【ダンボール戦機WARS:パーフェクトワールドの箱庭】 _絶海の孤島で始まる、少年少女たちの歪で甘い新婚生活_ 作:花の第4小隊
ーーーー男子寮(アラタ個室)
昭和モダニズムの木造づくり、リノリウム張りの床に木製のドア。窓から差し込む夕暮れの茜色が、壁を橙に染めている。
アラタは制服のままベッドに仰向けになっていた。青いブレザーや、スラックスのベルトすらそのまま。
眉間に深いシワが刻まれている。胃の底に鉛が沈んだまま、いくら吐き出そうとしても消えない。
──目を閉じると再生される。
体育館の床に散乱したLBXたち。装甲の欠片。焦げた金属の匂い。換気扇が唸り上げても追いつかない砲煙の残滓。そして白銀と濃紺のフォルムが、音を置き去りにして空中を旋回した残像。そして、全校生徒のLBXが一分二十秒で全滅した結果…。
女たちが連れて行かれた後の体育館で、ミゼルは淡々と語った。
「──さて。残った男子生徒諸君には、これからの生活規範について通達する」
ステージの袖から新たなメタ沢が数体姿を現した。モニターには変わらぬ『(^_^)』が表示されていた。
ミゼルは語った。
パーフェクトワールド。過度な競争と摩擦を排除し、社会的調和を達成する新秩序。男子生徒には高度なLBX専門教育を。女子生徒にはパートナーを支える花嫁教育を。
一対一の男女ペア。男子を庇護者、女子をその伴侶とする。
「女子生徒はこの後、別室にて最適化プロセスを受けてもらう。明日には完了する手筈だ。それぞれの適性を考慮したうえで、パートナーを選定して通達する」
最適化。その言葉の意味をアラタは正確には理解できなかった。だが、ミゼルの唇がその単語を発した瞬間、背筋に冷たいものが這い上がった。
ユノが連れて行かれた時の顔を思い出す。
涙で潤んだ瞳。頬を伝う二筋の涙の跡。無理やり作った笑顔。震える声。「大丈夫♪」
そんなわけが、大丈夫なわけがない。
「──以上が基本方針だ。質問は?」
ミゼルの問いに誰も口を開かなかった。
数百人の男子生徒は呼吸すら忘れたように立ち尽くしていた。オーレギオンと二千機のベクターが四方を塞ぐ光景が、喉から声を物理的に奪い取っていた。
その緊迫した状況の中、ハルキが一歩前に出た。
「……一つ、聞かせろ」
ハルキの声は低い。
「女子生徒の『最適化』とは具体的に何をするのだ。パーフェクトワールドだの花嫁教育だの言う前にそこを教えてくれ」
「深層認知の再編成だ。パートナーとなる特定の男子生徒に対する本能的な愛着を、神経化学レベルで刷り込む。人格や記憶には干渉しない。思考力は正常に保たれる」
「……洗脳じゃないか! そんなものを認めろと!」
「洗脳ではない。人格を破壊する粗暴な手法はとらない。生体工学的アプローチと深層インプリントによる、極めて精巧な認知再編成だ。当人には自覚がない。自分の純粋な意思だと信じ込む」
ハルキの拳が握られた。
「……それを洗脳と呼ばないなら、何と呼ぶ!」
「最適化だよ」
ミゼルは一瞬の間も置かずに答えた。その声に迷いも躊躇もなかった。
「君の感情的な反発は理解できる。だが非効率だ。旧体制の生徒間の歪な闘争指数は異常なものだ…人類の本来持つ強さはそこではない、これは僕自身の経験から証明している。新制神威大門統合学園により、闘争指数は正常なものへと矯正される」
ハルキは何も言えなかった。口を開きかけ、閉じ、開きかけ──閉じた。
ミゼルは視線をハルキから外した。
「以上だ。男子生徒諸君には、明日以降の最高度なLBX教育の参考として、本日セカンドワールドにてウォータイムを行ってもらう。三時間の整備時間の後、二時間の演習だ」
____メカニック作業場(ジェノック)
三時間の整備時間は、いつも通りだった。
第1小隊のメカニック、サクヤが工具箱を広げてドットフェイサーたちの破損箇所をチェックする。いつもなら「アラタ、また無茶な機動して! 壊れたら僕が直すの大変なんだからね!」と怒られるところだが──今日のサクヤは黙っていた。
黙々とドライバーを回している。メカニックゴーグルの赤いレンズが光を反射して明滅する。
「……サクヤ」
アラタが声をかけた。サクヤの手が止まる。
「……うん?」
「……いや」
何を言えばいいのか分からなかった。「大丈夫か」と聞くのは馬鹿げている。大丈夫なはずがない。
「……ドットフェイサー、左腕のジョイントが歪んでる。ギア比も2番から3番に変えた方がいいかも」
サクヤはそれだけ言って、また工具に向かった。
____セカンドワールド(ジェノック領土)
セカンドワールドの空は今日も青かった。
天井ホログラフィックが投射する完璧な蒼穹。積乱雲がゆっくりと流れ、太陽光の入射角が午後の斜光を描いている。地下数十メートル下の人工空間であることを忘れさせるほどの圧倒的な空。
ウォータイムの開戦サイレンが鳴り響いても、アラタの胸は高鳴らなかった。いつもならアドレナリンが溢れ、身体全体が加速し、視界が研ぎ澄まされる。だが今日は──何も感じなかった。
ドットフェイサーが荒野を駆ける。砂塵が舞い、タイヤが砂利を噛む。ホログラフィックの太陽が背中を焼く。
ジェノックの演習区域に割り当てられたのは、アラビスタとの境界付近。
ハルキ率いる第1小隊はフラッグ防衛に割り当てられ、攻めてくるアラビスタの部隊を返り討ちにしていった。アラビスタ得意の集団戦法、スナイパー部隊の正確狙撃、補給路を巡る攻防が展開されていた。
夕暮れのセカンドワールドに、砲煙が薄く漂っていた。
アラビスタの前衛小隊が退却を開始した。統制の取れた後退…損害を最小限に抑え、次の防衛線へと移るための離脱。
「追撃は不要」
ハルキの声が通信リンクに流れた。低く、冷静。いつも通りの号令。
「第1小隊、フラッグ防衛完了」
──完勝だった。
アラビスタの六小隊を、ジェノックの第一小隊は単独で撃退したのである。
アラタのドットフェイサーも五機をブレイクオーバーに追い込んだ。
完璧な戦果。
「……っしゃ」
アラタは呟いた。呟いたが、声は自分でも驚くほど平坦だった。
腹の底から何も湧いてこない。
アラタはコントロールポッド内で、しばらく空を見上げていた。
(あいつら…)
セカンドワールドには男子生徒しかいない。女子生徒たちは今、どこかで──
「アラタ」
通信リンクにハルキの声。
「帰還するぞ」
「……ああ」
他の誰の顔にも高揚はなかった。
「……最適化」
ミゼルの言葉が反芻される。
深層認知の再編成。神経化学レベルの刷り込み。人格や記憶には干渉しない。当人には自覚がない。
──ユノが、変わってしまう。
あの快活な笑顔。人懐っこい声。ツインのお団子ヘア。サバサバした口調。ツッコミと軽口。負けず嫌いのガッツ。仲間を放っておけないお姉さん気質。
それらは残る、とミゼルは言った。人格や記憶には干渉しない、と。
だが──アラタに対して、本能的な愛着が刷り込まれる。
ユノがアラタを好きになる。
ユノの意思で。ユノの純粋な感情として。ユノ自身が「自分の意思だ」と信じ込んだ状態で。
(……それって)
アラタは天井を睨んだ。古い蛍光灯のカバーに、小さな虫の死骸が張り付いている。チカチカと明滅する白い光が、虫の羽を透かして見える。
(……それって、本当にユノの意思なのかよ)
ーーーー男子寮(アラタ個室)
夕暮れも過ぎ、部屋の明かりが夜を照らす時間帯に、アラタは自分の部屋のドアノブに手をかけた。
何よりも驚愕したのはドアの横のプレート。
『瀬名アラタ / 鹿島ユノ』
二つの名前が、並んで刻まれていた。
ヒカルと同室だったこのドア。ヒカルが几帳面に整えた彼の半分のスペース。アラタが散らかした自分の半分。二人の生活感が混ざり合い、狭いながらも「共同生活」と呼べる空間…だった。
二つあったはずのベッドが一つになっていた。
ヒカルの荷物が消えていた。机も、椅子も、ベッドも。
何もかもが消えていた。
「……え」
アラタはドアの入り口に立ったまま動けなかった。
部屋の左半分が、別人のものになっていた。
ヒカルの机があった場所に新しい机が、木製の古いデスクだが、木目調で角が丸目の可愛らしいフォルム。
そして、上に置かれているものは見覚えがない。
…机上の棚に置かれた教科書
『基礎栄養学テキスト』
『パートナーサポート実習ハンドブック』
『家庭医学入門』
『妊娠と出産』
アラタの手が震えた。本の背表紙に刷られた文字を、読みたくなくても目が追ってしまう。
(……なんだよ、これ)
栄養学や調理の教科書ならまだ理解できる。花嫁教育、とミゼルは言った。調理、家政、健康管理。だが──妊娠。出産。母体作り。
「……」
アラタは『妊娠と出産』の背表紙から手を離した。指先が微かに熱を持っているような錯覚。
(……ユノが、これを勉強するのか)
頭の中でユノがエプロンを着る姿が浮かんだ。次いで、ユノが赤ちゃんを抱いて──
「やめろ」
視線を机から逸らす。逸らした先に、ダンボールがあった。
机の横に、二段重ねで置かれた段ボール箱。学園の補給品で使われているもの。上面にマジックで『鹿島ユノ 私物』と書かれている。丸文字……メタ沢が書いたのだろうか。
(……開けるな)
思った。開けるな、と。これはユノのものだ。
ユノの服だ。ユノの私物だ。勝手に開けていいはずがない。
だが──目が、勝手に動いた。
手が、勝手に伸びた。
上の段のフタを閉じていた留めテープが、アラタの指によって剥がされていく。
サリッ。
テープが千切れる音が、静かな部屋でやけに大きく響いた。
一番上に見えたのは青色。
ジェノックの青いブレザー。左肩の上腕部に神威大門統合学園の生徒を表す金色のコンパス型エンブレムが刺繍されている。ユノが毎日着ていたあの制服。
アラタはブレザーを持ち上げた。布が広がって、ユノの形を思い出すようにふわりと開いた。
(……)
ブレザーの下には白の立ち襟シャツ。綺麗でいい匂い…。
次に見えたのは、紺色のプリーツスカート。畳まれている。プリーツの折り目がきっちりと揃えられている。スカートの下に、紺色のハイソックスも丸められて入っていた。
ダメだ……いい匂い…柔らかい。
ドキドキと男らしく身体が答える。
いまにも抱き着きそうなのを抑えて箱を探ると──白い布が見えた。
アラタの手が止まった。
指先が、空中で凍った。
白い布は畳まれている。小さく、丁寧に。
……ユノの下着だった。
男でもわかるほど、大き目で存在感をあらわにする白のブラジャー。
正面に可愛いリボンだけの、シンプルな白いコットンのショーツ。
(……ユノの)
アラタの指は、その布から離れられなかった。
下着を手に持っている。ユノの下着を。本人のいない部屋で。
スン…自然とショーツを…鼻もとに……「……くそっ」!
アラタは下着をダンボールに戻した。乱暴に。だが布がくしゃりと歪んだ形になって、それが余計に申し訳なくて、もう一度手を伸ばして畳み直そうとして──指が震えてうまく畳めなくて。
「……ッ」
結局ぐちゃぐちゃのまま箱に戻した。
──ダンボールを閉じたのに、白い布の記憶が網膜に焼き付いている。小さく畳まれた、白いコットン…ユノが毎日身につけていたもの。ユノの肌に触れていたもの。
(……最低だ、俺は)
メタ沢たちによる夕食の時間まで、力なく横になり続けた。
少し前ーーーー神威島・商店街(昼過ぎ)
ウォータイムを終え、コントロールポッドから降りたアラタは誰よりも早く廊下を駆けた。
目指したのはダック荘の女子寮だった。
必死に校舎を出、商店街を駆け抜け、…男子寮と女子寮をわける共用スペース──そこで足が止まった。
女子寮エリアへの入り口を閉じる扉には黄色いテープが張られていた。
『立ち入り禁止』
黒文字に白縁。そしてテープの前には──漆黒のLBXが二機、彫像のように佇んでいた。
ベクター。
光を吸い込むようなマットブラックの装甲。妖しく光る単眼センサーが、アラタを無言で捉えていた。
「──ッ」
アラタはテープに手をかけ、向こう側へ渡ろうと試みる。
「アラタ!」
背後からハルキの声が飛んできた。
足音が三つ。ハルキ、サクヤ、ヒカル。ウォータイム後の制服姿のまま、息を切らして走ってきた。
「一人で行くな」
ハルキの声は低かった。走ったせいだけでない。自制の音が混じっている。
「女子寮の中身がどうなってるか分からないんだ。ベクターが張ってあるなら、ミゼルはそこを封鎖したがっている。無理に入れば──」
「無理でも入る!」
アラタはテープを押し上げ、きしむ。
するとベクターの単眼センサーが微かに動き、アラタの胸元を銃口が捉えた。
「次の一歩で撃つ」そう示すように。
「くそっ……!」
「アラタ、やめろ」
ハルキがアラタの肩を掴み、テープの前から一歩下げられる。
「ベクターは警告射撃をしない。ミゼルが言った通りなら、必要のない動きをした場合──排除する」
「分かってる! 分かってるけどよ……!」
アラタの声が震えた。怒りではない。焦燥だ。ユノが連れて行かれてからもう何時間経つ。体育館での全校集会、ミゼルの説明、三時間の整備時間、二時間のウォータイム、いまこの瞬間。ユノはどこにいるのか。何をされているのか。
「ユノが……アイツらがどこにいるか分からねえんだよ……!」
────────────
四人は女子寮の通用口を回った。裏口。非常口。搬入口。
すべてが同じだった。黄色いテープ。ベクターの監視。
サクヤが女子寮の壁に手を触れた。
窓から入ろうにも、ベクターの目が光る。
「……地下じゃないかな」
「地下?」
ヒカルが振り返った。
「セカンドワールドの設備は地下にある。島の地下はまだまだ未知の区画が多い。もしミゼルが女子生徒をどこかに隔離しているなら、生徒が日常で近づかない地下空間が一番合理-」
「だったら探そうぜ! 地下だって何だって!」
アラタが叫んだ。サクヤの言葉を遮る。
「アラタ、落ち着け。サクヤの言う通りだが、地下への入り口は…」
ハルキが冷静に遮った。
「セカンドワールドへの搬入口以外に、地下への物理的アクセスポイントは限られている。コントロールポッド室の搬入デッキと、学園地下のメンテナンスシャフト。二つともメタ沢とベクターが当然いるだろう」
「だったらどうするんだよ! 手をこまねいて待てってのか!」
アラタの声が裏返った。喉が張り裂けそうだ。
沈黙が落ちた。
潮風が吹いていた。商店街の方角から、防災無線の時報サイレンが遠く響いた。いつもと変わらない音。変わっていないはずの音なのに、今は嘲笑のように聞こえた。
ヒカルが壁に背を預けた。腕を組んで、空を見上げている。
「……駄目だね」
涼やかな声だった。
「地下施設への入り口を探すのは時間の無駄だ。ミゼルが隠すなら、生徒が見つけられるような場所に置くはずがない」
「じゃあ諦めろって言うのかよ!」
「諦めると言ってない。今は手段がないと言ってる」
ヒカルはアラタを見た。澄んだブルーの瞳に、アラタの赤い髪が映っている。
「今できることは何もない」
短い言葉だった。だがその一言が四人の間に鉛のように落ちた。
何も、できない。
────商店街
足が棒のように硬い。何度も何度も走っては歩いて神威島を散策し尽くす。
夕方も半ばごろ。茜色の空が、昭和の木造長屋の瓦屋根を橙に染め、電柱の影が長く伸びている。
神威島中を駆けずり回った男子生徒たちだったが、日が傾くほどにその人数は減っていき…。
第1小隊の面々も次第に別れ、アラタだけが今でも女子生徒たちの行方を追う。
電気屋の店先に置かれた白黒ブラウン管テレビがノイズ混じりの映像を流している。精肉店も駄菓子屋もその他も、本来なら賑わいを見せる時間帯に関わらずシャッターが冷たく閉じている。
大人たちは全員追放された。ミゼルが言った通りなら、この島には生徒以外の人間は一人もいない。
「……街の人までいねえのか」
アラタが呟いた。足元から伸びる自分の影を見つめながら。
「……ふざけんな」
アラタは石畳を蹴った。靴底が粗いアスファルトを擦る音が、静まり返った商店街に響いた。
────────────
パッパッパと街灯が灯る。白熱電球を傘で覆った古い街灯が、橙色の光を石畳に投げかけている。電柱の上には、相変わらず複雑に入り組んだ架空電線が夜空を切り取っている。
その電線の陰に──ベクターが一機、音もなく佇んでいた。
『不在着信』CCMを握りしめながら、さすがに疲れたのか…アラタもダック荘へと重たい足を引きずる
男子寮は静まり返っていた。
ドアの向こうから抑えられた話し声や沈黙が漏れてくる。誰もが同じことを考えているのだろう。
アラタは自分の部屋の前で……ドアノブに手をかけたまま凍り付いた。
ドアの横のプレート。
『瀬名アラタ / 鹿島ユノ』
二つの名前が並んで刻まれていたからである。
────────────
ーーーー男子寮
食堂での夕食は終わっていた。
メタ沢が用意した夕食は美味かった。認めたくないが、美味かった。
カレーライス。ルーのとろみ具合、肉の柔らかさ、玉葱の甘み。食堂で大皿に盛られたそれを、アラタは黙ってかき込んだ。
誰も喋らない。
百人以上の男子生徒がそれぞれの小隊に分かれて座り、スプーンを動かすカチャカチャ音だけがしていた。時折、誰かが鼻を啜る音。誰かが椅子を軋ませる音。それだけ。
ハルキはの顔には何の表情もなかった。食べ終わった皿を持って立ち上がる。
ヒカルは一度も目を合わせなかった。カレーを三口ほど残して、「ごちそうさま」とだけ。
アラタは完食した。
部屋に戻ったアラタは薄青色の上下セットの部屋着に着替え、ベッドに横たわった。天井の蛍光灯は消している。暗闇の中で、目だけが冴えていた。
一時間。二時間。……眠れなかった。
(ユノ)
名前を思うだけで胸の底が熱くなる。何に対する熱なのか、自分でも分からない。怒りか。心配か。それとも──。
分からないまま、アラタは起き上がった。
トットット…廊下は暗く非常灯の橙が床に点々と影を落としている。
誰ともすれ違わない階段を降り、誰もいない共有スペースを抜け、寮の正面扉を押し開けた。
ーーーー神威島・夜
夜の空気が肌に触れた。
潮風。太平洋の塩気を帯びた冷たい風。昼間の湿った熱気が抜け、夜の間だけ島を包む冷気。肌寒い。部屋着の薄い布一枚では足りないほどに。
だが止まらなかった。
足が、止まらなかった。
何かを探しているわけではない。ユノの居場所が分かっているわけでもない。地下施設への入り口が見つかると思っているわけでもない。
部屋にいられなかっただけ。
個室にユノの机とユノの教科書とユノのダンボールと、明日にはユノ自身が入るであろうベッド。それらに囲まれて横たわっていることが、息苦しかった。
アラタは歩いた。
寮の裏手の石段を降りる。苔の生えた石が靴裏でザラリと鳴る。街灯の橙色が石段を一段ずつ照らしているが、段々と間隔が広くなり、暗い区間が増えていく。
インフィニティネットに繋がれた2055年の本土では決して見えない量の星。
人工光が削ぎ落とされた夜空は、むき出しの宇宙を晒していた。星の光が砂利道の上にまで落とす。
「……」
立ったまま空を見上げていた。
(ユノはあの星を見てるのかな…ごめんな)
誰に謝っているのか分からなかった。ユノにかもしれない。自分にかもしれない。星にかもしれない。
ザアァァ。
潮風が吹いた。薄い布が煽られ、肌に冷たい空気が触れる。
アラタは再び歩き出した。トボトボと。
坂道を下りて、港の方角へ。
特別な理由はなかった。ただ足がそっちに向いただけ。暗い舗装道路を抜けた先の坂道の下に、神威島港がある。本土とを結ぶ唯一の連絡フェリーの発着所。重厚な防波堤とクレーン設備。コンクリート造りの待合所。
──今は誰もいない港。
砂利道をザクザクと削る。
防波堤が見えてきた。コンクリートの巨塊が並ぶ消波ブロックの上に、潮風が吹き抜けている。その向こうに、黒い海が広がっていた。
月があった。
半月。雲の切れ間から青白い光が漏れ、海面に落ちている。波の表面が月光を砕いて、銀色の鱗のように瞬いている。
その月光の下で──アラタは足を止めた。
ーーーー神威島港・防波堤
錆びた鉄のベンチが、夜露で微かに湿っていた。
アラタは腰を下ろした。鉄の冷たさが薄い部屋着の布越しに伝わってくる。背もたれに背中を預めると、鉄の骨組みがギイと小さな音を立てた。
目の前に広がるのは黒い海。
月光が砕けて銀の鱗を敷き詰めた水面。波が防波堤のコンクリートに当たっては返り、当たっては返る。サアァ。サアァ。一定の間隔で繰り返す波の音だけが、世界の残り全部を飲み込んでいた。
アラタはボーっとそれを見ていた。
見ていたが、見えていなかった。瞳に映っているのは海だが、脳が処理しているのは海ではない。ユノの顔だ。涙で潤んだ瞳。無理やり作った笑顔。震える声。「大丈夫♪」
大丈夫なわけがない。
(……どうしてんだよ、今)
アラタは膝に肘をついて頭を垂れた。潮風が後ろ髪を撫でていく。赤い髪が夜の闇に溶けて、月の光だけがかすかに輪郭を拾っていた。
──足音。
アラタは振り返らなかった。誰の足音か、聞き分ける気力もなかった。生徒か、メタ沢か、ハルキか──。
「夜風に当たると風邪を引くよ」
透き通った合成音声。少年の透明感を残した、平熱の声。
目を見開き心底驚いたが……振り返る気力もなく、海を見つめ続けた。
防波堤のコンクリートを踏み、アラタのベンチの横で止まった。
「……何しに来たんだよ」
ミゼルは答えなかった。
代わりに、アラタの目の前に缶コーヒーが映る。小さな缶、商店街の自販機で売っている、砂糖がたっぷり入った甘いやつ。
「飲んだほうがいい。温かいよ」
アラタは一瞬だけ顔を上げた。
赤い髪の下から、青い瞳がミゼルを捉えた。ギラリと光る敵意。怒り。憎悪。だがそれも一瞬だった。
すぐに視線は力なく海へと戻された。
(……なんで、こいつが)
缶コーヒーを受け取る気にはならなかった。だが、ミゼルは引っ込めなかった。差し出したまま、動かない。まるで受け取るまで待つと言わんばかりに。
アラタは舌打ちして、缶を奪い取ると温かい温度が手のひらを包む。
一口飲んだ。
甘ったるい。脳みそに染みるような砂糖の塊。冷えた指先に温かさが沁みて思わずもう一口飲んでしまった。
「……で?」
アラタは缶を膝の上に置いた。視線は海のまま。
「何しに来たんだよ。俺を嘲笑いに来たのか」
「君の不安を取り除くためだよ」
「……は?」
アラタは顔を上げた。
「君は今、鹿島ユノのことを考えている。彼女がどこで何をされているのか。無事なのか、苦しんでいないか。そういった不安が、君の思考リソースを無駄に消費している。そしてそれは、情報の欠如から起きている」
「情報の……欠如?」
アラタは眉をひそめた。
「君は鹿島ユノの現状を知らない。知らないから不安になる。不安は思考を濁らせる。濁った思考は明日以降のLBX教育において非効率なエラーを生む。僕は君の潛在能力を高く評価しているからね、無駄な不安は除去すべきだと判断した」
ミゼルは淡々と言った。夜風に暗い髪が揺れる。青白い肌が月光の中で白磁のように浮かんでいた。感情の温度を持たない緑色の瞳が、アラタを真っ直ぐに見つめている。
「見せるよ」
ミゼルが右手を掲げた。
その指先から青白い光の粒子が散った。ベクターの通信網を経由したホログラフィック映像。夜の防波堤の空中に、半透明の光の幕が展開された。
──見えた瞬間、アラタの呼吸が止まった。
透明なカプセル。狭い円柱形の、その中にユノがいた。
全裸だった。
白い肌がLEDの明るい光の下に晒されている。豊満な胸を揺らしながらその先端に硬くシコるもの、腰の滑らかな曲線、へその窪み。脚の間の割れ目。女の子のデリケートゾーンを全て露わに映す。
アラタはギョッとした。視線を逸らそうとしたが逸らせなかった。
…圧倒的な不快感と……初めて見る同級生の魅力的な身体。いつも制服に隠されていた裸身にドキドキして、ガン見しながら唾を飲み込む。
ユノの目に、何かが装着されていた。
黒いフレームのゴーグル、両眼を覆い隠すVRゴーグルのような機械。眼球に密着するように固定され、側面から細いケーブルがカプセルの天井へと伸びている。
(あれは)
そして──ユノの全身を、白い光の細い線が何本も走っていた。
ジジジッ。
レーザー…?
細い白色の光線が、ユノの肌の上を這うように走る。鎖骨から胸の上を。脇の下から腰骨へ。脊椎に沿って背中を下降し、臀部の曲線をなぞる。
ジジジッ…ジジジッ……
ユノはカプセルの中で必死に身体を捩っている。
腰を振り、肩を揺らし、胸を冷たい壁に押し付けている。お尻や腰がカプセルの曲面にぶつかり、レーザーの走る場所から逃れようとしている。
頭をブンブン振っている。ゴーグルの装着された顔が左右に激しく揺れる。口が大きく開いている。
何も聞こえないが叫んでいる様子は伝わる。
「──やめろ」
アラタの口から掠れた声が漏れた。
「やめろ……! それ……!」
「何のことだ?」
ミゼルは平静だった。夜風に髪が揺れているだけ。表情は変わらない。
「ユノが……ユノが苦しんでるじゃねえか! あのゴーグルも、あの光も……! やめさせろ!」
「苦しんでいないよ」
ミゼルは答えた。
「彼女のバイタルは安定している。心拍、血圧、呼吸頻度、すべて正常範囲内だ。激しく動いているのはレーザー照射に対する皮膚感覚の不快感と、脳内に流れ込む愛着インプリントの既存認識とのぶつかり合いからくる反射的な抵抗であって、痛みではない」
「見りゃわかるだろ! あんなの痛くないわけが──」
「痛くない。0.3ミリメートルの浸透深度で表皮直下の神経受容体に作用しているだけ。痛覚受容体には到達していない」
ミゼルは事もなげに言った。まるで天気の話をしているかのような平坦さで。
「では、説明しよう。君が今見ているのは鹿島ユノの最適化プロセスだ。二段階で行われている」
ミゼルはホログラフィック映像の横に、簡潔なテキストを展開した。
「一段階目。ゴーグル型認知インターフェースによる深層インプリント。視覚・聴覚・嗅覚の多重感覚刺激を通じて、パートナーとなる男子生徒の生体情報を脳の深層領域に刻み込んでいる。刷り込み完了後、パートナーの姿、声、匂いに触れるだけで脳内から強烈な幸福物質と本能的愛着が分泌される」
「二段階目。全身レーザースキャンによる生体最適化。皮膚のキメ、髪の質感、骨格バランス、プロポーションをパートナーの美的嗜好に合わせて精緻に調整している」
「…」
「…なぜ裸なのか。それが君の疑問だろう」
ユノの裸体が目の前で無音で蠢いている。カプセルの壁に胸を押し付け、腰を打ち付け、レーザーの光を逃れようと身を捩る姿が、何も音を発たずに演じられている。
「布一枚挟むだけで、レーザーによる生体データの書き換え率が12%低下する。12%の低下はプロセスを半日延長させる。非効率だ」
「非効率……」
アラタは呟いた。声が震えていた。
「非効理ってそれだけのために……ユノをあんな……」
「彼女の尊厳は傷ついていない。裸であることの羞恥心は最適化完了後に自然に軽減される。問題はない」
「問題だらけだろ……!」
アラタは立ち上がった。ベンチの脚がコンクリートを擦り、ギイと音がした。缶コーヒーが傾いて、残りがコンクリートに溢れた。黒い液体が石の隙間に滲んでいく。
「お前……ユノを裸にして、変なゴーグル被せて、光当てて……あんな風に暴れさせておいて、問題ないって言うのかよ!」
「暴れていない。先ほど説明した通り、反射的な──」
「同じだよ!」
アラタの声が裏返った。夜の港に怒鳴り声が反響した。
「ユノがあんな風になってる理由が何であれ、ユノは苦しんでる! あいつだって自分の意思で裸になりたかったわけじゃねえ! あいつだってあんなゴーグル被せられたくなんかなかったはずだ!」
「君の推測は正確だ。彼女は自らの意思で裸になっていない」
ミゼルはアラタの怒声を前にしても、微動だにしなかった。月光の下で青白い肌が静かに光っているだけ。
「君が不安に思っている点を整理しよう。鹿島ユノは現在、身体的にも精神的にも正常な状態に保たれている。記憶、人格、思考力、すべて損なわれていない。最適化完了後も、彼女は君の知っている鹿島ユノのままだ。性格も口調も、変わらない」
「変わるだろ」
アラタはミゼルを睨んだ。月の光が赤い髪を銀色に縁取っている。
「お前が言ったじゃねえか。俺に対して本能的な愛着を刷り込むって。それが変わらないわけねえだろ」
「変わるのは、君に対する感情のみだ。そしてそれは、彼女自身が自分の純粋な意思だと信じる」
「それが洗脳だって言ってんだよ!」
アラタの拳が震えていた。握りしめた指が白い。
「ユノの意思じゃないものを、ユノの意思だって偽る。それが洗脳じゃなくて何なんだよ……!」
ミゼルは、初めて──ほんの一瞬だけ、首を傾げた。
「定義の問題だね。洗脳とは人格と論理的思考を破壊し、外部命令に従属させる行為を指す。僕の手法はそれに該当しない。人格は保持される。論理的思考は正常だ。彼女は自分の意思で判断し、自分の意思で行動する。ただその意思の根底に、君に対する愛着が生理的に刻み込まれる。それだけだ」
「それだけだ、じゃねえよ……」
アラタの声が小さくなった。
怒りはまだある。腹の底で燃えている。反論したい。否定したい。だが、言葉にできない。
アラタは再びベンチに座った。座り込んだ、と言った方が正しい。膝の力が抜けた。
ホログラフィック映像はまだ展開されていた。
アラタは目を逸らし、海を見た。黒い海。月光が砕けて銀の鱗を敷き詰めた水面。波の音だけが、変わらずに繰り返されている。
「……いつ終わるんだ」
「明日の朝には完了する」
ホログラフィック映像が光の粒子となって夜の空中に溶けていった。
「明日の午前中にパートナー選定の発表を行う。君と鹿島ユノのペアはすでに確定している。安心してほしい」
ミゼルは背を向けた。暗い髪が夜風に揺れ、白い上衣が月光を弾く。
「一つ、伝えておく」
ミゼルは歩き出しながら、振り返らずに言った。
「彼女の最適化が完了した時、君に会った瞬間、彼女は心の底から喜ぶだろう。それは偽りない笑顔だ。僕が作ったものであっても、彼女の笑顔は本物だ」
「……ふざけんな」
アラタの呟きは、波の音に溶けた。
残されたのは、アラタと、黒い海と、月光と、波の音だけ。
アラタは膝に顔を埋めた。
(ユノ)
潮風が吹いた。冷たい。部屋着一枚では、もう我慢できないほどに。
波の音が、世界のすべてを飲み込んでいた。
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ちなみに、オーレギオンはレプリカです。Wミゼル編終了後、人知れず復活したミゼルが準備を整えてERPのシステムを乗っ取ったということで。