ヴィルトシュヴァイン北区、ヴァルトホーフ市立公園。
夜霧が薄い膜のように芝生を覆っている。
公園の奥、手入れのされていない植え込みの陰に、段ボールを継ぎ合わせた小屋があった。
箱は雨水を防ぐよう何重にも重ねられ、屋根の上には拾ってきたビニールシートが掛けられている。内側には断熱材代わりに古い毛布や新聞紙を壁に貼り付けてある。……十一月の冷気を防ぐにはとても足りないが。
ローアン・イヴェットは、その中で膝を抱え、緑色のフィールドジャケットを毛布代わりに肩へ掛けていた。
ニット帽の下に収められた銀髪と、突耳用の耳当てがなければ、誰も彼女が白エルフだとは思わないだろう。
ジャケットからはみだした右手が細かく震えている。ローアンは拳を握りしめたり開いたりしてみたが、一向に収まらない。
毎度のことだ。彼女は足元の紙袋を探り、酒瓶を取り出した。
安物の蒸留酒で、いつ買ったものかも覚えていない。
栓を外して瓶を傾け、琥珀色の液体を一息に飲み込むと、空っぽの胃が焼けるように熱くなる。
体がじわじわと温まり、震えが少し弱まったような気がした。
仕舞う前に、瓶を壁の隙間から差し込む街路灯の光へかざしてみたら、底には一口分しか溜まっていない。
「……もう切れた」
買いに出るしかないか。夜の街はチンピラに絡まれるので嫌なのだが、気分が最悪なまま朝を迎えるよりはましだった。
ローアンは残りを飲み干し、空瓶を紙袋へ戻してからジャケットへ腕を通した。立ち上がった途端に眩暈に襲われ、視界が揺れる。
段ボールの壁へ手をつき、眩暈が収まるのを待ってから小屋を出ると、冷たい夜風に体がブルっと震える。
ローアンは背を丸め、公園の出口へ向かって歩き始めた。
植え込みの脇を通り過ぎようとした時、道路の端に何かが倒れているのが見えた。
やれやれ、またブルーノのやつは飲んだくれて寝てるのか?
もしかしたら飲み残しを分けてもらえるかもしれないと期待しながらそちらに向かった。
しかし、近づくにつれて、汚らしい浮浪者仲間ではないことに気づく。
その服がこの場所には似つかわしくないほど上等なものだと分かったからだ。
キャメル色のカシミヤのコート。中は濃紺で、暗がりでも分かるほど仕立てのいい服。手袋も靴も上等な革だ。
ローアンは足を止めた。
放っておけばいいと思いながらも、視線を外すことができなかった。
倒れているのは、人間族の女だった。
細い身体を横向きに丸め、片腕を投げ出している。外套のフードはずれ、淡い金髪がアスファルトの上へ広がっていた。
ローアンは周囲を見回した。
人影はなく、道路を走る車の音も遠い。聞こえるのは、街路灯から漏れるブーンという音だけだった。
女の傍らに膝をつく。
「なあ」
反応はない。
首筋へ指を当てると脈は速く、浅いものの、呼吸はしている。酒の臭いもしない。
代わりに、女の口元には甘い薬品のような臭いが僅かに残っており、手首には強く掴まれたような赤い痕があった。
これは厄介ごとだ。
魔種族の国家であるオルクセンの首都で、薬を嗅がされた人間族の女が公園に倒れている。観光客を狙った犯罪かもしれないし、それ以上の何かかもしれない。
助けない理由はいくらでもあった。面倒ごとに巻き込まれたくないし、酒がないとやってられないのに赤の他人に構っている暇があるのか?
ふと、女の顔を見やると、苦しげに表情を歪めていた。
仕方ない。
まあ、たまには善行をやるのもいいかもしれない。お礼に酒を奢ってくれるかもしれないし。
女の肩に腕を回して引き起こしてみると、驚くほど軽かった。女は呻き声を漏らしてわずかに身じろぎしたものの、意識を取り戻す様子はない。
そのまま引きずるようにして公園の奥へ戻り、段ボール小屋の前まで来ると、ローアンは一度だけ振り返った。
追ってくる者はいない。
入口の布をめくり、女を毛布の上へ横たえる。
「今夜だけな」
意識のない相手に向かって、そう告げた。
ローアンは女の傍らへ腰を下ろすと、懐からグシャグシャになった吸いかけのタバコを取り出す。
火をつけようとマッチを探していると、ふと気がついた。
いつの間にか、手の震えが止まっていた。
◆
「……おい」
低い女の声が聞こえた。
「そろそろ起きろよ」
人間族の女は息を呑み、目を開いた。
焦点が定まらず、何度か瞬きを繰り返すと、低い天井と段ボールに貼られた新聞紙がぼんやりと見え、湿った紙と古い毛布の臭いが鼻にツンとくる。
やがて身体の感覚が戻り、背中と左足首がジンジンと痛み始めた。
「……ここは」
喉が渇いてうまく声が出せない。
「北区の市立公園。植え込みの奥だ」
入口近くに、一人の女が座っていた。
ニット帽を深く被り、色褪せた軍用ジャケットを着ている。街路灯の光が段ボールの隙間から差し込み、帽子の下から覗く銀色の髪を浮かび上がらせていた。
「病院でも警察でもない。それで安心できるかは知らないけど」
銀髪の女、ローアンは肩をすくめた。
人間族の女は思い出した。
自分は意識を失っていた。やはり、あのハンカチには睡眠薬が染み込んでいたのだ。
言葉を返さず、そっと外套の内側へ手を滑らせる。
内ポケットに指を入れると、硬い紙が触れた。
よかった。ある。
思わず止めていた息をゆっくりと吐き出したが、ローアンはその仕草を見逃さなかった。
「大事な物なの?」
人間族の女は答えず、目の前の女を見た。
「……何も触らなかったんですね」
「触ってねーよ。あんたを拾って、そのまま引きずってきただけだ。人聞きが悪いな」
事実だった。ローアンは彼女を寝かせただけで、何の介抱もしてやらなかった。
女はそこでようやく、ローアンの耳当てに気づいた。
「あなた……白エルフ?」
「今さらか」
ローアンは耳当てを指先で撫でた。
女は改めて周囲を見回してみる。段ボールに汚れた毛布、空の酒瓶、そして、その中に暮らしている白エルフ。
「……白エルフの浮浪者なんて初めて会いました」
言葉を失う人間族の女を見て、ローアンは小さく笑った。
「私もほかには知らないよ」
冗談っぽく返したが、視線を決して外さないことから警戒していることがわかる。
しばらく二人は何も言い出せず、外で風が木々を揺らす音だけが聞こえていた。
やがて女は意を決したように口を開く。
「……私、追われているんです」
ローアンの眉がわずかに動いた。
「へえ」
「詳しくは……言えません。でも……」
女は外套の内側へ手を入れ、一枚の絵葉書を取り出した。
表には、曇天の下に広がる灰色の北海が印刷されている。草に覆われた堤防と、赤白に塗られた小さな灯台が見える。防波堤の向こうには黒い漁船が数隻浮かんでいる。
ヴィルトシュヴァインの土産物屋で売られていても、誰も気に留めないようなありふれた観光絵葉書だった。
「これを……預かってもらえませんか」
ローアンはすぐには受け取らず、まず女の顔を見た。
「葉書を?」
「はい」
「なんで? 誰かに送るのか」
「いいえ。送らないでください」
女の指は、絵葉書の縁を強く握っていた。
「折らずに、そのまま持っていてほしいんです」
ローアンは手を伸ばして絵葉書を受け取り、表裏を一度ずつ眺めてみた。
裏面には、低地オルク語で短い文章が書かれている。
親愛なるマルタへ。
北の海は、あなたが話していたとおり、とても静かでした。
次は晴れた日に訪れたいと思います。
レリア。
旅行者が知人へ送る近況報告にしか見えず、宛名もなければ切手も貼られていなかった。
「何の変哲もない絵葉書だな」
ローアンはそう言ったが、女へ返そうとはしなかった。
段ボールの隙間から差し込む街路灯の光へ絵葉書を僅かに傾けると、文章の末尾にある句点が一瞬だけ光を返した。
印刷インクの鈍い反射とは違う、小さく硬質な光だった。
ローアンが角度を変えると、今度は別の句点が光った。
文字の線は紙へ染み込んでいるのに、幾つかの句点だけが紙の表面に載っているように見える。大きさも形もほとんど同じだが、縁が僅かに盛り上がっていた。
ローアンの親指が、句点のすぐ脇をなぞる。
「触らないで」
女が思わず声を上げた。
ローアンはその声に指を止め、もう一度絵葉書を光へかざした。
「……八つあるぞ」
女の表情が固まる。
「何がですか」
「普通の句点じゃないものが、八つある」
ローアンは絵葉書の裏面から目を離さなかった。
「薄い皮膜で貼りつけてあるな。剝がれにくくはしてあるが、折ったら駄目になるかもしれない」
女は息を呑んだ。
「あなた……」
「マイクロドットだ」
段ボール小屋は静まり返った。
強い風が吹き、屋根のビニールシートがバサバサと音を立てる。
女はローアンの顔を見つめた。
さっきまでは、ただの風変わりな浮浪者だと思っていた。
しかし今は、これまでの経験が、目の前のエルフは危険だと告げている。
「……なぜ、そんなことを知っているんですか」
「昔、扱い方を教わったんだ」
「どこで?」
「昔のことだ」
ローアンはそれ以上答えなかったが、普通の浮浪者が持つような過去ではないことは、女にも分かった。
「この大きさなら、写真資料だな。専用の顕微鏡か投影機があれば読める」
女の中で更に疑念が深まったが、それでも今は他に選択肢がなかった。
「お願い。それを絶対に誰にも渡さないで」
女はそう言ってから続けた。
「……すぐに、ここを離れたいんです。夜が明ける前に」
身体を起こそうとしたが、次の瞬間、顔を歪めた。
「……っ」
足に力が入らず、遅れて痛みが走る。
ローアンはその様子を見て舌を鳴らした。
「あー……やってるな、それ」
「……歩けます。少しなら……」
「無理すんな。折れてなくとも、腫れてる。逃げるなら、足が動くようになってからだ。それまで、あんたはここにいろ」
ローアンは、謝礼をもらったらすぐに追い出そうと思っていた人間族を引き留めた自分に驚きつつ、受け取った絵葉書をジャケットの内ポケットへ滑り込ませると立ち上がり、裾を整えた。
「人間族に治癒魔法は使っちゃいけないからな。近くに、顔見知りのホームレスがいる。薬、もらってくる」
女の目が不安に揺れた。
「……すぐ戻りますよね?」
ローアンは扉代わりのボロ布に手を掛けながら振り返った。
「安心しろ、警察を呼んだりなんかしないから」
そう言い残し、外へ出ていった。
◆
霧の向こうにアールの「家」が見えてきたところで、ローアンは足を止めた。
手土産の煙草を忘れていた。顔見知りのドワーフに薬を分けてもらうには安酒だけでは足りず、あのアールの老いぼれは、煙草がなければ物をくれないんだ。
ローアンは踵を返し、自分の小屋へ戻ろうとした。
その時、全身の毛が一斉に逆だった。
植え込みの向こうに人影がある。
霧の中から現れたのは、大柄なオークの牡だった。
暗い背広に革手袋を身につけ、一見すれば夜勤を終えた会社員にも見える。
意識を失った人間族の上体を左腕で支え、外からは酔客を介抱しているように見せかけている。その一方で右手は自由にしたまま、身体の陰へ隠していた。
しかし、女の口には布が噛まされている。
牡は彼女を、公園脇の管理道路へ運ぼうとしていた。
ローアンは腰の鞘から、刃渡り二十五センチを超える片刃の軍用ナイフを抜いた。
姿勢を低くし、植え込みの陰を回って相手の死角へ入る。
一歩、さらに一歩と距離を詰め、残りは五メートルほどになった。
だが、その時だった。
先ほど煽った安酒が彼女の神経に悪戯をし、踏み出した右足が霧に濡れた木の根を滑った。
小枝を折る乾いた音が、静かな夜の公園に大きく響く。
オークが振り返った。
人間族の女を地面へ突き倒すと同時に、背広の内側から拳銃を抜く。
ローアンは横へ跳んだ。
パスッ、と咳に似た音が続けて三度鳴り、植え込みの葉が弾け、先ほどまで彼女がいた場所の土が抉られた。
(消音器だ……)
ローアンは太い木の幹へ滑り込み、次の弾丸が樹皮を削る音を聞いた。
ただ者じゃないぞ。
奴は振り向いたと同時に引き金を引いた。素人なら、この暗がりでは私が潜んでいた場所を特定するどころか、まともに狙うこともできないはずだ。
その手の訓練を受けてるんだ。
ローアンは息を殺し、幹の反対側へ身体を移した。
正面から飛び出せば撃たれる。
相手は人間族の女を回収し直そうとしている。騒ぎが大きくなる前に車へ運び込むつもりなのだろう。
ローアンは唇を噛み、オオマテバシイから垂れ下がっていた古びた麻縄を力任せに引き絞った。
「鳴れ!」
その瞬間、公園中の静寂が破られた。
樹木から樹木へ蜘蛛の巣のように張り巡らされた糸には、数百の空き缶が吊るされていた。その中へ小石を詰めた特製の「鳴子」が一斉にけたたましい音を立て始める。
夜間に多発する浮浪者狩りを警戒し、公園に住まう者たちが作り上げた、原始的だが確実な警報装置だった。
「なんだ、何事だ!」
「若造どもめ! また来やがったな!」
闇の中から、一人、また一人と影が這い出してきた。
シャベルを握りしめたドワーフに、錆びた金槌を振り回すオーク。社会の底辺で身を寄せ合う、失うもののない者たちの群れで、そのうちの数人はすでに近くの交番へ走り出していた。
銃撃者は、包囲の輪が縮まるのを察した。
これ以上発砲すれば、警察との接触を招く。
オークの牡は一瞬、忌々しげにローアンの潜む木立を睨みつけると、担いでいた女を地面へ放り投げた。
「……チッ」
そのまま背を向け、驚くべき速さで闇へ消えていく。
「おい、大丈夫か!」
「あっちへ逃げたぞ! 追え!」
集まってきた浮浪者たちの怒号を背に、ローアンは真っ先に女のもとへ駆け寄った。
「あんた、しっかりしろ!」
人間族の女は地面に転がったまま動かない。
ローアンが彼女を仰向けにさせた瞬間、街灯の光の下で嫌な光沢を放つ液体が目に入った。
「……クソ」
女の首元には、鋭利な刃物で一文字に引かれた深い切り傷があり、淡い金色の髪は赤黒い血に染まっていた。
奴は去り際に迷うことなく、回収不能と判断した「荷物」を処分したのだ。
ローアンは震える手で治癒魔法を施そうとしたが、彼女はすでに事切れていた。
◆
ヴィルトシュヴァイン警視庁、留置場。
ローアンは硬い寝台へ座り、背を壁に預けていた。
コンクリートの壁から冷気が伝わり、外套を剥ぎ取られた身体が冷えていく。彼女は自分の失敗を何度も思い返していた。
(なぜ、音を出したんだ……?)
あの時、酒で濁った神経がわずかに反応を遅らせ、小枝一本に敗北した。その後も、奴が騒ぎに気を取られている隙に、あと三歩踏み込んでいればもしかすると結果は違ったかもしれない。
そこまで考え、ローアンは鼻で自嘲した。
見ず知らずの人間族の女を救えなかったことに、なぜここまで固執しているのか。
いや、違う。
心の中でそう否定する。
彼女が悔いているのは、人道的な正義などからではない。自分の領分において素人同然のミスを犯したことへの、プロとしての憤りだった。
「……だけどもう関係ないだろ」
独り言を吐き捨てて寝返りを打つ。
これからは警察の仕事だ。
しかし、その警察というのがまた厄介だった。連行の手際のよさからして、自分はすでに「殺人事件の容疑者」という枠に入れられている。
天井の裸電球を見つめていると、網膜に焼き付く光の裏側に、あの襲撃者の残像が浮かんだ。
あのオークは紛れもなくプロだった。
消音器付きの銃、迅速な撤収判断、そして回収不能と見るや即座に荷物を処分する冷酷さ。あの迷いのなさは、特殊訓練を受けた者にしか生まれない。
その時、鉄格子が警棒で叩かれる不快な音が響いた。
「おい、出ろ。取り調べだ」
コボルト族の制服警官が、鋭い声で告げる。
手錠を掛けられ、廊下を歩いていく。
左右を鉄格子に囲まれた閉鎖空間を進むうち、ローアンの背筋を悪寒が走る。
(やめろ……思い出すんじゃない)
こみ上げる過去の記憶を無理やり意識の底へ沈めたところで、取調室へ押し込まれた。
正面の机には、一人のオークが座っている。
「外してくれ」
オークが短く命じると、コボルトの警官は気怠そうにローアンの手錠を解き、部屋を出ていった。
重苦しい沈黙が落ちる。
ローアンが椅子に深く腰を下ろすと、オークは喉を鳴らして咳払いをした。
「私はヴェルナー・シュトラウス巡査部長だ。もう一度、あんたの話を聞きたい」
牡の声は低く、落ち着いていた。
「名前は、ローアン・イヴェット。間違いないな?」
ローアンは答えず、視線を逸らして壁の染みを見つめた。
詮索されるのは御免だが、指紋を照合されれば名前ぐらいは簡単に知られてしまう。
「……黙秘か。いいだろう、記録は嘘をつかんからな」
ヴェルナーは手元の書類をめくった。
「だが、奇妙なこともある。あんたの記録はほとんど真っ白だ。徴兵の記録さえない。兵役忌避者だとしても、どうやって首都に本籍を移せた? 誰がその偽装を認めたんだ?」
ローアンの奥歯が微かに鳴った。
クソッタレ。本質とは関係のない細部を、ネズミのように掘り返しやがる。
「それに、このジャケットだ」
ヴェルナーは、ローアンが着ていた軍用ジャケットを手に取った。
「軍人気取りか? それとも、数年前まで徘徊していたヒッピーの生き残りか。反戦派を気取って、その実、平和を貪っているだけの連中だ」
ヴェルナーは椅子の背もたれに身体を預け、煙草を取り出した。
火を点けて紫煙を細く吐き出しながらも、その視線は執拗なまでにローアンの顔へ向けられている。
「……いや、ヒッピーにしては、その耳は少々不自然だな」
ヴェルナーが顎で示した先には、ローアンの突耳があった。
本来あるべき鋭い先端は失われ、左右ともに数センチほどが力ずくで断ち切られたような、あるいは激しい凍傷で腐り落ちた後のように成り果てている。
普段は耳当てを被って隠していたが、身体検査の際に剥ぎ取られてしまったのだ。
ヴェルナーは手元の資料をペン先で叩いた。
「この国の平和を乱す連中は、決まってあんたのような目をしている。社会から零れ落ち、暴力に酔い、法を無視して凶器を振り回す。あの公園で起きたことも、あんたが関わったごろつきの内部抗争だろう? 否定したければ、その耳にある『前科の証拠』をどう説明する。それともなんだ? かつてのエルフィンドのような選民思想に取り憑かれたテロリストの生き残りか?」
その瞬間、ローアンの目つきが変わった。
(私を、あんな連中と一緒にするな)
思考が、殺意へと瞬時に切り替わる。
この間抜けなブレめ。その気になれば、三秒もかからない。両手両足の関節を外し、一撃で喉仏を潰せる。そのまま外へ飛び出し、この警察署ごと焼き払ってやる。
だが、その光景を脳内で完結させた直後、ローアンはハッと正気に戻った。
(今、私は何を考えていた……?)
目の前の牡は、ただの警官だ。任務に従順な、公務員に過ぎない。それを反射的に「排除対象」として認識し、殺そうとした自分。
狂っている。
どうもおかしい。
落ち着かなければ
ヴェルナーは再び調書に目を落とした。
「……話を戻そう。被害者を連れ去ろうとしたのは、オークだったと言ったな。それは他の証言とも一致する。だが、あんたは何もしていないと? あのナイフは何だ? 刃渡り二十五センチ。あんな代物を持ち歩くのは、どんな理由があろうと銃刀法違反だ」
ローアンは依然として沈黙を貫いた。
彼女は知っていた。自分のナイフからは人間族を切りつけた痕跡は出てこない。
これは「人質司法」だ。沈黙を罪の証拠として扱い、精神的に磨り減るのを待って自白を引き出す。
だが、彼らは致命的な計算違いをしている。
ここに何日留め置かれようと、仮に拷問を受けようとも、彼女の意志が折れることはない。
彼女が受けた訓練は、こんなものの比ではなかった。
特殊部隊の訓練は、過酷という言葉すら生ぬるい。
起床は午前四時。四十キロの装備を背負い、標高差千メートルの山道を三時間以内で駆け上がる。歩くのではない。駆け上がるのだ。脚が裂けようが、肺が焼けようが、止まれば最初からやり直し。
朝食を終えれば、すぐさま二十キロのランニング。吐いたり転んだりして列を乱せば、さらに十キロ。
降下訓練では、高塔に登り、登録番号を大声で叫ぶ。両足を揃え、脇を締めて飛び降りる。「千、二千、三千、四千」——落下中に声を上げる。胃がのど元までこみ上げてくる。地上寸前、スプリング付きの背嚢が一気に体を引き上げ、命をつなぐ。
降下の順番を待つ間も休息はない。腕立て伏せ六十回。「猟兵(イェーガー)のために!」と叫び、さらに十回。声が小さければ、罰としてもう六十回追加。それからもう一度、叫んで十回。
武器の扱い、爆薬の知識、偵察・尋問・格闘術。すべてを徹底的に叩き込まれる。仮想敵国の言語と文化を学び、現地の親オルクセン派ゲリラを訓練し、師団級部隊の指揮統制すら担当できるよう教育される。
仕上げは、捕虜救出を想定した夜間急襲訓練。
演習場の森に空挺降下し、一昼夜かけて捕虜収容所が見える地点まで潜入。深夜、収容所を強襲し、ヘリでの脱出地点に向かう。だがそこで教官が告げる。
「君たちのヘリは撃墜された。敵が迫っている。正午までに基地へたどり着け」
そこからが本番だった。
大鷲族、巨狼族の教官、さらには第七降下猟兵師団の捜索部隊が待ち構えている。彼らの追跡を振り切り、補給も支援もないまま、訓練生たちは九時間以内に二十五キロを踏破しなければならない。
これに耐えて、やっと緑のバレット(低地オルク語でベレーのこと)を与えられ、オルクセン陸軍特殊部隊「グリューネ・バレッテ」の一員として認められるのだ。
だが。
不意に視界が歪み、重く湿った取調室の空気が、ローアンの意識を現実へと引き戻した。
(……今の私は、どうだ)
鼻をつく、安物の蒸留酒の酸っぱい匂い。袖にこびりついた汚れ。震える指先。
あの過酷な訓練に耐え、国の刃となったはずの自分が、今はどうだ。
悪夢にうなされ、安酒で神経を麻痺させ、定職にも就かず、路地裏を這いずる浮浪者に成り下がっている。
守るべき国のために死んでいった、多くの仲間たちの顔が脳裏をかすめる。
彼らは誇りを持って犠牲になった。泥を啜り、人知れず異郷の土に還った。その彼らを率いた自分が、今、何をしている?
救いを求めてきた女一人、満足に助けられず、目の前で喉を掻き切らせた。
(……申し訳が立たない)
肺の奥が、焼けるように熱い。それは酒のせいではなく、心の底で燻り続けていた汚辱への憤りだった。
部下に対して、どの面を下げて死後の再会をすればいい。
私はまだ、あいつらの指揮官なのだ。
ローアンはゆっくりと顔を上げた。
濁っていた瞳に、鋭い光が戻っていく。
はっきりとわかった。今、この国で何かが起きている。
あの公園のオークは、単なる暗殺者ではない。あれは訓練された国家規模の工作員だ。
こいつら警察には手に負えないだろう。
オルクセン連邦の主権を、根底から脅かす何者かが、この夜霧の街で邪悪な策謀をめぐらせている。
(……止めなければならない)
彼女は心の中で、誰に告げるでもなく、静かに、だが鋼のように硬い誓いを立てた。
(「鏡の中の裏切り者」に続く)