次の日、僕は約束通り文芸サークルの活動場所へと向かっていた。
活動場所は、本校舎の裏手にある古い校舎の一室だ。薄暗い廊下を抜けて扉を開くと、先輩たちが僕と同じような一年生の相手をしていた。隅の方には京町先輩がいて、カバーのされた文庫本を読んでいた。ドアの開く音で視線を上げ、こちらに気づくと本を置いて手招きをした。
「来てくれたんだ」
周りの目を憚りながら京町先輩に近づくと、彼女は声をかけてきた。
「ええ、なんとなくですけど」
まだ入ると決めたわけではないという思いを滲ませた返答に、彼女は笑って答えた。
「始めはそんなもんだよ」
後ろの方にはまだ何人か先輩がいた。既に京町先輩と知り合っている様子の男を不審そうに見つめていたが、やがて〇〇先輩が例の事件の被害者だと説明すると、彼らは同情の眼を向けてくれた。
その後、他の一年生たちとも話しながら文芸サークルについて説明を受けた。僕はそうではなかったが、この大学には文学部もあるくらいで、文芸サークルはそこそこ賑わっているらしい。複数人いるからこその活動や、文化祭等を利用しての作品発表の場など、それなりに面白そうな活動内容だった。
あくまでサークルであり、部活動程の強制力はない。籍を置いているだけでほとんど活動に参加しない奴もいるし、なんとなくでいいから入ってみてはどうか。
勧誘の最後はこのような言葉で締めくくられた。
その場で参加届を書く奴が数人いる中で、僕もなんとなく入ってみることにした。あの事件があった日、しこたま貰ったビラはそのほとんどが古紙回収に出されてしまっていた。これと言って入りたいサークルや部活動があるわけでもなかったし、それなら縁のあるこのサークルにでも入ってみようかという気になったのだ。それが良い縁にしろ悪い縁にしろ、ともかく一つのきっかけであることに変わりはないのだから。
参加届に必要事項を記入し、京町先輩に手渡しした。彼女は紙面をまじまじと見つめてから、顔を上げ
「これからよろしくね。××君」にやりと微笑んだ。
不本意ながらその笑顔に胸を打たれたことについては、内緒である。
京町先輩は本名を京町セイカといった。京都某大学文学部二年生。僕とは年が一つだけ上だった。緑色を自身のトレードマークとしているようで、普段から緑の入った服をよく着ていた。それも無理やり着ているのではなく、彼女が着ると大抵の服は様になっていた。つまりそれほど美人だった。改めて考えると、そのような人間と知り合いになったことは、たとえそのきっかけが最低の出来事であれ、奇跡のようなものだった。
大抵の場合、彼女はサークルの活動場所にいた。空きコマに弁当でも食べようかと教室へ向かうと、決まってあの日僕を迎えてくれた席で小説を読んでいた。むしろ彼女に会えないことの方が珍しく、いつ授業に出ているのか不思議なくらいだ。
彼女を一言で表すなら豪放磊落だろう。いつでも明るく、元気で、さっぱりとしている。細かいことを気にかけず、常に周囲を明るくしているような人間だった。
そんな彼女と会話するのが楽しくて、空き時間はほとんど活動場所に足を運んでいた。彼女は大衆小説を好んで読んでいた。特に江戸川乱歩のような、人間の奥底にある欲求を包み隠さず書き記したような文章に心惹かれると言っていた。僕はほとんど小説を読まなかったが、彼女と会話するネタが欲しくて、勧められた本を何冊か読むことにした。始めは苦労するかと思っていたが、いざ読んでみれば案外難しくなく、漫画や映画のように続きを知りたいという気持ちになり、力を抜いて読み切ることができた。そのかいもあって彼女との会話も弾み、高校生の頃思い描いていた「リソウノキャンパスライフ」なるものを何とか実現できているような充実感があった。
新生活にも慣れ始めた頃、新入生歓迎会の知らせが届いた。新しい参加希望者の波もひと段落ついたため、近所の川で遅い花見をするという。大学生活に適応し、サボりなんかも覚え始めた僕は時間を大いに持て余していたので、喜んで参加することにした。歓迎会で京町先輩に会えるかもしれない、という打算もあった。
会場である川に向かうと、河川敷に生えた桜の根元に人が集まっていた。その中に見知った顔をいくつか見つけ、ほっとした気分で近寄った。
同級生たちに軽い挨拶を交わす。彼らは既に輪ができているようで、数人で車座になってお菓子を食べたりしていた。さて、どこに坐ろうかと人見知りを発揮していたところで、奥の方に見慣れた人物を見つけた。京町先輩だ。それも赤ら顔でやけに機嫌良さそうにしている──まさか?
先輩方に挨拶をしながら彼女に近づくと、その予感は的中した。彼女の手にはビール缶が握られていた。それも随分と軽そうだ。ふとあたりを見渡すと、周辺にはビール缶がいくつも転がっていた。先輩たちは既に酔っているようだった。
「あの、京町先輩。こんにちは」
彼女はこちらに向き直り、近づいてきた男の顔を訝し気に見つめた。しばらく悩み、ようやく思いだしたようでにへらと綻んだ。
「後輩くん、こんちはー」
他に行き場もなかったので、周囲を伺ってから彼女の隣に坐る。
「先輩、また飲んでるんですか? 確かお酒は苦手とか言ってませんでしたっけ?」
「んー」
京町先輩は手に持っていた缶を呷り、中身が無くなると背後にポイ捨てした。
「へいきだよー。それに、きょうはおめでたい日じゃないの。たのしくやろうよ」
彼女は近くのクーラーボックスを漁り、水滴のついた真新しいビール缶を取り出した。それから炭酸の抜ける子気味良い音を立て、ありがたそうに口に運んだ。
酔った京町先輩はいつもに増して上機嫌だった。二倍豪放で三倍磊落といったところか。それまでは辺りの人間──僕から見た先輩方──に絡んでいたようだが、僕が来てからはその標的が僕自身に変わったようだ。普段から楽しく会話していた弊害がまさかこんなところにこようとは。助け船を期待して先輩たちの方を見るが、彼らも子守には飽きていたようで「頑張れよ」とだけ伝えられて放置された。新入生を歓迎する会だというのに、僕はといえば同級生たちとも話せず、京町先輩の小説に対する哲学をたっぷり三時間も拝聴する羽目になってしまった。
夕焼けで空が滲むころ、会はお開きになった。
サークル長がなんとなく最後にまとめの話をして、どうにも締まらない終わり方だった。花見会場は混沌としていて、既に帰宅した者、サークル長の話には耳も貸さずにしゃべる者、ブルーシートの上で寝ている者などがいた。京町先輩は最後のグループに属していた。というか、そこまで酷く酔っていたのは彼女くらいのものだった。
「先輩、先輩。起きてください。歓迎会は終わりましたよ」
肩を軽く揺する。しばらくもぞもぞと動いていたが、やがて観念したように身体を起こした。
京町先輩は結局ビールを二本飲んでいた。二本目に口をつけたのは僕が来てからだったが、それを飲み終えたのは一時間も後だった。その後、彼女は酔っぱらって僕に向かって一方的にしゃべり続け、気が付けば寝てしまっていた。
「んーう……。いまなんじー?」
「五時です。皆さん帰られるようですけど……先輩はどうやって来たんですか?」
「ばす」
先輩は「飲みすぎたかも」と零しながら自分のカバンから水を取り出し、飲み始めた。今日はあの日のようにならないだろうとほっと溜息をつく。
「帰れそうですか?」
「えへへ、ちょっとむずかしいかも。ね、後輩くんはどこにすんでるの?」
「△△の近くです」
「えっ、うそ! あたしも、そこ、すんでるんだよ」
仲間意識からか京町先輩は肩を組もうとしてきた。僕はそれをするりとかわす。他人の眼もあるし、いらぬトラブルに巻き込まれたくはない。肩を組めなかった京町先輩は不満そうな顔でこちらを睨んでいたが、すぐに破顔して両手を合わせた。
「おねがい。今日いっしょにかえらない?」
「い、一緒にですか?」
この辺りに住んで初めてわかることなのだが、△△という土地はメインの開発地ではないというか、人が集まる場所ではない。駅や主要施設へのアクセスは妙に悪いし、大学までも距離がある。だからこの辺りの学生たちは皆もっと便利な場所に家を借りていた。△△に住む人間と言えば安い家賃につられた学生か、自分のように京都の地理を良く知らない学生がほとんどだった。
「他に帰れそうな人はいないんですか?」
「いなくはないけど……」
会場にはまだ何人か残っていたが、既に帰り支度は終わりかけていた。後は僕らが座るブルーシートくらいのものだ。「早く片づけを終わらせたい」という無言の圧力を感じ、思わず背中が震える。
京町先輩と帰る方向が同じ先輩がいたとしても、子守を果たす義理はないと考えているのかもしれなかった。△△に向かうとなると、駅前の繁華街からはどんどん離れていくことになる。これ以降の予定がある人間も少なからずいるのだろう。
「じゃ、じゃあ、僕が一緒に帰りますよ」
その一言で場の空気が弛緩したのは気のせいではあるまい。
「ほんと? じゃ、いこー」
京町先輩はふらふらと立ち上がった。見ているこっちが心配になるくらいだ。あの日のように顔が赤いし、倒れてしまわないかハラハラする。
他のメンバーに挨拶をしてから、二人で近くの駐車場まで歩く。京町先輩は帰りもバスに乗ると思っていたのか、僕が車で来たことを知ってひどく喜んでいた。
泥酔した彼女を助手席に押し込み、何とか住所を聞き出す。ここへ越してきてまだ日が浅いので、そこに向けてナビを設定し出発した。
先輩は助手席にだらしなく坐りこんで放心していたが、しばらくすると口を開いた。
「今日はありがとね。おかげでたすかっちゃった」
「京町先輩、お酒は弱いんじゃなかったんですか?」
「んー。けど、あじはすきっていうか。……それに、さ。ほかのひとたちがのんでると、なんとなくのみたくならない?」
「そんなもんですかね」
目的地に近づけば近づくほど、車や人通りがまばらになっていく。めぼしい店も消え、窓から光を漏らした民家が立ち並ぶようになってきた。
「ねえ、このくるまってどうしたの?」
「実家の車ですよ。ないと不便だろうって、持ってきていいことになったんです」
京都までくればバスや電車で十分事足りる。こっちに来るまではそう考えていたし、来てからもその考えはあまり変わらなかった。でも、今こうして京町先輩を乗せて形ばかりのドライブができているということは、車無しでは到底実現しえなかった。高校生の内に免許を取らせてくれた親につくづく感謝する。
京町先輩との他愛のない会話はもうしばらく続いた。やがて車が住宅街に差し掛かると
「あ、そこ、みぎでおねがい」と道案内が始まった。
最後に停車したのは小さなマンションの前だった。これといった特徴も上げられない、どこにでもありそうな建物だ。正面にはゴミ捨て場と駐車場があって、車が何台か停まっていた。
「降りれます?」
「だいじょーぶそー」
シートベルトを外すことすら手間取っている彼女を見て心配になり、慌てて降りて助手席側に回り込む。ドアを開け、手を貸してやって、京町先輩はなんとか地上に降りることができた。
「ん、後輩くん、ありがと。またいこうね」
「ええ。また行きましょう」
ばいばい、と言いながら京町先輩はこちらに手を振ってきた。彼女がエレベーターに乗り込んだのを確認して、僕は車を走らせ帰路についた。彼女の家と僕の家は二十分ほど離れており、駐車場に車を停める頃には辺りはもう真っ暗になっていた。
今日の出来事を振り返りながら車から降り、ドアを閉めようとしてふと気づく。今の今まで、助手席には京町先輩が座っていたのだ。それをみすみす逃す手はないのではなかろうか。
おおよそ健全とは呼べないであろう思い付きが浮かんでは消えていく。どうも小説の影響で、自分の中のそんな感覚が鋭敏になっているようだ。
実際に行動に移す──すんでのところで思いとどまる。なんとなく彼女に顔向けできない気がした。文豪が紙の上で起こすから面白いのであって、見知った人間がしているそれは単に不快になるだけだろう。諸々の未練を断ち切るよう、勢いよく運転席側のドアを閉め、鍵をかける。
明日は土曜日だ。また一週間分の買い出しにでも行こう。
自分の家に向かいながら、必死に当たり障りのない思考を続けた。