※この作品はR-18です。

二匹だけの軍隊   作:S文字

3 / 9
鏡の中の裏切り者

「はあ……」

 

 ヴェルナー・シュトラウスの口から、溜息が漏れた。

 

 彼は取調室の鉄の扉を閉め、交代にやってきたダックスフンド種の小柄な同僚に目配せを送る。

 

 いつもこの役ばかりやらされるんだ。

 

 俺は傲慢な態度の「悪い警官」。今入っていったコボルトは温和な「良い警官」だ。

 

 悪い警官に打ちのめされた被疑者は良い警官に泣きつく。

 

 すると、良い警官は同情し、そいつの話を親身に聞いてやる。

 

 ところが、良い刑事は突然牙を剥く。唯一の味方に裏切られた被疑者は精神的に屈服させられてしまう。

 

 ヴェルナーはこの手法を、個人的にひどく嫌っていた。

 

(そんなことをしても真実を引き出せるとは思えない。自白をさせるための浅知恵に過ぎないんだ。)

 

 彼はある時、上層部の指示で上半身裸にピッケルハウベという滑稽な格好で尋問させられた。被疑者が裁判でその事実を訴えたところで、「そんな警官がいるはずがないだろう、妄想だ」と一蹴される。証言には信憑性がないと裁判官に判断させるための卑劣な工作だ。

 

(馬鹿馬鹿しい……。徹底して被疑者を貶めることが、事件の解決と何の関係があるんだ?)

 

 だが、組織の歯車に拒否権などない。

 

 ヴェルナーは窓越しに、取調室の中を見つめた。

 

 ローアンと呼ばれた白エルフは、新しく入ってきたコボルトの警官が演じる見え透いた「善意」に対し、吐き気を催すような目を向けている。

 

 もし、彼女が本当にただの社会不適合者やヒッピーであったなら、もっと別の場所で出会っていたかもしれない。

 

 警官としてではなく、かつての同志として。

 

 星暦九六二年、「一三日間危機」のさなか、ヴェルナーは間違いなく取り締まられる側にいたのだ。

 

 核兵器の廃絶を叫び、理想の社会を夢見て、国家という巨大な怪物に石を投げた。

 

 だが、世界を滅ぼしかねなかった危機はあっけなく終わり、翌朝には昨日と同じ日常が戻っていた。

 

 何も変えられないという事実を突きつけられた瞬間、彼の中にある理想への熱意は、急速に冷えていった。

 

 運動を捨てて家に戻った時、父は喜んだ。それから、警察上層部に身を置く父の後ろ盾と、「元活動家」という過去を隠蔽する力添えを得て、ヴェルナーは警察という体制の内側へ入り込むことに成功した。

 

 勤勉に働き、実績を積み、今や捜査一課の花形として警部補への昇進も近い。

 

 ……当然の結果として、同僚たちの目は冷たい。親の七光だと陰口を叩く者、過去の運動歴を嗅ぎつけて「転向者」と蔑む者もいる。

 

 その時、半透鏡の向こうにいるローアンと、不意に目が合った気がした。

 

 そんなわけない。特殊なガラスは向こう側からは鏡にしか見えないはずだ。

 

 しかし、彼女の灰色の瞳が、鏡の裏に隠れた自分を真っ直ぐに穿つように感じる。

 

 ヴェルナーは反射的に目を逸らした。

 

 すべてを見透かされているような気分だった。「お前はかつての仲間を裏切り、飼い慣らされた」と、その瞳に責められているような錯覚。

 

 彼女に傷つけるつもりはなかったと告げたところで、何になるというのか。

 

 ……クソ。仕事だ。余計なことを考えるな

 

 彼は軽く頭を振ると、手元の捜査資料に目を落とした。

 

 公園の現場。樹木の幹に刻まれた弾痕から、発砲があったのは確実だ。しかし、近隣に銃声を聞いた者はいなかった。消音器が使われたのだ。

 

 そして、殺された被害者。

 

 レリア・シャモワゾー。三十一歳、人間族、女性。

 

 所持していたパスポートによればグロワール人であり、渡航目的は「観光」とされていた。

 

 だが、グロワール本国に照会した結果は「該当者なし」。

 

 レリア・シャモワゾーは、この世に存在しない。

 

 パスポートは精巧な偽造品だった。

 

 まず、一個人やただの犯罪組織があれを作るのは不可能だ。

 一介の浮浪者が関わるような痴情のもつれや強盗殺人ではない。これは、国家規模の組織が関わっていると見て間違いない。

 

「保安局への照会結果はまだか……」

 

 ヴェルナーは呟き、窓の外の街並みを見つめた。

 

 この事件は、もはや警視庁の手に負える範囲を超え始めている。

 

 保安局という、得体の知れない「掃除屋」どもの助けを借りなければ、これ以上の真相には辿り着けないだろう。

 

 廊下の自販機で買った、泥水のようなコーヒーを飲んでいると、背後から足音が近づいてきた。

 

 振り返るまでもない。その、床を震わせるような音と、安物の整髪料の匂いは、ヴェルナーの直属の上司、ヘルベルト・キュヒラー警部補のものだった。

 

 キュヒラーは、戦後オルクセンの警察組織を絵に描いたようなオークだった。

 

 逞しすぎる肩幅に、長年のデスクワークで少々緩んだ太い腹。分厚い首筋には、かつてのベレリアント戦争で刻まれた火傷の痕が、地図の等高線のように走っている。上からの命令には忠実で、下で不都合な摩擦が起これば容赦無く握りつぶす。そうやって今の地位を築いてきた牡だった。

 

「……あの白エルフはどうだ」

 

 キュヒラーが、短い指で取調室のドアを指した。

 

「相変わらずです。口を割る気配はありません。過去の記録も不透明ですが、ただのヒッピーだとは思えません。もっと時間をかければ――」

 

「釈放しろ」

 

 ヴェルナーの言葉を、キュヒラーの低く濁った声が断ち切った。

 

 耳を疑った。ヴェルナーは、思わず口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。

 

「……え? 今、なんと?」

 

「釈放だと言ったんだ。イヴェットというあの牝を、今すぐここから出せ。ナイフも返してやれ。微罪の銃刀法違反だ、今回は厳重注意で済ませる」

 

 ヴェルナーは混乱した。キュヒラーという牡は、一度捕らえた獲物を簡単に逃がすような甘い牡ではない。むしろ、証拠がなかろうが徹底的に追い詰め、自白を強要してでも解決させるのが彼の流儀だったはずだ。

 

「……何を言ってるんですか、警部補。彼女は現場の最有力被疑者ですよ。それに、たった今被害者の身元を保安局に問い合わせたばかりでしょう」

 

「捜査は中止だ、シュトラウス」

 

 キュヒラーは、ヴェルナーの顔を見ようともせず、壁の掲示板に目を向けていた。

 

「保安局が案件を引き継ぐということですか? 我々が掴んだ物証をすべて渡せと?」

 

「知らん。保安局が何をどうするかなど、俺の知ったことではない。俺が言っているのは、この件について忘れろということだ」

 

「忘れろ?」

 

 ヴェルナーの声が、廊下に響いた。

 

「外国人が首都のど真ん中で殺されたんですよ! 偽造パスポートに消音器付きの銃、これはどう考えても国際的な謀略が絡んでいる。放置すればそれこそ国際問題になる。我々警察が動かなければ、一体誰が――」

 

「シュトラウス!」

 

 キュヒラーが吠えた。咆哮に近い怒声。廊下を行き交う署員たちの動きが、一瞬で凍りつく。

 

 彼はヴェルナーの胸倉を掴まんばかりに詰め寄り、耳元で毒を吐くように低く言った。

 

「……いいか、この事件は初めから無かったんだ。死体も、お前がさっきまで尋問していたあのエルフも、最初から存在しない。マスコミにも一言も漏らすな。これは命令だ。俺から言えることは以上だ」

 

 キュヒラーはそれだけ告げると、巨体を揺らして去っていった。

 

 廊下を職員たちが行き交い始め、時が動き出したかのように慌ただしさが戻っていく。

 

 ヴェルナーが手に持った紙コップを握り潰した拍子に、コーヒーが指を汚したが、彼は気にもしなかった。

 

(……こんなことが起こり得るのか?)

 

 捜査は、何者かの手によって強引に終了させられた。

 

 警察組織という巨大な歯車が、外側から動きを封じられたのだ。

 

 

 ◆

 

 

 晩秋の柔らかな日差しが、ヴィルトシュヴァイン警視庁の庁舎を赤茶色に染めていた。

 

 ミルヒシュトラーセ川を渡ってくる風は、冬の到来を思わせる冷気を含んでいる。

 

 ヴェルナー・シュトラウスは、本庁舎の正面玄関からゆっくりと歩み出た。

 

 以前よりも肩が軽く感じられた。上着のポケットに手を滑り込ませる。そこには、数分前まで確かにあった警察手帳も、腰を沈ませていた拳銃もない。

 

 その一方で、背中を抜ける風が妙に冷たかった。

 

 国家権力という大きな庇護を失った一人のオークには、十一月の寒気はあまりにも容赦がなかった。

 

 彼は今しがた、休職願を叩きつけてきたところだった。

 

 キュヒラー警部補との悶着の後、ヴェルナーは諦めきれずに他の部署や同僚にも働きかけた。だが、返ってきたのは一様に冷ややかな目だった。

 

 誰もが、あの公園の惨劇など初めからなかったかのように振る舞う。証拠品は「紛失」し、事件番号はデータベースから消去されていた。昨夜の出来事だけが、この世界から切り取られてしまったように……

 

 自分一人でも追及してやる。

 

 そう息巻いて、辞職に近い休職を選んだ。しかし、ヴェルナー自身には分かっていた。真実を追いたいという思いがなかったわけではない。ただ、それ以上に、あの息の詰まるような組織の空気から逃げ出したかったのだと。

 

(俺はいつだって、逃げてばかりだな……)

 

 学生運動の熱が冷めた時もそうだった。父の用意したレールに飛び乗った時も。

 

 そして今、真実を追うという建前の影で、彼は再び組織を背にしている。

 

「……はは、笑えねえな」

 

 枯れ葉が舗道の上をカサカサと音を立てて転がっていく。ヴェルナーは自嘲気味に呟くと、コートの襟を立てた。

 

 車が行き交う大通りを眺めながら、ヴェルナーは奇妙な感覚に囚われていた。

 

 警察官として何度も通ったはずの景色が、今は全く別のものに見える。

 

 皆が皆、せこせこと目的を持って歩を進めている。寒空の下、どうしていいかわからずぶらぶらしている奴など、この街には一人もいない。

 

 誰もがシステムの歯車として正しく回転しているのだ。その循環から弾き出された自分だけが、異物のようだった。

 

 ヴェルナー自身も歩み始めようとした、その時だった。

 

 彼の眼が一点で止まり、大きく見開かれた。

 

(……あの白エルフ)

 

 薄汚れた軍用ジャケットに、深く被ったニット帽。

 

 人混みに紛れ、消え入りそうな後ろ姿。だが、見間違えるはずがない。数時間前まで半透鏡越しに凝視していた、あのローアン・イヴェットだ。

 

 ヴェルナーは反射的に歩き出した。

 

 警察手帳はない。逮捕権もない。それでも、捨てきれなかった事件への執着が、彼の足を前へと進ませた。

 

 彼女は背後を振り返る様子もなく、淡々と歩道を歩いていく。すれ違うコボルトの市民が、浮浪者を見る侮蔑の目を向けるが、彼女はなんでもないように受け流している。

 

 尾行に慣れていないわけではないが、ヴェルナーの巨体は街中で目立ちすぎる。

 

 彼は道すがらの雑貨店に飛び込み、安物の茶色い中折れ帽を買い求めた。それを目深に被ると、顔を上げず、視線を下げ、彼女の履き潰された軍用ブーツの動きだけを網膜に焼き付けた。

 

 街の中心部に近づくにつれ、人混みは激しさを増していく。

 

 着かず離れずの距離を保ち、彼女を追う。たどり着いたのは、ヴィルトシュヴァイン駅南口。ヘルマン坂や公園通り、繁華街の全方面を連絡する交通の要所、市内最大級の交差点だ。

 

 南東角の地点。

 

 目の前には、交差点を斜めに走る巨大な横断歩道が広がっている。

 

 信号は青に変わると、歩行者たちが一斉に歩き出す。だが、あのエルフはその場に立ち止まった。

 

(なぜ渡らない……?)

 

 怪訝に思ったヴェルナーも、数メートル後方で足を止める。

 

 彼女を避けていく通行者たちが、邪魔だと言わんばかりに肩をぶつけていく。それでも彼女は動かない。

 

 やがて信号は黄色に変わり、そして赤へと切り替わった。

 

 その瞬間だった。

 

「あっ……!」

 

 エルフが弾かれたように走り出した。

 

 赤信号を無視し、全速力で交差点の真ん中へと突っ込んでいく。

 

「なにをしやがる……!?」

 

 けたたましいクラクションが鳴り響き、大型トラックが白煙を上げて急ブレーキをかける。左右から迫る車の奔流を、彼女はいとも簡単にすり抜けていく。

 

「クソッ!」

 

 ヴェルナーは叫び、なりふり構わず後を追った。

 

「馬鹿野郎! 死にたいのか!」「どけ!」

 

 ドライバーたちの怒声が四方八方から飛んでくる。四トントラックのバンパーがすぐそばを掠め、風圧で帽子がずれた。

 

 周囲の市民たちは、突然道路へ飛び出した巨漢のオークを見て、悲鳴を上げて立ち止まった。

 

 どうにか反対側へ渡ると、ヴェルナーはエルフの姿を探した。

 

 銀髪の女は、大通りを離れ、狭い裏通りへ走り込んでいくところだった。

 

 ヴェルナーは迷わずその後を追い、裏通りへ足を踏み入れた。

 

 自然と右手の指先が腰へ向かう。だが、指が触れたのは、ホルスターではなく、ただのコートの生地だった。

 

 つい先ほど、自分の手で返却したことを、指によって思い出さされ、ヴェルナーは思わず「チッ」と激しい舌打ちを漏らした。

 

 追い打ちをかけるように、運命は彼に味方しなかった。

 

 目の前の道洋料理店から、観光バス一台分はあろうかという団体客がぞろぞろと溢れ出してきたのだ。

 

 小柄な体躯、平たい顔立ち、そして独特の抑揚を持つアクセント。秋津洲からの旅行者と見られる一団は路地を塞ぐように広がっていく。

 

「どけ! 通してくれ!」

 

 ヴェルナーは巨体を揺らし、秋津洲人たちの波を強引に掻き分けて路地へと潜り込んだ。

 

 そこは、ヴィルトシュヴァインの繁栄から見捨てられた場所だった。

 

 頭上のダクトからは、油ぎった香辛料と腐った野菜が混ざり合った臭気が漂っている。

 

 ポリタンクからは生ゴミが溢れ出し、それを漁っていた肥えたネズミが、ヴェルナーの足音に驚いて逃げていった。

 

(もう二度と、この店で飯を食うことはないだろうな……)

 

 そんな毒づきを飲み込み、ぬかるんだ地面を踏み抜かないよう慎重に歩を進めていた、その時だった。

 

「――ヴェルナー・シュトラウス君。五十二歳」

 

 背後から放たれた声に、ヴェルナーの心臓が跳ねた。

 

 不意を突かれ、弾かれたように振り返る。

 

 自分が今しがた通り抜けてきた路地の入り口。逆光の中に、あの白エルフが立っていた。

 

 彼女は手元にある古びた皮財布を眺めている。ヴェルナーが肌身離さず持っていたはずの財布だ。

 

 その中には彼の運転免許証が入っている。

 

「私と同い年か。……見えないな。もう少し、くたびれてるかと思ったが」

 

 ローアンは顔を上げ、皮肉な笑みを浮かべた。

 

「貴様……! どこで盗りやがった!?」

 

 ヴェルナーが叫ぶ。奪い返そうと足を踏み出す。

 

「あんたが、あの賑やかな異邦人たちと『戯れて』いた時さ。」

 

 ローアンは親指を立てて、背後の秋津洲人たちを指した。

 

「それはそうと、あんた。警察手帳はどうした? どこかに落としてきたのかい? 警官の命だろう、あれは」

 

 彼女は小首を傾げ、一歩踏み込んでくる。

 

 ヴェルナーは言葉に詰まった。組織を去った、いや逃げ出した今の自分を、このエルフはすべて見抜いているんだ。

 

「……クソ! この糞エルフめ。知っていて聞いてやがるのか」

 

 ヴェルナーは彼女を睨みつけた。

 

 こいつは国家権力という庇護を失った自分を嘲笑いにきたのか。

 

「おいおい、そんなに怒るなよ。ゴミ溜めでカッカしても損なだけだ。……これは返すよ」

 

 ローアンは無造作に財布を放り投げた。

 

 ヴェルナーはそれを空中で掴む。

 

 路地の奥底で、二人の視線がぶつかり合う。ヴェルナーは財布の感触を確かめると、押し殺したような声で吐き捨てた。

 

「知っているんだろ……! 捜査は中止だ。被害者の記録は抹消され、事件そのものが『無かったこと』にされたんだ。釈放されたあんたも、その片棒を担いでいるんだろう! この人殺しめ!」

 

 ヴェルナーが詰め寄ると、その巨躯がローアンを覆い被さった。しかし、ローアンは怯えるどころか、意外だと言わんばかりに眉をひそめた。

 

「人殺し……? 何のことだい」

 

「惚けるな! お前は現に釈放された。上からの『特別な配慮』が無ければ、あの状況で自由になれるはずがないだろう」

 

「……ああ、なるほどね。私が握りつぶした側だと思ってるんだな」

 

 ローアンは鼻で笑い、視線を逸らした。

 

「私が釈放されたのは、別の力が働いたからだ。あんたの言う『捜査中止』とは無関係さ」

 

「どういう意味だ?」

 

「さあね。……それより、あんた。これを受け取りな。もともとは、あんたを助けてやろうと思って持ってきたんだ」

 

 ローアンは軍用ジャケットの内側から、一枚の絵葉書を取り出した。

 

 曇った北海と、小さな灯台を写したありふれた観光絵葉書だった。

 

「これが?」

 

「事件の鍵だ」

 

 ローアンは裏返した。低地オルク語で短い旅行文が書かれているだけで、宛名も切手もない。

 

「ただの絵葉書にしか見えん」

 

「よく見ろ。文章の句点だ」

 

 言われたとおり、注意深く眺めると、幾つかの句点が僅かに光を返した。インクではない。紙の表面に、薄い何かが貼りつけられている。

 

「……マイクロドットか」

 

「全部で八つある。文書を極小に縮小した写真だ。鑑識の設備があれば読める」

 

「……なんで、それを署で渡さなかった」

 

「殺されたあの女は、必死に誰かから逃げていた。その『誰か』の仲間が、警察のなかに一人もいないと断言できるか?」

 

 ローアンの言葉は、今のヴェルナーにはあまりにも重く響いた。組織が隠蔽する光景を、彼は今しがた見てきたばかりだ。

 

「……わかったよ。だが、なぜ俺なんだ。あんたにとって、俺も警察側のはずだ」

 

 ローアンはククッと笑い声を上げた。

 

「あんた、取調室を出た後、上司と怒鳴り合ってただろ? 筒抜けだったよ。少なくとも、事件を握りつぶそうとしている連中のなかで、あんただけは『クロ』じゃないと思っただけさ。……それで? あんたのその手帳も銃も持ってない、情けない姿はどうしたんだい」

 

「……休職してきた。上司は手を引けと言ったが、納得できなかったんだ」

 

 ヴェルナーが視線を落とすと、ローアンは初めて感心したように口笛を吹いた。

 

「ほう。私を威圧してきた時は単なる傲慢なブレかと思ったが、なかなかどうして、ガッツがあるじゃないか。……気に入ったよ、シュトラウス巡査部長。いや、ただのシュトラウス君。あんたも事件を追う気なんだろ? だったら、こいつが必要だよな」

 

 ローアンが、指先で絵葉書を差し出す。

 

 ヴェルナーは返す言葉を失った。彼女が思うほど立派な覚悟で組織を飛び出したわけではない。そう打ち明けることは、どうしてもできなかった。

 

 だが、手がかりを目の前にした瞬間、彼のなかの刑事としての血が再び脈打ち始める。

 

 彼は無言で絵葉書に手を伸ばした。

 

 だが、その指が触れる寸前、ローアンは素早く手を引いた。

 

「何の真似だ」

 

「条件が一つある。私も捜査に参加させろ。あんたの足代わりに使ってくれて構わない」

 

 ヴェルナーは即座に拒絶したかった。

 

 得体の知れない素人とは手を組みたくなかったのだ。

 

 そして、なんと言っても、彼女の纏う「国家に逆らう者」の気風が、かつての挫折した自分と重なるようで嫌だった。

 

 ところが、彼にはもう、頼れるバックアップも、警察のデータベースも、法的な特権もない。

 

 この迷宮のなかで、目の前の絵葉書が唯一の手がかりだった。

 

「……わかった。組もう」

 

 ヴェルナーの絞り出すような一言を聞くと、ローアンは満足げに手を差し出した。

 

「決まりだ。握手しよう、相棒」

 

 薄暗い路地裏、ゴミの匂いと香辛料の香りが混ざり合うなかで、二人は手を握り合った。

 

 一方は、理想を捨て、体制の側へ渡った元活動家。

 

 もう一方は、存在を抹消されたかつての英雄。

 

 ぎこちなく、それでいて揺るぎない握手が、オルクセンの闇を穿つ「二匹だけの軍隊」の誕生を告げていた。

 




(「句点の向こう側」に続く)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。