ガチャっ……
朝、景光は恐る恐る自宅の玄関の扉を開いた。
本来の予定では、今日はもうホテルから直接大学に出るつもりであったが昨日は少なからず動揺したまま家を出てしまったため、大学で使っているノートPCを持ち出すのを忘れてしまったのだ。なんとかならないか悩んだがどうにもならず。かといって夜中に帰るのは絶対に避けたかったため結局、この時間に取りに戻って来る羽目になった。
(午後ならともかく流石に朝からは顔合わせづらい……なんとなく……)
さっと取る物だけ取って出よう。そう思って静かに靴を脱いだところでパタパタと軽やかで特徴ある足音が階段から響いてきた。夢主だ。恐る恐る振り返ると、昨日と何ら変わりない様子の夢主がニコニコと近寄ってくるところだった。
「おはよー、景光くん!」
「おっ…はよう……あの…大丈夫?………あっいや!変な意味じゃなくて!」
「結局お泊まりしちゃった!急にごめんね?」
「あぁ…うん」
「あのね!高明お兄ちゃんとエッチできたよ!」
「…………………っ!」
構えてはいたが実際にあまりにあけすけな表現を浴びて言葉に詰まった。景光の動揺など露知らず尚も夢主は続ける。
「うれしいなぁ!今日パーティしない?お赤飯炊こう?」
「夢主さん……貴方…その恥じらいのなさはどこがどうなっているんですか…?」
「兄さん………」
階段上から疲労と困惑、そして少しの諦めの色を顔に乗せ、眉をしかめた高明がネクタイの形を整えながらゆっくりと下りてくる。
「高明お兄ちゃんお邪魔しました!景光くんまたね!私今ちょっと急いでて……」
「せめて朝食を食べて行かれたらどうですか?急ぎなら車も出せますが……」
「こんな朝早くに何か用事あった?大学?」
トントンと靴を履いた夢主が笑顔で振り返る。
「ううん?今日は昼から。でも早く帰ってパパとママに報告したくて。高明お兄ちゃんとエッチできたよって」
「…待ちなさい」「夢主ちゃん待ったげて…」
高明の声は低く掠れに近い響きだった。元々白い顔からさっと更に血の気が引くのが分かる。景光は兄がここまで動揺を見せるのを初めて見た。一方の夢主は少しモジモジと身体を揺らすと、何故か急に恥ずかしそうに目線を逸らす。
「お見送りって、夫婦みたいでちょっと恥ずかしいね?高明お兄ちゃん」
「なぜそこで恥じらいを見せるのに…致命的な部分を理解していないんですか?…今聞きたいのはそういった話ではないんですよ」
「なんだろうね………うん……そこじゃないんだよ…夢主ちゃん……」
震える手で顔を覆った高明は、指の隙間から微かに呻くようなため息をこぼした。
「しかし…そうですか……夢主さん…そういった反応が出来ると言うことは恥じるという概念が貴方の中に一応は存在はするのですね……根本的にズレてしまっていますが。……性事情を親に報告することには何故羞恥心を抱かないのですか?」
「エッチは恥ずかしくないって学校で習ったんですけど……高明お兄ちゃんの年度とは学習指導要領に変更ありましたか?」
「……………いえ…」
夢主が小首をかしげて如何にも不思議そうに高明を眺める。もはや何故そこまで真っ直ぐな目をしていられるのか、高明には分からなかった。
「……自宅に帰って余計な火種を作るぐらいなら、もう今晩も泊まりなさい……貴方は今一度、性と恥というものを根本から学ぶ必要があります。真面目に話し合う時間を作りましょう」
「?それって2回目のエッチのお誘いですか?」
「…………………は?」
「やったぁ!大学が済んだらお泊まりセット持ってきます!お話ししてお泊まりしてエッチ!」
「………………………えぇ…そうです……もうそれでいいです」
「兄さん……諦めないで…」
高明は屈んで夢主の肩をしっかり掴み目線を合わせると念を押した。
「………ご両親には昨晩エッチをしたなどと伝える必要はありません。分かりましたね?」
「分かりました。じゃぁ今日はエッチするから泊まるねって言ってきます」
「何も分かっていません。……待ちなさい」
元気に出て行こうとするのを押しとどめる。
「でも、2日も留守にするのに理由が分からないと心配させちゃうから………」
夢主の言葉はある種、正論だ。少なくとも表面上は親孝行な娘の言い分に聞こえる。しかしなぜ一番伝えてはいけない言葉を最短距離で選ぼうとするのか。エッチしましたと報告される親の気持ちを慮ることのないその残酷さに、高明のこめかみが再び鈍く痛む。
「…今日も3人でパーティーするって言えばいいよ。…俺の名前出していいから」
見かねた景光が助け船を出す。少なくとも堂々とエッチしてくると言われるより親にとっては安心だろう…優しい嘘の類いだ。
「ん?3人でパーティーしてエッチするって伝えればいいんですか?」
「…………」「………」
凍てつくような重い静寂が玄関に訪れた。景光の差し出した助け船は横っ面から思いも寄らない特大の爆撃を受け木っ端微塵となりあっけなく沈んでしまった。
「兄さん……もう無理だよ……これ…どんどん状況が悪くなる」
景光は壁に手を突いてその場にしゃがみ込んだ。高明は自らのこめかみを一度強く押さえると、もう一度強く夢主の肩を掴んでその目を覗き込み、言い含めるように声を絞り出す。
「………今日は、ご両親に会うのを避けなさい……」
「どうして?」
「どうしてではありません。話し合いましょう…理解するまで」
「無理だって…兄さん……」
説得を続ける兄の背中に、景光の乾いた声がむなしく響いた。
ーーー
ーー
ー
夕暮れ時の赤い光が諸伏家の壁を染める頃、チャイムのピンポーンという軽快な響きの後を追うように玄関先で明るい声が響き渡る。
「たーかあーきくんっ!エッチしーよぉ!」
「あーそーぼーみたいなノリで叫ばないで!?」
景光が慌てて玄関先に出てくる。
「あ、景光くん!こんにちは。高明お兄ちゃんは?」
「こんにちはじゃないよ……ここ静かな住宅街なのにやめて」
「来ましたか………夢主さん。……ご両親には?」
リビングから玄関に顔を出した高明の問いに、居住まいを正した夢主が答える。結局、朝は十分な時間がなかったのもあり、説得を諦め苦肉の策を打って渋々送り出した。その結果を早く確認する必要がある。正直今日一日気が気ではなかった。
「あれから少し時間を潰して両親が仕事に出た頃合いを見計らって家に帰ったので会ってません。言われた通り、机に自筆のメモで『今日は諸伏のお家に泊まってくる』とだけ書いて置いてきました」
「そうですか。よく出来ましたね」
「はい!今日はお泊まりセットも予習もバッチリです」
「……………予習?」
訝しむ高明に夢主は自信満々に鞄の中をゴソゴソとかき回す。
「今日は大学行くまでに結構時間あったんで色々探して。これはパパの部屋から見つけたんですけど…あ、あったあった」
ボストンバッグから取り出されたのは少し色あせ古ぼけた空気の漂うパッケージだった。
「『淫乱ママの裸エプロン。夕飯のデザートはわ・た・し♡』いくつかあった中でもケースの爪の劣化具合を見る限り、コレが一番開け閉めされた頻度が高そうだなって…」
「……即刻、それをパパの部屋へ返してきなさい」
高明は夢主の父親が破廉恥な語彙の並ぶそのパッケージを好んで開け閉めを繰り返したという知りたくもない生々しい歴史と、そのお気に入りを娘に持ち出されるという状況の惨さに言葉を失った。
「え?でも面白かったから皆で観ようと思って……」
「観ません。駄目です。……面白かった?……貴方もう観たんですか?」
「はい、時間があったので。エプロンも持ってきました。景光くんに借りるのは悪いので」
「嫌だよ…絶対止めて…」
景光が身につけていたエプロンを庇うように両手を前で組む。
「…よりによって………お義父さまの…お気に入りを…私に再現するつもりで……?」
「なんでも試してみる価値はありますよね?」
「……お義父さまが帰宅するまでにそれを返してきなさい」
「でもママがもう帰ってるかもしれないし……う~ん……しかたないかぁ」
夢主はまたボストンバッグをゴソゴソとかき回し、携帯を取り出すと慣れた手つきで番号を呼び出した。コール音が静かな玄関に響く。
プルルル
プルル
「あ、もしもしパパ?今大丈夫?…そっか、家に向かってるんだ。丁度良かった。今日ね?パパのお部屋にあったDVDを友達と観ようと思って持ち出したんだけど、友達の好みじゃなかったみたいで……うん?え?開けたよ?引き出しの二重底の…うん、そう。…ううん?一枚だけ。他は元通りに…うん。…あ、やっぱりすぐ返して欲しい?うーん…ちょっと…今日予定があって忙しいから…家のポストに返しといていいかな?うん、勝手にごめんね?じゃぁ入れとくね?…え?ママの帰宅時間?…分かんないけどそろそろ帰ってくるんじゃないかな?え?…ごめん、電波悪くて…パパ走ってる?」
電話口の向こうから、ガチャガチャカサカサと何かが擦れる音や、荒い息づかいと共に何やら必死な様子で言いつのる声がプツリ、プツリ、と時折途切れながらも確かに高明と景光にも聞こえていた。
「電話がよく聞こえないよ?……取りあえず切るね?…ポストに入れとくから、じゃぁね?…」
ピッと小気味よい音を立てて電話が切られる。
「……貴方…お義父さまに何か拭い去れぬ恨みでもあるのですか?」
「惨いよ………結構厳重に隠してたみたいなのに……」
高明と景光が悲痛な顔をする。内容を他に聞いている存在がいると電話口から伝わってしまうのが不憫で、途中で口を挟めないでいた。あまりに惨かった。
「そうだよね……思ってたより大切な物だったみたいだから…悪いことしちゃった」
夢主は少し申し訳なさそうにパッケージをそっと撫でた。
「やっぱり、本来なら借りた私が手渡しで、ありがとって言いながら返すべきですよね?」
「止めなさい」「止めてあげて」
「…どうしても今日は会っちゃダメですか?……」
「よく考えなさい…手渡しなど言語道断…お義父さまには一度冷静になる時間が必要です」
「ダメかぁ……じゃぁちょっと不義理な気がしますけど…景光くん、私の代わりにコレを家のポストに入れといてもらえるかな?急ぎみたいだから」
シュンとした夢主が、景光に向けてそっと両手で大事そうにそれを差し出す
「…俺が?……」
「今日もホテルに行くんだよね?ついででいいから」
「えぇ…んんん…やっぱり俺また外泊なの?あぁ…もう…帽子とマスク持ってくるから待って…兄さん、大きめの封筒あったよね?」
「あぁ……取ってこよう」
書斎へ続く廊下の奥へ消えていく兄の背中を見送りながら、景光は深い、深い溜息を吐き出した。戻ってきた高明から封筒を受け取り毒々しいパッケージを封印する。
「早いほうがいいでしょう……くれぐれも……」
「うん………鉢合わせしないように気をつけるよ…………」
これから帰ってくるのであろう夢主の両親どちらとも顔を合わせるわけにはいかない。
(万が一顔合わせたらどんな顔したらいいんだろ………さっさと済まそう)
部屋着から着替え、帽子を深く被り、マスクで顔を隠すと、この厄介な任務を完遂するため封筒を手にする。気は重かったが、景光は玄関を開けるとすっかり暗くなった夜道に溶け込むように外に駆け出して、扉から手を離した
…………バタン