星暦九七五年十一月。
ヴィルトシュヴァインの西部市街には、日付が変わる頃から冷たい霧が漂い始めていた。
ファルケン通りとシュタインベルク大通りの交差点は静まり返っている。赤信号が消え、緑色の光が霧の中にぼんやりと浮かんだが、交差点へ進み出る車はなかった。
昼間なら証券仲買人や銀行員、自動車、路面電車で溢れている場所だが、この時間には人影も途絶えている。
時折、西中央駅を通る夜行列車が、付近の建物をガタガタと震わせながら遠ざかっていった。
交差点の北側には、連邦商工取引会館が建っている。
ベレリアント戦争後に建てられたビルで、周囲に比べると老朽化が目立つ。何度か改築の話も出ているが、計画は一向に進んでいない。
外壁に付けられた看板には、それぞれヴィルトシュヴァイン証券取引所と連邦商工会議所の名が掲げられている。今頃、取引を終えた館内には、清掃員と警備員、それに地下計算機室の技術者しか残っていないだろう。
裏手の搬入口へ、一台の白い保守作業用バンが入ってきた。
車体の側面には、青い文字で《ブーゲンハーゲン都市設備管理》と書かれている。塗装はところどころ剝がれ、後部扉の下には泥がこびりついていた。
運転席の牡は、指定された作業区画にバンを停めた。
ギアをニュートラルへ入れると、サイドブレーキを軽く引く。しばらくエンジンを動かしたまま、サイドミラーを確認した。
追ってくる車はないようだ。
搬入口のくたびれた警備員も、詰所で新聞を読んでいる。こちらを気にする様子はない。
牡はエンジンを止めた。
ブラム・リンダウ。
都市清掃と設備保守を請け負う、小さな会社のエリア管理責任者。それが現在の彼の身分だった。
ブラムはオークとしてはやや細身だったが、それでも人間族より一回り大きい。擦り切れた灰色の作業服を着込んでいる。帽子には長年の汗が滲み、見る者を不快にさせた。
頬には無精髭が浮かび、目の下には深い隈があった。
どこから見ても、深夜勤務に疲れた設備作業員だった。
彼の仕事は、顧客の活動が終わった後に始まる。
事務所、銀行、商業施設を巡回し、入退館票へ時刻を書き込む。空調設備を確認し、故障箇所の写真を撮り、指示書に判を押すのだ。
仕事の都合上、夜間に市内の広い範囲を移動しても不審には思われない。
警察に止められたことは何度かあったが、工具や薬品を積んでいると知られても、車内を詳しく調べられた試しはなかった。
ブラムは胸ポケットから煙草を取り出し、一本を口に咥えた。
懐を探り、安物のライターを取り出す。
火をつけようと何度か打ち石を指で弾くが、火花が散るだけだった。
やれやれ、と溜息をついてダッシュボードのシガーライターを引き抜き、煙草に火をつける。
煙草を吸い込むと、先端の火種が赤く光り、その顔を一瞬だけ照らした。
煙を吐き出しながら、つい口ずさんでしまう。故郷を流れる大河と、そこへ帰れなかった兵士たちを歌った民謡だった。
歌詞が口をついて出るたび、左の頬がわずかに遅れて動いた。
注意深く観察しなければ気づかないほどの歪みだった。もし誰かに尋ねられれば、生まれつきだと答えることにしている。
煙草を半分ほど吸ったところで、ブラムはフロントガラスの向こうへ目を向けた。
会館の搬入口から通りを隔てた場所に、公衆電話ボックスが立っている。
そのガラスの下隅に、昨日まではなかった小さなステッカーが貼られているのが見えた。
蛍光オレンジの円の中央には、一本の緑の線が横切っている。一見、業者が貼ったラベルのようにしか見えない。
しかし、それには彼にしか通じない意味があるのだ。
蛍光オレンジは、緊急であることを示している。緑の線が入っているなら第一通信手順を使えという意味だった。
緊急連絡とはいっても、今日あたりにあるだろうと思っていたので、ブラムは特に驚かなかった。
では、あの印を誰が残したのか?
そんなことは知らないし、確かめようとも思わない。
知る必要のないことは、知らない方がよいのだ。
第一通信手順の受信時刻は午前一時二十分だった。
ブラムは時計を確認した。
午前一時十二分になったところだ。
少しの間、煙草をふかして時間を潰し、灰皿でもみ消した。
彼の顔から疲れた様子が消えた。
彼はバンの後部へ移ると、工具棚の一番下から、電気設備の検査器に見える鼠色の箱を取り出した。
側面の留め金を外すと、中には周波数目盛りのついた受信機と片耳式のイヤホンが収められている。
発信機能は付けられていない。
受信するだけなら、方向探知機に自分の位置を教える危険もないからだ。
ブラムは天井裏へ伸びているアンテナ線を接続し、イヤホンを左耳へ入れた。
ダイヤルを回す。
雑音の向こうから、遠い国の音楽が一瞬だけ聞こえた。
さらに回すと、甲高い混信が耳を刺す。
それもすぐに消え、また雑音だけになった。
時計が午前一時二十分を示した。
不意に、三つの電子音が聞こえた。
高い音。
低い音。
もう一度、高い音。
数秒の沈黙を挟み、抑揚のない女の声が流れ始めた。
『七四一九二』
ブラムは短い鉛筆を取り、数字を書き留め始める。
『三〇八一六』
五桁の数字が、一定の間隔で読み上げられていく。
『六一五四〇』
一連の数字群は二度繰り返された。
最後に、開始時と同じ三つの音が鳴る。
放送は途切れ、周波数には雑音だけが残った。
ブラムは受信機の電源を切った。
彼はブリーフケースを工具箱の下から取り出した。数字錠を合わせて開き、内張りの一部を剝がす。
透明な防湿袋の中には、薄い紙片が一枚入っていた。紙面には、無作為に並べられた五桁の数字が印刷されている。
ブラムは受信した数字から、紙片の数字を一組ずつ差し引いていった。繰り下がりは行わない。
続いて、得られた数字を煙草の箱の裏側に隠した小型コード表と照合していく。
一群目。 "プリズラク。"
それを読み取った時、一瞬ブラムの鉛筆が止まった。
しかし、すぐに二群目、三群目と解読を再開する。
すべての数字を文字へ置き換えるまで、五分とかからなかった。
> プリズラク入国。
> 保安局への接触を試行。
> シュパーゲル通り。
> 対象及び所持品を回収。
> 午前二時。
ブラムはその文面を二度読んだ。
プリズラク……亡霊。
彼は暗号表の使用済み部分を切り取り、受信数字を書いた紙と重ねた。灰皿の中でライターの火を近づける。
薄紙は青い炎を上げ、すぐに黒く縮れた。
ブラムは燃え残った灰をドライバーの先で細かく潰し、その上から吸い殻を押しつけた。
平文は残してはならない。必要な情報は、すでに頭の中に入っていた。
ブラムは受信機を元の場所へ戻すと、作業服のファスナーを下ろした。
汗と機械油の染みついた服を脱ぎ、ビニール袋へ押し込む。作業靴も脱ぎ、後部棚に置かれた革靴へ履き替えた。
薄いシャツの上から、濃灰色の背広を着る。
襟を整え、ネクタイを締めると、車内の小さな鏡に映る顔を確認した。
左の頬へ指を当てると、皮膚の下には、欠けた頬骨を埋める硬い感触があった。
鏡の中に、設備作業員のブラム・リンダウはもういなかった。
彼はブリーフケースから、自動拳銃を取り出すと、弾倉を抜き、装弾を確認する。
遊底をわずかに引き、薬室が空であることを確かめる。銃身の先端には、消音器を取りつけるためのねじが切られていた。
ブラムは布袋から筒状の消音器を取り出した。一見すれば、小型の懐中電灯にも見える黒い金属筒だった。
銃口へ当て、ゆっくりと回す。
ねじ山を傷めないよう、最初の数回転は指先だけで慎重に進める。根元まで入ると、最後に軽く締め込み、銃身と消音器の軸がずれていないことを確かめた。
拳銃は、銃身の先から長い筒を伸ばした異様な姿となった。
ブラムは背広の内側に吊ったショルダーホルスターへ、それを収めた。
バンを降りると、保守会社に貸し出された地下区画を横切り、隣接する月極駐車場へ入った。
最奥の柱の陰に、黒い大型乗用車が停められている。
角張った車体の、無骨な印象を与える車だった。
盗難車ではあるが、取りつけられている番号標は、実は存在する。
同じ型、同じ色の正規登録車から複製されたものだからだ。警察官が無線で照会しても、もちろん盗難届は出されていない。車台番号まで調べられない限り、偽物とは判別できない。
ブラムは運転席へ乗り込み、エンジンを始動した。
駐車場の出口で一旦止まり、左右を確認すると、黒い車はゆっくりと車道へ出た。
やがて速度を上げ、西部市街の灯りを背後へ残していく。
灰皿の中では、暗号表の残滓が、まだ微かな熱を持っていた。
(第一話「眠れる兵士」に続く)