生ぬるい湿気と濃い霧が漂う樹海の中を、エルネストはリリアを抱え直しながら慎重に進んでいた。
足元は深さにムラがある泥濘(ぬかるみ)と無数の水たまり。一歩踏み外せば膝まで沈み込むような危険な悪路だ。
「エルネストさん……あの、私、やっぱり自分で歩きます……! 抱っこされたままだと、エルネストさんが戦えなくなっちゃいます……!」
「……ダメだ」
リリアの申し出を、エルネストは冷徹な声で即座に却下した。
「この視界の悪さと泥濘だ。転倒した瞬間に奇襲を受ければ、俺の手が届かなくなる。君はただ、俺の首に腕を回して身を縮めていればいい」
「でも……っ」
エルネストの腕の力は、一切緩むことがなかった。むしろリリアの華奢な体を己の胸板へと強く押し付け、豊満な胸の柔らかな感触や甘い体温を確かめるように抱きしめている。過保護な庇護欲とドロリとした独占欲が、過酷な環境下でますます彼の理性を塗りつぶしていた。
——だが、その直後。
——ゾクッ!!
エルネストの背筋に、氷を直接叩きつけられたかのような鋭い悪寒が走った。
(……来た!!)
音もなく、気配もなく、匂いすら遮断された空間から、突如として放たれた絶対的な殺意。
——ズガァンッ!!
エルネストが反射的に後方へ躍り出ると同時に、彼がコンマ数秒前まで立っていた石畳が、見えない大刃によって粉々に砕け散った。爆風と泥水が二人の全身を濡らす。
「ひゃああっ!?」
「っ……『クローキングエキシード』か……!」
エルネストは泥を蹴って体制を立て直すと、リリアを左腕一本で強く抱え込み、右手の大型弓へ矢をつがえた。
相手の姿は完全に不可視。だが、泥水が跳ねた波紋の位置、そして湿地の空気が微かに歪む感覚——弓手としての異常なまでに研ぎ澄まされた感覚だけで、見えない敵の位置を割り出す。
——シューーッ!!
至近距離からの目隠し射撃。矢は正確に空気を切り裂いたが、暗闇の中でギンッ!と金属が打ち合わさる高い音が響いた。
「ほう……不可視の俺の攻撃を直感だけで避け、反撃まで通すか。……一世代前の『レンジャー』風情にしては、少しは骨のある虫けらのようだな」
空中から、歪んだ男の嘲笑が降ってくる。
次の瞬間、前後左右の空間が同時に揺らめいた。
『ソウルブレイカー』——!!
暗黒の魔力を纏った物理と魔法の複合衝撃波が、目視不可能な軌道で二人を襲う。
「リリアッ!!」
エルネストは咄嗟に身を翻し、飛来する致命的な刃の物理軌道を紙一重の超反応で回避・相殺した。だが、広がる余波と複合された無形の魔法成分までは完全にいなせない。
——ドガァァンッ!!
「グガッ……!?」
直撃した衝撃波に背中を焼かれ、エルネストの口から鮮血が激しく吐き散らされた。
「エルネストさんっ!? やだ、血が……っ! エルネストさん!!」
リリアが悲鳴を上げ、パニックになりながら手を伸ばす。
「案ずるな……っ! この程度の掠り傷、どうということはない……!」
背中に走る激痛に顔を歪めながらも、エルネストの瞳から光は消えていなかった。むしろ、自分の腕の中で恐怖に怯え、血を流す自分を涙目で必死に心配するリリアの姿を見て、胸の奥の狂気が爆発的に跳ね上がっていた。
(俺が……俺の胸の奥だけが、この女の居場所だ。……虫酸が走るな、他人の視線が触れることすら許さない。塵一つ残さず、この手でこの場から消し去ってやる……!)
「――ほう?」
霧の向こう、不敵な笑みとともに四次職『シャドウクロス』の姿が微かに現れる。手にしたカタールからまだ殺気が立ち込めていた。
「今の『ソウルブレイカー』を直撃して、まだその目で俺を睨むか。流石は一世代前の『レンジャー』……いや、ただの足手まといの弓手にしては、予想外にしぶといな。だが、それもここまでだ。――終わりにしてやるよ」
――だが、シャドウクロスのマスクの奥にある双眸は、わずかに揺れていた。 (おい、嘘だろ……? 旧世代の三次職ごときが、直撃を免れたとはいえ、あの複合ダメージを受けて即死どころか、まだ立ちやがった……? 普通なら肉体が耐えきれずに崩壊しているはずだ……ッ!)
格下のザコだと踏んでいた相手が、想定外の生命力を見せたことに対する一瞬の動揺。それが男の冷徹な暗殺者としてのリズムをわずかに狂わせた。
だが、その動揺を打ち消すように、エルネストの背後から眩い聖光が溢れ出した。
「――『レパラティオ』ッ!」
リリアの澄んだ、しかし確固たる決意を帯びた声が響く。 無詠唱で放たれた聖職者の最高峰ヒールスキルが、エルネストの全身を温かな光の粒子で包み込んだ。瞬く間に、背中を焼き焦がしていた魔力の余波も、引き裂かれた筋肉も、吐き出した血の跡すらも、すべてが嘘のように元の完璧な状態へと巻き戻されていく。
「……リリア」
「エルネストさん、もう大丈夫です……! 私も、足手まといになんてなりません……!」
リリアが潤んだ瞳に強い光を宿し、気丈に微笑む。 愛しい少女からの圧倒的な全快の加護と、自分を慕うがゆえの覚悟――それを肌で感じた瞬間、エルネストの中で沸騰していた狂気と冷徹な殺意が、美しいまでに一つに噛み合った。
見えない刺客——シャドウクロスが、再び残忍な笑みを浮かべながら間合いを詰めてくる。両腕の大型カタールが、今度こそエルネストの首を刈り取らんと旋風を巻き起こした。
一人は純支援のカーディナルを抱え、もう一人は完全不可視の暗殺者。大切な少女を侮辱され、怒りに燃えるエルネストにとって、限界を超えた死闘が続いていた。
(……くそっ、リリアを片腕で抱え込んだ状態では、単体の精密射撃ではあの法外な回避力を捉えきれん。まともに狙いを定めるのは不可能か)
エルネストは一瞬で戦術的な判断を下す。どれほど身体能力が高くとも、腕の中に愛しい少女を縛り付けている以上、精密なワンショットは封じられる。ならば、狙うべきは一点ではない。
「――『ゲイルストーム』ッ!!」
エルネストが放ったのは、周囲の空気と魔力を激しく巻き込むウインドホークの広範囲強力スキルだった。 凄まじい暴風の渦が湿地帯の霧を吹き飛ばし、目に見えない絶対不可視の領域ごと、全方位へ無慈悲に吹き荒れる。
「っ……な……!? 馬鹿な……!?」
暴風の直撃を受け、透明化を強制解除されて吹き飛ばされたシャドウクロスが、泥水の上で態勢を立て直しながら目を見開いた。その顔には、先ほどまでの余裕が微塵も消え失せ、冷や汗が浮かんでいる。
(バカな……!? あの風圧、この魔力の収束は……! 見た目はただの『レンジャー』風情だったが、まさか……! こいつ、三次職のフリをした同格の四次職――『ウインドホーク』だと……っ!?)
格下の雑魚だと思い込み、油断しきっていた自分を呪う。シャドウクロスは歯をくいしばり、カタールを構える両手にぐっと力を込めた。相手は自分と同格、あるいはそれ以上の危険な化け物だと認識を改め、殺意を極限まで研ぎ澄ます。
「……面白い。格下だと油断した俺のミスだ。だが、ここからが本当の殺し合いだぜ、ウインドホーク……!!」
暴風が吹き荒れる湿地の中で、二人の実力者が互いに警戒の色を濃くし、戦局は一気に一歩も引けない緊迫した拮抗状態へと突入していった。
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