一話◯
泥と腐葉土の異臭が鼻腔を突き刺した瞬間、俺は自分がコンクリートの地面にいないことを悟った。
駅のホームを歩いていたはずだった。終電間際のけたたましい発車ベル、湿気を含んだ夜風、安物の吊るしスーツを締め付けるネクタイの鬱陶しさ。それら一切が唐突に途切れ、視界が裏返った。
気づけば、見上げるほどの巨木が鬱蒼と生い茂る森の真ん中に転がっていた。
「……は? なんだ、ここ……」
擦り切れた革靴が、得体の知れない泥濘に沈む。湿度は日本の梅雨時よりも遥かに重く、空気そのものが粘り気を持っているかのようだ。立ち上がろうとした膝が笑う。残業続きで鈍りきった三十代の身体には、地面のぬかるみひとつすら過剰な負荷だった。
だが、混乱に浸る暇すら与えられなかった。
ズズッ、と背後の藪が裂ける。
現れたのは、犬でも熊でもない。赤黒い皮膚が異常に硬化し、全身のあちこちから歪な骨の突起を生やした四足歩行の異形だった。唾液を滴らせる顎には、人間の腕など容易にへし折るであろう鋸状の牙がびっしりと並んでいる。
魔獣、とでも呼ぶべきか。
それも一匹ではない。二匹、三匹――十、二十。木々の影、茂みの隙間から、黄色く濁った無数の双眸が俺を補足していた。
「嘘だろ……ッ!?」
逃げようと踵を返した瞬間、先頭の獣が地を蹴った。
突進の風圧だけで、俺の身体は無様に吹き飛んだ。鈍い衝撃とともに背中から泥水へ叩きつけられる。追撃の鉤爪が、横殴りに振り下ろされた。
バリィッ! と耳障りな破裂音が鳴り響く。
数年間着倒したポリエステル混紡のスーツジャケットが、紙屑のように引き裂かれた。ワイシャツの繊維が宙を舞い、露わになった胸板と脇腹に熱い感覚が走る。爪先が掠めただけで皮膚が裂け、鮮血が泥混じりのシャツを黒く染めていく。
「が、あッ……!?」
痛い。熱い。死ぬ。その三文字が脳内を埋め尽くし、手足の震えが止まらない。みっともなく両手で泥を掻き、後退りすることしかできない。スーツのズボンも木の根に引っかかって無惨に裂け、太腿が泥水に晒される。文明の利器たる衣服は一瞬でボロ布へと成り果て、俺はただの無防備な肉塊として地上に晒されていた。
群れの魔獣たちが、喉を鳴らして一斉に間合いを詰めてくる。死の顎が、俺の頭上へと迫った――その時だった。
頭上で、大気が爆ぜた。
「――そこまでよ、下劣な澱みたち!」
甲高い、しかしどこか凛とした少女の怒声。
次の瞬間、視界のすべてを灼くような白銀の閃光が、俺の鼻先わずか数十センチの地面を薙ぎ払った。
ドガァンッ! と巻き起こる突風と衝撃波。俺に食らいつこうとしていた先頭の魔獣が、悲鳴を上げる間もなく光の奔流に呑み込まれ、消滅した。
巻き上がる土煙の中、ふわりと軽やかに着地した影が二つ。
「無事ですか、そちらの人間の方!」
柔らかな、鈴を転がすような声音が重なる。
泥にまみれた顔を上げ、俺は文字通り目を奪われた。
そこに立っていたのは、現実の常識を根底から覆す、息を呑むほど美しい二人の少女だった。
一人は、眩いばかりの金髪を長く伸ばした少女。白銀と薄布で構成された極めて露出度の高い軽装甲を纏い、引き締まったしなやかな四肢を惜しげもなく晒している。勝ち気そうに吊り上がった金色の双眸が、鋭く獲物を射抜いていた。その手に握られているのは、まばゆい光熱を放つ白銀の片手剣。
もう一人は、鮮やかな紅のショートヘアを揺らす少女。豊満な胸元を強調する真紅の軽鎧と、限界まで短いホットパンツから伸びる健康的な太腿。見る者の理性を狂わせるほどの肉感的な体躯を備えながら、その表情には聖母のような慈愛と、芯の通った苛烈さが同居している。彼女の手にもまた、激しい火炎を滾らせる紅蓮の長剣が握られていた。
顔立ちを見れば、二人は瓜二つだった。双子の姉妹、あるいは鏡像のようでもある。だが纏う気配と色香の方向性はまるで異なり、互いの美貌を極限まで引き立て合っていた。
ボロ布となったスーツの隙間から泥まみれの太腿を晒し、無様にへたり込む俺の前に、二人は完璧な盾となって割り込んでいた。
「ヒカリちゃん、敵の数が多いです。囲まれる前に一気に掃討しましょう」
「言われなくても! こんな吹き溜まりの雑魚共、一瞬で消し炭にしてやるわよ!」
紅髪の少女――ホムラが穏やかに、しかし迷いのない声で告げ、金髪の少女――ヒカリが獰猛な笑みを浮かべて跳躍した。
そこから始まったのは、戦闘という名の、余りにも一方的な蹂躙だった。
数十頭の魔獣が、地響きを立てて殺到する。常人であれば視認することすら叶わない速度の突進。だが、二人の少女にとってそれは、止まっている標的を切り刻むのと同義だった。
「遅い!」
ヒカリの身体が光の軌跡となってブレる。
神速。一歩の踏み込みで空間そのものを跳躍したかのように魔獣の群れの中心へ躍り出ると、手にした『光の剣』を真横一文字に薙ぎ払った。
キィィィィン、と鼓膜を劈く高周波。放たれた光の刃が、十数頭の魔獣の胴体を紙風船のように両断する。断面からは血潮すら吹き出さない。光熱の超高温が傷口を瞬時に炭化させ、魔獣たちは上半身と下半身を泣き別れにさせながら、次々と泥の上に崩れ落ちていく。
跳ね上がるヒカリの金髪。薄布の装甲が激しい動きに合わせて翻り、汗ばんだ白い背中としなやかな臀部の曲線が、まざまざと俺の網膜へ焼き付けられる。
「炎よ、道を拓きなさい――!」
呼応するように、ホムラが地を蹴った。
紅蓮の剣が大気を裂くたびに、空間そのものが赤熱化する。逃げ惑う魔獣たちの足元から突如として巨大な火柱が噴流となって立ち上り、骨組織の鎧ごと肉体を内側から破裂させた。
ドンッ、ドッ、と連続する重低音の破砕音。飛び散る火の粉の中で、ホムラの豊満な胸が激しく揺れ、ホットパンツから覗く瑞々しい太腿の内側が紅の照り返しを受けて艶めかしく輝く。
強い。そして美しすぎる。
死の淵に立たされていた恐怖など、瞬く間にどこかへ消し飛んでいた。俺の頭を占領していたのは、圧倒的な強者への畏怖と――そして、まだ何一つ失われていない、三十代男の生々しく下卑た性欲だった。
なんだあの身体は。あんな無防備な格好で、跳ねるたびに布地が食い込み、汗で肌に張り付いている。ボロボロになったスーツのズボンの下で、股間がじわりと熱を帯びていくのを感じていた。こんな異常な状況で、命の危機に瀕しているというのに、俺の煩悩は二人の肢体の一挙手一投足に異常な興奮を覚えていた。
その時、群れの最後尾にいた巨躯の魔獣が、低く唸り声を上げた。
他の個体より二倍はあろうかという筋骨隆々の異形。それは戦闘に夢中な二人の少女を無視し、死角から、地面にへたり込む俺めがけて一直線に牙を剥いた。
「しまっ――人間さん!」
「あんた、そいつから離れなさい!」
二人の悲鳴が重なる。だが、物理的な距離がありすぎた。ヒカリの光も、ホムラの炎も、俺の眼前数メートルの間合いを埋めるには一瞬遅い。
巨大な顎が迫る。死の臭気を含んだ生温かい呼気が、俺の顔面に吹き付けられた。
その瞬間だった。
『――緊急接続! 魂の座を開放して!』
頭蓋の奥底に、二人の少女の声が直接響き渡った。
ドクンッ、と心臓が跳ね上がった。
視界が真っ白に染まる。俺の胸の中心――魂と呼ばれる不可視の領域に、二本の極太いパイプが強引に穿たれ、突き刺さるような激痛と衝撃が走った。
それは、前触れもない、魂の強制契約だった。
繋がった。彼女たちと、俺が。
俺の知識と彼女たちの知識が溶けていく。
俺は彼女たちの名前と人となりを知り、彼女たちもまた、俺の名前と人となりを知った。
その刹那、俺の神経系を駆け巡ったのは――恐怖でも苦痛でもなく、全身の毛穴が開ききるような、暴力的なまでの快楽だった。
「あっ……ぐ、ぅッ!?」
喉から掠れた嬌声が漏れる。
なんだこれ。なんなんだ、この感覚は。
背骨の髄を、熱した極上の蜜がドクドクと逆流して脳天へと注ぎ込まれていくような陶酔。全身の神経細胞のひとつひとつが愛撫され、蕩け、甘く痺れていく。
股間が爆発しそうだった。
海綿体が千切れんばかりに鬱血し、下腹部の奥底――前立腺のあたりが強烈な痙攣を起こしている。触れられてもいないのに、今すぐすべてを吐き出したい、白濁した生命のすべてをドロドロに垂れ流して果ててしまいたいという、狂おしい射精感が下腹部を激しく突き上げてくる。
天国だ。こんな気持ちいいことが、この世にあっていいはずがない。
二人の極上な美少女と、目に見えない糸で精神の深部まで絡み合っている。彼女たちの熱が、脈動が、瑞々しい生命の息吹が、ダイレクトに俺の身体へ雪崩れ込んできているのだ。
(ああ……出る、出ちまう……ッ! こんなの、耐えられるわけが……ッ!)
俺は泥の中に顔を突っ伏したまま、だらしなく口端から涎を垂らし、狂乱の快楽に身を悶えさせた。
だが。
――後で知ったことだが、これは、完全な脳の誤認だった。
快楽の波が頂点に達し、頭蓋が甘い痺れで真っ白に染まりきったその裏側で、俺の生体は音を立てて崩壊していた。
常人の器に、五百年を生きる古代精霊二柱の超高圧な魔力が、正規の減圧措置もなしに直接流れ込んだのだ。
人間の脆弱な魔力循環経路――生体魔脈は、その膨大な神威の奔流に耐えきれず、瞬時に限界を迎えていた。体内の血管という血管、神経という神経の内側で、目に見えない火災が広がっていく。
焼き切れているのだ。
細胞が、神経網が、魔力を巡らせるための微細な生体回路が、熱に耐えかねて炭化し、音を立てて焼き千切れている。
本来であれば、全身の皮を剥がされ、内臓を生きたまま煮え湯で洗われるような、発狂必至の激痛が走るはずだった。
だが、あまりの破壊規模の大きさに、俺の防衛本能と痛覚中枢は、生命の危機を警告することすら完全に放棄していた。
痛覚のメーターが振り切れ、脳内の神経伝達物質が異常分泌を起こした結果、致命的な破壊のシグナルが、すべて「極上の快感」へとすり替えられていただけだったのだ。
焼き切れた魔脈の熱は、下腹部の中枢へと集中した。
生殖器へと繋がる神経束が、高圧の負荷によって内側からジュクジュクと音を立てて焼き焦げていく。勃起していると錯覚していた海綿体の鬱血は、神経の破壊に伴う末梢血管の麻痺と鬱血に過ぎず、吐精しそうだと悶えていた射精感は、生殖機能の中枢が断末魔の痙攣を起こしているだけだった。
不可逆の破壊。二度と戻らない喪失。
そんな惨劇が体内で行われているとも知らず、俺はただ、煩悩に焼かれた頭で「気持ちいい」と涎を垂らし、快楽の波に溺れ続けていた。
契約によって俺という錨を得た二柱の精霊は、その瞬間、本来の出力の一端を取り戻していた。
「――消えなさいッ!」
ヒカリの剣が、太陽のごとき閃光を放つ。
俺に飛びかかろうとしていた巨大な魔獣は、光の津波に飲み込まれ、肉片すら残さず分子レベルで蒸発した。
「はぁぁぁッ!」
ホムラの紅蓮の刃が大地を叩く。全方位へと広がった炎の衝撃波が、残存していた数十頭の魔獣をことごとく焼き尽くし、森の一角を瞬時に焦土へと変貌させた。
爆風が吹き荒れ、黒煙が立ち上る。
静寂が、訪れた。
あれほど密集していた魔物の気配は、完全に消え失せていた。周囲には、炭化した地面と、微かに燻る煙が漂うばかり。
終わったのだ。
肩で息をしながら、二人の少女が剣を下ろした。
「ふぅ……なんとかなった、わね……」
ヒカリが額の汗を拭い、息を吐く。
「はい……無茶な接続でしたが、彼を失わずに済みまし――」
ホムラが安堵の笑みを浮かべかけた、その時だった。
ピシリ、と冷たい亀裂が走るような感覚が、三人の間に広がった。
「……え?」
ヒカリが、自らの右手を凝視した。
手にした『光の剣』が、激しく明滅を繰り返している。眩かった白銀の刀身は見る影もなく曇り、まるで燃料の尽きかけたランプのように、か細くチカチカと瞬いたかと思うと、煙のように掻き消えてしまった。
「な、に……これ……? 力が……抜けていく……?」
「私の、剣も……!」
ホムラが悲鳴にも似た声を漏らす。彼女の『炎の剣』もまた、パチパチと小さな火の粉を散らすだけで、二度と炎の刃を結ぶことができなくなっていた。
それだけではない。
二人の肌から、眩いばかりの神威が急速に薄れていく。精霊として世界に存在し続けるための基底魔力が、まるで底の抜けた桶のように、急速に大気中へと霧散し始めていた。
「嘘……契約は繋がったはずよ!? なんで主からの魔力供給が……ゼロなの!?」
ヒカリが青ざめた顔で振り返り、泥の中に倒れ伏す俺を見た。
「リュージ君……ッ!?」
ホムラが駆け寄り、俺の身体を抱き起こす。
柔らかな胸の感触が、ボロボロになったシャツ越しに俺の頬に当たった。甘い、花のような香りが鼻腔をくすぐる。本来なら狂喜乱舞すべきシチュエーションだった。
だが、俺の意識は急速に冷え切っていく泥水のように沈み込んでいた。
先ほどまでの狂おしい快楽が、潮が引くように消え去っていた。
残されたのは――おぞましいほどの虚無感だった。
指先が、氷のように冷たい。どれだけ力を込めようとしても、手足の感覚が恐ろしく遠い。喉が異常に渇き、視界の端が白く霞んでいく。息を吸い込んでも、肺が酸素を取り込んでくれないかのような息苦しさ。
そして何より。
下腹部にあったはずの、熱く脈打つ感覚が――完全に消失していた。
先ほどまで破裂しそうになっていた股間は、まるで凍結した鉛のように重く沈み込み、神経の繋がりそのものが断ち切られたかのように、何の反応も示さない。触れられても、見つめられても、二度と熱を取り戻すことのない、ただの死んだ肉塊になり果てていた。
「あ……れ……?」
俺の口から、掠れた声が漏れた。ろれつが回らない。
「そんな……嘘でしょ……」
ホムラの手が、俺の胸元に触れていた。彼女の緋色の瞳が、信じられないものを見たかのように見開かれ、絶望の色に染まっていく。
「魔脈が……焼けて……いる……?」
「ホムラ、どういうことよ!?」
詰め寄るヒカリに、ホムラは震える声で告げた。
「私たちの魔力が……彼の許容量を遥かに超えて逆流して……体内の魔力回路が、全部……全焼しています……」
「なっ……!」
「それだけじゃ、ありません……。生殖中枢の神経まで……完全に……」
ホムラの瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ち、俺の泥まみれの頬を濡らした。
「ごめんなさい……ごめんなさい、リュージ君……っ! 私たちが、無茶な繋ぎ方をしたせいで……あなたから、男としてのすべてを……人間としての尊厳を、奪ってしまった……っ!」
ヒカリがその場にへたり込み、自らの両手を見つめて激しく震えていた。勝気だった彼女の表情は完全に崩壊し、罪悪感と恐怖に染まりきっている。
「私が……焦ったから……。私のせいで……この人の、身体を……」
二人の悲痛な叫びが、焦土と化した森に木霊する。
引き裂かれたスーツの残骸を纏い、泥濘の中で虚ろに空を見上げる俺の身体には、もはや魔力の一滴すら残されていなかった。
命は助かった。
だがその代償として、俺の身体と、俺を主と定めてしまった二柱の精霊の運命は、取り返しのつかない奈落へと叩き落とされていた。