※この作品はR-18です。

諸伏高明の人生をめちゃくちゃにする女   作:yako

2 / 7
不穏な成長

―――

 

 

そんな日常に少し変化が訪れたのは夢主が高学年に上がった頃。それは公園で高明を待っていた夢主との帰宅時に起こった。

 

「いくら近所とはいえ、公園で1人きりで遊ぶのは感心しません。景光はどうしたんです」

「景光くんは今日は部活があって別々に帰ったんです」

「そうですか…帰宅時間がずれることが多くなりましたね…不審者情報もありますから出来るだけ1人になるのは避けなければいけませんよ?」

 

軽くたしなめるが、夢主は聞いているのかいないのか目が合わなかった。自分の足下を見ながら高明の横を跳ねるようにして歩いている。

 

「うん、高明お兄ちゃんと一緒に帰りたかったから待ってただけ」

「……それが良くないと言っているのは分かっていますか?」

 

呆れの上に不安と心配を乗せて目を細めた高明に、並んで歩いていた夢主がふいに立ち止まった。

 

「高明おにいちゃん、チュウしよう?」

 

いつもの帰り道、あまりに唐突な一言を、夢主はその澄んだ瞳で高明を見上げて言った。

その瞬間、高明の端正な眉がわずかに跳ね上がる。読書の邪魔をされた時ですらそんな露骨な反応はしない。夢主が放った一言が「動揺」として高明の内を走っている。

 

「………夢主さん。どこでそのような事を覚えたのですか?…このような往来で堂々と口にする話題ではありません。はしたないですよ」

 

高明は立ち止まり、諭すように静かな声を出した。すると夢主は高明に歩み寄り、その制服の裾をぎゅっと握りしめてもう一度、高明の耳元に繰り返した。

 

「………高明お兄ちゃん、チュウしよう?」

 

今度は周囲に聞こえないような内緒話のトーンだ。

高明は頭を抱えるようにしてため息を漏らした。

 

「………小声にすれば良いという物ではありません。声の大きさの問題ではなく、発言の内容が問題なんです」

「だめなの?」

 

純粋無垢な視線で首をかしげる夢主。その無防備な暴力に高校生の高明は、かつて無いほどの窮地に立たされていた。論語の教えも、古今東西の哲学も、目の前の少女が放つ「チュウ」という無邪気な単語の前では何の役にも立たない。

 

「そのようなことは、不用意に口にしてはいけません。言葉には時と場合、そして何より適切な相手というものがあるのです」

 

高明は膝をつき、夢主と目線を合わせた。その瞳にはどこか切実で、事態を平穏に収めようとする青年の苦悩が滲んでいた。

 

「相手は高明お兄ちゃんがいいの」

「夢主さん。……とにかくダメです。おうちに帰って、まずはその言葉を頭の奥底にしまい込んできなさい……その言葉の持つ意味をきちんと咀嚼して、然るべき時が来るまで口にしないように」

 

そう言って高明は、夢主の頭を少し強めに、一度だけ撫でると歩き出した。

高明の耳は赤く、その背中はいつになく早足だった

夢主はその背中をぴょこぴょことに追いかける。

 

 

後々のことを思うに、この時が分岐点であった。

高明は対応を間違えたのだ。

 

 

[newpage]

 

―――

それから数日後、その無邪気な好意は形を変えて鋭い刃となり、高明に襲いかかった。

 

「高明おにいちゃんエッチしよ?」

 

「……夢主さん。今、何と仰いましたか?」

 

高明の手にあった文庫本が、指先から滑り落ちそうになる。2人きりの部屋に満ちていた静寂な空気は一瞬で吹き飛び、代わりに重苦しい沈黙が二人を包む。

 

「?…高明おにいちゃんエッチしよ?」

 

夢主は、高明の方に身を乗り出し、まっすぐに高明の瞳を覗き込む。

先日「チュウ」とねだった唇からこぼれ落ちたのは、更に踏み込んだ、あまりに危うい誘い文句であった。高明はゆっくりと本を閉じ、机に置いた。その動作は極めて慎重で、そろえられた指先はかすかに震えている。

 

「……夢主さん。あなたは言葉の重みというものを、もっと深く理解すべきです。その言葉が、相手に対してどのような意味を持ち、どのような責任を伴うのかを……」

 

「だめなの?どうして?」

「………いいですか?よく聞きなさい」

 

高明は片手で自分の眉間を押さえ、一瞬グッと息を詰まらせてから深く、深くため息を漏らした。それはかつて無いほど追い詰められた高明の精一杯の抵抗であった。

 

「あなたはまだ、春を待つ蕾のような存在です。守られるべき存在だ……僕はそのような不実な誘いに応じるわけにはいきません。」

 

「高明お兄ちゃん顔赤くなってるよ?」

「……。これはあなたのあまりに破廉恥な言動に義憤を感じているからです」

 

弁明を口にする高明の冷静を装うその仮面の下では、芽生えかけていた淡い感情が無垢で残酷な誘いによって激しく動揺していた。

 

「僕には、年長者としてあなたを正しく導く責任がある。そのようなことは……少なくともあなたが自らの足で立ち、責任を持てる年齢になるまで、断じて許されません」

 

高明は席を立ち、夢主のあたまにぽんと手を置いた。

 

「いいですか?二度と口にしてはいけません。…からかうにしても、言われた相手の理性がいつまでもあり続けられると過信しない方が良い。…分かりましたか?」

 

高明はほとんど自分に言い聞かせるような掠れた声で言った。

 

 

――――

 

 

「高明お兄ちゃんエッチしよ?」

 

「……先日の僕の言葉はどこに聞き流したのですか?」

 

高明は本を閉じると、痛むこめかみを指で押さえた。

深刻な『苦悩』の表情だ。注意をしてから3日と経っていない。

 

 

「高明お兄ちゃんは東都大学を受けるんでしょ?来年は三年生ですから中々会えなくなるだろうし、離ればなれになる前に?やっぱり今がチャンスだなと思って」

「……はしたないですよ………」

「ダメだった?」

 

夢主はキョトンとした表情で小首をかしげている。その瞳には悪意も誘惑の色も感じられない。まるで夕飯に何を食べるか尋ねたかのような平熱な純粋さがあった。

 

「……ダメです。断じてダメです。」

「ダメかぁ………」

 

夢主はあからさまに肩を落とし、つまらなそうに机に突っ伏した。高明はその無防備な様子を呆れと、それを上回る危機感の混ざった眼差しで見つめた。

 

「……夢主さん。なぜあなたはそう容易くそのような言動に及ぶのですか?自身の口から出る言葉の重みを考えなさい。恥ずかしいという気持ちは微塵も持ち合わせていないのですか?」

 

高明の声には珍しく、焦燥に似た熱がこもっている。夢主は机に頬を押しつけたまま不思議そうに瞬きをした。

 

「?ウ~ン?それは変じゃないですか?今日、保健体育の授業で先生が言ってたよ?『これは大切なことで、決して恥ずかしいことではありません』って。先生が言ったこと違うの?」

 

「……」

 

高明は返す言葉を失った。

彼が重んじる論語、道徳、そして『はしたない』という美学。それら全てが、学校教育とういう正論を盾にした夢主の無垢な反論の前に音を立てて崩れ去った。

 

「……教科書をもう一度、隅から隅まで読み直してきなさい。…道を誤らないように……」

 

高明はそう言い捨てると再び本に視線を落とした。

 

 

[newpage]

――

それは高校最後の夏だった。

自室で勉強をしている所にノックの音が響いた。

ひょこっと顔を覗かせた夢主がニコニコと寄ってきた時点で嫌な予感がしていた。

 

「高明お兄ちゃん、チュウしよう?」

 

かつての………そして夢主が成長した今となっては、よりリアルで危うい響きを孕んだその響きに、高明はゆっくりと深いため息をつく。

 

「まさに朝三暮四………以前のものよりマシだと思ってしまう辺り、私もあなたに毒されてきていますね………ダメです。物事には順序というものがあります。……そもそも我々はお付き合いすらしていません。」

 

『エッチ』という衝撃的な単語の後に『チュウ』とねだられ、あろうことかそれならまだ健全かと一瞬でも安堵してしまった自分への猛烈な自己嫌悪が襲ってくる。

 

「………そうだった!」

ぱちん、と手を叩き、目からウロコが落ちたと言わんばかりに表情を明るくさせる夢主。そのあまりの納得ぶりに、高明はあきれ果てて言葉を失った。

 

「……夢主さん。今更その事実にそこまで新鮮な驚きを感じられるあなたの感性に私は感服せざるを得ません」

「ねぇ高明お兄ちゃん……お付き合いって何ですか?どうやったら出来るんですか?」

 

夢主はキラキラとした目を向けてくる。

高明は沈黙の深淵に沈み込んだ。ここで迂闊な定義を口にすれば、即座に「じゃあ今すぐやりましょう」と切り返されるのは火を見るより明らかだった。

 

「………おいコウメイ。もう諦めて、さっさと付き合ってやったらどうだ。見てるこっちの身にもなれ」

 

不意に背後から砂利を噛んだような苦い、低い声が飛んでくる。そこには心底面倒くさそうに顔を歪めた大和敢助が教科書片手に座っていた。

 

「あ、かんすけくん、こんにちは!」

「おうよ…やっと目に入ったか?俺は最初からずっとここに居たんだよ。この『コウメイ馬鹿』がよ……」

敢助は夢主の挨拶に片手で応えると、哀れみすら含んだ視線を高明へと向けた。

 

「……お前コレを浴びながら受験生してるんだからすげぇよな…同情するわ…」

「…………そうですか……」

 

「とにかくお前、こいつをそろそろ何とかしねぇとヤバいぞ。……この言動、今の年齢で外でやらかしてみろ。お前いろんな意味で社会的に終わるからな?」

 

高明は力なく項垂れた。

ただ離れることを寂しがって泣いていた頃が今は猛烈に懐かしかった。

 

[newpage]

――

無事東都大学に合格し、東都での生活にもすっかり慣れた頃。

 

その日、高明は久しぶりに長野駅に降り立った。

改札を通った途端、不意に横から強烈な一撃を食らう。

 

「高明お兄ちゃんお帰りなさい!大学生活はどう?エッチしよ?」

 

長野駅の冷涼な空気さえも一瞬で沸騰させるような一撃だった。帰省の喜びを分かち合うはずの改札口で、端整な顔立ちを少しだけ強張らせた高明は、天を仰いで深い吐息をついた。

 

「………。最早、挨拶のように口にしますね」

 

高明は手に持ったボストンバッグを握り直した。周囲の視線が痛いほど突き刺さるが、当の夢主は冬の日だまりのような無垢な笑顔を浮かべて高明のコートの裾をつかんでいる。大学の長期休みを利用して帰省してきたとたんにコレだ。

 

「夢主ちゃん…兄さん困ってるから、ね?」

 

そこへ助け船を出したのは景光だった。

 

「困らせた?…ごめんなさい」

景光の言葉に夢主は素直にしゅんと肩を落として俯いた。

 

「景光。……彼女は学校でもこのような言動を?」

「いや……直接的なのは兄さんにだけ……でも彼女、基本的に天然だから…ははっ…」

 

景光が引きつった笑いを漏らす。

 

「はぁ……。いいですか?夢主さん。お付き合いをしていない男女はそのようなことをするべきではありません。それは順序というものを甚だしく逸脱した行為です。」

 

高明は言い切った。夢主を論理的な「教育」の土俵に持ち込むには定義のブレは少ない方が良いとの判断からだ。

 

「じゃあ付き合って?高明お兄ちゃん」

「……………。私は、慎みのない方は好みではありません」

 

高明は熱くなりそうな頬を誤魔化すように、敢えて突き放すような冷徹な言葉を選んだ。せめてこの場でこれ以上の暴走をはじめないように。

 

「慎み……ないんですか?私には?」

 

キョトンとして首をかしげる夢主。その視線に耐えかねて高明は弟に助けを求めた。

「景光……彼女には、慎みという概念が………」

「え………あー……。ない………ね?」

 

景光は気まずげに視線を逸らし、愛想笑いを浮かべるしかなかった。学校での夢主の奔放とも言える言動を知っているだけにフォローのしようがなかったのだ。

 

「どうやったら慎みって手に入るの?」

 

真剣な表情で、新しい語彙を学ぼうとする夢主のその純粋すぎる問いに高明は『それは教えられて身につくものではなく………』と言いかけて言葉を飲み込んだ。

 

「………恥の精神を知り、道徳と…出過ぎた振る舞いを控える謙虚さを身につける事です。」

 

「……ウ~ン。ちょっと家で考えてきます!お先に失礼しますね?また顔出します!」

夢主はそう宣言すると重要な任務を授かったかのような顔をして、パタパタと走り去ってしまった。その背中を見送りながら高明は重い溜息をつく。

 

「……景光。彼女の言う慎みが斜め上の方向に着地しないことを願おう……」

「あはは………兄さん頑張って」

 

高明は、前途多難な予感しか感じられなかった。

 

――

翌朝、冬の澄んだ空気が満ちる中、高明が敢助との待ち合わせのために実家の玄関を開けると同時にお隣の扉が開いた。

「わぁ!あ…あの…おはよう、高明お兄ちゃん」

 

そこに立っていたのは、昨日までの天真爛漫な暴走娘ではなかった。どこか所在なさげに指先をいじり、頬をリンゴのように赤く染めた夢主が伏し目がちに挨拶をしてきたのだ。

 

「……おはようございます」

 

高明は一瞬だけ目を見張った。普通の挨拶だ。

いつもの「エッチしよ?」という爆弾発言がない。

それどころか、夢主はモジモジと体を揺らし、視線が合うたびに慌てて逸らしたり、かと思えば睫の隙間からチラチラと高明の様子を伺ったりしている。

 

(……恥じらっている?…一晩で、これほどまでに劇的な変化が訪れるとは…)

 

高明の胸に、密かな期待が芽生えた。

夢主が『慎み』という概念を理解し、ようやく恥という感情を覚えたのではないか。今まで自分の説いた道徳が、彼女の中でやっと芽吹いたのではないかと。

 

「高明お兄ちゃん……ちょっと、お耳貸して?」

 

消え入りそうな、けれど甘く震える声。

高明は彼女が、外で大きな声で話してはならないというTPOを学んだのだと解釈し、快く体を屈めた。

 

「何ですか?」

 

そっと耳を寄せた、その時。

冷たい朝の空気の中でそこだけが熱を帯びたような

湿った吐息が耳に滑り込んだ

 

「高明お兄ちゃん……エッチ……しよ?」

 

囁くような、けれど、これまでのどんな言い方よりも艶めかしく響いたその言葉。

 

「…………。」

 

高明はそのまま石像のように固まり、ゆっくりと眉間を押さえた。めまいで視界が揺らめいているように感じる。

 

(………間違っている。方向性が、致命的に間違っている……!)

 

確かに夢主は慎みを覚え恥じらいを身につけた。しかしそれは決して高明の望んだ更生ではなく、むしろ破壊力を数倍に跳ね上げた進化した誘惑へと変貌を遂げていた。

 

「……夢主さん」

「……なあに?高明お兄ちゃん。……私、慎み深く言えたかな?」

 

潤んだ瞳で、恥ずかしそうに、けれど熱っぽく自分を見つめる夢主を前に、高明は自分の心臓がかつてないほど激しく鼓動を打っているのを認めざるを得なかった。

 

状況は改善どころか理性が決壊する寸前まで悪化していた。

 

「おいコウメイ、こいつどうしたんだよ?」

 

そこには困惑顔で夢主を指さす大和敢助がいた。

無理もない。昨日の今日で、天真爛漫だったはずの夢主が、高明の傍らで顔を赤くし、モジモジと揺れながら上目遣いに高明をチラチラと盗み見ているのだ。その姿は端から見れば「想い人に気恥ずかしくて声を掛けられない乙女」そのものである。

 

「あ、かんすけくん!おはようございます!」

 

敢助に気がついた途端、夢主はそれまでのモジモジを一旦解除し、元気に挨拶をした。しかしすぐに「あ、いけない」と思い出したように、再び恥じらう仕草へと戻る。

 

「おい、なんか変なもんでも食ったのか?……何のつもりだ…それ」

「違うよ?高明お兄ちゃんが、こういう慎みのある子が好みだって言うから私、頑張ってるんです!」

 

そういって恥じらうポーズを維持したまま「えっへん」と鼻を高くする夢主。

その健気でかつ決定的に勘違いをしている姿に、敢助はゆっくりと視線を高明に移した。

 

「コウメイ………お前、業が深いだろ…変態だな」

 

「…………違います」

高明は地を這うような低い声で否定した。

しかし状況証拠は高明が身の潔白を証明するにはあまりにも不利すぎた

 

夢主は2人のやり取りを不思議そうに眺めると、思いついたように高明に向き直った。

 

「ねぇ、高明お兄ちゃん。今の頑張ってる姿。100点満点中、何点?」

「…………マイナス一億点です」

「えーっ!厳しいよ!」

 

朝の住宅街に夢主の不満げな声が虚しく響き渡った。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。