「ほら、ちゃんとご挨拶できるかな?」
夢主の覚えている一番古い記憶は母親に促され、まだおぼつかない足取りで隣家の敷居をまたいだその日のことだ。
出迎えたのは整った身なりをした大人びた雰囲気の少年。当時小学生だった諸伏高明が、越してきた新しい隣人に対し深々と丁寧な礼を返した。
「諸伏高明です。どうぞよろしくお願いいたします」
その涼やかな声、意志の強さを感じさせる眉と切れ長の瞳を前に、まだわずか1才の小さな胸を未だかつてない鮮烈な衝撃が貫いた。夢主は、ぎゅっと握っていた母親の手を離すと、よちよちと彼に歩み寄る。
そして、戸惑う高明の膝にしがみつき、母が大好きだといつも笑ってくれる、自慢の柔らかくぷくぷくとした自分の頬を彼のズボンの膝辺りにぴったりと押しつけた。
「………?いかがなさいましたか?」
高明が怪訝そうに視線を落とした、その時
「…………ちゅき(好き)」
「え……しゃべった…?」
母親が驚きのあまり声を上げ、場に静かな衝撃が走る。
それは夢主が人生で初めて口にした、意味のある言葉だった。舌足らずな響きの中に確かな熱量を持って、目の前の年上の少年に人生最初の告白を捧げたのだ。
高明は一瞬ぱちくりと目を瞬かせた。
小学生にしてはあまりに落ち着きすぎている彼も、流石に1才の少女からの直球な愛の告白には驚いたようだ。高明はすぐに柔らかな微笑を浮かべ、かがみ込んで夢主と目線を合わせた。
「…………そうですか。ありがとうございます」
高明の細く綺麗な指先が、夢主の頭をなでた。あやすように、けれど一人の人間として敬意を払うようなその穏やかで繊細な手のひらの温もりに、夢主は嬉しくなって更に深く高明の膝に顔を埋めた。
「………ちゅき。たかあき、ちゅき」
「ええ、僕もあなたのことが気に入りましたよ………夢主さん」
これが夢主と高明との最初の邂逅であった。
高明が少しだけ照れくさそうに、けれど慈しむように頬を指先でつついたその瞬間、夢主の世界は瞬き、鮮やかな時間が動き出したのだ。
―――
引っ越しの日の衝撃的な告白から数年。夢主が高明の背中を追いかける光景は町に溶け込み、その関係は微笑ましい日常の一部となっていった。
「景光、今帰りか?遊ぶなら、一度家に帰って荷物を置かないと駄目だ。ほら、夢主さんも荷物を持ちなさい」
「あ!兄さん!…ごめんなさい……つい…」
「高明おにいちゃん、好き!」
夕暮れ時の通学路。中学2年生になり、ますます端整な顔立ちに磨きがかかった高明の隣に、ランドセルを背負いなおした夢主が跳ねるように駆け寄る。高明は歩幅を合わせながら、以前と変わらぬ穏やかな微笑みを返した。
「ありがとうございます、夢主さん」
「夢主ちゃんはほんとに兄さんのこと好きだよね」
夢主と同学年の景光がしみじみと呟いた。景光も自慢の兄を慕う夢主に悪い気はしなかった。3人並んで歩く姿に、近所の人が「今日も仲良しだね」と声を掛けるのに笑顔で挨拶を返す。
「寄り道してよかったぁ。会えてうれしいなぁ」
「夢主さん…寄り道はいけないことです」
「僕たち注意されたんだよ?分かってる?」
「でも待ってないと会えない日もあるもん」
夢主はシュンと萎れ、不満げな顔を景光に向けた。
「なんで私だけお隣に帰らないといけないの?」
「えぇ…?…何で?…お隣さんだからだよ?」
「ふふっ…そうです。お隣さんですからねぇ…不思議ですか?」
高明が歩きながら夢主の頭を軽く撫でたことで少し表情が和らいだが、それでもなお不満げに続ける。
「私、夜も高明お兄ちゃんと遊びたい…1人は寂しい…」
「夜は寝てるよ……それに、兄さんはもうすぐ林間学校があるから…その間は僕だって兄さんと離れて…1人だよ…」
じわりと忘れていた不安が景光の胸をよぎって苦い顔になる。夢主がその顔を不思議そうに覗き込んだ。
「りんかんがっこう?」
「…そうです、伝えていませんでしたね。2泊3日で家を離れます。」
「…高明おにいちゃんまたいなくなっちゃうの?」
ぴたりと立ち止まった夢主はじわりとその瞳に涙をにじませた。
「......しゅ…修学旅行だけっ…じゃないの?」
「え……わぁ!?夢主ちゃん、大丈夫!すぐだよ!兄さんすぐ帰ってくるよ」
景光がわたわたと慌てて慰める。高明の事となると夢主はなにかと過剰反応しがちだ。
「絶対?すぐ?3日ってすぐじゃないよ?」
「大げさだよ…夢主ちゃん…前の修学旅行の時と違ってもう僕らも小学生なんだから、泣いてちゃ駄目だよ…」
景光は慰めながらも、夢主がこぼれ落ちる涙を拭おうともせずぽろぽろ泣いているのを見ていると段々不安が強くなってきた…。本当は高明が数日間いなくなるのは景光だって寂しい。
ついつい不安が顔に出てしまって、目の合った高明が困ったように眉を下げるのが景光の視界に映った。景光の目にもじわりと涙が滲む
(ダメだ…困らせたく無いのに…僕は小学生のお兄さんだ…でも…そう、夢主ちゃんの言うとおり…1人だと寂しい…)
2人の頭をそっと撫でた高明が穏やかな声を出す。
「………大丈夫ですよ。そんなに泣かないでください…ほら、景光……お前もそんな顔をするな」
そう言うと、静かに目を細めふっと柔らかく微笑み、2人を見渡した。
「景光、僕がいない間2人でお泊まり会をするといい」
「お泊まり会………?」
「一人でなければ寂しくないだろ?僕も安心できる」
「…楽しそう。うん、いいよ!お泊まり会しよう」
景光がパッと顔を輝かせて明るく返事をすると、夢主もハッとしたように涙を止め、きらきらとした瞳で景光の方を振り返った。
「………お泊まり会って?私も高明おにいちゃんみたいにお泊まりするの?」
「はい、そうです。父さんと母さんには僕からお願いをします」
「夢主ちゃんのお父さんとお母さんにもね?僕もお願いしに行くよ」
夢主の顔がみるみる明るくなる。
「ヤッター!お泊まり会楽しみ!」
「ええ、景光。夢主さんを頼んだよ」
「わかった!」
確かに…
確かに、そんなやり取りがあった。
――――
そして、林間学校当日。
車窓を流れる景色に目を向けながら、高明はあの日の弟たちとのやり取りを思い出していた。あの後、両家の両親は快くお泊まり会の提案を承諾してくれた。咄嗟の思いつきだったが、2人があまりにも喜んでいたのでぬか喜びに終わらなくて良かった。
(また泣かせてしまうとは思わなかったな…2人ともお泊まり会を楽しんでいてくれると良いけれど…)
静かに思考を巡らせていると、やがてバスは今回の宿泊施設へと到着した。 生徒たちが口々に声を弾ませ次々とバスを降りていく。高明も荷物をまとめ、バスを降りた。
直後
「お~い!高明おに~ちゃ~ん!」
「…………は?夢主さ…ん?」
場違いであまりに斜め上の光景が視界に飛び込んできた
キャリーケースを引いた夢主が宿泊施設の玄関前で笑顔で手を振っている。
夢主はざわつく生徒の合間を縫って高明に駆け寄るとニコニコと見上げてくる。
「来たよ!お泊まり会!」
「お泊まり会……」
「楽しみ!高明おにいちゃんみたいに、私もお泊まりするんだよね?」
「なぁ、この子知り合い?」
「えー?ついて来ちゃったの?大丈夫?」
「………大丈夫ではないです。……担任を呼んでください」
周りのクラスメイトが心配して声をかけてくるなか、高明は脱力して夢主の前にしゃがみ込む。
「………夢主さん…あなたに言ったお泊まり会とは……景光と一緒に我が家でというつもりで…どうやってここに…あぁ…いえ、いいです……家に連絡します。きちんとご家族に説明出来ますね?」
「うん…何か間違った?きちんと1人で来られたよ?」
「……………無事にたどり着けて何よりです…」
夢主には昔から、こういった無限の行動力とちょっと人と理解がずれている所が多々あった。もう少し細かく説明すべきだった。
(後だ…後できちんと叱ろう……まずは連絡を…)
そう思いながら高明は教師に許可を取り、自宅へ連絡すべく施設の受話器を手にした。
プルルル
プルルル……ガチャ
「母さん?高明です。今予定の宿泊先に着いたのですが、夢主さんが居まして………」
『夢主ちゃんがそっちにいるの!?』
「はい。お泊まり会の内容を勘違いしていたようで…」
『ちょっと待ってね………夢主ちゃん見つかったって!高明の宿泊先だそうです!』
電話の向こうでガヤガヤと複数の大人の慌ただしい声が入り交じっている。やはり大きな騒ぎになっていたようだ。
『………あぁ……よかった』
「通報をしたんですね。随分人が多いようですが…」
『…大変だったの。朝から夢主ちゃんがいなくなって警察に捜索願いを出して皆で付近を探したり色々…で、そんなバタバタな中、家に刃物を持った強盗が入ってきて……』
「………強盗ですか?」
思いも寄らない報告に虚を突かれ身体が強張る。
『でも大丈夫だったの。夢主ちゃんの件で、今日お泊まり予定だった我が家にも警察が沢山待機していてね?刃物を出したその場ですぐ捕まったから。……ふふ……ある意味、夢主ちゃんの行動のおかげで我が家は最悪の事態を免れて助かっちゃったのかな?』
「それは……塞翁が馬というわけですね……景光は....?」
『泣いてたけれど、今は警察の方々をキラキラした目で見てる。頼もしかったもの....気持ちは分かるわ』
「そうですか…本当に…何事もなくて良かったです」
強張った肩の力が安堵で抜けていく。
『…そうねぇ....あ....高明?今ね?夢主ちゃんのご両親が迎えに行くって.....様子はどう?引率の先生に代わってもらえる?』
「はい。迎えに来てあげてください。…夢主さんは今はクラスの皆で相手をしています…分かりました。担任に代わります…では……」
近くに控えていた引率の教師に電話を引き継ぐと、高明は深くため息をついた。
(もしかしたら…これは紙一重だったのかもしれない…)
自分が留守の間に家族が傷つけられる『もしも』の未来を想像した。心臓がバクバクと煩い。
(………あまり怒るに怒れなくなってしまったな………)
高明は複雑な心境で
キャラキャラと夢主が笑う声のする部屋へ戻った。