地面のぬかるみは、一歩進むごとに二人の足元を執拗に絡めとった。
見上げれば巨木の枝葉が空を隙間なく覆い隠し、太陽の位置すら判別できない。
方向感覚を奪う深い緑の迷宮。
だが、エルネストの足取りには微かな迷いも感じられなかった。
(周囲の気配、湿度の変化、そして土の匂い……。ここに飛ばされてから、神経が極限まで研ぎ澄まされている。転生して以来、かつてゲームで極めたハンター、レンジャー、そしてウインドホークとしての卓越したスキルや戦闘勘のすべてが、まるで自分の身体の一部であるかのように不思議と脳と肉体に深く引き継がれている。……俺がしっかりしなくては、リリアが危ない)
不安を押し殺すように前を歩くリリアの背中を視界の端に入れながら、エルネストは腰を落とし、地面の枯れ葉や泥の状態を鋭い目付きで観察した。
「あの、エルネストさん……道、分かるんですか? 周り、全部同じ木に見えますけど……」
不安そうに尋ねるリリアの少し前を歩きながら、エルネストは慎重に言葉を選ぶ。
「木々を見ていても方向は分からない。だが、地面を見れば手がかりはある」
「地面……ですか?」
「ああ。ほら、ここを見ろ」
エルネストが弓の先端で指し示したのは、湿った泥の上に残されたかすかな凹凸だった。
「靴底の跡……? でも、すごく薄くて途切れてますよ?」
「これは馬車の輪痕と、大型の家畜か荷運び用の獣が歩いた足跡だ。雨でかなり流されているが、粘土質の土に深く刻まれた痕跡がある。それに、あっちの木の幹を見てみろ」
言われて見上げた木の表面には、刃物で付けられたような規則的な小さな傷痕があった。
「旅慣れた行商人が付ける目印だ。この森には整えられた街道こそないが、流通のための隠れた交易路として使われている。地面の踏み固められ方と目印の密度から見て、この先を南東に進めば……おそらく、人が集まる大きな港か、それなりの規模の都市に出るはずだ」
「すごい……! そんなところまで見ているなんて……!」
リリアは尊敬の眼差しでエルネストを見つめた。
どこにある何の街なのか、具体的な名前までは当然わからない。
しかし、この見知らぬ異世界の過酷な環境下で、僅かな痕跡から人里へのルートを正確に割り出してみせる彼の頭脳と観察眼に、リリアは深い頼もしさを覚えていた。
(エルネストさんが一緒で本当によかった……。もし一人だったら、私、怖くてとうに泣き出していたかもしれない……)
恐怖と心細さで張り詰めていたリリアの胸に、彼の存在が何よりも強い支えとして染み渡っていく。
「……別に大したことじゃない。生き残るための最低限の知恵だ」
素気なく言い捨てるエルネストだったが、リリアに向けられたその純粋な瞳と信頼の色に、胸の奥が熱くなるのを必死に抑え込んでいた。
(こんな風に頼られるの嫌いじゃない。だが、それ以上に……彼女が無事でいてくれることが、今の俺にとっての唯一の救いだ)
だが、森の移動は一筋縄ではいかなかった。
「きゃああっ!?」
しばらく歩いたところで、リリアの悲鳴が森の静寂を破った。
見れば、木の根とぬかるんだ泥地に足を取られ、聖職者の豪奢な裾を盛大に汚しながら派手に倒れそうになっている。
「っと……」
すかさずエルネストが腕を伸ばし、リリアの手首をしっかりと掴んで引っ張り上げる。
「うう……足元が滑っちゃって……」
「裾が長すぎるんだ。……少しじっとしていろ」
エルネストは腰のナイフを抜くと、躊躇なく自分が羽織っていたマントの端を細く切り裂いた。
そしてリリアの前にかがみ込み、彼女の細い足首と聖職者服の裾をキュッと丁寧に縛り上げた。
(……足元がこんなに細い。守らなければ折れてしまいそうなほど華奢な身体で、彼女は今まであの過酷な戦いを耐えてきたのか……)
「えっ……エ、エルネストさん!? マントを切っちゃうなんて勿体ないですよ……!」
突然の行動に、リリアは頬を赤らめながら慌てて身じろぎする。
「歩きにくくて君が怪我をするよりはマシだ。これで裾を踏みつけることも少なくなるだろう」
立ち上がったエルネストの手が、リリアの頬に付いた泥を指先で優しく拭う。 冷徹な口調とは裏腹な、あまりにも丁寧で甘い手つき。
その触れ方に、リリアの心臓がドキンと大きく跳ね上がった。
(え……? エルネストさん、こんなに優しい手をする人なの……?胸が変にドキドキする……)
「あ……ありがとう、ございます……」
「……行くぞ。遅れるな」
自分のなかに渦巻く昂りを隠すように、少しだけ視線を泳がせながら先を歩き始めるエルネスト。
その背中を追いかけながら、リリアは小さく胸を撫で下ろした。
(エルネストさんって、最初はすごく怖そうな人だと思ったけど……すごく頼りになるし、本当はすごく優しい人なんだ……)
頼もしい彼の背中を見つめるリリアの表情に、少しずつ安心したような笑みが戻っていく。
そして、そのすぐ前を歩くエルネストの胸中では、暗く深い独占欲が静かに、だが確実に膨らんでいた。
(無防備すぎる……。もし俺が追いつくのがもう少し遅れていたら、こんな状態の彼女が一人で放置されていたら、今頃どうなっていたか……想像するだけで血が逆流しそうだ)
泥に汚れ、怯えながら自分にすがりつくリリアの華奢な体躯。
助けるたびに触れ合う肌の温もりと、あまりにも柔らかい感触が、彼の皮膚の感覚に生々しく焼き付いて離れない。
(……この街の先がどんな場所であれ、俺が守らなきゃダメだ。この世界で、俺だけが彼女を無事に導ける。例え何が立ちはだかろうと、俺は彼女を絶対に渡さない)
どこへ繋がっているかも分からぬ森の道。
しかし、二人の物理的な距離と心の距離は、一歩進むごとに確実に縮まっていた。
森の密度が徐々に薄れ、木々の隙間から差し込む光の量が増えてきた頃のことだった。
「見てくださいエルネストさん! あそこ、すごく光が通ってます! もうすぐ森を抜けられるのかも……!」
リリアがぱっと表情を明るくし、弾むような足取りで先へ進もうとした、その瞬間だった。
——グルルルルッ……!!
地鳴りのような重低い咆哮が、前方の茂みから響き渡った。
空気が一瞬で凍りつく。
草木をかき分けて姿を現したのは、巨木ほどもある巨大な体躯に凶暴な爪と牙を流す、迷いの森の主級モンスター——エドガを彷彿とさせる凶暴な魔獣だった。
「ひっ……! 獣……!?」
「下がれ、リリア!!」
エルネストが一瞬でリリアの前に立ちはだかり、背の大型弓を構える。彼の瞳から優しさが消え、一瞬にして冷徹な「狩人」の光が宿った。
魔獣は血走った眼でリリアを捉えると、地響きを立てて突進してきた。その速度は巨体からは想像もつかないほど速い。
「鬱陶しい……!」
エルネストは瞬時に矢を番え、放つ。
——シューーッ! 正確無比な一撃が魔獣の眉間を穿つ。
しかし、肉厚な皮膚と凶暴な生命力を持つ魔獣は立ち止まらず、爪を振り上げてエルネストへと襲いかかってきた。
(くそっ……距離が足りない! 矢の威力を最大まで乗せる時間が——)
エルネストが咄嗟に回避行動を取ろうとした、その時。
「——『クレメンティア』『カントキャンディダス』『プラエファティオ』!!」
凛とした清らかな声が、森の空間を切り裂いた。
言葉が終わるか終わらないかの瞬間、エルネストの全身を眩い金色の神聖な光が包み込む。
肉体が羽のように軽くなり、思考が加速し、視界のすべてがスローモーションのように感じられた。それだけではない。
エルネストの身体の周囲に、あらゆる衝撃を無効化する光のバリアが何重にも展開される。
エルネストは目を見開いた。
ゲーム内で「無詠唱支援」として名を馳せていたカーディナル・リリア。
彼女の圧倒的なプレイスキルとスキル維持能力が、この現実の異世界でも完全に発揮された瞬間だった。
「エルネストさん、いっけぇぇぇーーっ!!」
リリアの叫びが背中を押す。
爆発的な速度とパワーを得たエルネストは、迫りくる魔獣の爪撃を紙一重でかわすと、光のバリア(キリエ)で追撃を完全に弾き返した。
空中で体を反転させ、弓を極限まで引き絞る。
「……沈め」
——ドガァァァンッ!!
解き放たれた矢は、神聖バフの補正を受けた絶大な威力を纏い、光の軌跡を描いて魔獣の眉間を貫通した。
巨体は断末魔の悲鳴を上げることすら許されず、豪快に音を立てて泥の上に崩れ落ちた。
静寂が戻った森の中。
荒い息を吐きながら弓を下ろしたエルネストは、自分の手元と、後ろに立つリリアを交互に見つめた。
「すごいですエルネストさん……! 一発で仕留めちゃうなんて……!」
リリアが無邪気に駆け寄ってくる。
少し天然でドジな先ほどまでの姿とは打って変わり、戦闘中のバフタイミングは完璧そのものだった。
「……リリア。君の今の支援……」
「へ? あ、私、夢中で身体が勝手に動いちゃって……。普段ゲームでやってるみたいにバフをかけたら、本当に光が出て……」
リリアは不思議そうに自分の手を見つめている。
(無詠唱の完全支援……。そうだ、これだ。画面の向こうでずっと俺の背中を預け、支え続けてくれた……俺だけのヒーラー。他の誰にも渡してたまるか)
「……たすかったよ、リリア。君のバフがなかったら、手痛い一撃をもらっていた」
「ふふっ、エルネストさんの役に立てたなら良かったです!」
えっへん、と誇らしげに胸を張るリリア。
その豊満な胸が揺れ、エルネストの視線を嫌でも奪う。
(……プレイスキルは、相変わらず一級品だ。だが……これほどまでに無防備で、目を離せなくなるような女とはな)
戦闘が終わった途端に緊張が抜け、リリアはまたしても何もない場所で「きゃっ」と躓きかけた。
それを今度は手慣れた動作で受け止め、エルネストはしっかりと抱き寄せる。
「うう……また躓いちゃいました……」
「……いいから、俺から離れるな」
冷徹な仮面の下で、エルネストの独占欲がさらに強く渦巻いていた。
「行くぞ。あの魔獣が暴れたおかげで、森の出口までの障害はなくなった」
手を取り合い、二人は光の射す森の出口へと向かって歩み出した。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
第1章は次で終わりなのでもう少しお付き合いください。