時刻は深夜、酔客もそろそろ帰り始めるような時間、大和敢助は飲み屋街に足を運んでいた。
その日、敢助は甲斐玄人に居酒屋に呼び出されていたからだ。のれんをあげて中に入ると騒がしい店内の奥で甲斐が手を振っているのが目に入る。
「甲斐さん、どうしたんだ? 急に呼び出すなんて…俺ぁ、説教されるようなことはしてねぇ筈だが……」
「おう、すまねぇな敢助!ちょっと俺の世間話に付き合っちゃくれねぇか?」
「世間話?……こんな時間に呼び出しといて?」
胡散臭そうに眉をひそめる敢助に対し、甲斐は特に気にした様子もなく人当たりの良い笑顔で敢助を出迎える。そして困ったような顔を作ると肩を組んできた。
「夢主の件でちょっとな。さっきまで親父さんの愚痴を聞いてたんだよ」
「あぁ…………例の舟久保鉄砲店の強盗事件」
敢助の脳裏にあの大量のローションとコンドームが散乱した地獄絵図のような現場と、後日呼び出されて取調室でカツ丼を注文した夢主の満足そうな顔。そしてあれ以来、署内でも裏でひそひそと噂話をされている諸伏高明の顔が過る。
「あれがなぁ……あんな物を娘が大量に用意してたって聞かされたらなぁ…『うちの子は素直だから、きっと誰かから良くない入れ知恵をされたんだ』って毎晩電話してくるぐらいで……まぁ入れ入れ」
甲斐に肩を抱かれてそのまま個室に引きずり込まれる。先に注文を済ませていたようで、敢助の到着に合わせていくつかのつまみとビールジョッキが運ばれてきた。それを受け取りピシャッとふすまを閉めたところで、甲斐の笑顔が消えた。どこか影の落ちた疲れた目で敢助を見つめる。
「警察なんて信用できない、くそ食らえだってな。いつもと違う店で飲んだくれたらしくてなぁ。小さい店だったらしくてよ。…そこで一緒になったヤツと意気投合したらしいんだ」
「警察批判で意気投合だぁ?穏やかじゃねぇ…何で甲斐さんにその話を?」
敢助は腕を組んだ。面白い話ではない。それは甲斐も同じだろう。
「それがなぁ…親父さん、その時の話の流れでその一緒になったヤツにな?…『出所の分からない拳銃が欲しい』ってぽろっとこぼしたらしいんだよ」
「………出所の分からない拳銃…」
敢助の声が低く沈む。いよいよ穏やかではない話だ。
「いや、親父さんにしてみりゃ酒の勢いの冗談だったらしい。冗談だ。見逃してやってくれ」
「………本当に見逃していいのか?」
冗談で済まされる話ではない。夢主の父親は猟銃免許を持っている。不用意に、ましてや現役の警察官に話すような内容ではない筈だ。一体なんの話をされているのか。じっと目の前の甲斐を見つめる。酔っている様子はない。敢助の視線を受け、甲斐が核心へと近づく。
「そこじゃねぇんだよ。本題は」
「………本題?」
「とにかく、出所の分かんねぇ拳銃が欲しいっていったんだよ。親父さんは。そしたらな?一緒にいた酔った男が『啄木鳥にいやぁ良いんだよ』って…いったらしいんだ」
「啄木鳥……?」
意味が分からない。何かの符号だろうか。
敢助の眉間に皺が寄る。
「あぁ……『サツのお墨付きで安全な拳銃が手に入る。娘を守る正義のために使うんならなおさらこれ以上はねえいい話だろ?決心が出来たら、俺がXとの仲介してやるから金を用意して連絡しろ』ってな……そういわれたらしい」
その言葉に敢助の空気が一変した。
「サツのお墨付き」――それは警察の関与、内部からの流出を暗に匂わせる言葉だった。
「夢主の親父さんはその場で咄嗟に話を合わせて連絡先もらって、署でなく俺に相談してきたって訳だ。…信用できるヤツ以外話すなって…自分は怪しまれねぇようにもう少し愚痴って回って他に接触してくる人間がいないか探るってよぉ…」
甲斐は手に持った泡の消えたぬるいジョッキをテーブルの隅に寄せると、腕を組み、頭をガシガシとかいてから敢助の目をじっと見つめ返した。
「敢助…お前の親友が乱射した拳銃…警察支給のもんでもなく、出所がわかんねぇんだったな?」
敢助は息をのんだ。失われた親友の顔と、手にしていた出所不明の拳銃、直前まで手にしていたはずの消えた携帯、竹田のオヤジの発砲判断、今まで点のままであったはずの不吉な符号が一気に一本の線で繋がっていく感覚が脳を駆け抜ける。
「あぁ……甲斐さん。こりゃぁ……」
敢助は低く呟き、その瞳に猛烈な怒りと警戒の火を宿した。甲斐もまたその目を見て重々しく頷く。
「でかい事件になりそうだなぁ……」
静まりかえった居酒屋の個室で
思いがけず舞い込んだ巨大な陰謀の足がかりが共有された。
協力者の活躍もあり、事件はそう時間もかからないうちに大量の警察関係者の逮捕をもって解決した。
――
仕事の合間、泊まり込みで取りかかっていた書類の目途がある程度ついた所で、高明はふと気がついた。
(最近………夢主さんと会っていない)
高明も連絡頻度が減っているのは少し前から自覚していた。しかし舟久保鉄砲店への強盗事件と、それに端を発して発覚したX事件、『啄木鳥会』なる竹田班警察グループによる押収拳銃の大規模な横流し事件、及びその連鎖捜査で正に手忙脚乱、息つく暇もない程に忙殺されており、ゆっくりとした時間が作れぬまま今日まで来てしまっていた。合間に食事に誘うことはしていたのだが、こちらも断られることが続いていた。
携帯を開けば、また夢主の丁寧な断りの言葉が並んだ返信が増えている。その画面をゆっくりと指先で撫でながら高明は思案した。夢主との長い付き合いの中でここまで会えず、他愛のないメールの一つも送ってこない期間などあったことはなく、小さな棘の刺さったような妙な据わりの悪さを覚え、あらためて一つ一つ、メールを検分する。
たまたま時間が合わなかったにしては妙だった。断りの理由、返信までの時間、文面。雑談がなくなり、なにより、向こうから会おうと提案しているメールが一切ない。以前ならば、断る際は別日の提案や直近の予定が添えられていたが、それもなくなっている。
(避けられている…?何か…良くないことが起こっている予感がする)
胸騒ぎに耐えかねた高明はその場で夢主の番号を押した。
プルルル
プルルル
プルルル
長いコール音が続く
プルルル
がちゃ
『はい……夢主です』
「高明です。久しぶりですね……今、話をすることは出来ますか?」
『あの…ちょっと今タイミングが悪くて……後でメール入れておいて貰えますか?』
思わず携帯を持つ手にグッと力が入った。高明に関する事柄を夢主が後回しにするなどという対応を取ることは過去になかったからだ。
「……いまどちらにいらっしゃいますか?」
『自宅ですけど…すみません。パパが呼んでるので…』
「夢主さん。今週末、時間を作ってください。必ず」
『週末ですか……でも』
言いよどむ夢主に断る隙を与えないように畳み掛ける。
「空けてください。何時でもいい。……話し合いをしましょう。景光も同席で」
『え…あの……はい。分かりました……』
「必ず、です。…時間については後でメールを送ってください。…では」
約束を半ば無理矢理に取り付け、通話を切った。
息を吐き出す己の指先が微かに震えていた。その事に気付きながらも暗転した画面を見つめたまま、高明はしばしその場で動けずにいた。
――
約束の週末、夢主は時間通りに諸伏家のインターホンを鳴らした。いつになく沈んだ様子に、出迎えた景光が戸惑うようにリビングに連れてくる。久々に会った高明には、少し夢主がやつれているようにも感じられた。
「夢主さん、座ってください。……単刀直入に言います。近頃の貴方は私を避けている。……それは何故ですか?」
「私……今は高明お兄ちゃんと、距離を置きたいんです……」
紅茶を出され、ソファに座った夢主はそう絞り出すように口にした。膝の上で拳を握りしめ、大きな瞳からポロポロと大粒の涙をこぼす。高明はその姿にとっさに反応することが出来なかった。
「それは……私と、別れたいと言うことですか?」
口にすると、内側が冷えていく感覚がした。思考の奥底からどろりとした暗い情動が這い上がって胸を渦巻く。
(何が…原因だ。…あれほど追いかけてきていた夢主さんから…彼女にとって、私は兄という安全な檻から出た時点で、ただの疎ましい男に成り下がったとでも…?いや…それにしてはタイミングがおかしい……何か…外的要因が……?)
横で景光が「え?……え!?夢主ちゃん?どうしたの!?なんで?」と狼狽えながら高明と夢主の顔を交互に確認している。
「……理由を、聞かせてください。…私に、至らぬ点があったのなら、いかようにも……」
高明は、声を抑えて問いかけた。彼女を失うという恐怖が、智将の理性を無残に削り取っていく。心変わりの理由が見えない。ただ彼女の次の言葉を、死刑宣告を待つ囚人のような心持ちで、待つ事しかできないでいた。
「私……今はもっとパパとの時間を作らないと…っ!そうしないと、きっと後悔するんです!」
「………お義父さまと?」
彼女が泣きじゃくりながら返す言葉を遮らないように短く促す。
「パパ……最近ずっと元気が無いんです…ぼーっと物思いにふけってるようなことも多くて……パパが深刻な病気かもしれないのに私、パパを放置して高明お兄ちゃんばっかり追いかけてエッチだ何だって浮かれて……絶対よくないと思うんです!そんなの親不孝です…とっても不道徳ですっ!」
「…………」
高明はゆっくりとソファの背もたれに上半身の体重を預けた。強張っていた全身の力が安堵で一気に抜けていく。
「やっぱりあの高明お兄ちゃんと一緒に呼び出された時、言おうと思って言い出せなかったんです!ママは事情を知ってるみたいだけど…普通に接してあげなさいって言うばっかりで…パパが泣くくらいの…言葉に詰まるほどの病気なんて……きっと命に関わる重大な物に違いないんです…!それなのに私……早く切り上げて欲しいだなんて言ったから……!」
「え!おじさんどこか身体を悪くしたの!?」
あの呼び出された日から彼女の中で燻っていた涙ぐましいほどの誤解が景光に伝染する。狼狽える景光に対して、高明はソファの背もたれから起き上がる気力も無いまま、不幸な誤解の連鎖を止めるべく最低限の情報の補足をした。
「いや……誤解だ、景光。お義父さまは…詳しくお体のことを何か聞いた訳では無いが…近頃色々と心労があって…あぁ…ただ夢主さんの言っている件に関しては、先日我々を呼び出された際、夢主さんがいつもの調子だったので…ショックを受けられ挙動不審になられただけのことだ…………」
「……いつもの………あぁうん…そういう…よかったよ?」
「どういうことですか?」
景光がすぐに納得したのに対し夢主が怪訝そうに顔をあげ、高明を見上げる。その涙に濡れた揺れる瞳にゆっくりと視線を合わせ慎重に言葉を選ぶ。
「そうですね…先日も説明しましたが…娘の急激な成長と……戻らない日々に…深い哀愁の気持ちを…いえ…寂しさ?…そう…寂しさを覚えた……といったところです……」
「パパ、寂しくなって泣いてただけってこと?……病気じゃ無くて?」
「………………はい……そう。…そうです」
無邪気で残酷な娘の成長という現実に打ちひしがれる男親の複雑な心境など夢主に理解させることは不可能だろうと諦めた高明は、その当たらずも遠からずな夢主の理解を肯定した。
「寂しい…そうなんですか?…部屋で考え込んでるのも?身体が悪いわけじゃ無いんだ……そうか…」
夢主の表情から思い詰めた悲壮さが消え、目に光が戻る。
「でも、どうして寂しいなんて…元気になって貰うにはどうしてあげたら良いのかなぁ…」
夢主は唸りながら腕を組んで考え込んでしまった。
親を想うその微笑ましい光景に緊張状態だった場の空気が安堵で緩んだ。別れ話から始まったこの話し合いも、平和的な着地点を見つけられそうだった。
景光はホッと胸をなで下ろすと、すっかり冷めてしまった紅茶を回収し新しく入れ直すために腰を上げ…
「あ!おっぱい触らせてあげれば良いんだ!」
盛大に足をもつれさせた。
持ち上げたトレイからカップが音を立てて床に滑り落ちる。
「「…………………は?」」
絶句し思わず反応がシンクロする兄弟を前に、夢主がどこか得意げに今し方思いついた持論を披露しはじめた。
「パパが寂しくて不安に思ってるなら、おっぱいを触らせてあげたら元気になるんじゃ無いかな?人間は赤ちゃんだった頃の記憶から、おっぱいを触ると安心と幸せのホルモンが出るようになってるって何かで聞いたことあります!」
晴れ晴れとした顔をして胸に両手を当て、うんうんと何やら頷きながら更に続ける。
「よくよく考えたら、身体が大きくなってからは抱っこしたり手をつないで歩いたり、そういった親子の物理的接触は減ってく一方でした。パパが寂しいって思ったのも納得です!そっかそっか!やっと分かりました!埋め合わせしないとですね!パパに『おっぱい触る?』って聞いてみよう。私帰ります!」
「断じていけません。座りなさい」
「……やめよう…夢主ちゃん…おじさん具合悪くしちゃうから…」
ぱっと立ち上がった夢主を高明が掠れた、未だかつて出したことのない喉を引き絞るような歪な音で引き留める横で、景光がソファの肘掛けに崩れ落ちた。まかり間違っても夢主をこのまま返すわけにはいかない。父親にとんでもない提案をして寿命を縮めるのみならず「諸伏のお家で相談したんだけど」などと枕詞を付けられ両家の間に取り返しの付かない溝を作る危険性もある。高明はゆっくり息を吐き出すと、慎重に言葉を選んだ。
「………まず、私と距離を置くというのは止めましょう。必要ありません」
「必要ない………?」
「あなたのその親を思う気持ちを、私も好ましく思っています。また家族の団欒の時間は、確かに大切だと私も思います。あなたが納得するだけ時間を取ってください。そんなことは我々の障害ではありません。ただ…願わくばその後でもいいので私との時間も作っていただけますか?」
「え…」
高明はゆっくりと夢主に目線を合わせると柔らかく微笑んだ。嫌われていなかったことには、正直ホッとしていた。婚約を解消するなど考えられないことだ。
「遅くなっても構いません…待ちます。私はあなたの婚約者なので…少しの時間でも、婚約者らしい交流を持ちたいと思っています」
「婚約者らしい交流…」
「はい、仕事の都合とはいえ連絡をなかなか取らなかったことで、貴方は1人でいろいろと良くないことを考えてしまったのでしょう。吾かつて終日食わず、終夜寝ねず、以て思う。益なし。学ぶに如かざるなり…。私は、貴方に寄り添いたいと考えています。これからは会うための時間の都合はつけますから、極端な結論に至る前に必ず、私に相談をしてください」
「でも……お仕事も忙しいのに……」
「…私がそうしたいのです。頼りになりませんか?」
「高明お兄ちゃん…嬉しい…さっそくパパに予定の確認を取りますね!」
「……お義父さまに……ですか?」
高明の背筋を嫌な予感が駆け抜けるよりも早く、夢主は携帯を滑るように操作していた。
プルル
プルル
ガチャ
「パパ?うん!夢主だけど…あのね?相談なんだけど…私ね?パパとの時間をもっと大事にしたいって高明お兄ちゃんに相談したんだ。うん、高明お兄ちゃんも親孝行はいいことだって言ってくれて…うん!ふふっ…そうだよ!私、パパの事が大好きだから!」
いたって問題のない、微笑ましい会話に肩の力を抜いた。先ほどの悪寒は一体何だったのか。神経が過敏になりすぎているのかも知れない。思えばずっと神経が張り詰めていた。
「うん、でね?高明お兄ちゃんが今後は時間の都合はつけるから、パパとゆっくり親子の時間を過ごした後に、会って婚約者らしい交流がしたいって言ってて……パパ…どうかな?」
ソファから起き上がった景光が、落ちたカップをそっと片付ける。小声で「丸く収まりそうで良かったね」と苦笑いを高明に向けるのに、目線で返事をする。
そう、すっかり油断をしていた。
「え?婚約者らしい交流の具体的な内容?うん…そうそう、電話とかもそうだけど…たぶんエッチのことじゃないかな?うん…うん…そう、パパと家族団欒するのが大事な事だって…だからじっくり時間とってもらった後のが良いんだって…え?…うん…そのほうが好ましいって、自分は少しの時間でもいいからって高明お兄ちゃんがね?…パパ?あれ…よく聞こえないな…パパ?」
電話口の向こうで「ひぅっ」っと息を飲み込み損ねた悲鳴が響き、ヒューヒューという引きつった息継ぎとともに何かが倒れる大きな音が続いた。
その音を聞きながら高明と景光はずるずると力なくソファに崩れ落ちた。
「パパ?…なんか雑音ばっかり…どうしたんだろう、また電波悪いのかなぁ…パパ?パパ?ダメだ、返事がないや」
夢主だけが事態を把握せず、携帯をコツコツと叩いたり振ってみたりしている。
「景光…隣の様子を見に行ってもらうことはできるか?」
「俺できないよ…どんな顔して入ったらいいのか分からないよ?まずインターホンでなんて言うの?」
「え?今なら『こんばんは』の時間じゃないかな?あ、携帯切れちゃった…私も様子見に行こうかな?パパやっぱり調子悪い?……もしかして倒れちゃった!?どうしよう!あ、ママに電話したらいいかな?…っと?高明お兄ちゃん?」
母親に電話をかけようとしている夢主の手を向かいから伸び上がって掴んで止めた高明が、夢主の両肩に手を置いてじっくり言い聞かせるように言葉を発する。
「…貴方…ご自分が何を言ったか理解していますか?……言葉の並びが最悪です」
「言葉の並びが最悪……?」
「…お義父さまの中で、私の印象が…家族団欒後の性行為を好む特殊性癖を持った人面獣心の無頼漢になったんですよ?………分かりませんか?」
「ねぇ…兄さん…コレ取り返せるの?」
景光が引きつった顔で呟いたその問いに対する答えを、高明は持ち合わせていなかった。