【R-18】掟の底食い 作:ちわわのちくわ、
すみません。
砂浜に貝を取りに来ていた子供は、その場に釘付けになって立ち尽くした。この眩しい真昼の中で、夜空に浮かぶ輝きを見た気がしたからだ。
誰かが水平線を眺めている。女性だとわかったのは彼女が振り返り、手招きしたからだ。
おそるおそる近寄る。
女は白い帽子とコートを羽織り、ピンヒールを手に、浅瀬に裸足を遊ばせていた。その全てが子供にとって未知だ。着ている物も、雰囲気もまるで違う。粗末な麻の服しかしらない子供にとってそれは光を纏っているかのように見えた。潮風に混じり、やわらかな香りもする。まるで住む世界が違う、別の生き物とさえ。
「こんなところに島があったなんてね。知らなかったわ」
子供は黙ったままゆっくりと頷く。
緊張を解きほぐすように女は軽やかに言った。
「きみ、ここの子供でしょ? お父さんとお母さんもここの生まれ?」
「そう、だけど……お姉さんは外の人?」
「そうよ。見るのは初めて?」
「最近までずっと海霧で覆われていたから。それに……」
言いさして、口をつぐむ。口から出た恐怖が形となり、その口に食べられる気がして。
「ずっと? けど今日は晴れてるじゃない。だから見つけられたわけだけど」
「うん。もうずっと晴れてる。それで芋も育つようになって、魚も多く獲れだした。最初はみんな不安だったけど、もう慣れた。わかんないけど」
子供は初めて外の人と話すのがなんだか嬉しくて、ようやく舌が回り出す。それで余裕が生まれて、浜辺に視線を巡らせた。船は無い。どうやってこの島に来たのだろう。
「ところで。村の家の一つに、戸口でずっと同じ姿勢の男の人がいるけどいったいどうしたのかしら? たまに誰かが水やご飯を食べさせてるみたいだけど」
その話題を出した瞬間、子供は目に見えて身体をこわばらせた。先ほどまでの無邪気に打ち解けかけた温かい雰囲気は波が引くように消えていった。
女はその明確な拒絶を見て、静かに微笑む。
「……お口を開けて、いいものをあげる」
小さなショルダーポーチから飴玉の包みを開き、子供の口にそっと押し入れる。
産まれて初めての強烈な甘味と旨味に、子供は飛び上がった。
「ゆっくりと口の中で転がしながら食べるのよ? 気に入ってくれたかしら」
ぶんぶんと頭を振る。
「もし固まった男の事を教えてくれたら、もう一粒あげる」
それは悪魔との取引めいて非対称性が滲み、しかし抗いがたい。
「絶対に、おれが言ったって言わないでね」
「約束するわ。お姉さんと、きみだけの秘密」
子供が村の方を振り返る。誰も見ていない。海の方はどうだろう。何の影も無い。本当に? たぶん大丈夫。
飴玉を頬に押しやり、しゃがんだ女の耳元で密やかにあの夜の事を語った。
「……そう。ずっとあのままなの……不思議な事が起こるものね」
立ち上がり、ショルダーポーチから飴玉を三つと溶けにくいシュガーコーティングチョコが入った小箱を渡した。
「話してくれてありがとう。ところで、ちょっと変わった果実を見た事は無い? お姉さん、そういう珍しい果物を探してるんだけど」
「ううん……無い」
もう、子供の興味は手の中のお菓子に移っていた。
「こんなに貰っていいの?」
「あげるわ。秘密を教えてくれた特別なお礼。けど他の人に見つからないようにしたほうがいいかも。じゃあね」
女は手を小さく振る。船も無くどうやって島から出るのか子供にはわからなかったが、まさに別世界の人間なのだからそういう事も出来るのだろうと漠然と思った。
「あ、そうそう。今までは霧で沖に出なかったみたいだけど、晴れてもやめておいた方がいいと思うわよ」
「わかっ、た」
そんな決定権は子供には無いが、心には留め置いた。そして最後に、こんな素敵な宝物をたくさんくれた彼女に隠し事をした事が、一つだけ後ろめたく感じた。
もじもじと、言い忘れていたことを思い出したかのような体を装い、外に行くなら危険を教えてあげたかった。
「外は……危ないかも」
「どうして?」
なぜ霧が晴れたのか。太陽を得て作物が育つようになり、満たされても村は無事なのか。大人たちが声をひそめて話し合っているのを聞いたのだ。
「掟が壊れて、底食いが放たれたんだって」
:::
カネカの脱出艇でまた別の島の街に停泊させ、なかなかいい船だったのでドギツい成金装飾を外して実用的でまともな外装にする事にした。
改装が終わるまでの間、換金できそうなお宝を現金に換える。
「まだ着れるのに、新しい服を買うのか?」
両手いっぱいに買い出しの袋を抱えたモアが、不思議そうにナミの背中を追いかける。
「そーよ。これから寒くなってくるからね。それに、いつまでも古着の一張羅ってわけにはいかないでしょ? どんなのがいい? 特別に新品のを買ったげる」
「ナミが選んでくれるやつ」
「なによそれ、奢り甲斐が無いわねぇ」
小さく笑って誤魔化すが、そう言われて悪い気はしない。なんだか少しくすぐったいが。
ついでに冬用の服も用意した。ナミの故郷のコノミ諸島は温暖な気候で氷点下を下回る事はそうないが、これからはそれなりに冷え込むこともあり薄着や半袖では風邪をひいてしまう。
それに、ナミの予測ではしばらくすれば嵐が来る。
十分な食料と防寒具を買い足し、新しく生まれ変わった船で港を出発した。
航行の間、ナミは彼に勉強を教えながら、ずっとそわそわしていた。
村を買い戻し、自由になったら何をしよう。まず、姉のノジコと乾杯したい。それから、モアの事も紹介して、カネカ丸の出来事は大ウケするだろう。その後の情事は省略するとして……
空想はあっという間に時間を早め、懐かしい遠景が見えてきた。
「あそこがわたしの村よ」
甲板に出て、モアに指さしてやる
みずみずしい緑に覆われた島が、青い海原にぽつりと浮かんでいる。
ココヤシ村の穏やかな家並みから少し離れた切り立った断崖には、白い灯台がひっそりと佇んでいた。
やがて船着き場に近づくと、ぬたりと海から姿を現す者があった。
青黒いぬめりを帯びた肌と、首筋で生々しく脈打つ三本のエラを持ち、水かきの発達した太い指で鋭利な銛を構えるその姿は、人間とは明らかに種族を異にする魚人だった。
「おい何モンだ! ここは魚人海賊団アーロン一味の縄張りだぞ!」
「わたしよ!」
ナミが船首から身を乗り出して言い放つと、魚人は表情を緩めた。
「なんだナミか。悪かったな。見慣れねぇ船だったもんでつい……かっぱらってきたのか? なかなか立派な船体じゃねぇか、やるなあ」
「まあね。ちょろいもんよ。後でアーロンパークに顔を出すから」
「おうよ、みんな寂しがってると思うぜ」
ココヤシ村にも港があり船もあるが、出入りには魚人の許可がいる。基本的に農産品や水産品を輸出する等、アーロン海賊団への奉具を稼ぐ以外には許されない。
二人は帰港すると金の詰まった重い箱を荷台に乗せ、小高い丘の上にあるオレンジ畑まで運ぶ。季節がら結実していないものの、青々とした葉が美しかった。
畑の中で、空色の短い髪を揺らし、果樹の世話をしていた女性がふと手を止めこちらに気づく。今となってはナミのたった一人の家族、姉のノジコだった。
「ナミ? 久しぶりね、元気だっ」
ノジコが駆け寄って言葉をかけ終えるより早く、ナミは荷台の手放し、何も言わずにノジコの身体をきつく抱きしめた。
あまりの勢いに、ノジコは面食らったように目を丸くする。
「な、なに? どうしたのよ、もうっ、あんたらしくないじゃない」
「終わるから、全部」
ノジコの肩に顔を埋めたまま、ナミは潤んだ声で、しかし鉄のような強い気迫を込めて呟いた。
「なにが? 一体何が終わるって──」
ナミの気迫に少し驚き、その細い肩を掴んで無理やり引き剥がす。その瞳には張り詰めた涙がにじんでいる。
それでおおよその事態を察し、妹の張り詰めた空気を和らげるように、わざと大きなため息をついて視線を横へとずらした。
「ていうか後ろの人は誰? あんたが男連れで帰ってくるなんて」
「違う違う、バカ言わないでよ。そういうのじゃない。こいつはモア、わたしの仲間。しばらくここで面倒見てもいい?」
「そりゃいいけど。へぇ~あんたがねぇ。仲間、か」
ノジコは腕を組み、品定めをするようにモアをじろじろと見つめる。端正でどこか浮世離れした顔立ちと、掴み所のなさそうな雰囲気。悪い人間ではなさそうだ。
ナミがアーロン海賊団に入ってからは、たまに帰ってきてもどこか思いつめた表情をしていた。今日のように感情を見せるようになった影響があるとすれば、この男だろう。
「とにかく、立ち話も何だし中に入りなさい。ちょうど今、お茶を淹れようと思ってたところだから」
「いや、ごめんけどちょっと急いでて。用が済んだらまた戻ってくる。畑を掘り起こすから。ほら、モアも手伝って」
土の中から鈍い音と共に、木箱が顔を出した。それは彼女がたった一人で、八年もの歳月をかけて血の滲むような思いでかき集めた希望の結晶だった。
「ナミ、あんたそれ……」
「ここからはわたし一人でいく。ノジコはモアのこと見てて、ちょっと世間知らずなところあるから」
「重そうだし、坂を下るまで手伝う」
「うーん、まあそうね」
それからナミは一人で荷台を引いた。
木箱を載せた車輪が重く軋む。重い。八年分の血と汗、そして村の命運が詰まったその重量は、物理的な質量以上に彼女の華奢な腕と背中にずしりと深く食い込んでくるようだった。
だが買えるのだ、その金で。
(ココヤシ村の、みんなの自由を……!)
ギュッと唇を噛み締め、吹き付ける冷たい潮風に向けて顔を上げる。その瞳には、長きにわたる絶望のトンネルの先にようやく見えた、確かな望みの光が宿っていた。
轍を引き、アーロンパークに辿り着く。
高くそびえる壁と、異形なる魚人たちがたむろするその場所は、ナミにとって幼い頃から続く地獄の象徴だった。
海に面したプールサイドの巨大なデッキチェアに深く腰を沈めていたのは、魚人海賊団船長、ノコギリのアーロン。鋭いノコギリザメの鼻と、屈強な肉体を晒し、傍らには幹部のクロオビやチュウをはじめ、血の匂いを好む同胞たちが下品な笑い声を響かせている。
「シャハハハ! 帰ってきたか、俺たちの測量士! 歓迎するぜぇ、ナミ! で、今回の仕事はどうだった? またえらく荒稼ぎしたみてぇじゃねぇか」
同胞たちと酒を煽りながら、アーロンは底冷えするような笑みを浮かべて仰々しく両手を広げた。
その威圧感と、育ての親を殺された過去に足がすくみそうになるのを必死に堪え、ナミは一歩前に出た。そして、荷台の上の木箱を乱暴に床へと引きずり下ろす。
「笑い話は後よ、アーロン。約束通り、持ってきたわ」
「……何をだ?」
重たい音を立てて蓋が開く。
「一億ベリー。これで……約束通り、ココヤシ村を返してもらうわよ!」
目の前に耳を揃えて並べられた一億ベリーに、魚人たちの空気が鎮まる。
誰かが呟いた。
「こいつは驚いたぜ……」
「なかなかお目にかかれるもんじゃねえや、こんな大金」
「アーロンさん」
クロオビが視線を向ける。
もちろんその意図は、ナミとココヤシ村を自由にしてしまっていいのか、それとも約束を反故にするかどうかを尋ねている。
アーロンは呵呵大笑した。その突然の笑い声に全員が身をこわばらせた。
「シャハハハ! やるじゃねえか!」
取って付けたような笑みを貼り付けて。
「約束だ、ココヤシ村はおまえのもんだ。アーロン一味からの脱退も許すぜ。ナミ、おまえは自由だ! シャハハハ!」
タコの魚人のハチがぼんやりと呟く。
「そうかぁおれはちょっと残念だがなあ」
「しかし本当にいいのか? 村も諦めてアーロン一味にいりゃあ、この財宝は全部おまえのもんなのによお?」
「考えは変わらないわ」
「そう、か……それじゃあしょうがねえなぁ。よし、おまえらココヤシ村に行くぞ」
「なんのつもり?」
「そりゃあ正式に村がおまえのもんになったって伝えなきゃならねえだろ? おまえがアーロン一味から買い取ったって言って、誰が信じるってんだ?」
一理ある。ナミがアーロン一味に属している事は村人にとって周知の事実だが、魚人だらけの組織内では所詮は人間と軽んじられていると思われても仕方がない。
そんなナミが必死に訴えても当面は半信半疑で魚人に怯える暮らしが続くだろう。
「祝いに酒でも持って行ってやれ。今日は村をあげての宴だな。シャハハハ!」
「アーロン、なにか企んでるつもり?」
「ぁあ? 俺様はこれでも、人間だが優れた航海術を持つおまえの事は、ちゃ~んと仲間だと思ってるんだぜ。そんなおまえがやり遂げた事に、ある種の敬意みたいなもんも抱いてるのさ」
それにな、とことさら重要そうにナミの耳元で囁く。
「おれは金の絡んだ約束は必ず守る。必ずな」
「そう、なら、いいわ」
なぜだろう。事はスムーズに運んだのに、これを願っていたはずなに、心はどこか浮ついて釈然としない。
(これでいいはず、アーロンは約束を守った、村は支配から逃れ、わたしは自由。きっとまだ実感がないから不安なだけよ)
ナミはアーロン一味を引き付れてココヤシ村に訪れた。当然、村人は困惑する。まだ奉貢を回収する日ではないのに、また誰かが武器を持っていただので咎めに来ただろうかと。
重苦しい絶望が村を覆う中、顔に無数の傷を縫い付けた駐在のゲンゾウが、怯える村人たちを庇うようにして前へと進み出た。頭の風車が不吉な風を受けてカラカラと回る中、額に脂汗を浮かべ、予期せぬ恐怖を必死に睨み返す。
だが、その敵意に反してアーロンは鋭い牙を剥き出しにしてニィと笑うと、大気をびりびりと震わせる大音声を村中に響き渡らせた。
「きけぇ! ココヤシ村の人間どもぉおお!!」
何人かが悲鳴を上げて身をすくませる。しかし、続く言葉は彼らの予想を裏切るものだった。
「おまえらは今日からこのアーロンの支配から解放された、おれたちゃあもうココヤシ村に関わらねえ!」
村人たちは狐につままれたように呆然としている。暴君が突如として宣言した解放という言葉。しかしそれをそのまま素直に信じられるほど、彼らの虐げられた八年間は甘いものではなかった。
「……本当なのか、アーロン」
喉の奥にへばりつくような掠れた声で、ゲンゾウが口を開いた。信じられない、いや、信じたいという切実な願いを抑えきれず、彼は震える足で一歩前へ踏み出す。
「気まぐれで私たちをからかってるんじゃないだろうな……いったい、なぜ急にそんな……」
村民は互いに顔を見合わせた。信じてもいいものか。
アーロンは底冷えするような笑みを深め、傍らでじっと前を見据えている小柄な影へと視線を落とした。
「なぜならこのナミが一億ベリーでこの村をおれから買い取ったからよ! まったく大した人間だぜ! ナミに感謝しろよ? 何年もの間、おまえらの為にこつこつと積み上げてきたんだからな。シャハハハ!」
哄笑が響き渡る。彼はバンと力任せにナミの華奢な背中を叩き、彼女の身体を一歩前へと突き出した。痛みに顔を顰めるナミを余所に、アーロンは配下に命じて担がせていた幾つもの酒樽をドスンと地面に叩きつけさせた。
「こいつはおれからの祝いだ。成し遂げたナミに対してであって、おまえらにじゃねえが……まあ、仲良くやってくれや。もちろん毒なんて入ってねえ」
言って樽の内の一つを開け、ジョッキを持つかのようにして一口飲む。
「必要なら、残りの樽も毒見させるが?」
「……そうね」
冷たく言い放つナミに、アーロンは呆れたように肩をすくめる。
「おいおい、疑り深ぇな」
「じゃなきゃ一億ベリーなんて集められなかった」
「ハッ、そりゃまあそうか。おい、おまえらで適当に飲んどけ。おれぁ先に帰っとく、すぐ戻れよ。ここはもうナミの村なんだからよ」
それだけ言って、アーロンは数人を引き連れて歩き出した。
去りゆく巨躯の背中に向かって、ナミは絞り出すような叫びをぶつける。
「待って! 本当に終わりなの!? もう二度とわたしたちに関わらないのよね!?」
「ああ約束に誓ってな。もっとも、食事にでも招かれりゃその限りじゃねえがな。シャハハハ」
振り返る事無くひらひらと手を振り、姿は見えなくなった。
本当に、本当に終わったのだとナミは思った。身体がふうわりとどこかへ浮き上がっていく気がしたのに、膝をつく。頭が熱い。目から涙がとめどなく溢れて止まらない。
(ノジコにも、ベルメールさんにも報告しないと)
八年間、この村を無残に蹂躙し、己の人生を狂わせ続けた宿敵であるはずの男に、礼さえ言いそうになった自分がいた。
駆け寄ってきたゲンゾウが、そして村人たちが、涙を流しながらナミの身体を固く抱きしめる。待ち望んだ解放が、今、この場所に訪れたのだ。
その夜、ココヤシ村は過酷な歴史の中で最も甘く、賑やかなお祭り騒ぎの夜を迎えた。酒を飲み、圧政に苦しみながらも蓄えた上等な肉を焼き、果実を齧った。
無限に続くと思われた地獄はこの日で終わりなのだ。
ナミは村を救った英雄となった。
アーロンの手先になり下がったと冷遇していた村人たちはみな、涙を流して彼女に深く頭を下げ、謝罪した。それらすべては、溢れんばかりの酒とご馳走の山によって、洗い流されていった。
ナミはしばらくすると宴の喧騒からそっと抜け出し、寒風が吹く中、ナミはベルメールの墓を訪ねた。オレンジをお供えし、座り込んで星空を見上げながらしばらく話した。
この八年間のこと、村の自由を取り戻したこと──そして最後に、モアというどこか浮世離れした変な男を拾ったことも。
やがて立ち上がり、潮風に髪をなびかせながら自宅へと戻る。
暖炉の灯る部屋では、ノジコが一人、グラスに入ったウィスキーを傾けていた。
「実感、ある?」
仕方のない話だ。長年続いてきた搾取は日常で、かつての平穏はもはや非日常に感じるほど遠くにあったのだから。
「……ほんとはあんまり。モアは?」
「近くの灯台。おもしろいわね、彼。なんでも珍しがるの」
ナミは小さく微笑むと、オレンジジュースの入った瓶を手に取り、家を出て灯台へと向かった。
かつて船たちの道標だった灯台はアーロンの海上封鎖もあって手入れされておらず、その役割は失われて久しい。
長い階段を登ると、彼は海の方を眺めていた。すぐ下は切り立った断崖で、見渡す限りの世界が広がっている。
冷たい月が浮かび、静かな波間には銀色の月光が破片のように砕け散っていた。振り向けば、ココヤシ村のあちこちの明かりが、まるで闇夜に咲く小さなオレンジ色の花のように温かく揺れている。
「いい景色でしょ」
ぽん、と心地よい音を立てて瓶の封を開けて差し出す。
「こんな高い所はじめてだ」
一口やって、酸味に驚く。
「これ、前食べたことがある」
「そ、オレンジを絞ったやつ。おいしい?」
「酸っぱいけど、おいしい」
「おいしいを覚えたか。わたしの教育の賜物ね」
わたしにも、と手を向けて瓶を取り、一口飲む。喉を突く濃厚な酸味と甘み。懐かしい、思い出の味だ。ちっとも変わらない。
大好きな故郷の味だった。
「村の方に行かなくていいの? おいしいものが沢山あるわよ」
「ノジコと行った。まだちょっと難しいんだ、たくさんの人と話すの。それですぐ帰った。けど嬉しそうな人をいっぱい見れて良かった」
「長かったからね、苦しい時期が。わたしも嬉しいわ」
自然と笑みがこぼれて気づいた。モアが笑っている所を見た事が無い。
「人はね、嬉しい時とか、楽しい時に笑うの……あとはまあ、誰かを元気付けたり安心させたい時とかね……ちょっと笑ってみてよ」
「え、あー……出来てる?」
ニッ、と笑みを浮かべるナミを手本に口元を動かす。お世辞にも笑顔とは言えない。
「あはは、もうちょいね。まあ、そのうち自然にできるようになるわよ」
「難しい」
そのあとはモアが村の人達、ゲンゾウとどんな世間話をしたとか、そんな他愛のない話で夜が過ぎていった。
この日からココヤシ村はナミのものとなり、ナミはアーロン一味から除籍された。
それは本当の事だった。
ただ、本当にそれだけだった。
:::
「それじゃあ行ってくる!」
朝靄が晴れかけた桟橋で、小さな漁船に乗った漁師の男が大きく手を振った。もう、見張りの魚人はいない。これからは誰の許可も得ず、自由に島を行き来できるのだ。
それは八年の長きにわたる呪縛から解き放たれた、真の自由を告げる記念すべき最初の出航だった。
ナミやゲンゾウをはじめ、多くの村人たちが希望に満ちた顔で見送りに来ていた。大げさでも何でもなく、この一隻の船出こそがココヤシ村の解放の象徴だった。
朝陽にきらめく海へ進む。漁師が振り返り、もう一度村に手振る。
そして気付けば空に浮かんでいた。村を見渡せる高さで止まり、バラバラになった船と共に自由落下が始まる。
その最中に見た。自身を空中へと撥ね飛ばしたもの。それは、海面を割って突如として現れた、アーロン一味が使役する巨大な牛の海獣・モームだった。
木っ端微塵になった船が海面に叩きつけられる轟音と共に、村では悲鳴やどよめきが広がる。
いったいなぜ、アーロンはココヤシ村を解放したのではなかったのか。
我に返った勇気ある数人の村人が浮き輪を抱えて冬の冷たい海へ飛び込み、海面で気を失っている漁師を必死に助け出す。
重たい波を立ててモームが桟橋にすり寄ってきた。その巨大な頭の上に立っていたのは、アーロン一味、幹部のチュウ。彼はパニックに陥り怯える村人たちを、心の底から愉快そうにニヤニヤと見下ろしていた。
「きさまいったいどういうつもりだ! アーロンは約束を違えたのか!!」
ゲンゾウの怒声を気にも留めず、チュウは鬱陶しそうに小指で耳をほじった。
「バカ言ってんじゃねえ! このあたりの海はアーロン一味のもんだ、勝手に侵入しやがって……次はぶち殺すぞ下等な人間ども!」
ナミがぽつりとこぼす。
「なに、を言って……」
「おうナミちょうどいい、おまえんとこのバカどもにちゃんと言っとけ。自由になったのはココヤシ村だけで、海は別だ。当然、泳ぐ魚もおまえらのもんじゃねえ。桟橋はココヤシ村だからってそこから勝手に釣ってみろ、そりゃアーロン一味の資産を盗んだも同然だ。殺されても文句は言えねえぞ」
あたまが理解を拒み始めた。ひどい目眩に、平衡感覚が崩れてゆくよう。
「それとココヤシ村はナミのもんだが、それ以外のコノミ諸島は変わらずアーロン一味のもんだ。村から一歩でも出ておれたちの土地に足を踏み入れみろ、二度とここには戻れねえと思え」
村の女が叫ぶ。
「ちょっと待ってよ! それってわたしたちを閉じ込めるってこと!? 魚も交易もダメって、それじゃわたしたちはどうやって生きていけばいいのよ!」
「ああ、ここに住むやつらはもう一歩も外に出られねえ! 船はおまえらの資産だから、停泊は特別に許可してやるよ。だが心配するな」
チュウは絶望のどん底に突き落とされた村人たちをねっとりと見回し、最後にナミへと視線を向けた。
「ここはナミの村だ。ナミが何とかするだろ」
その瞬間、村民の視線が一斉にナミへと突き刺さった。すがるような、あるいは困惑に満ちた無数の眼差し。
ナミは青白い顔のまま凍りつき、まばたきすらできなかった。呼吸の仕方すら忘れてしまったかのように。
「まあ、またアーロンさんの世話になりてぇってんなら、いつでも話は聞いてくれるだろうぜ。だからナミだけは陸地なら村を出ていいってよ、アーロンさんは海のように心が広いからな。ああそれと……」
せせら笑いで言った。
「一億ベリーありがとよ」
それだけ言い残すとチュウは海に消えた。
ムーモと泳ぎながら、魚人は絶望する人間の顔がおかしくて、村から一歩も出られないと告げたのがスカッとして、興奮で火照った身体をなんとなく冬の海で冷ましたくて、ひと泳ぎしたくなって。
沖に出た。