背後から、押し殺した泣き声が聞こえていた。
リュグナー・ハルデンベルクはそれを意に介さず、鏡の前で襟元を整えた。オーク族らしい太い首に襟を沿わせ、下顎から覗く牙を確かめるように口元を歪める。上着についた埃を払うと、振り返ることなく部屋を出た。
廊下では、店の主人が揉み手をしながら待っていた。
小柄なドワーフだった。腹の上で組んだ太い指をせわしなく擦り合わせ、丹念に編み込んだ髭の奥に愛想笑いを浮かべている。
「お眼鏡に適いましたでしょうか、巡査部長殿」
「まあまあだな」
リュグナーは懐から煙草を取り出し、一本を口へ咥えた。主人がすかさず火を差し出す。
「それで、今月の件ですが……」
「今月?」
煙を吐きながら、わざと聞き返す。
主人の笑みが引きつった。
「その……風紀課の方々が、この界隈を見て回っていると聞きまして。帳簿や営業許可のことで、何かと誤解を受けかねないものでしょう?」
リュグナーは鼻で笑った。
馬鹿なことを言いやがる。この店に正式な営業許可などあるはずがないじゃないか。
働いている女たちの半数は身分証すら持たず、中には借金のかたに売られてきた者もいるんだ。
警察がその気になれば一晩で潰せるだろう。
もっとも、その警察が店を守っている限りは別だが。
「心配するな。今月も、ここの番地は手入れの名簿から外しておいてやる」
「ありがとうございます」
主人は深々と頭を下げた。
「ただし、次はもう少し愛想のいいのを揃えておけ。客商売だろうが」
一瞬、主人の視線が閉ざされた扉へ向いた。
向こうから、再び微かな嗚咽が漏れる。
「……よく言い聞かせておきます」
「そうしろ」
リュグナーは灰を廊下の絨毯へ落とし、そのまま階段へ向かった。
下の受付は、妙に静かだった。
さっきまで帳場にいたはずのコボルトの姿がない。壁際の長椅子にも、酒を飲みながら暇を潰していた用心棒たちが見当たらなかった。
リュグナーは足を止めた。
「おい」
返事はない。
受付台の上では、帳簿が開かれたままになっていた。灰皿から細い煙が立ち上っている。つい先ほどまで、誰かがそこにいた証拠だった。
「誰かいないか?」
リュグナーが呼びかけると、受付台の向こうから微かな呻き声が返ってきた。
彼は煙草を床へ落とし、靴底で踏み消した。
受付台の端まで歩き、その内側へ回り込む。
床には、帳場係のコボルトが転がっていた。
両手を背中で縛られ、口には布を噛まされている。その隣には用心棒が二人。いずれも同じように拘束されていた。目立った傷はない。三人とも、必死にリュグナーを見上げている。
「何があった?」
帳場係が身をよじり、猿轡の奥からくぐもった声を漏らした。
だが次の瞬間、その目が大きく見開かれ、リュグナーの背後へ向いた。
リュグナーが振り返ろうとした瞬間、冷たい刃が喉元へ押し当てられた。
「動くな」
耳元で、女の声がした。
「リュグナーさんかい?」
刃を喉へ当てられたまま、リュグナーはゆっくりとうなずいた。
「そうか」
刃が離れる。
直後、背後から腕が首へ回った。
「うっ――」
それ以上の声を上げる間もなかった。
首を締め上げられ、視界が急速に暗くなっていく。身体から力が抜け、ほどなくリュグナーの意識は途切れた。
◆
喉の奥に残る鈍い痛みとともに、リュグナーは意識を取り戻した。
息を吸いこみ、瞼を開く。
眩暈がしていたが、何度か瞬きを繰り返していると、自分が見知らぬ部屋にいることがわかった。
狭い居間だった。
壁紙は年季が入っている、食卓も同様。窓には厚いカーテンが引かれ、外の様子は窺えない。
身体を起こそうとして、ようやく自分の置かれた状況に気づく。
両手は背もたれの後ろで縛られ、足首も椅子の脚へ括りつけられていた。縄はきつく食い込み、少し身じろぎしただけで手首に痛みが走った。
「目が覚めたか」
正面から声がした。
リュグナーは顔を上げた。
数歩離れた椅子に、一人のオークが腰掛けていた。前屈みになり、膝の間で固く組んだ両手に額を預けている。
リュグナーが椅子の上でわずかに動くと、オークはゆっくりと顔を上げた。
その顔には見覚えがあった。
「……運動家じゃねえか」
掠れた声で吐き捨てる。
ヴェルナー・シュトラウス。
捜査一課の刑事でありながら、警察内部の腐敗を公然と批判し、警察職員組合の活動にも首を突っ込んでいる変わり者だった。署内では理想主義者とも、厄介者とも呼ばれているらしい。
リュグナーは改めて縄を引いた。びくともしない。
「おい。こいつを解け」
「それはできない」
「なんだと?」
ふと、リュグナーの目が壁際の棚に止まった。
写真立ての中で、ヴェルナーが両親らしき者たちと並んでいる。その背後には、今いる部屋と同じ壁紙と暖炉が写っていた。
リュグナーは写真とヴェルナーを見比べ、呆れたように笑った。
「ここ、お前の家だよな?」
ヴェルナーは答えなかった。
「お前、頭おかしいんじゃねえのか?」
リュグナーは鼻で笑う。
「自分が何をやってるのか分かってんのか? 現職の警察官を拉致して、自分の家の椅子に縛りつけてるんだぞ」
「分かっている」
「なら、俺が誰だかも分かってるよな」
ヴェルナーはしばらく黙っていた。
やがて、口元に当てていた両手を膝の上へ下ろし、ゆっくりと上体を起こした。
「リュグナー・ハルデンベルク巡査部長。警視庁捜査四課。王国時代から組織犯罪を追い続けてきた、署内でも指折りの古株だ」
「ご丁寧にどうも」
「ヤクザへ手入れの情報を流し、その見返りに金を受け取っているという噂が絶えない。内部監察から何度も目をつけられながら、決定的な証拠だけは残さない」
リュグナーの口元に笑みが浮かんだ。
「噂は噂だ。証拠がないから、俺は今も刑事をやってる。階級は万年巡査部長だがな」
自嘲気味に鼻を鳴らす。
「説明ご苦労。それで?」
リュグナーはヴェルナーを睨みつけた。
「同僚を縛り上げて、いったい何がしたいんだ?」
「人間族の女について聞きたい」
リュグナーは眉を上げた。
「人間族?」
「三日前、北区の公園で死んでいた女だ」
「ああ、あれか」
しばらく記憶を探るような顔をした後、リュグナーは肩をすくめた。
「一課のヤマだろ。俺が知るわけねえじゃねえか」
「本当に?」
「何度聞かれても同じだ。知らねえものは知らねえよ」
ヴェルナーはその顔を見据えた。
「女の所持品から、偽造パスポートが見つかった」
「そうかい」
「パスポートの名義を照会したが、該当する人物はいなかった」
「密入国者なんて、珍しくもねえだろ」
「それだけじゃない」
ヴェルナーは上着の内側から煙草の箱を取り出した。一本抜きかけたところで思い直し、そのまま食卓の上へ置く。
「あの女は、マイクロドットを持っていた」
リュグナーの笑みが、一瞬だけ止まった。
瞬きほどの変化だったが、ヴェルナーは見逃さなかった。
「何だ、そりゃ」
「写真や文書を針の先ほどまで縮小し、印刷物の句読点や文字の一部に偽装する技術だ。普通の虫眼鏡では見つからない。諜報員が情報を運ぶために使う」
「へえ。初耳だ」
「マル暴に百年もいて、聞いたこともないのか?」
「生憎とな」
「そうか」
ヴェルナーは淡々と続けた。
「そこには、ロヴァルナの浸透スパイがオルクセンに食い込んでいるという情報があった。しかし、協力者の名前も居場所も書かれていなかった。ペペルという工作員が、どこに潜んでいるかもな」
「だったら、行き止まりじゃねえか」
「ところが、役に立つ記述が一つあった」
リュグナーは薄笑いを浮かべたまま、次の言葉を待った。
「ペペルは、オルクセン国内の犯罪組織を利用している」
室内は静かになった。
「消音器を取り付けた銃器、偽造された身分証、盗難車両。そうした『仕事道具』を、この国の暴力団を通じて調達しているらしい」
リュグナーは鼻を鳴らした。
「ヤクザが武器を売ってるなんて、今さら驚く話か?」
「外国の工作員に売るとなれば、話は別だ」
「それを俺に聞いて、どうする」
ヴェルナーは、リュグナーの目をまっすぐ見据えた。
「あんたほどヤクザと懇意にしている刑事なら、ペペルのことも何か聞いているんじゃないか?」
リュグナーはしばらく黙っていた。
やがて、腹の底から可笑しそうに笑い始める。
「馬鹿馬鹿しい。何を根拠に言ってやがる。俺ほど清廉潔白な刑事はいねえよ」
「ヤクザから賄賂を受け取っているという話は?」
「俺を妬む連中の作り話だ。長く勤めてりゃ、敵も増える」
「手入れの前夜になると、ヤクザの事務所から帳簿と武器が消えるのも偶然か」
「連中の鼻が利くだけだろう」
「営業許可のない娼館へ出入りしていることもか?」
リュグナーの頬が、わずかに引きつった。
「客までしょっぴく法律はねえ」
「だが、お前には摘発する義務がある」
リュグナーが何か言い返すより先に、ヴェルナーは続けた。
「しかも、その店を見逃す代わりに、ただで女をあてがわせていたとなれば、お前はただの客じゃない」
リュグナーの笑みが消えた。
椅子を軋ませ、ヴェルナーへ顔を近づける。
「勘違いするなよ、若造。お前が握ってるのは噂だけだ。俺をここから出せば、今夜のことは忘れてやってもいい。だが、これ以上ふざけた真似をすればな――」
「……俺は、穏便に済ませたいと言ったんだがな」
ヴェルナーが小さく息を吐いた。
「何だと?」
廊下の奥から、物悲しい口笛が聞こえてきた。
ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
リュグナーが扉へ目を向けた。
やがて扉が開き、口笛が途切れた。
廊下に立っていたのは、銀髪の白エルフだった。両手には、アルミニウム製の十リットル飲料水缶を一つずつ提げている。
女は足で扉を乱暴に閉めた。
リュグナーはその顔と、両手の缶とを見比べた。
「……何だよ、そいつは」
「俺の協力者だ」
「協力者?」
エルフは何も言わず、二つの缶を床へ下ろした。
缶底が床板を打ち、鈍い音が二つ続くと、中で水が揺れた。
リュグナーの目が、初めて明らかな不安を帯びた。
「おい。何をするつもりだ」
白エルフ――ローアンは、ゆっくりと近づいてきた。
「待て。俺は警察官だぞ」
彼女はリュグナーの正面で立ち止まり、その胸を靴底で蹴った。
椅子の前脚が浮き、そのまま後ろへ倒れる。
背もたれが床へ激突し、勢いのままリュグナーの後頭部も叩きつけられた。
「がっ……!」
衝撃に視界が白く弾けた。リュグナーは顔を歪め、縛られた身体を丸めようともがいたが、椅子が軋むばかりで身動きは取れなかった。
「ローアン」
ヴェルナーが立ち上がった。
「やはり、こんなことは――」
ローアンは取り合わなかった。
「こいつがおとなしく話すように見えるのか? 時間の無駄だ」
彼女は外套の内側から黒い布を取り出した。
それを見たリュグナーが激しく身を捩る。椅子の脚が床を擦り、縄が軋んだ。
「やめろ! こんな真似をして、ただで済むと思ってるのか!」
ローアンはその抗議を無視した。
「いいか、ヴェルナー。覚えておけ」
そう言って、リュグナーの顔へ布を被せた。
「水責めってのは、顔を水の中へ沈めちゃ駄目なんだ」
布の端を押さえ、口と鼻を覆う。
視界を奪われたリュグナーは、荒い息を繰り返した。
「水に潜ると分かっていれば、息を止める。そうすりゃ、ある程度は耐えられるからな」
ローアンは片方の缶へ手を伸ばし、蓋の留め金を外した。
金属が擦れ合う音がする。
「だが、仰向けにして、布越しに口と鼻へ水を浴びせれば話は別だ。息を吸おうとするたびに水が入り、身体は勝手に溺れていると判断する」
「やめろ、ローアン」
ヴェルナーの声が強くなった。
彼女は振り返らない。
「外へ出ていてもいいぞ」
ヴェルナーは何も答えられなかった。
出ていくことも、彼女の手を掴むこともできず、その場に立ち尽くしている。
ローアンは缶を持ち上げた。
「待て! 分かった、話す! 何でも話すから――」
缶が傾き、水が布の上へ落ちた。
最初の一瞬、リュグナーは息を止めた。
だが、濡れた布はたちまち顔へ貼りつき、口と鼻を塞いだ。堪えきれずに息を吸った瞬間、水が流れ込んだ。
リュグナーは激しく咳き込み、身体を反らした。縛られた腕を動かし、縄から逃れようとする。
「――ッ! ンンッ!」
椅子が激しく軋んだ。
ローアンは構わず、水を注ぎ続けた。
水は布を伝い、リュグナーの口と鼻へ流れ込んだ。濡れた布が顔に貼りつき、まともに息ができない。
やがて、水音が止んだ。
ローアンは缶を床へ下ろし、リュグナーの顔から布を剥ぎ取った。
「がっ……はっ、げほっ……!」
リュグナーは大きく息を吸い込もうとした。だが、喉がひきつって思うようにいかない。咳き込むたびに、口元から水と唾液がこぼれ落ちた。
ローアンは椅子の背を掴み、ゆっくりと元の位置へ起こした。
ヴェルナーが一歩踏み出す。
「やりすぎだ! 話すと言ってたじゃないか!」
「水をかけられる前にな。あの状況なら、誰だってそう言うんだ」
ローアンは濡れた布をリュグナーの膝へ投げ捨てた。
「これで、本当のことを話す」
ローアンは言い切った。
もっとも、拷問によって得られた供述が事実とは限らない。苦痛を逃れるため、相手の望む答えを口にすることもあるからだ。
拷問が情報収集の手段として著しく信頼性を欠く――その事実が体系的に示されるのは、十年ほど後のことである。
この時のローアンは、自分のやり方を疑ってすらいなかった。
しばらくして、リュグナーの呼吸がようやく整い始めた。
顔は青ざめ、髪は額へ貼りついている。彼はローアンを睨みつけ、掠れた声を絞り出した。
「俺に……こんなことをしやがって……」
唇が震えていた。
「お前ら……もう終わりだ」
ローアンは小さく笑った。
「アイゼンファウストが黙っていない、とでも言いたいのか?」
リュグナーの咳が止まった。
「……何の話だ」
「鉄拳組だよ。港湾労働者の寄り合いから始まり、建設、運輸、用心棒稼業にまで手を広げた。ドゥートネ戦争の頃からの老舗だろ」
ローアンは濡れた床を踏みながら、リュグナーの周囲をゆっくりと歩いた。
「構成員は二千以上。港も倉庫も連中の縄張りだ。警察や役所にも息のかかった奴がいるそうじゃないか」
リュグナーは答えなかった。
「その一人が、あんただ」
「そこまで知ってんなら、俺に手を出すのがどれだけヤバいかも分かるよな?」
ローアンは足を止めた。
「その鉄拳組が、本当にあんたを助けてくれるのかな?」
「……どういう意味だ」
「最近、ほかの連中とも仲良くしているんじゃないのか?」
リュグナーの目がわずかに動いた。
「ノイエ・シュヴァルツ――新黒組」
ローアンがその名を口にした途端、彼の顔は真っ白になった。
新黒組は、六年前に鉄拳組から分かれた連中が作った組織だ。それから古巣の縄張りを奪い続け、今では港湾地区にも顔を出すようになっている。
「お前、新黒組が鉄拳組のシノギを削るのに手を貸したよな」
「……何の証拠がある」
「じゃあ、どうしてさっきの娼館にいた?」
ローアンは外套の内側から数枚の写真を取り出した。
「あそこは鉄拳組のシマじゃない。新黒組が押さえた店だろ」
写真には、娼館の裏口へ入るリュグナー、新黒組の幹部と話す姿、その牡から封筒を受け取るところまで写っていた。
ローアンは写真を一枚ずつ、リュグナーの膝へ落とした。
「これを鉄拳組へ持っていったら、いくらで買ってくれるかな? 楽しみだなあ?」
リュグナーは写真へ目を落とした。
鉄拳組に知られれば終わりだ。新黒組に手を貸した裏切り者として扱われれば、刑事であることなど何の役にも立たない。
ローアンが缶の取っ手へ手を伸ばす。
「待て!」
リュグナーが叫んだ。
「分かった。分かったよ――話してやる」
ローアンは手を止めた。
「ペペルに手を貸してるのは新黒組だ」
「なぜ、そう言い切れる?」
「異常なんだよ。勢力を広げる速さがな」
リュグナーは荒い息を整えながら続けた。
「鉄拳組が百年以上かけて築いたシマを、奴らはたった五、六年で食い荒らしやがった。離反した当初は、数十人しかいなかった連中だぞ。そんな新黒組が、どうやって鉄拳組と互角に渡り合ってると思う?」
「後ろ盾か」
「俺も何度か、新黒組のやり口は見た。奴らの薬は、これまでの代物とは中毒性が桁違いだ」
リュグナーは一度息をついた。
「それだけじゃねえ。鉄拳組がシノギを取り戻そうと動けば、決まって人間族の鉄砲玉が送り込まれる。幹部がぼやいてたよ」
「人間族?」
「ああ。そいつらは妙に戦い慣れていたらしい。おまけに、現場でロヴァルナ語を喋っていたそうだ」
「ロヴァルナ語……」
ヴェルナーは低く呟いた。
ようやく、仕組みが見えてきた。
ロヴァルナは新黒組に人員や薬物を流していた。
代わりに、新黒組は国内の工作員へ武器や偽造書類、隠れ家を用意する。
ペペルたちも、その手を借りてオルクセン国内で動いていた。
ヴェルナーはリュグナーを見据えた。
「お前は、ペペルに会ったことがあるのか?」
「ああ。一度だけな」
「どんな奴だった?」
「オークのくせに痩せこけていて、妙に陰気な奴だったよ。こっちを見ているのかどうかも分からねえ、不気味な目をしてやがった」
「どうすれば会える?お前なら奴を呼び出せるのか?」
「いや、そいつは無理だ」
リュグナーは首を振った。
「あいつは用心深い。話を通すには、必ず連絡係を介さなきゃならねえ」
「その連絡係なら知っているのか?」
「ああ。なんなら、近々会う予定になってる」
ヴェルナーが身を乗り出した。
「いつ、どこで?」
「ああ、それは――」
「待て」
ローアンが制した。
二人の視線が彼女へ向く。
「口に出すな。紙に書け」
ローアンはナイフを抜き、リュグナーの背後へ回った。右手首を椅子へ留めていた縄の下へ刃を差し込み、それだけを切断する。
「どうしたんだ?」
ヴェルナーが尋ねたが、ローアンは答えなかった。
食卓を引き寄せ、リュグナーの前へメモ用紙と鉛筆を置く。
「書け。時間と場所、それから接触の仕方もだ」
リュグナーは自由になった右手を軽く握り、痺れの残る指で鉛筆を持った。震える手で数行を書き殴り、それをローアンへ差し出す。
ローアンは紙面へ目を落とした。
「ここで間違いないな?」
「ああ。フロントで俺の名前を出せば通される。時間になれば奴は来る。だが、そいつも相当に用心深い。妙な真似をすれば、すぐに逃げるぞ」
ローアンは紙を折り畳み、外套の内側へしまった。
それから、リュグナーの膝に落ちていた黒い布を拾い上げ、再び頭へ被せる。
「おい、待て。話しただろうが」
「知っていることは、それだけか?」
「待ってくれ!待て――」
リュグナーは必死に記憶を探った。
「ああ、そうだ! あんたが、さっき廊下で吹いていた曲!」
ローアンの耳が、かすかに動いた。
「曲?」
「ペペルが口ずさんでいた。同じ曲だ」
ローアンは布越しにリュグナーを見下ろした。
「確かか?」
「ああ。古い歌謡だろ。故郷の大河と、そこへ還りたかった兵士の歌だ。今どき耳にすることなんて滅多にねえから、覚えてたんだよ」
ローアンはしばらく動かなかった。
やがてヴェルナーへ手を差し出す。彼は無言で、厚みのある封筒を手渡した。
ローアンはそれを食卓の上へ置いた。
「金は置いていく。口止め料と、今の情報の代金だ」
「……本当に俺を解放するんだろうな?」
「私たちのことを誰にも話さなければな」
ローアンは封筒を指先で押した。
「もっとも、鉄拳組に裏切りが知れるのが怖くて、何も喋れないだろうが」
ローアンはリュグナーの背後へ回り、首を片腕で抱え込んだ。
「おい、何をする。やめろ、やめてくれ!」
リュグナーは右腕を振り回した。だが、ローアンが締めつけを強めるにつれ、その動きは鈍くなっていく。
「やめ……ろ……」
掠れた声が途切れた。
やがて全身から力が抜けると、ローアンは腕を解いた。リュグナーの頭が、力なく胸元へ垂れる。
「まさか、殺したのか?」
「いいや。おねんねさ」
ローアンは首筋に指を当て、脈を確かめてから立ち上がった。
「お前の同僚が、今夜ここへ来るんだったな?」
「ああ。夜勤の前に寄ることになっている」
「なら、その時には解放されるだろう」
そう言った直後、ローアンは唇の前に人差し指を立てた。
ヴェルナーが眉をひそめる。
ローアンは何も答えず、足音を忍ばせて窓へ近づいた。厚いカーテンの端を指で摘まみ、わずかに隙間を開ける。
そのまま、通りの向こうをじっと見つめた。
何を見ているのか、ヴェルナーには分からない。
やがてローアンはカーテンから手を離した。何事もなかったかのように外套の襟を整える。
「そろそろ出発しよう」
「何かあったのか?」
「いや」
ローアンはそれ以上答えなかった。
「……車を借りてくれないか? それと、少し買い物に付き合ってほしい。必要な物がいくつかある」
二人は、椅子に縛られたまま気を失っているリュグナーを残し、部屋を後にした。
◆
国家憲兵隊本庁舎の一角に、保安局第七課特別業務室は置かれていた。
名目上の仕事は、物資の調達、施設使用の調整、他省庁との事務連絡。後方支援を担う第七課には似たような部署がいくつもあり、局内でその実態を気に留める者はいなかった。
「シュトラウス宅を指向性マイクで監視している第一班から連絡です。対象二名が移動を開始しました。それと、ローアン・イヴェットには、こちらの監視に気づいた兆候があるそうです」
若いシェパード種のフリッツ・ベルクホフが、受話器を置きながら報告した。
「監視拠点は、通りを挟んだ向かいのアパートですよね。十分に距離は取っていたはずです。本当に気づいたんでしょうか?」
「気づいただろうな」
特別業務室長のエルンスト・バウアーは、机上に広げられた市街地図へ目を落とした。
シュトラウス宅を示す印と、第一班から報告された進行方向を見比べる。
「あの白エルフ……いったい何者なんですか? 教えてくださいよ、室長」
フリッツは好奇心を抑えきれなかった。新米の彼にとって、今回の監視対象である銀髪の浮浪者は、あまりにも異質だった。
ドワーフは面倒そうに眼鏡のブリッジを押し上げ、ようやく地図から顔を上げた。
「あいつはオルクセンの『恥』だ。……存在してはならない闇だ」
「……エルフィンド軍の生き残り、とかですか?」
「いや。あいつは戦後生まれの『オルクセン産』だ。……お前、カランウェイン支隊を知っているか?」
「ああ、歴史の授業でやりましたね。エルフィンドのゲリラ部隊……でしたっけ?」
「そうだ」
エルンストは地図に両手をついたまま、フリッツへ冷ややかな視線を向けた。
「アルトリア攻囲戦の後、カランウェイン少将が編成したあの部隊は、我が軍をかなり苦しめた。兵站線をズタズタにし、無敵を誇った第三軍をフェンセレヒ盆地から撤退させた。……奴らの掃討には成功したが、その戦法は無視できなかった」
エルンストは地図から両手を離し、傍らの椅子へ腰を下ろした。
「もっとも、敵戦線後方で破壊工作を行ったのは、奴らだけではない。我が方のアンファングリア旅団も、数多の橋梁や兵站拠点を破壊している。戦後、軍は敵味方双方の戦訓を分析し、降下猟兵の戦術へ取り入れた」
フリッツは黙って耳を傾けた。
「その後の第二次星欧大戦では、キャメロット軍のコマンドや『SAS(特殊空挺部隊)』が、空挺や軽車両、専用の爆薬と通信機材を用いた破壊工作を展開した。我が国は、その最新技術と運用を取り入れ、破壊工作を専門とする部隊を創設するため、秘密裏に将校をキャメロットへ送り込んだ」
エルンストは机上の資料を引き寄せ、ローアンの写真が貼られた頁を開いた。
「そうして設立されたのが、オルクセン陸軍特殊部隊。……通称、『グリューネ・バレッテ(緑のベレー)』だ。要するにカランウェインの真似事だが……あの白エルフ、ローアン・イヴェットは、その元隊員だよ」
しばらく誰も口を開かなかった。壁時計の音だけが聞こえている。
フリッツは、学校で教わったオルクセンの姿と、今聞いた話がどうしても結びつかなかった。
「ですが室長……彼女はどうして、あんなみすぼらしい姿で街をさまよっていたんです? 軍の一員だったなら、もっと他に道はあったはずでしょう」
フリッツの問いに、エルンストは乾いた笑いを漏らした。
「あいつはな、『派遣』されたんだよ。東南道洋へな」
「派遣? まさか。我が国は永世中立ですよ。他国に兵を送るなんて、憲法が許さない」
「表向きはな。だが政府は議会を騙し、軍の精鋭を極秘裏に『ヴェスラム戦争』へ送り込んだ。十年前のことだ。……お前も、あの戦争は知っているだろう?」
フリッツの脳裏に、ニュース映像が蘇る。
社会主義陣営の北と、資本主義陣営の南。東南道洋の小国ヴェスラムを舞台にした、大国同士の代理戦争。キャメロットは最盛期、五十万人もの兵力を投入し、密林での凄惨なゲリラ戦に明け暮れていた。
「なぜ、オルクセンは兵を送ったんです?」
「……さあな。俺が知っているのは、その後のことだけだ」
エルンストは手元の資料を一枚めくった。
「ローアンはキャメロットが編成した特殊部隊に加わり、現地で戦っていた。だが、そこで凄まじい『トラブル』が起きた。帰国した頃には、まともに受け答えもできないほど気が触れていたらしい」
エルンストは資料を閉じ、机の端へ押しやった。
「今は酒浸りの頭のおかしい浮浪者だが、破壊工作の技術は残っている。国家にとっては、いつ爆発するか分からない『不発弾』さ」
「この国のために戦ったのに、なぜ助けないんです?」
「あいつを戦傷者として認定し、補償を与えろとでもいうのか」
エルンストの目つきは冷たくなった。
「そんなことをすれば、政府はあいつがどこで、何のために傷ついたのかを認めることになる。ヴェスラム戦争は今や、キャメロットによる『大義なき侵略』と断じられている。そんな汚い戦争に、中立国オルクセンが加担していた事実が公になれば、現政権の首が飛ぶどころか、国家の信用そのものが地に落ちる」
フリッツはなおも食い下がった。
「ですが、訓練中の事故で精神を病んだことにして、治療や補償を受けさせることもできたんじゃないですか?」
エルンストはわずかに眉を寄せた。
「あいつには事情があってな。どんな名目であれ、国が金を出せば、ヴェスラムへの派兵が露見しかねない。……なら、本人を消してしまえば話は早い。ところが、上は我々が手を下すことを許さない。国はあいつに、返しきれない借りでもあるらしい」
エルンスト短く息を吐いた。
「誰も手を差し伸べず、かといって始末することもできない。死なない程度に生かされ、ただ監視されるだけの『腫れ物』というわけだ」
フリッツは、机上に置かれた写真へ目を落とした。
かつて国家が選び抜いた精鋭は、国家の恥として歴史の闇に葬られた。
彼女は今や「亡霊」に成り果てていた。
「……分かりました。ですが室長、その白エルフが今回の任務と、いったい何の関係があるんです?それに、どうして七課が監視や追尾まで指揮しているんですか」
フリッツの疑問も無理はなかった。
第七課は本来、後方支援を担当する部署である。尾行や盗聴、内通者の摘発といった実地任務は、他の課が受け持つのが通例だった。
四日前、保安局第四課(防諜部門)の重要作戦が失敗した。
亡命を希望したロヴァルナ連邦の諜報員を保護する手はずだったが、待ち合わせ場所にいた保安局員は殺害されてしまい、保護対象も喉を掻き切られた死体となって発見された。
亡命諜報員の受け入れは、本来、外務省情報局(外情)の領分である。しかし、その人間族は外情を信用せず、保安局へ直接助けを求めてきた。
作戦を知る者は、局内でもごく一部に限られていた。それにもかかわらず、敵は待ち合わせ場所も警備態勢も把握していた。
内部から情報が漏れている。
それも、かなり上の方から。
ロヴァルナの「モグラ」がいるのだ。
内務次官は、旧知のエルンスト・バウアーに極秘調査を依頼した。エルンストはかつて第四課に所属していたが、ある事情から第七課へ左遷され、保護作戦にも関与していなかった。
第四課はもちろん、内部監査を担う第二課さえ信用できない。そこで通常の作戦系統から外れ、局内でも目立たない第七課に、「特別業務室」が組織された。
内部に潜む「モグラ」を炙り出すために。
「この仕事は、俺たち七課にしかできない。お前はそれだけ分かっていればいい」
エルンストは声を落とした。
「あのエルフが事件に関わったのは偶然だ。本来、我々の調査対象ではなかった」
机上に散らばった報告書を揃えながら、淡々と続ける。
「だが、捜査中止の命令を不服とした警視庁の刑事が、あの白エルフに接触した。あいつらは組織を離れ、独自に動き始めたんだ。そして……何より重要なのは、白エルフが殺された亡命者から『マイクロドット』を受け取っていたという点だ」
フリッツは息を呑んだ。
「マイクロドット……。あの刑事が署へ戻ったのは、そのためですか」
「そうだ。わざと泳がせてやった。邪魔をせず、あいつが解読設備を使うのを黙認したのさ。もちろん、内容は我々もいただいたがな」
「では、今すぐ二人を拘束しないのですか? これ以上首を突っ込ませるのは危険です」
「……俺も、そのつもりだったんだがな」
エルンストは腕を組み、地図へ目を落とした。
「あのエルフは、事件が起きるまでは抜け殻も同然だった。ところが今は、拉致も尋問も、まるで現役時代に戻ったかのようにこなしている。おまけに、我々の監視へ気づくほど勘も冴えている」
「どうするんですか?」
「……あいつらに任せることにした」
「なんですって!? 部外者ですよ! それに、たった今あなたが危険分子だと言ったばかりじゃないですか!」
フリッツが声を荒らげるが、エルンストは動じなかった。
「今のローアン・イヴェットなら、放っておいてもこの事件を追い続ける。下手に止めるより、利用した方がいい」
エルンストは無表情のままフリッツを見た。
「いいか、フリッツ。あいつらには、実力行使の駒として工作員『ペペル』を追わせる。我々が優先すべきは、国家の中枢に深く根を張っているKGBの協力者『ピサーリ』だ。役割分担だよ。泥仕事は、泥の中にいる奴らにやらせればいい」
ニヤリと笑い、言葉を継いだ。
「もちろん、監視は続ける。だが、こちらから手は出すな。ヤクザと揉めようが、しばらくは好きにさせてやれ。どこまで辿り着くか見極めたい」
口元から笑みが消えた。
「ただし、こちらに敵意を向けるか、我々の調査を妨げた時は『処分』することになるだろう」
エルンストはフリッツへ目を向けた。
「第二追尾班を出せ。撒かれても構わん。騒ぎを起こせば、嫌でも居場所は分かる」
「了解」
フリッツは卓上無線機の送話器を取った。
「管制より追尾二。対象一号、二号が移動を開始。監視露見の可能性あり。距離を保って追尾せよ。尾行を感づかれた場合は、深追いするな」
『追尾二、了解』
短い応答を最後に、通信は途切れた。
フリッツは送話器を戻すと、机上に置かれたローアンの写真へ目を落とした。
銀髪の白エルフは、何かに気づいたようにレンズの方を見ていた。
まるで、自分を追う者たちの存在を、初めから見透かしていたかのように。
(第五話「生者と亡者」に続く)