ディスプレイの向こう側で、見慣れたゲームのウィンドウが暗転していく。
深夜の静寂に包まれた自室。
デスクトップファンの微かな駆動音と、キーボードを叩いていた自分の指先の疲労感だけが、紛れもない現実の証拠だった。
(……やっと終わったか)
画面には、今日一日のレベリングやギルドでの諸々を終えたキャラクターのステータス画面が映し出されている。
長時間のプレイで少し重くなった目を擦りながら、エルネストはマウスを大きく右上に走らせた。
システムメニューを開き、迷うことなく【ログアウト】の項目をクリックする。
いつもなら、ここで数秒のロードを挟んで画面が完全にブラックアウトし、モニターの青白い光や使い慣れた自室の空気に包まれる――はずだった。
だが、いつまで経っても現実に戻る感覚が訪れない。
それどころか、肌を撫でる空気は人工的な冷房のそれではなく、湿り気を帯びた深い森特有の冷たい夜風だった。
「……っ」
かすかな違和感を覚えて目を開けると、そこに見慣れた自室の天井はなく、空を覆い隠すほどに枝葉を伸ばした巨大な古木の群れが広がっていた。
隙間から漏れる青白い月光が、見知らぬ異世界の夜を不気味に照らし出している。
(なっ……どういうことだ?……おそらく、長時間のプレイでいつの間にか意識が落ちて寝落ちし、その無防備な隙を狙って誰かに部屋へ侵入され、どこかの山中にでも誘拐・監禁されたと考えるのが妥当だ。だが……一体、俺を拉致して何の得があってこんな手間を……? 身代金目当ての人間が、わざわざこんな何もない山奥に俺を放置するはずがない)
「ふざけてるのか……? オフラインイベントの演出にしては、悪趣味すぎるが……。いや、もし本当に組織的な誘拐だとしたら、一体俺をこんな山奥に連れ出して、何をさせるつもりだ? 身代金目当てにしては手順が狂っているし、もっと別の……趣味の悪い実験か何かのつもりか……?」
口をついて出たその声は、寝起きで少し低いくらいの、紛れもないいつもの自分の声だった。
だが、額にかかった髪を払った指先に触れた感触は、かつての自分の黒髪ではない。
絹糸のように滑らかな銀色の髪であり、それがきっちりと後ろでローポニーテールに括られていた。
さらに、身にまとっているのは普段着ではなく、あのダサいウインドホークのデフォルト衣装を嫌ってコスチュームチェンジで常時変えていた、使い慣れた「レンジャー」のスタイリッシュな軽装防具一式だった。
背中には愛用の弓がしっかりと背負われ、その総重量や質感が妙に生々しく、自分の肉体の一部のように馴染んでいる。
ここは日本の山奥のはずなのに、五感に伝わってくる情報量は完全にゲームの中のそれだった。
遠くから聞こえる獣の咆哮、草木が擦れ合う音、そして足元に広がる湿った土の匂いが、状況の異常さを容赦なく物語っている。
理不尽で突拍子もない状況に、エルネストの鋭い知性がフル回転し、現状を分析しようと試みる。
(……まずは状況の把握だ。スマホの電波は――当然のように入らない。これは完全にどこかへ連れ去られた拉致事件だ。このまま無防備に突っ立っていれば、山奥に潜む熊や猪に襲われるか、あるいは犯人の次の手にかかる)
エルネストは冷徹に思考を切り替えると、身を守るために反射的に背中に背負っていた弓へと手を伸ばした。
弦の張り具合、矢の感触――すべてが完璧に機能する。
(……どこのどいつの仕業か知らないが、俺をこんなところに放り出したこと、後悔させてやる。まずはこの森を抜け、人里へ出て連絡手段を確保するのが先決だ)
そう心に決め、警戒しながら闇の深い森を踏み出そうとした、その時だった。
――ガサリ、と。 常軌を逸した巨体が、生い茂る草木を押し広げる音が間近で響いた。
(っ……!? 来たか、人間か、それとも――)
身構えたエルネストの視線の先、青白い月光に照らし出されて闇から姿を現したのは、日本で見聞きしたツキノワグマのような熊とは似ても似つかない、ビッグフットを思わせる禍々しく巨大な二足歩行の野獣だった。
その現実離れした光景を目の当たりにした瞬間、エルネストの脳内で「山奥への人間の誘拐」という合理的な仮説が音を立てて崩れ去っていく。
(なっ……ばかな……! あんな化け物が……現実(こっち)にいるだと……!?)
それは、ここが日本のどこかの山中などではなく、あり得ないはずのゲームの世界そのものであることを、冷徹な現実としてエルネストに叩きつけるのだった。
(……どこのどいつの仕業か知らないが、俺をこんなところに放り出したこと、後悔させてやる。まずはこの森を抜け、安全な拠点を確保するのが先決だ)
冷徹な瞳に不敵な光を宿し、エルネストは静まり返る暗い森の奥へと、最初の足を踏み出すのだった——。
森に放り出されてから、すでに三日ほどが経っていた。
現実世界ではデスクワークをこなしていただけの「普通の日本人」であるエルネストにとって、この異世界でのサバイバルは想像を絶する悪夢そのものだった。
最初に目の前を通り過ぎた日本にいた似ても似つかないビックフットのような巨大な熊に遭遇したとき、彼は反射的に悲鳴を上げそうになった。
それを文字通り「殺す」ことなどできるわけがなかった。
その結果、数日前に運良く隠れてやり過ごしたはずのあの巨大なビッグフットと、あろうことか森の開けた場所で正面から鉢合わせてしまったのだ。
まだこの身体の感覚やウインドホークのスキルに慣れ切っていない彼は、周囲の気配を読み取ることもままならなかったのだ。
(くそっ……! まだ身体がこの世界の感覚を掴みきれていない……っ!)
逃げる間もなく、殺気を剥き出しに容赦のない牙を剥いて飛びかかってきた巨大な野獣が重い一撃を繰り出そうと迫ってくる。
生き残るためには、怯えを押し殺してこちらが致命傷を与えるしかないという残酷な現実が突きつけられた。
(っ……!?)
裂けた肉から熱い血が流れ落ちる生々しい感覚。
ゲームのようなアバターの損耗ではなく、まぎれもない現実の暴力だった。
このままでは確実に踏み潰され、殺されるという理不尽な恐怖に対し、エルネストのなかで生存本能が鋭くスパークする。
――殺される前に、殺す。それだけの話だ。
震えなどとっくに消え失せた両手で、エルネストは至近距離から迷うことなく愛用の弓を構え、渾身の一撃をその急所へと叩き込んだ。
放たれた矢が肉を穿ち、絶命したモンスターの巨体が地響きを立てて崩れ落ちる。 ――だが、その瞬間。
初めてモンスターの急所に矢を突き立て、その生命が絶える瞬間を目撃したとき、エルネストは激しい眩暈と強烈な吐き気に襲われて草むらに身を屈めた。
胃液を逆流させ、震える手で地面を掻きむしる。自分が「生き物を殺した」という重みが、頭の芯を狂わせるほどに重くのしかかったのだ。
どれだけ状況に適応しようと頭を働かせても、つい数日前まで平和な日本でデスクワークをこなしていた「普通の人間」としての倫理観が、生理的な拒絶反応となって彼の内側から悲鳴を上げる。
それは、極限の世界に放り出されたエルネストに残された、最後の「日本人らしさ」そのものだった。
だが、感傷に浸る余裕など一秒たりとも与えられなかった。
血の匂いに引き寄せられた別のモンスターが次々と影から這い出し、さらには身ぐるみを剥こうと襲いかかってきた野盗のグループにまで遭遇した。
慈悲や迷いは、そのまま自分の死に直結する。
四日目の夜、泥だらけになり、矢を撃ち尽くしかけながらも、エルネストは泥沼の中で幾人もの敵を射抜いていた。
恐怖で強ばっていた表情はとうに消え失せ、代わりに瞳の奥には「ここで死んでたまるか」という剥き出しの執念と、殺し合いに慣れ果てていく冷たい狂気が宿り始めていた。
何十匹ものモンスターを狩り、時には命を狙ってきた野盗をその手にかけて血に染まった手を何度も見つめ、自分のなかの「常識」を無理やりねじ伏せる。
そうやって、心身ともにすり減らしながら生き延びた果てにたどり着いたのが、あの深い森の空き地だった。
暗い森の奥へ足を踏み出してから、どのくらいの時間が経っただろうか。
周囲を覆う樹々はどこまでも続き、人工的な光どころか、月明かりすらも深い枝葉に遮られて足元はおぼつかない。
聞こえてくるのは、不気味な獣の唸り声や、湿った風が葉を揺らす擦れ合う音だけだった。
(……くそっ、見通しが悪すぎる。このままでは方角すら分からなくなるな)
エルネストは慎重に周囲を警戒しながら、愛用の弓を手に夜の森を進む。
数日間にわたる死闘を繰り返してすり減った神経は常に張り詰め、他者を気遣う余裕など彼のなかに微塵も残っていなかった。
その時だった。
前方の茂みの向こうから、何かが草木を踏み鳴らす荒々しい足音と、切羽詰まった少女の悲鳴が聞こえてきた。
「いや……来ないで! 助けて——!」
(……っ! 人間か?)
エルネストの足がピタリと止まる。
この過酷な森の中で他人に関わることは、余計なリスクを背負うことに他ならない。
見捨てるべきだ――頭の片隅で冷徹な理性がそう囁いた。
だが、木々の隙間から見えた光景に、彼の足が勝手に動き出していた。
そこにいたのは、見るからに身形の汚い男たちだった。
皮の兜をかぶり、錆びたナイフや棍棒を手にし、下品なニヤケ顔で少女を見ている。
男たちが下品な笑い声を上げながら、じりじりと距離を詰めている。
恐怖で血の気が引いていく少女。
逃げなければと後退した瞬間、バキッと少女の足元の太い枝が折れる音が響いた。
悲鳴も虚しく、男の一人に細い腕を強く掴まれた。
力任せに引き寄せられ、粗暴な手つきで服の胸元を掴まれる。
「観念しな、おねえちゃん!」
男が下品な笑みを浮かべ、ズボンを下げようとした——その時だった。
「……鬱陶しい雑魚どもだ」
——シューッ!!
静寂を切り裂く、鋭い風切り音。
「へ……?」
直後、その少女の腕を掴んでいた男の頭部に、目にも留まらぬ速さで一本の太い矢が深く突き刺さった。
男は悲鳴を上げる間もなく、泥の上に崩れ落ちる。
「な、なんだ!? 敵襲——」
残りの野盗たちが混乱に陥った瞬間には、すでに二本目、第三本の矢が空中を走っていた。
寸分の狂いもなく急所を穿つ圧倒的な遠距離射撃。
一人、また一人と、野盗たちが血の泡を吹いて倒れていく。
生き残った数名の野盗が恐怖に顔を歪めて逃げ去っていくのを冷徹に見送りながら、エルネストは愛用の弓を静かに下ろした。
返り血と泥にまみれた足取りで、彼は崩れ落ちた木々の影からゆっくりと少女のほうへ歩み寄る。
恐怖のあまりその場にへたり込み、ガタガタと全身を震わせ震える声で何かを呟く少女を見下ろし、俺は短く問いかける。
「……動けるか?」
「あ……は、はい……っ」
震える声で答えながら立ち上がろうとした瞬間、少女の足に力が入らず、再び膝から崩れ落ちそうになる。
すかさず俺は手を伸ばし、その細い腕をしっかりと受け止めた。
「む、無暗に動かない方がいい。腰が抜けいている」
「ご、ごめんなさい……助けていただいて、ありがとうございます……」
間近で触れ合う体温に戸惑いながらも、少女は必死に自分を落ち着かせようと息を整えている。
俺はその豪華だが泥に汚れた衣装——聖職者の法衣を一瞥し、小さなため息をついた。
「この森は夜になるとアクティブな魔物が増える。野盗の血の匂いに寄ってくる奴らもいるはずだ。移動するぞ」
断る余地など与えず、俺はその華奢な身体を容易く抱き上げると、足音も立てずに鬱蒼とした森の奥へと歩き出した。
やがてたどり着いたのは、大きな巨木の根元に形成された小さな自然の洞窟だった。
岩肌が雨風を遮り、入口付近には茂みが広がっていて身を隠すには格好の場所だった。
俺は手際よく周囲の安全を確認すると、乾いた枝や葉を集めて小さな焚き火を起こした。橙色の温かな光が洞窟内を照らし出し、冷え切っていた空気が少しだけ和らぐ。
少女は壁際に身を寄せ、抱え込むようにして膝を抱えていた。
(……それにしても、この容姿といい、怯え方といい……さっきから妙な既視感が消えないな)
そんな思惑を巡らせながら、俺は腰のポーチから干し肉と水の入った革袋を取り出し、少女の前に差し出した。
「食え。顔色が悪い」
「あ……ありがとうございます……」
少女は恐る恐るそれを受け取り、小さく口に運んでゆっくりと咀嚼し始める。
その様子を、俺は静かに見つめていた。
「俺はエルネストだ」
突然の自己紹介に、少女は驚いたように動きを止める。
「ケホッ……え……?」
「名前だ。ずっと『あなた』と呼ぶのも不便だろう」
「あ、私は……リリア、です……」
その名を聞いた瞬間、俺の眉がピクリと動いた。
切れ長の瞳をわずかに見開き、目の前の少女の顔を改めてじっと凝視する。
(リリア、だと……? いや、偶然の一致にしては出来すぎている。声のトーン、そして何よりその纏う雰囲気――間違いなく、画面の向こうでいつも一緒に馬鹿な話をしていた、あのリリアだ)
エルネストの脳内で、これまでの断片的な情報と目の前の現実が凄まじい速度で組み合わされ、確信へと変わっていく。
ゲーム内のアバターの面影と現在のリアルな造形が完全に重なり合い、彼女が自分と同じようにこの理不尽な世界へ放り出された仲間であるという事実を導き出した。
沈黙が洞窟内を支配する。
パチパチと薪がはぜる音だけが空しく響くなか、俺はふっと息を吐き、視線を焚き火へと戻した。
「リリア、か。奇妙な一致だな」
「え……?」
「いや、気にしないでくれ。ただのひとり言だ」
俺はそれ以上追求しようとはせず、背中の弓を手入れし始めた。
洞窟の外からは獣の遠吠えや、不気味な風の音が聞こえてくるようになる。
(見知らぬ世界、慣れない身体、そしてすぐ隣で身を縮こまらせているリリア……。肉体的な疲労は優に限界を超えているはずなのに、冴え渡った神経がどうしても俺を眠りにつかせてくれない)
ふと隣を見ると、リリアが浅い息を繰り返しながら身体を小さくしていた。
俺は立ち上がり、自分が羽織っていた厚手のマントを脱いで、彼女の肩へとそっと掛けた。
「ひゃっ……! あ、エルネストさん、これ……」
「俺は感覚を研ぎ澄ませて警戒している。邪魔になるから着ていろ」
ぶっきらぼうに吐き捨てた俺に、リリアは小さく身を縮こまらせながらも、掛けられたマントをそっと引き寄せた。
「……ありがとうございます。あの、エルネストさんは寝ないんですか?」
「見張りが必要だ。君は眠れる時に寝ておけ。明日は朝早くから森を抜けるルートを探す」
そう言うと、俺は洞窟の入口付近に腰を下ろし、森の暗闇へと視線を向けた。
(間違いない……あの無防備な仕草、天然で何もないところで躓く癖……そして『リリア』という名前)
安心したようにゆっくり目を閉じるリリアを横目に。
(まさか、こんな形で彼女と再会することになるとはな。あんな無防備な姿を晒して、俺以外の男にでも見つかったらどうするつもりだ。……いや、そんなことは絶対にさせない。この世界に放り出されたのが偶然だとしても、俺が彼女を見つけた以上、二度とその手を離す気はない)
弓に添えられた指先が無意識に力を帯びる。
かつて画面越しに見慣れていたはずの仲間は今や目の前にいて、自分のマントにくるまり豊満な胸元を規則正しく上下させ、無警戒に吐息を漏らし眠っている。
それがゲームのキャラデータなどではなく、生身の女性であるという現実が、エルネストのなかに眠る感情に火を点けていた。
(お前のその眩しすぎる優しさも、神聖な奇跡も——すべて俺の目の届く場所だけに縛り付けてやる。……夜が明けたら、何があっても俺が守り抜く。この命に代えてもな)
冷たい月明かりが、洞窟の入口に佇む俺の歪んだ、しかし決して揺るぎない独占欲を静かに照らし出していた——。
それは、見知らぬ世界へ放り出された恐怖や混乱から生じたものではない。
転生したことにより肉体と脳髄に深く刻み込まれたウインドホークとしての狩人の本能が、過酷な環境下で「たったひとつの貴重な獲物(まもり)」を見出したときの本能的な執着が、エルネスト自身すらもまだ自覚せぬまま、その心を完全に支配し始めている証でもあった。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
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エルネストの閑話が終了です。
次から二章に入ります。
明日からはしばらくは毎日19時に更新しようかと思っています。