※この作品はR-18です。

二匹だけの軍隊   作:S文字

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生者と亡者

 ヴィルトシュヴァインから南へ数十分。アウエンフルトは、学術都市として知られている。

 

 もとは川沿いに築かれた小さな古都であったのだが、グスタフ王の治世に入ると、王国の近代化のために大学や研究機関が相次いで設立され、急速に発展した。

 

 この都市を象徴するアウエンフルト大学の旧校舎は、グスタフ王の時代に建てられたらしい。

 

 となると、二世紀近く現役という計算になる。

 

 しかし、古い建物ばかりではない。その周辺には、新しい校舎や研究施設も建っていた。

 

 この街の、古びたホテルの二階、角の一室で、二人は来るべき相手を待っていた。

 

 室内灯は消され、サイドボードの上に置かれた卓上電燈だけが、橙色の不気味な光を壁に投げかけている。

 

 若いオークの牡と、エルフの牝。

 

 本来ならば、安宿の一室にいる男女にはいかがわしい想像がつきまとうものだが、ここには一切そんな空気はなかった。

 

 ヴェルナーはベッドの端に腰掛け、手元にある重苦しい鉄塊を見つめていた。

 

 それは散弾銃だった。

 

 かつては狩猟用だったはずのその銃は、銃床が無慈悲に切り落とされ、切断面はダクトテープで何重にも巻かれている。銃身も極限まで短く切り詰められ、銃口が弾倉の先端とほぼ同じ位置にまで後退していた。

 

「……おい、ローアン。やはり、こんなものは大袈裟じゃないか?」

 

 ヴェルナーは、机に向かって作業を続ける相棒に声をかけた。

 

 彼女は今しがた、改造し終えた一挺をヴェルナーに譲り、今は自分の銃を机に固定し、金属鋸で銃身を挽いているところだった。

 

「相手はヤクザと、国家公認の殺し屋なんだよ。これでも足りないくらいだ。それとも何かい?  今から警察署に戻って、あのおもちゃみたいな回転式銃でも借りてくるか?」

 

 ローアンは手を止めず、冷淡に言い放つ。

 

 ヴェルナーは溜息をついた。

 

 兵役で小銃を扱った経験はある。だが、刑事になってから実際に銃を撃つ機会はほとんどなく、都会育ちの彼には狩猟の経験もない。散弾銃を手にするのも初めてだった。

 

 まして、こんなふうに銃床も銃身も切り詰められた代物となれば、なおさらだった。

 

「いいか、グリップの付け根に結んだロープを右肩へ掛け、銃を脇に吊るすんだ。その上からコートを羽織れば、外からは見えない。……必要になったら、裾を払ってすぐに引き出せる」

 

「よし、できた!」

 

 ローアンは短くなった銃を手に取り、先台をガシャリと手前に引いた。排莢口から覗くボルトの隙間に、赤いプラスチックケースに包まれた実包を滑り込ませ、再び先台を押し戻す。続けて、下部の装弾口から次々と予備の弾丸を装填していった。

 

 ヴェルナーは、その手元を黙って見つめていた。

 

 昨夜から、何度も同じ違和感が引っかかっている。

 

 リュグナーを捕らえた時もそうだった。娼館では用心棒たちをほとんど物音も立てずに制圧し、最後には体格で大きく勝るオークのリュグナーを背後から捉え、そのまま絞め落とした。

 

 その後は、意識を失った彼を拘束し、口を割らせるために水責めまで行った。見よう見まねでやっているようには、とても見えなかった。

 

 そして今も、切り詰めた散弾銃を慣れた手つきで扱っている。

 

 浮浪者になる以前、このエルフは何をしていたのだろう。

 

 ヴェルナーは、マイクロドットの中身を見せた時のことを思い出した。

 

 書類を読み進めるうち、ローアンの表情は次第に険しくなっていった。裏切りの実態が明らかになるにつれ、紙面を睨むように見つめる時間も長くなっていった。

 

 路上で酒を飲み、世間から離れるように暮らしている女が、祖国を売る行為にはこれほど強く反応する。それがヴェルナーには意外だった。

 

 だが、それ以上に気になったのは、ペペルの経歴に目を通した時の反応だった。

 

 オルクセン軍に所属したのち、道洋の小国ランサンでヴェスラム軍に捕縛された――そこまで読んだところで、ローアンの手が止まった。

 

「……ランサン」

 

 小さく呟いた。

 

 ヴェルナーが顔を上げる。

 

「どうした?」

 

 ローアンは答えなかった。視線を紙面へ落としたまま、しばらく動かない。

 

「ローアン?」

 

「……ランサン、オーク、ヴェスラム……」

 

 独り言のように三つの言葉を並べ、そのまま黙り込んだ。

 

 やがて顔を上げる。

 

「いや。何でもない」

 

 その時は、それ以上聞かなかった。

 

 だが、こうして一つずつ思い返してみると、分からないことばかりだった。

 

 ランサンもヴェスラムも、遠く離れた道洋の国だ。

 

 ローアンは、その名に明らかに反応していた。

 

 この女は、何か知っているのか。

 

「連絡係が来るのは、何時だったかな?」

 

 ローアンが不意に呟いた。ヴェルナーは腕時計に目を落とす。

 

「……もう、来てもおかしくない頃だ」

 

 ホテルのフロントには、来客があれば必ず内線で知らせるよう念を押してある。もっともローアンは、察知した新黒組の刺客か、暗号名ペペルが現れる可能性を警戒していた。

 

 準備を終えたローアンは散弾銃をコートの下へ吊り、ヴェルナーの向かい側のベッドへ腰を下ろした。

 

 先ほどまでの険しい表情が、不意に緩んだ。

 

「そういえば、途中で寄った店」

 

「何だ」

 

「あの、車に乗ったまま食事を買える店だ。便利なものだな」

 

「ドライブスルーか」

 

「そう、それだ。どらいぶするー。あそこのハンブルガーは美味かった」

 

 ハンブルガー。

 

 遠く離れたセンチュリースター合衆国で生まれ、今やオルクセンの都市部でも爆発的な人気を博している料理だ。

 

 元々はオルクセンのタルタルステーキを焼き上げ、パンで挟むというシンプルな発想から始まったものが、異国で独自に進化を遂げ、再び「逆輸入」されてきたのだという。

 

「……八つも食べたのは、あんただけだろう」

 

 ヴェルナーは軽くなった財布を思い出した。

 

「食べられる時に食べるのが鉄則だ」

 

「コーラまで二本飲んだよな」

 

「いいじゃないか。死ぬ前の最後の晩餐になるかもしれないんだ。それで……」

 

 その時、ローアンの言葉が不自然に途切れた。

 

 彼女は顔を上げ、入口のドアへ視線を向けた。

 

「どうした?」

 

 返事はない。

 

 ローアンは僅かに首を傾けたまま、じっと耳を澄ませている。

 

 ヴェルナーも黙り込み、廊下の気配を探った。

 

 聞こえるのは、電燈の微かな唸りと、窓の外を通り過ぎる自動車の走行音だけだった。廊下からは話し声も、靴音も聞こえない。

 

 だが、ローアンの耳は小さく動いていた。

 

「……十人」

 

「何?」

 

「十人以上いる。階段を上がって、この階へ入った」

 

 ヴェルナーはもう一度耳を澄ませた。

 

 何も聞こえない。

 

「本当なのか?」

 

「全員、こっちへ来る」

 

 それだけで十分だった。

 

 ただの連絡係が、十人を超える一団を連れて待ち合わせに現れるはずがない。

 

 ローアンはベッドから立ち上がった。

 

 コートの下へ吊った散弾銃を手に取り、薬室を確かめる。それから卓上電燈へ手を伸ばし、壁のコンセントからプラグを抜いた。

 

 橙色の明かりが消え、室内はドアの隙間から漏れる廊下の光だけになった。

 

「何をする気だ?」

 

 ローアンは答えず、机の隅に置かれていたゼムクリップを一本摘み上げた。

 

 それをプラグの二本の金属端子へ、橋を架けるようにはめ込む。

 

「銃を構えろ」

 

 ローアンは細工したプラグを持ち、コンセントの差し込み口へ近づけた。

 

「廊下へ出たら壁際を進め。私の後ろから離れるな」

 

 心臓が、胸を突き破りそうなほど激しく脈打っていた。

 

「目を閉じろ」

 

 ヴェルナーが瞼を閉じた直後、ローアンはプラグを差し込んだ。

 

 激しい火花が弾けた。

 

 バチン、という乾いた破裂音が室内に響き、焦げた臭いが鼻を刺した。それとほぼ同時に、ドアの下から差し込んでいた廊下の光も途絶える。

 

 二階全体が暗闇に包まれた。

 

 壁の向こうで、複数の声が上がった。

 

「何だ?」

 

「停電だ!」

 

「動くな!」

 

 それまでヴェルナーには聞こえなかった足音が、俄かに乱れ始める。靴底が床を擦り、誰かが壁か扉にぶつかった。

 

 ローアンは散弾銃を両手で握り、腰の前へ突き出すように構えた。

 

 次の瞬間、引き金を引いた。

 

 轟音。

 

 ドアの中央が爆ぜ、大きく穿たれた穴から、無数の木片が廊下へ飛び散った。向こう側から悲鳴が聞こえる。

 

 ローアンは先台を引いた。

 

 空薬莢が床を跳ねる。

 

 もう一発。

 

 蝶番の周囲が砕け、扉が外側へ傾いた。

 

 ローアンは一歩踏み込み、扉の錠前側を蹴りつけた。

 

 鈍い破砕音とともに、残っていた枠が裂ける。本来なら室内側へ開くはずの扉が、戸当たりを巻き込みながら廊下へ吹き飛び、そのまま床へ倒れた。

 

 ローアンは先台を引いた。

 

 空薬莢が扉の上へ転がる。

 

 そのまま扉を踏み越え、廊下へ飛び出した。

 

 その両眼には、淡い赤色の光が宿っていた。

 

 エルフの夜目は、眼から放たれる不可視の光を利用している。暗闇へ照射し、その反射を捉えることで、光のない場所でも周囲を見ることができた。

 

 ただし、発せられる光のすべてが不可視というわけではない。わずかな可視光も混じるため、暗視している間は瞳が淡い赤色に輝いて見える。

 

 魔力の扱いに習熟した者なら、その可視光を一時的に強めることもできた。暗視そのものには必要のない光だが、至近距離から浴びせれば、相手の目を眩ませるには十分だった。

 

 もっとも、使用者自身の眼にも相応の負担がかかる。

 

 次の瞬間、両眼から深紅の閃光が迸った。

 

「ぐあっ!」

 

「目が!」

 

「見えねえ!」

 

 怒号と悲鳴が重なる。

 

 直後、散弾銃の轟音が響いた。

 

 一発。

 

 先台を引く音。

 

 二発。

 

 銃口炎が暗闇を切り裂き、壁と天井から漆喰の破片が降り注ぐ。狭い廊下に反響した銃声は一つの巨大な轟音となり、ヴェルナーの耳を麻痺させた。

 

 彼は引き金へ指を掛けたまま、壊れたドアを見つめていた。

 

 ローアンについて来いと言われた。

 

 だが、銃撃の中へ踏み出すことなどできなかった。

 

 喉が引きつり、呼吸が浅くなる。銃を握る両手が震え、視点は定まらない。

 

 廊下では銃声と怒号が絶え間なく響いていた。

 

 やがて意を決し、床を這うようにして入口へ近づく。壊れたドア枠から、恐る恐る顔を出した。

 

 暗闇の中で銃口炎が閃き、もつれ合う人影を一瞬だけ照らし出した。

 

 遅れて、天井の非常灯がぼうっと点いた。

 

 非常口の赤い誘導灯と交じり合う光の中、短刀を手にローアンへ斬りかかるドワーフの姿が浮かび上がった。

 

 ローアンは身を捻って刃をかわし、突き出された腕を脇に挟み込む。そのまま拳を顔面へ叩きつけた。

 

 ドワーフの頭が仰け反った。

 

 ローアンは緩んだ手から短刀を奪い取ると、そのまま首筋を横一文字に斬りつけた。さらに一歩踏み込み、切っ先を腹へ深く突き立てる。

 

 残るコボルトが、ローアンへ拳銃を向けた。

 

 彼女は短刀を突き立てたままドワーフの身体を引き寄せ、その背中を仲間の銃口へ晒した。

 

 銃声が立て続けに響いた。

 

 放たれた弾丸が、哀れなドワーフの身体へ次々と叩き込まれた。

 

 ローアンはその身体を盾にしたまま、片手で散弾銃を持ち上げる。ドワーフの脇から銃口を突き出し、コボルトへ向けて発砲した。

 

 轟音とともに、コボルトが床へ倒れる。

 

 ローアンは弾丸を浴びたドワーフを前へ突き放した。腹には短刀が刺さったままで、それでもまだ倒れきらず、数歩よろめいている。

 

 足元に倒れていた黒服の拳銃を拾い上げ、その背中へ銃口を向けた。

 

 乾いた銃声が響く。

 

 ドワーフは膝から崩れ、そのまま床へ倒れ伏した。

 

 そこでヴェルナーは、ようやく廊下の惨状を目の当たりにした。

 

 黒い背広を着た襲撃者たちが、そこかしこに折り重なっている。壁は散弾と拳銃弾で抉られ、割れた照明器具が天井から垂れ下がっていた。床を流れる血が、非常口の赤い誘導灯を鈍く映している。

 

 その中で立っているのは、ローアンだけだった。

 

 ローアンは奪った拳銃から弾倉を抜き、残弾を確かめた。差し戻すと、遊底をわずかに引き、薬室にも実包が収まっていることを確認した。

 

 銃口を前方へ向けたまま、ゆっくりと廊下を進んでいく。

 

 つい先ほど何人も撃ち殺した直後だというのに、歩調は変わらなかった。周囲へ目を配りながら進む姿からは、焦りも動揺も見て取れない。

 

 廊下の角へ差しかかったローアンは、向こうから近づいてくる足音を捉えた。

 

 一瞬足を止める。

 

 拳銃を構えたオークが角へ姿を現すのに合わせ、ローアンはその正面へ飛び出した。

 

 引き金を引かれるより早く、自らの拳銃を振り下ろす。銃把を、オークが拳銃を握る手へ上から叩きつけた。

 

 指が開き、拳銃が床へ落ちる。

 

 間髪を容れず、ローアンは拳銃を横薙ぎに振るい、オークの喉元へ叩き込んだ。

 

 オークは息を詰まらせてよろめいたが、倒れまいとローアンの腕へしがみついた。

 

 ローアンは相手を引きずるように数歩進み、その背中を廊下の壁へ打ちつける。

 

 鈍い音が響き、オークの身体が大きく揺れた。

 

 彼女はすかさず、その腹を蹴り上げた。

 

 くの字に折れた身体を、掴まれた腕ごと引き寄せる。その懐へ背を差し入れ、腰を深く沈めた。

 

 次の瞬間、巨体が宙へ浮いた。

 

 ローアンはオークを肩越しに投げ落とした。背中から床へ叩きつけられた牡が、低い呻き声を漏らす。

 

 階下から、新たな足音が駆け上がってきた。

 

 ローアンは振り向きざまに拳銃を階段へ向けた。

 

 乾いた銃声が立て続けに響いた。

 

 胸に弾丸を受けたドワーフは手すりへぶつかり、そのまま階段を転げ落ちていった。

 

 ローアンはすぐさま銃口を足元へ戻した。

 

 床に倒れているオークの頭へ狙いを定め、もう一度引き金を引く。

 

 銃声とともに身体が一度痙攣し、それきり呻き声は途絶えた。

 

 ローアンは拳銃を構え直し、銃口を階段へ向ける。それから首を巡らせ、背後を見た。

 

 部屋の入口に立つヴェルナーと目が合った。

 

 そのとき初めて、ヴェルナーは彼女の頬から顎にかけて、返り血がべったりとついていることに気づいた。

 

 ローアンは無表情のまま、手の甲で頬を拭った。拭いきれなかった血が、顎のあたりに赤黒い筋を残した。

 

 車の中でハンブルガーを貪っていた女と、同じ者には見えなかった。

 

 ヴェルナーの背筋を、冷たいものが走る。

 

 ローアンは拳銃を腰のベルトに差し込むと、散弾銃の装填口へ新しい実包を押し込んだ。手つきは落ち着いていたが、片方の目を痛むように細めている。

 

「団体さんを送り込んできやがった」

 

 先台を引いて戻し、薬室へ一発送り込む。

 

「新黒組の奴ら、本気だぞ」

 

 ローアンは散弾銃を構え直し、ヴェルナーを連れて階段へ向かった。

 

 一階へ降りると、エントランスは不気味なほど静まり返っていた。

 

 ヴェルナーはフロントへ近づき、カウンターの内側を覗き込んだ。

 

 コボルトの受付係が、椅子にもたれかかっている。

 

 首には電話線が幾重にも巻きつけられ、目を見開いたまま絶命していた。床へ落ちた受話器から、かすかな発信音が漏れている。

 

 ローアンは銃を構えたまま出入り口へ向かった。

 

 扉から飛び出し、左右を素早く見渡す。

 

 ヴェルナーも後に続く。

 

 冷たい夜気が、火薬と血の臭いを衣服から剝ぎ取るように吹きつけた。

 

 ホテルの上階では、いくつもの窓が開いている。宿泊客らしい影が顔を覗かせ、通りへ向かって何かを叫んでいた。

 

 大通りの方角からはサイレンが聞こえていた。建物の間を反響しながら、その音は次第に近づいてくる。

 

 銃撃を聞いた誰かが、警察へ知らせたのだろう。

 

 ホテル正面の乗降場には、数台の乗用車が乱雑に停められていた。

 

 半ば歩道へ乗り上げたものや、前の車との間隔をほとんど空けずに停められたものもある。宿泊客の車とは明らかに様子が違っていた。

 

 襲撃者たちが乗りつけてきた車に違いない。

 

 ローアンはコートのポケットを探り、一本の鍵を取り出した。

 

 黒い樹脂製の柄には、NMWの社章が刻まれている。

 

 同じ社章を付けた車は一台だけだった。濃い黒色の大型乗用車だ。

 

 ローアンは鍵をヴェルナーへ放った。

 

「そこのNMWだ」

 

 ヴェルナーは反射的に受け取った。

 

「いつ盗った?」

 

 ローアンは答えず、散弾銃の銃口を通りの先へ向けた。

 

 ヴェルナーはそれ以上問わず、黒いNMWへ駆け寄った。

 

 運転席側の鍵穴へ鍵を差し込む。

 

 鍵は抵抗なく入り、回った。

 

 扉を開け、座席へ身体を滑り込ませる。ローアンも助手席へ乗り込み、散弾銃を膝の上へ置いた。

 

 ヴェルナーはエンジンをかけようと何度も始動鍵を回すが、なかなかかからない。

 

「動けよ!」

 

 思わずハンドルを叩き、もう一度キーを回す。するとエンジンが咳き込み、低く唸り始めた。

 

「とりあえず街を出る。南へ向かってくれ」

 

 ローアンが言った。

 

 ヴェルナーはギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。

 

 黒いNMWはタイヤを鳴らし、ホテルの前を離れた。

 

 

 ◆

 

 

 ヴェルナーはハンドルを握りながら、バックミラーへ目をやった。ホテルのある通りは、すでに建物の陰へ消えかけている。

 

 その時、前方の煉瓦壁が一瞬だけ青く染まった。

 

「あんたのお仲間だぞ」

 

 ローアンが言った。

 

 警察車両はまだ見えない。だが、間もなく交差点の向こうから現れるだろう。

 

「止めろ」

 

 ヴェルナーは道路脇へ車を寄せた。

 

 ローアンは肩から吊った散弾銃を身体に沿わせ、コートの内側に隠してから助手席の扉を開けた。

 

「車を捨てるのか?」

 

「いや。そのまま座ってろ。窓を開けてくれ」

 

 言われるまま運転席の窓を下ろす。

 

 ローアンは車外へ降りると、その前を回って運転席側へ来た。ニット帽を脱ぎ、押さえつけられていた銀髪をわざとらしく掻き上げる。

 

 それから袖口で頬から顎を拭い、残っていた返り血を落とした。

 

「いいか。あんたは白エルフの娼婦を買おうとしてる。合わせろ」

 

 ヴェルナーは思わず彼女を見た。

 

 くしゃくしゃの髪に、皺だらけのコート。

 

 こんな小汚い娼婦がいるものか。

 

 そう言い返す間もなく、交差点の角から警察車両が姿を現した。

 

 青色灯を回しながら、こちらへ近づいてくる。

 

 ローアンは開いた窓へ身を寄せ、何事もないようにヴェルナーと向かい合った。

 

 その瞬間、雰囲気が変わった。

 

 目つきも、表情も、身体の寄せ方も、つい先ほどまでとはまるで違う。口元には誘うような笑みが浮かび、皺だらけのコートを着ていることさえ気にならないほどの色気があった。

 

 ヴェルナーは思わず目を瞠った。

 

 本当に娼婦をしていたことがあるのではないか。

 

 一瞬、そんな考えが浮かぶ。

 

 だが、すぐに打ち消した。

 

 違うだろう。

 

 この女は娼婦なのではない。

 

 必要とあれば、何にでも成り済ますことができるんだ。

 

 そう思わせるほど、目の前にいるローアンは別人だった。

 

 それでも、コートの内側に隠した片手は散弾銃を握り、その指は引き金にかかっている。

 

 青色灯の光が二人の顔を照らした。

 

 警察車両が速度を落とす。

 

 ヴェルナーはローアンと向かい合ったまま、横目でその車影を追った。

 

(頼む。止まらないでくれ)

 

 警察車両が二人の脇へ並ぶ。

 

(殺されるぞ)

 

 ほんの数秒だった。

 

 警察車両はそのまま通り過ぎ、再び速度を上げて遠ざかっていった。

 

 青色灯の光が煉瓦壁の向こうへ消える。

 

 ローアンはしばらくその背中を見送ってから、コートの内側に入れていた手を抜いた。

 

 何事もなかったようにニット帽を被り直す。

 

 助手席へ戻り、扉を閉めた。

 

「さあ、急ごう」

 

 ヴェルナーは再び車を走らせた。

 

 しばらくして、溜息が漏れた。

 

 ホテルで起きたことが、頭から離れなかった。

 

 襲ってきたのはヤクザだった。銃を持ち、自分たちを殺すつもりで押しかけてきた連中だ。それでも、何人も死んだことに変わりはない。

 

 つい先ほどまで、ホテルの廊下には死体が転がっていた。

 

 それなのに、こうして夜の街を車で走っていると、どこか現実感がなかった。

 

 警察が現場に入れば、死体も銃弾も、二人が残した痕跡も見つかるだろう。リュグナーの件まで辿られれば、何事もなかったように署へ戻ることなどできない。

 

 では、この先どうするのか。

 

 ペペルを追って、その後は?

 

 ヴェルナーは何も思いつかなかった。

 

 助手席のローアンは散弾銃を膝に置き、窓の外を見ている。

 

 路面電車の軌道が敷かれた大通りへ入った。

 

 やがて左手に、アウエンフルト市電の車庫が見えてきた。

 

 大通りに面した新しい車庫には明かりが灯り、何本もの線路の上に路面電車が並んでいる。その隣には、煉瓦造りの古い建物が長い影を落としていた。

 

 かつて車両の重整備に使われていた旧整備棟だった。主要な設備はすでに隣の車庫へ移されているが、廃車予定の車両や交換部品の保管、車体の解体などには今も使われているらしい。

 

 錆びた側門の前には、乗用車が数台停められていた。

 

 ヴェルナーは速度を落とし、その前を通り抜けようと車を進めた。

 

 まだ数十メートルほど離れていた時だった。

 

 灰色のメルツェン製乗用車の陰から、鈍い銀色の円筒が突き出した。

 

 助手席からローアンの腕が伸び、ヴェルナーの襟を掴んだ。

 

「伏せろ!」

 

 そのまま上体を強く引き下ろされた直後、

 

 ボシュッ――。

 

 運転席側のフロントガラスに穴が穿たれ、白い亀裂が一気に周囲へ走った。細かな硝子片がヴェルナーの髪や肩へ降りかかる。

 

「撃たれてる!」

 

 ローアンは散弾銃を持ち上げると、助手席側のフロントガラスへ銃口を向け、そのまま引き金を引いた。

 

 轟音とともに硝子が外へ吹き飛んだ。

 

 開いた穴から再び銃身を突き出し、銃撃者へ向けてもう一発撃つ。メルツェンの側面で火花が散り、窓硝子が砕けた。

 

 ヴェルナーは身を起こし、蛇行しかけた車を立て直そうとした。

 

「ローアン、何を――」

 

 彼女の左腕がヴェルナーの前を横切り、ハンドルを掴んだ。

 

「おい!」

 

 ヴェルナーが抵抗するのも構わず、ローアンは力任せにハンドルを切った。

 

 大型乗用車の進路が大きく左へ逸れた。

 

 その先に灰色のメルツェンがある。

 

「待て、待て!」

 

 ローアンはヴェルナーの足ごと、アクセルを床まで踏み込んだ。

 

 車はそのままメルツェンへ突っ込んだ。

 

 金属が押し潰される耳障りな音が車内いっぱいに響き、ヴェルナーの身体が前へ投げ出された。額をハンドルへ打ちつけた瞬間、視界が白く弾ける。

 

 意識が途切れた。

 

 

 ◆

 

 

「ヴェルナー」

 

 額に痛みを感じた。

 

「起きろ」

 

 聞き慣れた声が近くにある。

 

 ヴェルナーはゆっくりと目を開いた。

 

 視界は二重に重なっていた。何度か瞬きをすると少しずつ焦点が合い、その向こうで潰れたボンネットの隙間から白い蒸気が立ち昇っているのが見えた。

 

 その時、運転席の扉が外から開いた。

 

 ローアンが顔を覗かせる。

 

「早く出ろ」

 

 ヴェルナーは顔をしかめながら身体を起こした。

 

 耳の奥では、甲高い音が鳴り続けている。

 

「……あんた、何やってんだ。突っ込ませるなんて」

 

 ローアンは旧整備棟へ目を向けた。

 

「奴はあの中へ逃げた」

 

 それだけ言うと、建物に向かって駆け出した。

 

 彼は車外へ目を向けた。

 

 正面では灰色のメルツェンが側面を大きくへこませ、押し出されるように側門の脇へ寄っていた。

 

 ヴェルナーは悪態をつきながらも後を追うことにした。立ち上がると一瞬だけ足元が揺れ、車体へ手をつかなければならなかった。

 

 ローアンが側門を抜けて旧整備棟へ入っていくのが見えた。

 

 散弾銃を構えると、ヴェルナーも建物の中へ入った。

 

 内部には三本の線路が奥まで伸び、その上に古い路面電車が何両も留置されていた。車体の塗装は所々剝がれ、窓には埃が積もっている。

 

 照明は消されていたが、完全な廃墟というわけではなかった。壁際には作業台や工具棚が残り、その周囲には取り外された車輪や台車、座席などが置かれている。解体途中らしい車両の脇には切断用の器具がまとめられ、車輪のついた大型の作業灯も一台置かれていた。

 

 隣の車庫から漏れる明かりだけが高窓を通して差し込み、車両の屋根や支柱の片側を薄く照らしている。

 

 ローアンの姿は見えなかった。

 

 先に入ったはずなのに、どこへ行ったのか。

 

「ローアン?」

 

 ヴェルナーが小声で呼びかけた直後、目の前の支柱が弾けた。

 

 ボシュッ――。

 

「うわっ!」

 

 反射的に身体を引いたところへ、続けて二発飛んできた。

 

 散弾が路面電車の外板を叩き、鈍い音を響かせる。次の一発は窓を捉え、曇った硝子がばらばらと床へ落ちた。

 

 ヴェルナーは近くの車両の陰へ逃げ込み、車輪の脇へ身を縮めた。

 

「ローアン! 撃たれてる!」

 

 返事はない。

 

 銃を握り直し、車体の端からわずかに顔を出そうとする。

 

 すぐに一発飛んできた。

 

 金属片が目の前を横切り、ヴェルナーは慌てて頭を引っ込めた。

 

 相手はこちらの位置を把握しているらしい。しかしヴェルナーの側からは、何両もの車両と支柱が視界を塞ぎ、どこから撃たれているのかさえ分からなかった。

 

 額が脈を打つたびに痛んだ。

 

 このままでは動けない。

 

 ヴェルナーは車輪の陰から銃だけを少し出したが、狙う相手も見えないまま撃つ気にはなれず、すぐに引っ込めた。

 

 その時、線路を挟んだ反対側で何かが動いた。

 

 ローアンだった。

 

 いつの間に回り込んだのか、壁際の作業台の近くまで移動している。

 

 ヴェルナーは声を掛けかけて思いとどまった。ローアンがこちらを見て、口元に人差し指を立てたからだ。

 

 銃声は止んでいた。

 

 そのまま彼女は、大型の作業灯へ手を伸ばした。

 

 太い電源線は壁の差し込み口につながったままになっている。

 

 ローアンは取っ手を握り、反射笠の向きを変えた。

 

 ヴェルナーは身を伏せたまま、彼女の動きを見守った。

 

 ローアンがスイッチを入れた。

 

 強烈な白い光が暗い整備棟を横切り、車両と車両の間を照らし出した。

 

 光の先に、車両の陰へ身を寄せたオークがいた。

 

 痩せこけた牡だった。黒い外套に黒いズボン、両手には黒い手袋をはめ、身につけているものはほとんど黒で統一されている。暗がりに紛れていたその姿が、作業灯の光の中へ唐突に浮かび上がった。

 

 ヴェルナーの目は、牡の手にある銃へ吸い寄せられた。

 

 黒い自動式の散弾銃。その銃口には、銀色の筒が取り付けられている。形だけを見れば、自動車のオイルフィルターにも似ていた。

 

 ヴェルナーはこんな牡を見たことがなかった。死神などというものを信じたこともなかったが、もし本当にいるとすれば、こんな姿をしているのかもしれないと思えた。

 

(こいつが、ペペルなのか?)

 

 突然まともに光を浴びた牡は顔を背け、片腕で目元を庇った。

 

 ヴェルナーはローアンの出方を窺った。

 

 しかし、彼女は作業灯を向けた姿勢のまま動かなかった。

 

 相手は完全に光の中にいる。

 

(どうしたんだ。俺がやるしかないのか?)

 

 ヴェルナーは意を決して車両の陰から立ち上がり、散弾銃を牡へ向けた。

 

「動くな! 警察だ! 銃を捨てて、両手を頭の上に!」

 

 声が整備棟に響いた。

 

 牡が動いた。

 

 光から逃れるように横へ飛び出し、そのまま床を転がる。ヴェルナーが銃口で追った時には、牡は身体を起こしざまに散弾銃を作業灯へ向けていた。

 

 ボシュッ。

 

 電球が破裂し、反射笠の一部が弾け飛んだ。白い光が消え、旧整備棟は再び高窓から差し込むわずかな明かりだけに戻る。

 

 ほとんど同時に、車両の間を走る足音が聞こえた。

 

 ヴェルナーは音のする方へ散弾銃を向け、暗闇に一発撃ち込んだ。轟音が建物の中に反響したが、命中した気配はない。

 

 もう一度狙おうとした時には、足音はかなり遠ざかっていた。

 

 やがて、それも聞こえなくなった。

 

 ヴェルナーはしばらく銃を構えたまま待った。相手が戻ってくる気配はなく、ローアンの方からも声ひとつしない。

 

 妙だった。

 

 先ほどまでの彼女なら、相手が逃げればすぐに追っていたはずだ。

 

 なぜ動かない。

 

(まさか、撃たれたのか)

 

「ローアン?」

 

 ヴェルナーは車両の陰から出た。

 

 額の痛みを堪えながら線路を跨ぎ、砕けた作業灯の方へ近づいていく。

 

 ローアンはそこにいた。

 

 見たところ、どこにも怪我はない。

 

 銃を下ろし、牡が消えていった暗がりを見つめたまま立っている。

 

「どうしたんだ?」

 

 返事はなかった。

 

「追わなくていいのか?」

 

 それでもローアンは動かなかった。

 

 ヴェルナーはさらに近づき、その横顔を見た。

 

 そこで初めて、彼女の身体がかすかに震えていることに気づいた。

 

 ホテルで何人もの襲撃者を相手にした時でさえ、こんな様子は見せなかった。

 

 ローアンは暗闇の奥を見たまま、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、掠れた声が漏れた。

 

「……なぜだ」

 

 少し間を置いて、もう一度呟く。

 

「なぜだ、テオドール……」

 




(「朝靄の告白」に続く)
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