バタン、と重厚な木製のドアが閉まり、二人の姿が見えなくなると、酒場内に充満していた張り詰めたような殺気が潮が引くように消え去った。
「……ふぅーっ……! 死ぬかと思ったぜ……」
先ほど隣のテーブルで不吉な噂話をしていた剣士が、大きく息を吐き出しながらドサリと背もたれに体重をかけた。
額にはじんわりと冷や汗が滲んでいる。
「な、なんだよあのレンジャー……。あんな氷みたいな目で見つめられたら、動くだけで首が飛ぶかと思ったぞ……」
「相当な腕利きだな。本当にレンジャーか?あの佇まいと気配の殺し方は、タダの冒険者じゃねえ。……それにしても」
向かいの魔法使いが、冷めた麦酒(ビール)の泡を見つめながら低く呟いた。
「しっかし、あの女の子……カーディナルのローブの下、かなりの好い体つきをしてやがったな。おまけにあの無防備な顔だ……。いくら横にヤバそうな護衛が控えてるとはいえ、このアルベルタじゃ格好の獲物だぜ」
「ああ……。例の『聖職者狩り』の奴らの耳に入らなきゃいいんだがな……」
ふたりは顔を見合わせ、不安げに首を振ると、逃げるように杯を煽った。
酒場の喧騒は再び戻りつつあったが、店内の最も暗い隅——壁際の陰になったテーブル席に、ぽつんと残された一つの盃があった。
そこに座っていた男が、ゆっくりと立ち上がる。
深々と被ったフードの影から覗くのは、下品に歪んだ口元と、ギラギラとした卑しい光を宿した瞳だった。
男は先ほどまでリリアが座っていた座席をねっとりとした視線で舐めるように見つめ、鼻から荒い息を漏らした。
「……へへっ……大当たりだ……。あんな上物のカーディナル、市場に出せば金貨が山のように積まれるぜ……」
男は胸元のポーチから小さな通信用の魔石を取り出すと、声を潜めて闇へと囁きかけた。
「……俺だ。最高の『獲物』を見つけた。桃色のボブヘアに爆乳のカーディナルだ。連れは銀髪ローポニーテールのレンジャーが一人……。……ああ、追跡を始める。手筈通り、準備を進めろ」
怪しい笑みを残し、男は気配を消すように酒場の勝手口から夜の路地裏へと滑り込んでいった。
二人の与えられた束の間の平穏の裏で、悪意の罠はすでに着々と張り巡らされつつあった。
酒場をあとにした翌朝、アルベルタの港へ続く中央大通りは色とりどりの露店と人波で賑わっていた。
露店には南国から運ばれた珍しい果物や色鮮やかな織物、各種回復薬や魔法のスクロールが所狭しと並べられ、商人たちの威勢の良い声が飛び交っている。
「わぁ……! エルネストさん、見てください! 綺麗な貝殻のアクセサリーがいっぱいです!」
リリアは桃色のボブヘアを揺らし、好奇心いっぱいに目を輝かせながら露店へ駆け寄ろうとした。
「……待て。一人でチョロチョロ動くな」
ギュッ、と強い力で手首を掴み引き戻された。
「ひゃっ……! あ、ごめんなさい……また私、勝手に……」
振り返ると、エルネストの銀髪の隙間から覗く眼差しは、昨日にも増して冷たく鋭かった。
周囲の雑踏へ配る視線は、まるで獲物を狙う鷹のように一瞬の隙も見せていない。
昨夜の酒場で耳にした「聖職者狩り」の噂を受け、彼の過保護さと警戒心は限界近くまで高まっていた。
「……離れるなと言ったはずだ。この人込みだ、一瞬で姿を見失う」
「は、はい……すみません。でも、手……すごく強く握られていて……」
リリアが少し照れたように呟くと、エルネストはハッと正気に戻ったように指の力を僅かに緩めた。
しかし、決して手を放そうとはしない。
そのまま指を滑らせると、なんとリリアの指の間に自分の指を滑り込ませ、がっつりと恋人繋ぎの形で固定してしまった。
「えっ……!? エ、エルネストさん……!?」
「……文句があるのか? これなら絶対に手首がすっぽ抜けない」
「も、文句じゃないですけど……これ、なんだかすごく恥ずかしいです……っ」
一気に顔を耳まで真っ赤にするリリア。
だがエルネストは平然とした顔で彼女の手を引いて歩き出した。
さらには、通りすがる男たちがリリアの可憐な童顔や、歩くたびに縦揺れする爆乳に目を奪われるたびに、エルネストの体温が氷点下まで下がる。
(……鬱陶しい。下衆な目で何を……。首でも飛ばして、その視線ごと綺麗に抉り取ってやりたくなるな)
エルネストはさりげなく歩幅を合わせ、己の引き締まった体躯でリリアを包み込むように密着しながら歩いた。
肩が触れ合い、リリアの豊かな胸の柔らかい感触が肘に伝わってくるが、今の彼にとってはそれ以上に「誰の視線も手も届かせない」ことの方が優先事項だった。
「きゃっ……!?」
その時、露店の段差に足を取られ、リリアが大きく身体を傾げた。
(――っ)
倒れる前に、エルネストの腕がリリアの細い腰をすさますくい上げた。
勢い余ってリリアの身体がエルネストの胸の中にすっぽりと収まり、甘い香りが彼の鼻腔をくすぐる。
「うう……ごめんなさい……また躓いちゃいました……」
「……転ぶなら俺の上にしろと言っている。……怪我はないか?」
「はい……エルネストさんが受け止めてくれたので……」
腕の中で潤んだ瞳で見上げてくるリリアの無防備さに、エルネストの胸の奥でドロリとした甘い感情が渦巻く。
こんなにもドジで、守ってあげなければ一歩も歩けない愛しい少女。
この世界で彼女の手を握り、庇護できるのは自分だけなのだという優越感が、静かに胸を満たしていく。
——だが、その密やかな甘さの裏で、悪意は着実に迫っていた。
市場の雑踏の片隅、積み上げられた木箱の影から、二人をじっと見つめる粘着質な視線があった。
……ヘヘッ、見つけたぞ。相変わらず無警戒なバカップルだ……。あのレンジャーから引き離すスキさえ作れれば、あの極上のカーディナルは簡単に手に入る……)
深々とフードを被った男が、露店の陰に身を潜めながら、二人の歩調に合わせて着実距離を詰めてくる。
通信用の魔石を握りしめ、合図の瞬間を伺っていた。
「……?」
ふと、エルネストの足を止めた。
背筋を走る、かすかな違和感。
ウインドホークとしての研ぎ澄まされた直感が、人混みの喧騒の中に混じる「殺気」と「粘着質な視線」を正確に捕らえていた。
(……尾行か。昨夜の酒場の手回しがもう動いたか……)
エルネストは表情一つ変えず、リリアを抱き寄せる腕の力を一層強めた。
「エルネストさん……? どうかしましたか?」
不思議そうに見上げるリリアに対し、エルネストは冷徹な仮面の下で、暗く獰猛な殺気を静かに燃やし始めていた。
「……いや、何でもない。……リリア、宿へ戻るぞ。買い出しは終わりだ」
「え……? まだ半分も見てないですけど……」
「いいからついて来い。……絶対に俺から離れるんじゃないぞ」
忍び寄る罠と、過保護な弓手の執着。
アルベルタの街に、いよいよ事件の幕が上がろうとしていた。
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