ラグナロクオンラインの世界に転生した。―歪な愛の行方― 作:和泉終夜
プロンテラの宿に用意された、静寂に包まれた一室。
開け放たれた窓から吹き込む夜風が、エルネストの端正な銀色の髪を柔らかく揺らしていく。
窓枠に肘をついた彼は、冷徹な鋭さを宿した銀色の瞳で、闇に沈む白亜の街並みを遠くに見据えていた。
この世界に放り出されてからの日々に思いを馳せる。
気づけば、その足取りには常に血の匂いと死の影がまとわりついていた。
フェイヨンの深い森の中で、生きるために初めて生き物と、そして人を殺したあの日の夜。
弓を絞る重みや矢が肉を裂く乾いた感触、あるいは銃声や刃の交わる音と共に、自分のなかの何かが決定的に壊れ、どんどん人間という枠組みから遠ざかっていく感覚があった。
自分の輪郭がすり減り、ただ効率よく敵を排除するだけの冷徹な道具へと変質していくような恐怖。
——だが、それでもよかった。
あの時、絶望のなかで怯えていたリリアを守るためなら、自分の魂がどうなろうと構わなかった。
ゲフェンへと向かう道すがら、レイというもう一人の「護るべき者」が加わった。
行く手を阻む者、あるいはリリアへ向けられる下衆な虫どもを排除していくうちに、いつしか人を殺すことに対する躊躇いや戸惑いは、完全に消え失せていた。
人間性を失い、冷徹な牙だけを持つ怪物へと成り果てていく自分を、どこかで自覚しながらも仕方のないことだと割り切っていた。
だが——。
「……我ながら、気を張り詰めていたものだな……しかし、あいつらと、また出会えて」
呟いた声は、夜の静寂の中に溶けていく。
離れ離れになっていた仲間たちが再び集い、互いの無事を確認し合った今日という日。
バラバラだったピースが噛み合うように全員が揃ったとき、ずっと張り詰めていた心の糸が心地よく音を立てて緩んだのだった。
狂気に片足を突っ込んでいたはずの自分が、まだかろうじて「人間」でいられていることを知る。
(俺はまだ、彼女たちと笑い合える人間かもしれない……)
胸の奥に灯った微かな温もりに安堵を覚えかけた、その直後だった。
――ぬるり、と。
胸の奥底で、悍ましい何かが音もなく首をもたげた。
それはかつて人間だった頃の感傷など容易く踏みにじり、底知れぬ飢えをたたえて内側から胃呑みにしようとする、猛禽の――あるいは暗闇に潜む飢えた狼のそれに酷似した「本能」だった。
理性の皮を一枚剥ぎ取れば、その下には他者のすべてを掠め取り、自分の巣穴の奥深くに引きずり込んで骨まで味わい尽くそうとする得体の知れない獣がうず巻いている。
リリアを守る。
レイを守る。
だが、その保護欲という名の綺麗ごとの裏側で、彼の精神を侵食する獣はこう囁いていた——『いっそ外界から遮断し、二度と誰の視線も届かぬ深淵へ閉じ込めてしまえ』と。
仲間という穏やかな絆の形など無視し、ふたりを自分の肉片にでも縫い付けるようにして完全に独占したい。
そのドロドロとした狂気の欲求が全身の血を駆け巡り、エルネストの背筋をぞっとさせるような甘美な快楽で満たしていく。
(……俺は、いったい何を考えている……?)
自分の内側を支配し始めた悍ましい変化に気づきながらも、エルネストは微かな自嘲の笑みを浮かべるだけで、それを追い払う気など毛ほどもなかった。
むしろ、人間としての倫理が剥がれ落ち、獣の領域へと堕ちていく背徳感に身を委ねるように、彼はその冷酷な熱に酔いしれていく。
思考の海を断ち切るように、乾いたノックの音が静寂を破った。
コン、コン。
「……?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、他でもないリリアの声だった。
ガチャリと音を立てて扉を開けると、そこには夜姿で少しおずおずとした様子を浮かべたリリアが立っていた。
桃色のボブヘアは少し柔らかくほぐれており、その無防備すぎる姿に、エルネストの胸の奥で息を潜めていた「狼」が狂おしく牙をむく。
「リリア? こんな時間にどうしたんだ。何かあったのか?」
「ううん、何もないんですけど……その、お部屋に戻ったあと、なんだか少しだけ目が冴えちゃって……。それに、アルベルタの街であったこととか、今日みんなに無事再会できたこととかを思い出したら、エルネストさんにお礼と……ちゃんとお話ししたくなって……」
リリアはもじもじと指を合わせながら、上目遣いでエルネストを見つめた。
その無邪気で可愛らしい仕草は、飢えた獣にとって最高潮の誘惑にほかならなかった。
「……そうか。中に入れ」
エルネストは自分のベッドの縁をポンポンと叩いて、リリアに座るよう促した。リリアが素直に腰を下ろすと、彼はすかさず自分の厚手のローブを彼女の肩へと丁寧に羽織らせた。
その優しげで丁寧な手つきとは裏腹に、エルネストの瞳の奥には、静かで冷徹な光が宿っていた。
(……やはり、あのまま野放しにしておくべきではなかったな)
昼間の出来事や、彼女を取り巻く世界の危うさを思い返すたび、エルネストの胸中にはある種の焦燥と、冷ややかな独占欲が渦巻く。
……欲に溺れるような愚行ではなく――この無防備で危うい少女を、自分の目の届く安全な檻の中に完全に閉じ込めてしまいたいという、歪んだまでの過保護な執着。
「あ、ありがとうございます……エルネストさん、なんだかいつも過保護すぎませんか?」
リリアが照れくさそうにはにかむと、エルネストはふっと息を漏らし、彼女の隣に深く腰を下ろした。
「過保護で結構だ。君が思っている以上に、この世界は危険に満ちているからな。……それに、君を失うわけにはいかない」
「……エルネストさん」
リリアは潤んだ瞳で彼を見上げる。
その無防備な顔立ちと、彼女の身体からほのかに漂う甘い香りが、エルネストの鼻腔をくすぐった。
(――……っ)
瞬間、エルネストの理性が微かに軋んだ。
もともと彼自身に、欲に目が眩むような下卑た情欲などない。
だが、直前まで過ごしていた部屋の残り香なのか、あるいはこの無防備な少女自身が無意識に発散しているのか――得体の知れない濃厚な熱と甘い気配が、エルネストの冷静な思考を内側からじっとりと侵していく。
頭では「これ以上は不要な執着だ」と冷めた理性が警告を発しているというのに、身体の奥底がその抗いがたい熱にあてられ、制御を失いかけていた。
気づけば、エルネストは彼女の細い肩をそっと引き寄せ、自分の胸元へと引き込んでいた。
「……エルネストさん……?」
「……動くな。少し……そのままにさせてくれ」
いつもなら絶対に他人に見せないような、わずかに焦燥を帯びた低い声。
エルネストは彼女の背中に腕を回し、逃がさないように強く、しかしどこか縋るようにその温もりを抱き締めた。
頭を支配する微熱と、抗えない引力に絡め取られながら、エルネストは「……ここで、こうして俺の側にいろ。それだけでいい」と掠れた声を絞り出す。
リリアは何も知らずに、ただその不器用なまでの優しさと温もりに安堵し、心地よさそうに彼の胸元へと身を委ねるのだった——。
だが、どれほどその温もりを繋ぎ止めておきたくても、彼女をいつまでもここに留めておくわけにはいかない。
同じ部屋にはレイもいるのだ。
あまり長く抜け出していれば、あいつに変に勘繰られたり、余計な心配をかけたりすることになる。
(……まだだ、今はまだ引き剥がすべきではない)
冷徹な理性がかすかに浮上し、エルネストは自らの内側で猛る衝動をぐっと押し殺した。
彼はゆっくりと腕を緩めると、何事もなかったかのような穏やかな笑みを浮かべ、リリアの頭を優しく撫でる。
「……夜風で冷えただろう。今日はもう遅い、あっちの部屋に戻ってゆっくり休むといい」
完璧で頼もしい庇護者の仮面を取り戻したその笑顔の裏には、「もう二度と、自分のコントロールが及ばない場所へ行かせない」という、絶対に逆らえない無言の枷がしっかりと掛けられていた。
リリアは何も気づかないまま、その優しさに安堵したようにふわりと微笑む。
「うん……エルネストさん、ありがとう。おやすみなさい」
素直に頷いた彼女は、そのままレイの待つ自分たちの部屋へと帰っていく。
その背中を見送りながら、エルネストは静かに扉を閉め、冷え切った部屋の中で一人、自分だけの絶対的な安全網をさらに緻密に構築し始めていたのだった——。
リリアが自分の部屋へと戻り、重い扉が静かに閉まる。
部屋に残されたのは、甘い残り香と、エルネストの胸の内で依然としてくすぶり続ける冷徹な独占欲だけだった。
(……いけないな。少し、思考が澱んでいる……)
エルネストは自身の内側で蠢く黒々とした独占欲を、冷徹な理性の力で無理やり押し込めた。
かつてフェイヨンの森で自分の手で命を奪って以来、自分のなかの何かが決定的に変質してしまった自覚はある。
効率や合理性を口実にして、大切な人間を自分の手の届く安全圏に――いいや、誰にも触れられない場所に完璧に囲い込んでしまいたい。
そんな歪んだ衝動が、ふとした瞬間に牙を剥く。
だが、まだそこまで踏み外すわけにはいかない。
彼女たちが安心して過ごせる環境を整えるまでは、自分は冷徹な「理性」を保たなければならないのだから。
感情の波を無理やり心の奥底へと鍵をかけて閉じ込め、エルネストがフッと息をついたその時――再び、乾いたノックの音が響いた。
コン、コン。
「……今度は誰だ」
わずかに眉をひそめながら扉を開けると、そこに立っていたのは、見慣れない猫耳をぴこつと揺らし、なぜか少しバツが悪そうな顔をしたレナードだった。
「やぁ、エル。良かった起きてて。……って、あれ? なんだか部屋の空気、少しピリッとしてるみたいだけど、どうしたの?」
レナードはいつもの穏やかな仕草で、ごく自然にエルネストの部屋へと足を踏み入れた。
――その瞬間、胸の奥底で渦巻いていた澱みや荒れていた思考の波が、まるで嘘のようにスッと凪いでいく。
張り詰めていた神経が弛緩し、どこか強張っていた体から自然と力が抜けていくのが分かった。
「……大したことじゃない。ただ、少し考え事をな」
わずかに呆れたような、だがどこか肩の力が抜けたトーンで、エルネストはそう言いながら道を空けた。
レナードに向けるその声には、棘のかけらも存在しない。
「ううん、大した用じゃないんだよ。ただ、さっきみんなと別れたあと、なんとなくエルのことが気になってさ……。ほら、これ、宿の売店で買ってきた冷たい飲み物なんだけど、お部屋でまだ起きてるならと思って差し入れにね」
レナードはふっと柔らかく微笑みながら、手にした瓶をそっと差し出した。
見慣れない猫耳が、トプンと小さく揺れる。
その無防備な優しさに触れながら、エルネストは深く息を吐き出した。
(……本当に、お前を見ていると調子が狂うな)
すっかり平穏を取り戻した瞳で、エルネストは差し出された瓶を受け取り、やれやれといったふうに軽く肩をすくめるのだった。
冷たい飲み物を受け取り、肩をすくめたエルネスト。
レナードはそんな彼の様子にどこかほっとしたような表情を浮かべ、部屋の椅子に腰を下ろす。
「ふう……それにしても、今日こうしてエルと無事に合流できて本当に良かったよ。バルドやノアとプロンテラで落ち合ってからも、ずっとエルのことが気がかりだったからさ」
レナードはふっと柔らかく微笑み、新しく生えた自分の猫耳をむず痒そうに手で軽く触った。
ラザーニャからイズルードを経てプロンテラへ至る長い道のりと、その果てでようやく再会できた安心感。
だが、それ以上に、レナードの中には言い知れぬ「戸惑い」があった。
彼はゴソゴソと自分のブーツの留め具を外し、ふうっと小さく息をつきながらエルネストを見上げる。
「なあエル、ちょっと聞いてよ。この耳とか尻尾も大概だけどさ……もっと変なものがあるんだよ。誰も知らないだろ、これ」
「……変なもの?」
「ほら、これだよ!」
そう言ってレナードがぽんと差し出した自分の足の裏――そこに綺麗に並んでいたのは、人間のものなど到底ない、柔らかくプニリとした「肉球」だった。
「顔や体は人間のままなのに、なんで足の裏だけこんな肉球になってるんだよ。革靴を履くと変に引っかかるし、歩くときもなんだか地面の感触が生々しすぎてさぁ……。おかしくないか?」
「…………」
レナードの言葉が終わるか終わらないか、エルネストは一切の躊躇なく、スッと手を伸ばしてレナードの足首をガシッと掴んだ。
「ちょっ、え、エル!?」
聞く耳を持たず、エルネストはそのまま容赦なく手元を引き寄せ、信じられないものを見る目で、その肉球を文字通り穴が空くほど至近距離でじっと凝視し始めた。
冷徹な銀色の瞳に、ぷにぷとした柔らかそうな肉の質感が容赦なく映し出される。
(――なるほど、構造的には完全に猫科の……いや、それにしては骨格の比率が……)
「な、なんだよ急に! そんなまじまじと見つめんなって、はずかしいだろ! わっ、こら、ちょっと待て、そこ触るな……っ!」
人間の姿のまま敏感な肉球や足首を容赦なくホールドされ、おまけに至近距離で観察されているものだから、レナードはたまったものではない。
「ひゃっ……! あははっ、まっ、待てよエル! そこくすぐったいって! うわ、あははは、マジでやめろってば……!」
足の裏の過敏な感度と、至近距離で顔を覗き込んできているエルネストの無言の圧力に耐えかねて、レナードは涙目になりながら爆笑し、もう片方の足でバランスを崩しながらバタバタと身悶えした。
部屋の中に響く、レナードの無邪気で楽しげな笑い声。
その明るい声と、手のひらに伝わる生き物としての確かな温もり、そしてむき出しになった肉球の柔らかさに触れた瞬間――。
エルネストの胸の内で煮凝っていたドロドロとした狂気や澱みは、まるで嘘のように、スッと完全に消え去っていった。
(……本当に、調子が狂う)
真面目な顔のままガシッと足首を掴んだままのエルネストは、バタバタと笑い転げる幼馴染の姿を眺めながら、やれやれといったふうに小さく息を吐き出す。
他の誰が相手なら間違いなく冷徹に切り捨てていたであろう異常事態も、レナードがこうして笑っているだけで、すべてがどうでもよく思えてしまう。
「……動くな、レナード。ちゃんと構造を確認しないと、明日から靴擦れを起こすぞ」
「うそだね絶対面白がってるだろ! あはは、もう、くすぐったいってば!」
――無自覚に相手の狂気を完全に中和してしまう清涼剤と、それをいいことにガッチリと逃がさない執着の主。
深夜の部屋で繰り広げられる、あまりにも平和で、あまりにも歪んだ、幼馴染二人の夜更けのワンシーンだった。
涙目を拭いながら、レナードはふうと小さく息をついてベッドの縁に腰掛け直した。
先ほどの無邪気な笑みから、少しだけ落ち着いた色に瞳が染まる。
「ボク、そんな肉球見せに来たんじゃないんだけどさ。……明日からのことだよ」
「……明日からのこと、か」
エルネストはわずかに眉をひそめつつも、崩れていたトーンをすっきりと整え、冷徹な声音をとり戻した。
「そうそう。靴擦れとかそういう物理的な話じゃなくてさ」
レナードは自分の両手を軽く見つめてから、まっすぐにエルネストを見た。
「さっきも言ったけど、肝心なプロンテラに着いてバルドやノアとは先に合流できてたけどさ、肝心なエルたちの消息がしばらく全く分からなくてさ。ずっと無事かなって、結構やきもきしてたんだよ」
レナードは少し困ったように、けれどどこかホッとしたような笑みを浮かべる。
「今日こうして無事に合流できたって安心したら……今度はこの足の裏の肉球や猫耳だろ? パッと見は完全にドラム族か、変な亜人みたいに見えるわけじゃん。こんな姿で、ボクがこの世界で普通にやっていけるのかなって……。ずっと離れ離れだった不安もあるし、これからのこと考えると少し心配になってさ。エルは頭がいいからさ、こういう妙な仕様になったボクたちが、これからどうやって動いていけばいいか……何か考えてたりしないかなって思ってさ」
――ずっと消息が知れず、不安をやきもきさせながらも、ようやく再会できた安堵とこれからの危機感。
それを一人で抱え込んだりせず、真っ先にエルネストのもとへ持ってきてくれたという事実。
その真剣な眼差しを向けられた瞬間、エルネストの胸の内で渦巻いていた「ただの日常的な安らぎ」が、カチリと音を立てて別の歯車にかみ合った。
「……そうか。消息が知れず、心配をかけたな」
ふと少し考えたように目線をずらしながら静かにそう告げると、エルネストはデスクの上の資料から目を離し、何食わぬ顔でレナードを見据えた。
冷徹な理性が再び完璧な速度で動き出す。
「お前が心配しているのは、その肉球や耳が戦闘や人間関係の足枷になるのではないかということか」
「うん。だって、足の裏が肉球だとさ、草むらや石畳の歩き心地は良くても、急な戦闘で踏ん張りが利くのか未知数だし、何より街の人間から変な目で見られたら面倒だろ?」
レナードが苦笑交じりにそう言った瞬間、エルネストの口元に、わずかに不敵で、しかしどこか底意地の悪い笑みが浮かんだ。
「心配するな、レナード。むしろ逆だ」
「逆?」
「ああ。その肉球や耳は、足枷どころか――これから俺たちがこの世界を生き抜くための、最高に厄介で強力な『武器』になる」
「最高に厄介で強力な『武器』って……どういうことだよ、エル」
レナードは小首をかしげ、猫耳をぴくんと動かした。
その無防備な仕草を、エルネストは冷徹かつ鮮やかな手際で分析の網にかける。
「文字どおりの意味さ。お前は自分の身体が変わったことで『普通の人間社会に馴染めるか』を心配しているが、そもそも俺たちが引きずり込まれたこの世界が、まともな人間社会のルールで動いていると思うか?」
エルネストはデスクの上に広げていたプロンテラ周辺の地図とモンスター分布の資料を指し示した。
「ゲフェンからこの街へ来るまでの道すがら、俺も身をもって思い知らされたが……この世界のモンスターの強さはどこか歪だ。ゲームの知識にあったはずのデータなど、今のところ何の役にも立たない。たかがペコペコを仕留めようと矢を放ったとき、あいつらはあの巨体に見合わない異常な耐久力でそれを弾き返し、あわや反撃されかけた。生半可な『常識』にしがみついている人間から順に、あっさりすり潰されていくような場所だ。そんな場所で、人間の骨格のまま猫科の柔軟性と肉球の衝撃吸収力、そして音もなく気配を断てる身体を手に入れた。これが何を意味するか分かるか?」
「……ってことはさ」
レナードは、エルネストの意図を瞬時に察し、自分の手足を軽く見つめながら小さく息をついた。
頭の回転の早い彼なら、そう言われてしまえば結論に至るまで時間はかからない。
「『隠密戦闘』や『前衛の奇襲』において、ボクのその肉体は、既存のどの職業の人間よりも圧倒的なアドバンテージを持つってこと……だよね?」
「ああ。足音が消える肉球、夜目の利く瞳、そして何より――その異常な聴覚だ」
淡々と、しかしどこか熱を帯びた声音でエルネストは言い切る。
レナードは小さく耳をぴくりとさせた。
「聴覚?」
「ああ。今、お前自身が自覚している以上に、お前の耳は音を拾っているはずだ。例えばこの部屋のドア越し、廊下の向こうを歩く衛兵の足音、あるいは窓の外の風に乗って聞こえてくる微かな息遣いまでも――すべてな。夜間やダンジョンにおいて、お前のその『とてつもなく良い耳』は最高の索敵能力になる」
そしてエルネストの遥か遠くの微細な変化を捉え始めるその瞳も、もはや常人の領域を外れていた。
今はせいぜい三百メートル先を見通すのが精々だが、この分では、いずれ距離の基準そのものが彼のなかで崩壊していくだろう。
エルネストは自らに起きている変異を冷徹に呑み込みつつ、猛禽類を思わせる銀眼を静かに細めた。
「え、そこまで耳が良くなってるのか……? なんか段々、自分が人間じゃなくなっていく実感が湧いてきてちょっと怖くなってきたんだけど」
レナードが苦笑しながら肩をすくめると、エルネストはフッと言葉を流した。
「恐れることはない。変化の過程や、感覚の制御も、必要なら俺がデータとして管理してやる。……もっとも、お前のその身体がこれからどこまで変質していくのか、この世界の仕様そのものが未知数だがな」
(――そうだ。レナードがどれほど強力な力を手に入れようとも、それをコントロールし、運用するのは俺だ。この世界で生きるための『牙』も『爪』も、すべて俺が管理してやる)
レナードは「へえー、なんかスパイ映画みたいで面白そうだな!」と、どこか気負いのない笑顔を浮かべていた。
「ハァ、びっくりしたな。もっと変な呪いでもかけられたのかと思ったけど……それなら、少しは安心かな」
「……あぁ。安心しろ、レナード」
エルネストはわずかに口角を上げ、レナードの肩にそっと手を置いた。
その指先は、微かに、しかし確かな執着の力を込めてその衣服の上からしっかりと掴んでいた。
「お前がどこに行こうと、どんな姿になろうと――俺が、お前の居場所も、進むべき道も、すべて完璧に管理してやる。だから、お前はただ俺の隣にいればいい」
「……ん?うん。そうだね?ボクはいつも隣にいるよ?」
レナードは小首をかしげ、どこか呑気かつ無自覚に微笑んでみせる。
「……その言葉、忘れるなよ」
わずかに細められた銀眼の奥に、凍てつくような独占欲が微かに光る。
しかしレナードはそれに気づく様子もなく、のんびりと伸びをした。
「さて、話もまとまったし寝ようかー。ほら、エルもこっちこっち」
「………………は?」
呆然とする間もなく、レナードにぐいと腕を掴まれ、エルネストは抵抗する暇もなくそのままベッドへと引きずり込まれた。
「おい、レナード……っ」
「うーん、ここのベッドやっぱり寝心地いいや。んじゃ、お休みエル。また明日ねー」
ベッドになだれ込んだ勢いそのままに、レナードは当然のように毛布に潜り込んでしまう。
「………………自分の部屋で寝ろ」
「えー? めんどくさい。いっしょでいいじゃん」
エルネストの言葉など完全に無視して、レナードはそのまま当然のようにゴロンと横になり、一瞬ですうすうと規則正しい寝息を立て始めた。
毛布の中ですっかり落ち着いてしまった元凶にガッチリと抱え込まれたまま、エルネストは自由の利く方の手で静かにこめかみを押さえた。
わざわざ顔を覗き込む気すら起きず、エルネストはただ天井を仰いだまま、逃げ場のない腕の中で深くため息をついた。
(……まったく、図々しいにもほどがある……。不条理だ。なぜ俺が男の体温を全身で受け止めながら寝なければならんのだ)
(『狭いからホールドして固定する』というのは、確かにパーツを一体化させて摩擦係数を上げ、ベッドからの落下を防ぐという意味では…………いや、男同士でそれは絶対におかしい)
(………………)
(……狭い。物理的にデカい男二人で収まるスペースじゃないだろうが。……まったく、何なんだこいつは)
冷徹な理性がかすかにトゲのある不満を呟くが、声を荒げる気力すら湧いてこない。
身体ごとガッチリと抱え込まれた状態では、逃げ出すこともままならなかった。
遥か遠くを見通すはずのその瞳も、この図太すぎる相棒の強引な行動と圧倒的な物理の前では、ただ途方に暮れて静かに瞼を閉じるほかはなかった。
エルネストは小さく息を吐き出すと、これ以上抗っても無駄だと悟り、落ちそうになる身をなんとか滑り込ませるようにして、渋々ベッドの端に横たわる。
背後からは、レナードが満足そうに身じろぎする衣擦れの音と、時折ぴこっと動く猫耳の気配が伝わってきた。
(……明日からは、この世界の仕様の検証と、あいつらの護衛の再構築だ。休んでいる暇は………な…………い…………)
静まり返った闇の中で、エルネストは無理やり冷徹な思考の網を張り巡らせようと努める。
だが、背中越しに伝わる幼い頃から変わりない確かな温もりに包まれるうち、その張り詰めた理性は静かに解けていき、彼はそのまま深い眠りへと落ちていくのだった。
プロンテラの長い夜が、それぞれの思惑と変異を孕んだまま、ゆっくりと朝へと向かっていくのだった――。
朝の光が薄暗い部屋に差し込むと同時に、エルネストはハッと目覚めた。
(…………なぜ俺は一瞬で寝ていた……?)
自分の置かれた状況――相変わらず後ろの男にガッチリとホールドされたままであることを認識し、エルネストは瞬間的に思考を高速回転させる。
(検証するまでもない、こいつのホールドによる『適度な圧迫』が、一種の加重毛布と同じ効果をもたらし、副交感神経を優位に立たせた。……だからといって男相手にここまで熟睡するとは。どう考えても理屈が通らない……俺の警戒心はどこへ消えた……?)
「……おい、レナ。起きろ」
エルネストは目を覚ますなり、自分の体の半分を押し潰すようにすやすやと寝息を立てている幼馴染に対し、拘束された腕の中でため息をつき、その脇腹をポンポンと軽く小突いた。
昨夜、強引にベッドへ引きずり込まれてからというもの、結局狭いスペースで身動きを取れずに朝を迎える羽目になったのだ。
加重毛布さながらの圧迫感によって信じられないほど熟睡してしまった不覚さに、銀色の髪を少し乱したエルネストの表情には、冷徹になりきれない自分への苦笑が混ざり合っている。
「う〜ん……んぁ……おはよ、エル……」
むにゃむにゃと目をこすりながら起き上がったレナードは、寝ぼけ眼のまま頭の上の猫耳をぴこぴこと揺らし、足の裏の肉球をモゾモゾと布団に擦り付けた。
「ふあぁ……よく寝たぁ。エルの隣、なんだかんだ落ち着くんだよね」
「……一つ間違えたらただの不審者だぞ、レナ。自分の部屋で寝ろとあれほど言ったはずだ」
「え〜〜、いいじゃん別に。減るもんじゃなし」
「増減の問題ではないと言っている。物理的にも衛生面においても不都合しか……ハァ、もういい。朝からお前と不条理な議論をしている時間はない」
文句を言いながらも、エルネストは手際よく身支度を整え、デスクの上の地図とノートを開く。
すでに頭の中では、今日プロンテラで調達すべき装備や、レナードの身体(肉球・聴覚)のデータ収集のスケジュールが完璧に組み上げられていた。
(……よし。あいつらの安全を確保するための手順は整った。あとは……)
昨夜あんなにもドロドロと胸の奥で渦巻いていた独占欲や狂気が、隣で呑気に欠伸を噛み殺しているレナードの姿を見ているだけで、不思議と冷たく澄んだ「理性」へと昇華されていく。
(……まずは、隣の部屋の二人の様子を確認しに行くか)
完璧な庇護者の仮面を取り戻し、冷徹かつ冷静に扉へ手をかけた、その瞬間——。
『話を聞けぇぇぇッ!! 触るな! 撫でるなぁぁあああ! !!』
壁を隔てた隣の部屋から、静寂を切り裂くようなレイの凄まじい絶叫と悲鳴が響き渡った。
「……………………」
「……え? いまのレイの声……だよね? すごい元気そうだね、エル?」
扉ノブを掴んだままピタッと静止するエルネスト。
レナードは小首をかしげて猫耳をぴくんと動かし、呑気に笑っている。
エルネストは深々とため息をつくと、こめかみを指で押さえながら静かに呟いた。
「……朝から、何の騒ぎだ……」
一呼吸おいて冷徹な「完璧な庇護者」の顔を取り戻すと、エルネストは扉を開けながら隣を振り返る。
「行くぞ、レナード」
「はいはい」
ここまで読んで下さりありがとうございます。
そしてお気に入り登録してくださっている方ありがとうございます!
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現段階で六章まで書き終えておりますので暫くは毎日7:00と19:00の1日2回のペースで更新していこうと思っています。
よろしくお願いします。