ」
「仕事に戻れ」
「御意に」
きちんと拱手をし深々と低頭するフェイを残し、ハォは濡れた土を踏んで歩み去った。
あるじを見送ってから、フェイはぽつりと独りごちた。「・・・。あの兄殿下も、相当にたちが悪くていらっしゃる・・・とうとう、やってはいかん事に手を出してしまわれたみたいだな」
今回の事できちんと真相を把握したのは、当事者たちを除けばこの男だけであったろう。
〇
リェは自身の事を策士だと堅く信じているが、かれの策は実際のところ抜けが多く、この時も数多の粗忽があった。中でも大きな要因を上げると、まずは偶然出来上がったという未知の毒をろくに試しもせず、思い付きで計画を実行した事。その結果リェの思惑よりも余程早くハォは目覚め、歩ける程度には回復していた。
次に、リェがハォ付きの薬師フェイの手腕をかなり侮っていた事。・・・というのも、元々長らくハォに仕えた前任の薬師がいたのだが数年前に病で急逝したため、急遽その弟子であったフェイが後釜に据わったという事情があり、ハォに仕えてさほど年季を経ていないかれの事を、リェは知識も経験も浅い青二才と見くびっていたようだ。そのかれが、視診と触診に最低限以下の問診だけでハォが服された毒の内容を推測し、ほぼ正確な解毒を施してしまった。その実力を見抜けるほどの眼力と情報網が、残念ながらリェという男には欠けていた。
それから、今回これがリェの最も大きな見誤りと言える事だが──
一嶺を預る王子の一人でありながら、ハォが、事もあろうか従者ごとき──いかに重用している腹臣とはいえ、所詮取るに足らぬ消耗品であるはずの従者ごとき──スウとの間に、リェの想像よりも遥かに深い絆を結んでいたという事。
いや、それに関しては日頃のハォの淡白(もとい辛辣)な態度ゆえに、第三者であるリェがその真意を測り違えたのは無理からぬ事ではあるが。
単に弟の矜持に傷をつけ牽制する目的に過ぎなかったが、結果として目算を大幅に超えるほど莫大な怒りを買い上げたという事実に、リェは気付く由もない。
〇
(くそっ、俺がまんまと正体を失くしていたのをいい事に・・・いや、何をされたかは考えたくもないが──あの下品な奴ばらめ、許さん。どこへ行った)
勘を頼りに探索を続けるハォだったが、ふと、かれの愛馬が近辺をうろつく気配を嗅ぎ取り、これ幸いと指笛を吹いて呼び寄せた。
すぐに声高くいななきが応え、やがて、つややかな漆黒のたてがみに縁どられた薄墨毛の馬が追い付いて来た。月牙山全域に生息する小型の野生種で、
「よし、少しじっとしていろ」
急な事で馬具の用意はない。普段なら裸馬も平気で乗りこなすのだが、身体の自由が利かない今は少々心もとなかった。
ハォはヒェイランの鼻づらから尻にかけ、さっと撫ぜた。すると触れた箇所が妖気に包まれ、軍装のような物々しい馬具が形をなした。妖術〈剣戟創造〉の応用である。
ハォも王家の証したる翡翠色の妖気をもつが、リェのようなくすんだ色とは違う。青磁にも似た淡く美しい翡翠色で、所々にちらちらと鮮やかな青みが混じる特徴がある。
突然現れた馬鎧に身を包まれたヒェイランは戸惑い、不満げに足踏みを繰り返す。
「
ハォはヒェイランをなだめすかしつつ鐙を踏み、まだ倦怠感の残るその身を鞍上へせり上げた。ヒェイランはあるじが背に納まったとたん大人しくなり、ぽんと腹を一つ蹴れば風のように駈けた。
道々、ただならぬ怒気を漲らせ馬を飛ばすその様子に肝をつぶした獣や妖しの者どもが、何事かと咄嗟に身を隠した。そしてじっと鳴りを潜め、ハォが通り過ぎてからも暫くの間は茂みや岩陰、穴ぐらの中でそれぞれ息を殺していた。
〇
「あっ、ハォさま」
「ハォさま、おひとりだ」
かわいらしい双子の童女は揃って顔を見合わせると、ちょこんと道端に畏まった。愛馬を駆ってやって来るハォの様子を、くりくりと興味深げな瞳で見守る。
きょうは天気が崩れて洗濯ができず手が空いたのをいい事に、さっきまで二人して雨の中を遊び回っていたのだろう。簡素な衣と前掛けも、それぞれ色違いの鉢巻でぐるりと押さえた髪も、ぺたりと濡れている。
ハォは手綱を引き、馬を止めた。山中をちょろちょろと不規則に駆け回って遊ぶこの子らなら何か知っているのではと思いついての事だ。
リェたちはハォの手の者に見咎められる面倒を避けるよう、計算された足取りで引き揚げたはずだ。地形や風向きなどから推して追跡してはいたものの、足跡も匂いも全てを雨に洗い流されたこの状況では、実際どちらへ去ったものか自信が無かった。
「お前たち、今朝から胡乱な輩を見なかったか。鋭鎴嶺の兄が俺の縄張を荒らしたらしいので追っているところだ」
あるじの問いに、ふたりは鏡像のように揃った動作で顔を見合わせた。ぱちくりと瞬きをする間隔まで、計ったように寸分のずれもない。
「そうだ、兄でんか」「うん、やっぱりね」「うろんなやから、って?」「へんなやつら、ってことでしょ」
こしょこしょと小声でやり取りをしてから頷き合い、ふたりは馬上のハォに向き直った。そして背筋をぴんと伸ばし、声を揃えて答えた。「見ました」
幼い双子の姉妹は口々に、見たものについて話した。
曰く、
今朝も早くの事、雷雨の接近を知るや大はしゃぎしたインとヤンが無謀にも背の高い松の木を選んで登り、迫りくる雷雲を特等席で面白く眺めていたところ、七頭の馬が眼下を通った。
六頭はリェらしき人物と五人の近習衆がそれぞれ乗り、一頭は背に何か大きな荷物と四つ足の死骸を載せていた。
荷物は熊の毛皮に包まれていて中身が何だかは知れず、死骸は赤茶の毛色をした〈しらないひと〉だった。
──との事だった。
おそらく、その大きな荷物とやらの中身がスウだろう。熊の皮に包んだのは、万が一見咎められた時も匂いで覚らせない為か。そして赤茶の毛色をした死骸というのが、先程のスウの剣に残っていた血の主に違いない。
ふたりが積み荷の正体に気がつかずに済んで良かった。スウに懐いているこの子らが知れば、「いっしょにたすけにいく」などと言い出しかねない。
「〈においづけの
におい付けの礼──かれら妖獣族の間では〈標礼〉ともいうが、これは妖獣に限らずケモノ族特有の重要な作法である。他人の縄張に足を踏み入れた際にはまず適当な場所で放尿する事で自身の匂いを周囲に印象付け、害意の無い来訪である事を示す意味をもつ。
かれらの世界においては匂いで全てが露見する。個人の発する匂いが何よりの身分証明となるのだ。たとえ雨に流されて消えてしまう場合でも、標礼は必ずしなければ縄張の主に対する侮辱と捉えられる。
無論、今回のリェの場合は害意ある計画的侵入であるためにこの作法を意図的に省いたのだった。
「だから、ちょっといたずらしました」「そう、ちょっとだけ」ふたりは不意に口元を抑えてくつくつと笑いだした。
訝るハォの前に、小さな掌が差し出される。見れば、雄の甲虫を象ったであろう小さな人形が載っている。
「かぶとむし、くっつけました。これとおそろいの、メスのやつ」赤い鉢巻をしたヤンが、にこにこと痛快そうに笑う。
「そしたら、くっつけたまま気がつかずに行っちゃった」白の鉢巻をしたインが、にこにこと得意げに笑う。
その意味を覚ったハォはわずかに眉根を開いた。
この双子の姉妹も、幼くして既に妖術が使える。
かの女らの持つ術は〈成兵〉といい、本来これは人形に意思を宿し、兵として自在に使役するというもので、修練を積むほど大きな〈人形〉──時には敵の死体でさえ──を何体も操って戦わせる事が出来るようになる。
いわば術を解かない限り実質不死の兵を生み出すという、使い手の力量によってはなかなかに強力な術となるのだが、ふたりはまだ幼いので妖力が弱く、せいぜい掌に乗るような小さな人形を動かす程度の事しかできない。
しかし双子であるがゆえか、ふつうの〈成兵〉使いには無い、ある変わった特性をもっている。
それを、ふたりは〈
要するに対になる人形を各々が片割れずつ作って術を掛けると、たとえ遠く離れていても人形同士が惹きあい、互いにその位置を知る事ができるのだ。
つまり、
「リェでんかたちのいるところ、この子がわかります」
あるじの縄張に挨拶も無しに侵入したらしい連中を幼心に怪しんだものの、かと言って直接問い質せる分際でもなく、その上かの女らは──何をかくそう、以前ハォを訪ねて来たどこぞの使者を闖入者と誤解し、咄嗟に大きな毛虫を投げつけた前科持ちでもある。
不審者か否かの判断をどうしたものかと悩んだ末、リェたちの歩が緩んだ隙に物陰からそっと近づき、何かあれば追跡できるようにと荷馬の尾に甲虫人形の片割れを宿らせておいたという。
子供は気配が希薄なうえ、行動も突飛で計り知れない。こんなにも優秀な小さき隠密たちが嶺内に潜んでいるとは、リェたちもさすがに気がつかなかったようだ。
「ハォさま、じっとして」
ヤンは背伸びをし、手綱を握るハォの手の甲に雄の甲虫人形を乗せた。
「〈此処に依れ〉!えーと、つがいのもとへハォさまをみちびけ」
ヤンに妖気を込められた甲虫は、むくりと身を起こした。ハォの手の甲で六本の肢をかさこそと動かして向きを変え、ぴたりとうずくまる。
「できた。この子が指すほうが、もうひとつの子がいるところね」「だいじょうぶだとおもうけど、取れちゃうとうごかなくなっちゃうから気をつけてください」
子供らしい拙い出来栄えの人形だが、本物の甲虫のようにしっかりとハォの手にしがみつき、道すがら落ちてしまう心配は無さそうだ。
〈成兵〉術の欠点は、術者が指定した範囲でしか〈人形〉が行動できない事である。子供の妖気量では箱庭程度の小さな範囲しか指定できないので、この時はハォの体を拠り所にするよう命じる事で広範囲を共に行動できるようにした。だから、ハォから離れれば術が解けて元の人形に戻ってしまう事になる。
「わかった。インヤン、手柄だ。だが、次からは──、」
次からはこの地でリェたちを見たらすぐに衛兵を呼べ。そう言いかけて、ハォは口をつぐんだ。
(次とは何だ、我ながら甘い事を。次などあってたまるか──これ以上、奴の好きにはさせん)
双子たちは馬上のハォをきょとんと不思議そうに仰ぎ、言葉が継がれるのを待っている。
「・・・いや、いい。後で何か褒美をやるからな──
ちっぽけな案内役を連れ、ハォは駈け去った。
瞬く間に遠ざかるその姿を見送り、姉妹はにこにこと顔を見交わした。
「ほめられちゃったねえ」「よかったねえ」「ごほうび、なにかな」「おっきくておいしいねずみがいいな」「たのしみ」「たのしみ」
それから、揃って首をかしげた。
「でもハォさま、おこってたね」「おこってた。みなごろし、かもね」「あーあ」「しーらないっと」
そしてすぐに興味は移り、今度はヒェイランが着けていた玲瓏たる馬鎧に心ときめかせた。
「ねえねえ。きょうはヒェイランの
思いがけず飛び出たおかしな言い回しが琴線に触れたらしく、ふたりはしばらくの間きゃっきゃと笑い転げた。