先輩から連絡があったのは、高校二年のゴールデンウィークが明けた頃のことだった。
先輩は去年まで僕と同じ高校に通っていた。僕が一年の時、先輩が三年。同じサッカー部の先輩後輩の関係だった。
先輩は普段は無口で近寄りがたい雰囲気を醸し出していたから、後輩たちと仲良くしている姿を見かけたことはない。同学年の部員と話したときも、「あの先輩、何か怖いんだよな」、「そうそう、分かる」。そんな意見ばかりだった。
だけど、僕はいつもそんな話を聞くたびに不思議に思っていた。先輩は話しかければ普通に返してくれたし、熱心に技術指導もしてくれた。何となく馬が合ったのだろう。
先輩も同じように感じてくれていたようで、何かにつけて僕の面倒を見てくれた。一年の秋に僕がメンバー入りしたのも、先輩の口添えがあったとかなかったとか。
そんな先輩だったが、卒業後は連絡を取る機会もなく、疎遠になったと思っていた。そんな時に来た、食事の誘い。僕は迷わず快諾した。
夜の19時、約束の時間に僕は約束の居酒屋に到着した。学生が待ち合わせに使うにしてはやや高そうな店に見えたが、先輩の指定なら仕方がない。店員に案内されて、個室へと足を踏み入れる。
個室の中は意外に広い、畳の和室だった。正面に座っていた先輩が僕を見て笑顔で手を振っている。
「よう、小森。久しぶりだな」
「お久しぶりです、先輩」
そう言いながら、僕はテーブルを挟んで向かい側の座布団に腰を下ろした。
「どうだ、最近のサッカー部は」
「ぼちぼちですね。メンバーに入って、少しずつですけど試合にも出れるようになりました」
「おう、そりゃよかった」
先輩は嬉しそうに手元の飲み物をあおった。色的にウーロン茶だと思う。……多分。
先輩はまだ大学一年生でまだ二十歳にはなっていない。その顔は少しだけ赤い気もしたが、店の照明のせいだと思いたい。
先輩はメニュー表を僕の方に差し出してきた。
「何飲む? 食事は適当に頼もうと思うけど」
「そうですね……」
僕はメニュー表に目を落としながらも、気が気でなかった。
なぜなら、個室にいたのは僕と先輩の二人だけじゃなかったからだ。
その女性は、先輩の隣に正座で座っていた。歳は先輩と同じくらい……だと思う。女性の年齢にはあまり自信がない。
とにかく、とびきり美人だ。黒髪ショートカットで、パッチリとした二重まぶた。半袖Tシャツにホットパンツというラフな格好で、むき出しの手足が眩しい。
そして何より、その胸だ。Tシャツを押し上げるそのふくらみは、今までに見たことがない大きさだ。コミュ障のせいで顔を直視できないことも相まって、自然と視線が落ちて、その巨乳へと吸い込まれてしまう。
どう切り出すべきか迷っていた僕を助けるように、ちょうど店員が注文を取りにやってきた。
「いかがいたしますか?」
「えっと……ウーロン茶で」
店員が下がっていく。
僕はついに覚悟を決めて先輩に向き直った。いつまでも目をそらし続けるわけにはいかない。目をそらした先には巨乳があるのだから、なおさらだ。
「先輩、そちらの方は……?」
「ああ、こいつのことは気にしなくていいぞ」
先輩はそう言うが、それで納得できるほど僕は単純ではない。
「気にしなくていいって言われても、気になっちゃいますよ」
「それもそうか。まあ、後でちゃんと説明するよ」
そのタイミングで、料理がやってきた。僕たちは一時会話を中断する。
先輩が頼んでくれた料理はかなりの品数だった。鶏のから揚げにポテトフライ、焼き鳥に餃子。高校生男子が好きなもののオンパレードだ。
「今日は俺のおごりだ。好きなだけ食べてくれ」
「ありがとうございます!」
運動部の上下関係を経験済みの僕は、こういうときは素直に甘えたほうがいいことをよく知っていた。今日は速めに切り上げてきたとはいえサッカー部の練習後だ。腹はバッチリ空いている。
僕は目の前のごちそうにがっついた。
僕と先輩は、他愛もない話をしながら食事を楽しんだ。
やがてテーブルの上の皿のほとんどが空になり、店員が皿を下げていく。テーブルの上が綺麗に片付き、二人分のウーロン茶のグラスだけが残された。
先輩はテーブルに肘をつき、僕を見てニヤリと笑った。
「じゃあ、こいつ――藍について、知りたいんだったな?」
先輩はそう言いながら、藍と呼ばれた女性を指で示した。
「は、はい」
僕は緊張の面持ちで頷いた。
食事中、藍さんは甲斐甲斐しく動いていた。皿が空になると率先してテーブルの脇に片付け、僕のグラスが空になる直前には必ず、「お飲み物はどうしますか」と聞いてくれる。常に笑顔で、僕と先輩の会話を楽しそうに聞いていた。
お陰で僕は食事と先輩との会話に集中できたわけだが、藍さんは一口も食事に手を付けない。僕は気になって食事を勧めてみたのだが、きっぱりと固辞されてしまった。先輩にも「余計なことは言わなくていい」と怒られてしまった。
僕は若干の居心地の悪さを感じつつ、すぐに別の話に切り替えて食事に集中したのだった。
おそらくは、大学に入ってからできた彼女さんなのだろう。しかし、そうだとして僕との食事に連れてきた意味は? このぞんざいな扱いは? 疑問は尽きない。
先輩は困った表情の僕を見て、笑みを浮かべながら言った。
「こいつは、俺の奴隷なんだ」
僕は、先輩の言っている意味が分からなかった。聞き間違いかと思って聞き直す。
「彼女さんじゃなくて、ですか?」
「ああ、奴隷。分かるか? ご主人様の言うことならなんでも聞く、あの奴隷だ」
僕は信じられない想いで藍さんに視線を送った。藍さんは、変わらず微笑んでいる。どう見ても、無理やり言うことを聞かされているといった様子はない。
正直に言って、高校時代の先輩には女っ気は一切なかった。実際、彼女はいなかったはずだ。それが急にこんな美人を連れてきて、奴隷だなんて。
僕はどうにか自分を納得させようと頭を回した。
そうだ、先輩は奴隷と言っているが、召使いとかそういう類なんだろう。どうりで、これまで細々した雑用みたいなことをやっているわけだ。
僕は先輩に尋ねた。
「奴隷と言っても、あれですよね。召使いとか、そういう細かいことをやるお手伝いさんみたいな」
「いや? お前が想像しているような奴隷だよ。こいつ、ここで服を脱げって言ったら脱ぐぜ」
僕は絶句した。先輩は何を言っているんだ。そんな物言いをしては、さすがに藍さんも怒るはずだ。
そう思って藍さんを見ると、藍さんはTシャツをたくし上げようとしていた。キュッとしまったお腹とおへそが丸見えだ。
「ちょ、ちょっと待った」
僕は慌てて藍さんを止めた。藍さんは不思議そうな表情で僕を見ている。
それを見て、先輩はガハハと豪快に笑った。
「確かに、人様の店でストリップはまずいよな!」
「そういう問題ではなくてですね……」
僕は冷や汗をかきながら先輩をなだめつつ、再び藍さんに視線を送った。
藍さんは、間違いなく僕が人生で出会った中で一番の美人だ。クラスメートはもちろん、テレビで見た芸能人にも、こんな美人はいなかった。
それに、ものすごく気が利く上に余計な言動も一切ない。きっと頭もすごく良いのだと思う。
さらに、びっくりするほどの巨乳だ。それでいてウエストは細い。今までずっと座ったままだけど、立ち上がったらものすごくスタイルも良いはずだ。
そんな美女が先輩の奴隷とは、にわかには信じがたい。こう言っては何だが、先輩は決してイケメンではない。ブサイクでもないが、サッカーが上手いフツメンである。
困り果てた表情の僕を見て、先輩は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「まだ疑ってるな。だったら……」
先輩はそう言いながら、藍さんのことをまっすぐに指差した。
「こいつのこと、今日一晩貸してやるよ」
「え……」
さらなる爆弾発言に、僕はまたしても絶句した。そんな僕に構わず、先輩はどんどん話を進めていく。
「藍、今日は小森の家に行け。その間は、小森をご主人様だと思って接するんだ」
「はい、承知しました」
「ちょ、ちょっと待ってください」
僕は何とか言葉を絞り出した。分かりやすく頭を抱えている僕を見て、先輩は首をかしげた。
「なんだ、嫌なのか?」
そう問われると困ってしまう。
「い……やじゃ、ないですけど……」
「だったら、いいじゃねえか」
先輩は軽く笑い飛ばす。でも、ここで簡単に受け入れたらなにか、バチが当たりそうな気がする。
「いきなりそんなこと言われても、僕は実家暮らしですよ? 急に誰かを呼ぶなんて」
「そうか。難しいか?」
そう聞かれて僕は、思い出したくない事実を思い出さないわけにはいかなかった。
「た、たまたま、両親は二人とも海外出張中で、明後日まで帰ってこないですけど」
僕の両親は、どちらもバリバリの仕事人間だった。国内・海外問わず全国を飛び回る毎日で、家を空けることも少なくない。そんな両親が揃ってアメリカに出発したのが、ちょうど昨日のことだった。
「なら、むしろ今日しかないってことか。運がよかったな!」
「そ、そうなんですかね……?」
僕は、逃げ場がなくなっていくのをひしひしと感じていた。先輩は嬉しそうに僕の肩を叩き、藍さんは僕に向かって丁寧に三つ指をつき、頭を下げている。
「じゃあ今日一日、藍のことをよろしくな! 好きなように命令して構わないからな」
「は、はい……」
僕はもう苦い表情で頷くしかなかった。