京町セイカは酒に弱い。
ここ数年の大学生活で得られた結論だ。京町セイカという人間についてよく知っている僕が言うのだから間違いないだろう。普段の彼女の様子を見ていれば、これに異論を唱える者もいないはずだ。百人いれば百人が同じ結論に行きつくと確信している。
初めて彼女と出会ったのは大学構内だった。晴れて第一志望の京都某大学に入学した僕は、誇らしげな気分でキャンパスを練り歩いていた。地方から上洛してきた人間にとっては、見るものすべてが真新しかったのだ。おしゃれな大学生たちや、小奇麗で近代的な校舎。新入生を獲得しようと躍起になる上級生たちの勧誘を受けているだけでも楽しかった。
大学に属するサークルを一通り見て回り、大量のビラをリュックに仕舞う。さて、帰ろうと何気なく目線をやった先に彼女の姿を見つけたのだった。その時はまだ「彼女」だとは認識していなかったが。
『文芸サークル』とだけ書かれた紙を垂らした机が一つ、ポツリと隅の方に置かれていた。傍には潰れたビール缶が乱雑に散らばり、校舎の影で薄暗いことも相まって近づく人間は誰もいなかった。唯一、元からそこにいた人間は、椅子に坐って机に突っ伏しているミドリムシだった。正確には全身緑の服を着た奴が、本来なら受付の役目を果たすべき席に坐って寝ていたのだ。種々の疑問を抱きながらじっと観察していると、それはもぞもぞと動いたのち地面に落下した。酔っているのか、まともに受け身も取れていなかった。顔からの落下は辛くも防げたようだが、それでもレンガ張りの地面では痛かろう。実際そいつはダメージを受けたようで、のろのろ起き上がると椅子に寄りかかって息をしていた。
正直、こんな奴は無視するに限る。駅前で酔っぱらいに会ったときの対処法は目を合わせず通り過ぎるというのが正解だ。これまで駅を利用してきた経験からそれを知っていた僕は、そいつも無視してこのまま行ってしまおうかと考えた。
しかし、その時の僕は浮かれていた。大学入試という一大イベントを笑顔で終えることができて、春の陽気に充てられ気が大きくなっていたのだ。自分に良いことがあったときに持てる心の余裕がまだ残っていた。それに相手は同じ学生だ。そのまま放置して何かあっても気分が悪いし、話しかけて変なトラブルに発展する可能性も低いだろう。
あたりを見渡し、他に『文芸サークル』の関係者がいないことを確かめた僕は、慎重にそいつの元へ近づいた。
「あの、大丈夫ですか」
恐る恐る声をかけると、そいつはもぞもぞ動いてから億劫そうに顔をあげた。
「……んう? きみ、だれ?」
こんな時だというのにドキリとした。そいつの正体は女性だったのだ。年の近い異性の酔った顔なんて見るのは初めてだった。普段はとても上品で綺麗な人なんだろうと思わせる顔立ちだ。彼女が身体を揺らす度、切りそろえられた前髪がさらさらと流れた。その目は翠玉を思わせ、赤らんだ顔の中で一際目立って見えた。
「えーと、僕、新入生の××と言います。さっき机から落ちてたので心配で声をかけたんですけど……。ここって文芸サークルの勧誘場所なんですか?」
あまりにもまじまじとこちらを見つめてくるもので、僕は慌てて話を続けた。
彼女はよろよろと身体を起こし、地面に坐りこんだ。身体を動かす度に酒の匂いがぷんと漂う。甘い匂いがあたりに立ち込めていて、こっちまで酔ってしまいそうになった。
「うん、そうらよ。──わるいけどさ、みず、くれない?」
初対面にしてはかなり踏み込んだ態度だ。見ず知らずの人間に水をねだるのは、よっぽど切羽詰まった状況でないと難しいだろう。しかし、目の前にいる相手はただの酔っぱらいだ。どれほど思考できているのかわからないが、今の彼女には何を言っても無駄だろう。
近くの自販機にでも買いに行いこうか。それから財布がリュックにあることを考える過程で、未開封のミネラルウォーターを持っていることを思い出した。リュックを下ろし、中身を探ろうと彼女に背を向けながらしゃがんだ。
「うーん」
背後から呻き声が聞こえてきた。そう認識した次の瞬間、彼女がもたれかかってきた。
「うわっ!? ち、ちょっと待ってくださいよ」
「きみ、ひんやりしてるね。きもちいい」
酒臭い息が耳元で唸る。否定的な言葉を口にしたものの、内心では少しばかり嬉しかった。彼女はすっかり力が抜けていて、心地の良い重さが全身にのしかかった。アルコールを摂取したことで火照った体と、腐っても女の子らしい柔らかな感触が背中に触れる。豊満な胸が背中で潰れ、その感触に思わず頬を緩ませた。介抱者の役得だ。それに向こうから来たのだから、文句を言われる筋合いもないだろう。
「先輩、水、どうぞ」
浪人したのかダブっているのか上級生なのか知らないが、大っぴらに酒を飲んでいる彼女は年上のはずだ。半ばからかうつもりで先輩と呼び、水を手にして振り返ろうとした。
「あっ」
やばいかも、と、かろうじてそれだけ聞こえてきた。僕がその言葉の真意を理解する時には既に、彼女の口元から水音が発せられていた。
こぷっという排水口のような音がした矢先、彼女が吐いた。
慌てて離れようとして、そこで体重を預けられていたことを思いだす。彼女の腕は自分自身を支えるために僕の首元へ回されており、身体を離すことは叶わなかった。あるいは無理やりにでも押しのけるという選択肢もあったのかもしれない。だがそれは上級生で、しかも異性でもある彼女に対して行うにはハードルが高い行為だった。
結局僕にできたことは、彼女のそれを甘んじて受け入れることだけだった。
すえた匂いのする生暖かい液体が背中を覆う。首元で吐かれたせいで顔やリュックの方にも飛沫が飛んできた。しばらくすると嘔吐も収まり、苦しそうに呻いていた。やっと終わったかと思うと、止める間もなく、また吐いた。今度のそれは一度目より短かった。
その後、彼女はえずいてまで内容物を全て出し切った。酔って吐くのは勝手だが、僕の上でだけは勘弁してほしい。固形物を食べていないのか、さらさらしたゲロだったのが唯一の救いだろう。吐けるだけ吐いてから、彼女は「ねる」という言葉をこぼし、そのまま地面に横になった。その顔は何とも誇らしげに見えた。
後始末は彼女の与かり知らざるところで行われた。路上で眠る彼女と、吐しゃ物にまみれて呆然としていた僕を保護してくれたのは『文芸サークル』の別メンバーだった。どこに出歩いていたのか知らないが、仲間と楽しそうにしゃべりながら戻ってきた彼らは、ゲロにまみれた僕と、口元を汚して眠る彼女を見て全てに合点がいったらしい。慌てて駆け寄ってきて謝罪された。向こうも焦っていたのか知らないが、一万円札を握らされてクリーニング代ということにされた。無論そんな金をかけるほど上等の服でもないのだが、あくまで面倒を起こしたくないらしい。「謝らせに行くから」という理由で名前と学籍番号を教え、その場は別れることになった。つかの間の夢の代償にしては、罰の内容が重すぎたように思う。
彼女との初対面はこれだった。およそ出会いとしては最悪の部類だ。相手の性格や人柄がどうであれ、願わくば今後二度と関わりたくないと考えるに十分な体験だった。現に今でも夢に見て、うなされる日があるくらいだ。
ただ、彼女と出会ったことは一つのきっかけとなり、その後の大学生活に様々な影響を及ぼした。幸か不幸か、彼女との人間関係は長く続くことになるのだった。