道洋料理店「興龍軒」の店内は、熱気に包まれていた。頭上の換気扇は重低音を響かせながら油混じりの煙をかき回しているが、排気が追いついていないのは嫌でもわかる。
厨房からは中華鍋が五徳とぶつかる金属音と、食材が弾ける凄まじい音が絶え間なく聞こえてくる。
店員たちの間で飛び交う言葉は、道洋訛りの低地オルク語だ。独特の抑揚を持ったその声は、労働者たちの卑俗な笑い声にかき消されていく。
床は長年の油が層を成し、一歩踏み出すたびに靴底でぬちゃぬちゃと音を立てた。
ヴェルナーは、水垢の付いたコップの水を眺めながら、目の前で山盛りの油淋鶏を頬張るローアンを凝視した。
「……それで、保安局に問い合わせてから、様子がおかしくなったんだな?」
ローアンが喋るたびに、油でギトギトの食べかすがテーブルを越えてヴェルナーの方へ飛んでくる。彼は露骨に眉を潜め、椅子を少し引いた。
「食べるか、喋るか。どちらかにしてくれないか」
ローアンは尚も食べ続ける。
「だけどさ、ここの料理は絶品だぞ。あんたも食べなよ。あっ、支払いは頼むよ。なんせ私は今、無一文に等しいからな」
ローアンは返事も待たず、今度は炒飯を勢いよくかっこみ始めた。ヴェルナーの脳裏には、先ほど路地で見かけたあの肥え太ったネズミの姿がこびりついて離れない。
彼は食欲を完全に失い、独り言のように事実を整理し始めた。
「……ああ。現場検証の後、被害者の所持品から偽造パスポートが見つかった。外務省を通じてグロワール当局に照会したが、該当者はなし。当然、次なる手順として保安局に協力を要請した。身元不明の外国人が絡む事件は、彼らへ通達するのが決まりなんだ」
「で、即座に捜査は取りやめ、か。まあ、保安局が絡んでるって見て間違いないだろうな」
ヴェルナーは押し黙り、考え込んだ。
あの女は、国外から送り込まれた工作員だったのだろうか。
国家憲兵隊保安局。かつて本部第二局と呼ばれた防諜機関が、彼女の正体を突き止めた。オルクセン国内で諜報活動を続けていたところを発見され、追われていた。そこまでは筋が通る。
では、なぜ女はマイクロドットをオルクセン国民であるローアンに託したのか。
浮浪者なら当局に駆け込むことはないと踏んだのだろうか。金さえ積めば、事情も知らずに荷物を運ぶと考えたのかもしれない。
それは分からなくもなかった。
社会から押し出され、身元も定かでないまま、その日暮らしを続ける者たちは、しばしば工作に利用される。捕まったところで背後関係を知らず、雇った側へ捜査が及びにくいからだ。
だが、それでも腑に落ちないことがあった。
保安局が女を追っていたのなら、なぜあれほど人目を避ける必要がある。
警視庁に協力を求め、周辺に非常線を張ればいい。相手が外国の工作員なら、身柄を確保する大義名分にも事欠かない。ところが、女を襲ったオークは消音器付きの銃を使い、目撃者であるローアンまで始末しようとした。
まるで、誰にも知られてはならない仕事をしていたかのように。
ローアンはスープをずずっと音を立てて啜ると、ヴェルナーの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「一つだけ、分かったことがある」
「何だ」
「あいつは軍にいた。それも、相当に鍛えられたみたいだ」
「なぜそう言い切れる」
「あいつは振り向きざまに、私が潜んでいた場所へ正確に打ち込んできた。それも、デカい消音器がついてる銃を、どこにも引っかけず即座に抜いたんだ。あいつはそういう訓練を受けてきたんだよ。……あっ、店員さん、スープおかわり」
ヴェルナーは反論しようとしたが、言葉を飲み込んだ。彼女が言うことに説得力があるように思えた。
「……私は、あいつは保安局員じゃないと思うんだ」
「どういうことだ」
「私の知る限り、あの類の訓練を受けた奴はたいてい中情(参謀本部中央情報局)に行くんだ」
「……なぜお前がそんな事情を知っている」
ローアンは答えず、グラスを伝う水滴を指先でいじった。
ヴェルナーは眉間に皺を寄せた。
「あんたは、軍があいつを寄越したと言いたいのか?」
「……どうだろうな、そこまでは断言できない。ただ、軍で訓練を受けたオークだったことは確かだ。私はこの目で、あの巨体を見た」
ローアンは満足げにスープのおかわりを受け取ると、卓上調味料の中から古びた胡椒の瓶を手に取った。大量の胡椒を振りかけると、黒い粒が浮いたスープを再び啜り始める。
「まあ、私たちにはこれがある」
彼女はスープを啜りながら、顎でヴェルナーの手元を示した。
北海沿岸の風景を写した絵葉書は、油の飛ぶテーブルを避け、彼の手帳の上に置かれていた。裏面には旅行者らしい短い文章が記され、その句点のうち八つに、微小写真が貼りつけられている。
「中身を拡大できれば、あのオークを送り込んだ奴の正体――そこまで分からなくても、尻尾くらいは掴めるだろ」
ローアンは事もなげに言った。
ヴェルナーは絵葉書の縁を持ち、光へ傾けた。句点の一つが、微かに硬い光を返す。
「そう簡単にいくか」
「何がだ」
「写真を拡大できても、文書そのものが暗号化されているかもしれない」
ローアンのスプーンが止まった。
「数字や符号ばかり写っていたら、内容は読めん。暗号なら、警察の写真鑑識だけでは手に負えない」
「その時は、その時だ」
「随分と簡単に言うな」
「ほかに道があるっていうのか?」
ローアンは再びスープを啜った。
「人間族は死んだ。暗号化されているのか、誰に渡すつもりだったのか、もう本人には聞けない。だったら、まず写真を見るしかないだろ」
ヴェルナーは絵葉書へ目を落とした。
実際の問題は、暗号ではなかった。
この句点ほどのフィルムを、傷つけずに取り出し、読める大きさまで拡大することだった。
一般の虫眼鏡では不可能だ。図書館のマイクロフィルム閲覧機があっても、これほど小さなマイクロドットを安全に扱い、閲覧できる状態にすることは難しい。
必要なのは、微小写真を扱える設備と技官だった。
ヴィルトシュヴァイン市内で確実にそれを備えている場所として、ヴェルナーが真っ先に思い浮かべたのは、警視庁鑑識局の「写真・微細資料分析室」だった。
実体顕微鏡、微小写真用投影機、高倍率の引き伸ばし設備。
そして、句点ほどのフィルムを傷つけずに剝離できる技官。
休職願を叩きつけて庁舎を飛び出した時、ヴェルナーは、それらへの正規のアクセス権も自分から捨てていた。
(今さら、どの面を下げて戻ればいいんだ……)
捜査中止を命じられた直後、休職中の刑事が、証拠品目録に存在しない絵葉書を持ち込むのか?
正式な検査依頼を出せば、事件番号、依頼者、分析内容のすべてが台帳に残るんだ。上層部へ知られるのも時間の問題だぞ。
かといって、原物をそのまま渡せば、戻ってこない可能性もある。
ヴェルナーは絵葉書を手帳へ挟み、慎重に閉じた。
暗号化されているかどうかを心配するのは、その後だ。
まずは、誰にも知られずに写真を拡大しなければならない。
そして、そのためには、一度捨てたばかりの警視庁へ戻るしかなかった。
「……なんとか、誤魔化してみせるさ。やってやる」
ヴェルナーは低く、自分に言い聞かせるように呟いた。
◆
警視庁の正面玄関を、ヴェルナーは拍子抜けするほどあっさりと通り抜けた。
休職中とはいえ、現職の警察官だ。「デスクの私物を取りに来た」という口実は、受付のオーク嬢を納得させるには十分だった。
しかし、その嘘をついた以上、彼はまっすぐ目的の鑑識局へ向かうわけにはいかなかった。誰の目が、どこから自分を監視しているかわからない。不自然な動きは即座にキュヒラーや、その背後にいる者たちへ報告されるだろう。
ヴェルナーは努めて平然を装い、かつての自分の縄張りである捜査一課のオフィスへと足を向けた。
だが、そこには彼が今、最も回避すべき障害が待ち構えていた。
「おい、ヴェルナー!」
背後から放たれた弾んだ声と共に、頑強な手が彼の肩を叩いた。
ヴィーラント・シュレッター。ヴェルナーの数少ない友人であり、そしてこの署内で最も口の軽いドワーフだった。
「お前、辞めたんだってな? そんなにここが嫌いになっちまったのかよ、ああん?」
ヴィーラントは、ドワーフ特有の太い声を廊下に響かせた。ヴェルナーは顔を引きつらせ、彼を陰へと引きずり込んだ。
「辞めたんじゃない、休職だ。……頼む、声を落としてくれ」
「なんでまた冬入りの忙しい時期に? 昇進目前だってのに、これじゃ経歴に響きますよ、お坊ちゃん」
ヴィーラントは皮肉げに笑った。「お坊ちゃん」というのは、警察官僚の息子であるヴェルナーに対する、彼なりの親愛と毒の混じった呼び名だった。
「すまん、ヴィーラント。今、どうしても手が離せない用事があるんだ。また今度ゆっくり話そう」
「冷てえなあ。お前には貸しがあるんだぞ。一昨日の麻雀のツケ、誰が肩代わりしたと思ってんだ」
クソ、始まった。ヴェルナーは心の中で悪態をついた。
ヴィーラントは善人だが、一度回り出した彼の口は、止まることを知らない。このままでは鑑識局に近づく前に、自分の所在が署内中に知れ渡ってしまう。
彼はその場を離れようと歩き出す。
「つれねえな、お坊ちゃんは。まあいい、時間ができたらヴェラも連れて遊びに行こうや」
「ヴェラ……?」
その名を聞いた瞬間、ヴェルナーの脳裏に牝ドワーフが浮かんだ。
ヴェラ・シュタイン。
警視庁鑑識局に所属する写真技官だ。
写真鑑定の腕は警視庁でも指折りで、偽造写真や微細な痕跡の解析となれば、彼女の右に出る者はいない。
ヴェルナーは、手帳の中に収めた絵葉書を意識した。
こいつを任せるなら、ヴェラしかいなかった。
ヴェルナーは踵を返し、ヴィーラントの肩を強く掴んで向き直った。
「ヴィーラント。……そのツケ、今ここで払うと言ったら、一つ頼みを聞いてくれるか?」
ヴィーラントは、ヴェルナーの唐突で深刻な眼差しに、呆気に取られたように口を半開きにした。
「お前……今日はいつになくシリアスだな。なんだ、受付の嬢ちゃんでも孕ませたか?」
「おい、真面目に相談してるんだ! 請け負ってくれるか、くれないか。どっちだ!」
ヴェルナーの切迫した声に、ヴィーラントの瞳から冗談の色が消えた。彼は周囲を素早く見渡し、声を一段低くした。
「……例の『人間族の女』の件か?」
「ああ」
「クソ……やっぱりか。署内の奴ら、不気味なほどあの事件に触れないようにしてる。嫌な予感がするぜ、ヴェルナー。関わらないほうがいい」
「ヴィーラント、お前だって本当は気になっているはずだ。あんな卑劣な殺しを平然と揉み消すような連中に、一矢報いたいと思っているだろう?」
沈黙が二人の間に流れた。ヴィーラントは太い指で顎髭をいじり、深く、溜息をついた。
「わかったよ、ヴェルナー。……何をすればいい」
ヴェルナーは廊下に誰もいないことを確認し、懐からあの絵葉書を取り出した。
「これをヴェラに渡してくれ。誰にも知られずに、解読してほしいんだ」
ヴィーラントは苦笑し、絵葉書を受け取った。
「なるほど、だから俺か。いいだろう、引き受けた。……解読したブツはどうやって渡す?」
「俺のロッカーの鍵を開けておく。中にあるカバンの中に放り込んでおいてくれ。いいか、ヴィーラント、くれぐれも誰にも話すな。ヴェラにも、命に関わる仕事だと言っておいてくれ」
「分かってるさ。俺だって、喋っていいことと悪いことの区別ぐらいつく。……まさかこの歳になって、親友とスパイごっこをすることになるとはな」
ヴィーラントは絵葉書を手帳に挟むと、不敵な笑みを浮かべてヴェルナーの腹を軽く小突いた。
「安心しな、お坊ちゃん。俺の口は、こういう時だけは岩よりも硬い。大船に乗った気持ちで待ってろ」
ヴェルナーは頷き、友人の後ろ姿を見送った。
警察組織という巨大な歯車が機能不全に陥った今、彼を救えるのは、こうした泥臭い縁だけだった。
◆
作業は、その内容の重大さに反して、呆気ないほど早く終わった。
マイクロドットには、ヴェルナーが懸念していたような暗号化処理は施されていなかったのだ。
ヴェラが行ったのは、微小写真を発見し、原形を保存し、読める大きさへ拡大しただけだった。
喫煙室の淀んだ空気のなか、解読された書類を読み耽るヴェルナーの瞳は血走っていた。肺に吸い込んだ煙が、鉛のように重く感じられる。隣でタバコを吹かすヴィーラントの額からは、滝のような汗が滲み出していた。
「悪いがヴェルナー、俺にできるのはここまでだ。いいか、俺は何も見てないし、ヴェラも何も知らない。」
「……ああ、分かっている」
ヴェルナーの声は、上の空だった。
紙の上に踊る文字の羅列は、戦慄すべき内容だった。
「恩にきるよ、ヴィーラント」
ヴェルナーが顔を上げたとき、そこには既に友人の姿はなかった。
彼は無言で解読書をカバンに押し込み、喫煙室を飛び出した。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく脈打ち、口のなかが砂漠のように乾ききっている。
廊下を歩く自分の足音が、署内中に響き渡っているような錯覚に襲われた。
(なんてことだ……。オルクセンの心臓部に、裏切り者が!)
マイクロドットの中身は、ロヴァルナ連邦国家保安委員会——通称『KGB』の内部報告書だった。
そこには、彼らがオルクセン国内で獲得した「協力者」の評価と、その活動内容が克明に記されていた。
ロヴァルナの情報機関は、オルクセン外務省情報局の大物局員を転向させ、意のままに操っていた。
そのスパイは、敵国の手足となって、国家の機密を切り売りしていたのだ。
読み進めるうちに、ヴェルナーは末期の癌患者が自分のカルテを突きつけられたような絶望感に襲われた。
もしこの報告書が真実なら、オルクセンの対外情報活動は既に麻痺している。それどころか、その「協力者」は敵国の殺し屋を国内に招き入れ、警察の手から保護してやっていたのだ。
この報告書に記された裏切り者、暗号名「ピサーリ」は、友人、家族、そして自らが守るべき国民を金銭と地位のために売り飛ばしたのだ。
書類には報告書とは別に、あの殺された人間族、エレーネ・ミハロヴァの独白も記録されていた。
なぜ彼女は祖国を捨てたのか
エレーネは学生時代、ヴィルトシュヴァイン大学へ交換留学に来ていた。
そこで彼女は、祖国にはない光を見たという。
長命種の教授たちが語る生きた歴史の鮮明さ、街角で無邪気に笑うコボルトの子供たち。彼女はその人懐っこい笑顔に魅了され、この国を愛してしまった。
その後、帰国してKGBに入り、組織の意向で同じ情報部員の男と結婚した。
だが夫は酒に溺れる粗暴な人物で、彼女に日常的な暴力を振るった。上司に相談しても、夫の工作員としての優秀さを評価する組織は、彼女の悲鳴を黙殺した。
絶望の果てに、彼女は亡命を決意した。
自分を、そして一人の女性としての尊厳を無下にした祖国への復讐として、彼女はロヴァルナがオルクセンに張り巡らせた工作網のデータを盗み出したのだ。
書類の最後には、彼女が亡命後に夢見ていたささやかな願望が綴られていた。
『新しい身分、穏やかな生活、北海を望む家で、静かに暮らしたい』
だが、その夢は夜の公園で、冷たい刃によって砕かれた。
しかしヴェルナーに最も衝撃を与えたのは「ピサーリ」でもエレーネの独白でもない、別の存在だった。
工作員、暗号名「ペペル」
報告書によれば、この牡はオルクセンで生まれ、教育を受け、この国の軍隊に所属していたオークだという。
だが、道洋の小国ランサンで、ヴェスラム軍に捕らえられた。
その後、ロヴァルナ本国へ移送され、過酷な思想教育を経て、KGB工作員として生まれ変わった。
(なぜ、オルクセンの軍人が道洋にいた? なぜ、祖国を裏切るに至った?)
そのとき、脳裏にローアンの声が蘇った。
『あいつは軍にいた。それも、相当に鍛えられたみたいだ』
『軍で訓練を受けたオークだったことは確かだ。私はこの目で、あの巨体を見た』
エレーネを殺害し、今もこの街のどこかに潜んでいるオーク。
かつてオルクセンの盾であったはずの牡が、今は祖国を蝕む毒となって帰ってきたのだ。
「……行かなければ」
ヴェルナーは警視庁の裏口から、冷え込む夜の闇へと飛び出した。
背後にそびえる巨大な石造りの建物が、今は得体の知れない怪物のように見えた。
◆
警視庁本庁舎の上層階。消灯された執務室の中で、ヘルベルト・キュヒラー警部補は、窓の外を見下ろしていた。
遠くに見えるヴェルナー・シュトラウスの姿が、人混みの中へと吸い込まれていくのが見えた。
「チッ……さっさと行っちまえ」
キュヒラーはデスクに戻ると、受話器を取り、ダイヤルを回した。
数回、呼び出し音が鳴ったあと、受話器が上がる音がした。
「……私です」
キュヒラーは、自分の声が微かに震えているのがわかった。
「例の『活動家』……はい、奴です。ヴェルナーの奴は予定通りドットの中身を手にし、今しがた庁舎を出ました。……一切の邪魔はさせない。尾行も付けない。……ええ、承知しております」
電話の向こうから短い指示が返ってきた。
「はい……わかりました」
キュヒラーは受話器を置き、椅子の背にもたれた。
窓の外を見つめ、あの頃を思い出す。
鬼軍曹と呼ばれ、戦場を自由に駆けたあの黄金の時代を。
「……ふん。あとは勝手にしやがれ」
しばらく天井を見上げていたが、やがて目を閉じた。
「もう、俺の手に負える代物じゃねえ……」
(「黒い人脈」に続く)