落ちていくような一瞬の浮遊感の後、足元に伝わってきたのは湿った泥と柔らかい草の感触だった。
「う……あ……っ」
「……大丈夫か、リリア」
エルネストは着地と同時に素早く周囲へ警戒の視線を走らせた。
そこは、アルベルタの澄んだ潮風とはまるで違う、濃い霧と生ぬるい湿気が立ち込める鬱蒼とした樹海の中だった。
見上げるほどの巨木が生い茂り、足元には足首まで浸かるほどの濁った水たまりと苔むした根が広がっている。
(――追手が来る前に、まずは周囲の安全確保と足場の確認だ。この魔力の澱み……最悪のランダム転移を引き当てたな)
「ここ……どこですか……? アルベルタじゃない……?」
リリアがエルネストの胸の中で震えながら、不安そうに周りを見回す。
桃色のボブヘアが湿気で少し肌に張り付き、心細げに潤んだ瞳がエルネストを見上げていた。
「気候と生息している植物の形状……それに、この独特の魔力濃度。……ミョルニール山脈の東側、湿地帯に続く山麓か」
「ミョルニール山脈……!? じゃあ、アルベルタからだいぶ北の方角に飛ばされちゃったんですか!?」
「ああ。おそらく地理的な位置から逆算すれば、ここから南西へ抜ければ魔法都市ゲフェンにたどり着くはずだ。プロンテラへの陸路が塞がれていた以上、結果としては大きく迂回する形にはなったが……」
エルネストはリリアを抱かかえていた腕の力を緩めず、むしろしっかりと自分の体へ押し当てた。
ただでさえ足元が悪い上に、隠密に追ってくるシャドウクロスの気配を警戒すれば、彼女を地面に下ろすなど論外だった。
この泥濘んだ悪路で、彼女の頼りない足取りに命を預ける気など毛頭ない。
(……むしろ、こうしてこうして俺の腕の中に縛り付けておける都合の良い口実かもしれないな)
「エルネストさん……あの、抱っこされたままだと、なんだか恥ずかしいです……」
顔を赤らめるリリアに対し、エルネストは表情一つ変えずに冷徹かつ過保護な声で言い放つ。
「足元を見ろ。ぬかるみだらけだ。君の脚力と足元では一歩進むごとに転ぶ。おとなしく俺に捕まっていろ」
「うぅ……はい……」
エルネストの胸板に頬を寄せ、リリアは彼の力強い鼓動と体温に身を委ねた。
外の不気味な湿気や危険な見知らぬ森の恐怖など、彼の腕の中にいるだけで嘘のように溶けていく。
胸の奥から溢れるのは、圧倒的な守られているという甘い安心感だけだった。
(エルネストさん……すごく頼もしくて……かっこいいな……。どんなに怖い場所に飛ばされても、この人がいてくれたら、私、何も怖くない……)
そう思いながら、リリアは愛おしさを噛み締めるように、素直に彼の首に両腕を回した。
二人が湿地帯の霧の中を慎重に進み始めてから、数分後。
二人が飛び込んだあの青いポータルが消え去る直前——アルベルタの路地裏から、一筋の黒い影が滑り込むようにその陣へ飛び込んでいた。
——サッ。
湿地帯の木々の上に、音もなく着地する一人の影。
漆黒の皮甲冑に身を包み、両腕には禍々しい鋭利な刃——カタールを装着した男。
その全身からは、先ほどの下っ端野盗どもとは一線を画す、圧倒的な殺気と練り上げられた『死』の気配が漂っていた。
頂点に君臨する四次職『シャドウクロス』である。
「……フッ、まんまと飛び込んでくれたな。追跡の手間が省けた」
男はマスクの奥で下品に口元を歪めると、胸元の魔石に触れた。
「……ターゲットの捕捉に成功した。アルベルタからのポータル経由で、ゲフェン東の湿地帯へ誘い込んだ。……連れの弓手も一緒だ」
魔石から返ってくる低い指令の声に、男は残忍な笑みを深める。
「了解だ。あのカーディナルは生かして捕らえる。……同行しているのは、せいぜい一世代前の三次職『レンジャー』か。格上の俺の敵じゃないな。首と胴体を切り離して泥の底へ沈めてやればいいんだろ?」
男が短い詠唱を呟くと、その姿が空気の揺らめきとともに滑らかに透明化していった。
『クローキングエキシード』——視覚だけでなく、気配や足音すらも完全に遮断する絶対不可視の暗殺スキル。
四次職の圧倒的な力と、旧世代の職に対する慢心を孕んだ透明な殺意が、密着して歩むエルネストとリリアの背後へと、静かに、確実に距離を詰め始めていた。
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