※この作品はR-18です。

二匹だけの軍隊   作:S文字

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朝靄の告白

 夜が明けようとしていた。

 

 徴発……いや、調達したレンツェ社製の小型乗用車は、ヴィルトシュヴァインの西、ハウプトシュタット州の丘陵地帯を走っていた。

 

 空は雲に覆われ、まだ朝日は見えない。夜の雨で濡れた街道の両側には農地が続き、収穫を終えた畑では黒い土がむき出しになっていた。

 

 その隣では、秋に播かれた麦の若芽が緑色に伸びている。街道沿いの木々はほとんど葉を落とし、濡れた枯葉が路肩に溜まってぐずぐずになっていた。

 

 丘を下るにつれて、低地に残った霧が見えてくる。

 

 冷たい風が時折車体を揺らし、窓には細かな雨粒が当たっていた。

 

 ヴェルナーはルームミラーに目を遣った。

 

 濡れた街道には、自分たちの車以外は走っていない。

 

 車が段差を乗り越えるたびに振動が額の傷に響いてズキズキ痛んだ。昨夜、NMWをメルツェンへ衝突させた際、ハンドルへ打ちつけたところだ。血はすでに止まっていたが、鈍い痛みが続いている。

 

『ハウプトシュタット州ゴルドブルン市まで 五キロ』

 

 雨に濡れた道路標識が、前照灯を反射して背後へ流れていった。

 

 ヴェルナーはもう一度ミラーを見た。

 

 一体どういうことなんだ。

 

 主要な道路は全て抑えられていてもおかしくないのに、州境には一台も警察車両がいなかった。

 

 昨夜、アウエンフルトのホテルであれだけの銃撃戦があったんだ。十人以上も死者が出たんだぞ。

 

 とっくに州警察が動いているはずなんだが……

 

 銃を持った二人組が、こうして何事もなく州を越えて走り続けているのは本来あり得ない。

 

 しかし、窓の外にはのどかな景色が広がっている。

 

 朝靄の向こうに冬穀の畑が続いている。農家の煙突から細い煙が上がり、畑の脇では農夫が柵を直していた。

 

 昨夜の出来事など、この土地には何の関係もないかのようだった。

 

 ヴェルナーは横目で隣の相棒を窺った。

 

「いい加減、何か言ったらどうなんだ。ゴルドブルンへ行け、アウトバーンは使うな。昨夜から、それしか言ってないじゃないか」

 

 ローアンは答えなかった。

 

 助手席の窓を少しだけ開け、頬杖をついて外の景色を眺めている。冷たい風が隙間から入り込み、銀色の髪をわずかに揺らしていた。

 

 厚い雲に覆われた空から差す朝の光は弱く、雨に濡れた田畑も森も灰色がかって見える。その中で、窓辺に浮かぶローアンの銀髪だけが淡く光を拾っていた。

 

 整った横顔の輪郭、白い肌。こうして黙って座っている姿を見ていると、彼女が「白エルフ」という美しき種族の一員であることを、ヴェルナーは改めて意識させられた。

 

 昨夜、血まみれの廊下で何人もの襲撃者を殺した女と同じ者には、とても見えない。

 

「……テオドールってのは、誰なんだ?」

 

 しばらくして、ローアンが窓を閉めた。

 

「私の戦友だ」

 

 ローアンはすぐには続けなかった。視線を前へ向けたまま、何かを整理するように黙っている。

 

「私は、陸軍にいた」

 

 ヴェルナーの手に、わずかに力が入った。

 

「特殊部隊にいたんだ。テオドールも同じ隊にいた」

 

 驚きはしたが、疑う気にはなれなかった。

 

 昨夜から見てきたものを思い返せば、むしろ納得できることの方が多い。リュグナーを捕らえた時の身のこなしも、水責めのやり方も、銃器の扱いも、ホテルでの戦闘も、それで全て説明がつく。

 

 そして何より、ヴェルナーには「特殊部隊」という言葉に心当たりがあった。

 

 十五年前、兵役に就いていた頃のことだ。

 

 上官の勧めで空挺降下課程へ進んだことがある。結局、適性がないと判断され、訓練の途中で脱落したのだが、その時に目にした光景を今でも覚えていた。

 

 ある日の降下訓練で、教官の隣に一人のダークエルフが立っていた。

 

 サングラスをかけ、緑色のベレー帽を被っている。見たことのない装いだった。

 

 腕を組んで訓練生たちを眺める彼女の傍らで、普段は鬼教官として恐れられていたオークの曹長が、妙に愛想よく話しかけていた。

 

『……あいつ、何者なんだ?』

 

 ヴェルナーが隣にいた友人へ尋ねると、相手もダークエルフの方を見ながら声を潜めた。

 

『俺も詳しくは知らない。訓練生の中から、見込みのある奴を引き抜きに来てるらしい』

 

『引き抜く?』

 

『選ばれた奴は、秘密のエリート部隊に入れるんだとよ』

 

 それからしばらくして、別のものも見た。

 

 夕暮れの飛行場で、滑走路の端に大型貨物機が停まっていた。機体は黒く塗られ、見える範囲には国籍を示す標識も部隊章もない。

 

 その後部から、迷彩服を着た兵士たちが次々と乗り込んでいた。

 

 特筆すべきは、彼らの「多様性」だった。

 

 オーク、ドワーフ、コボルト、白エルフ、ダークエルフ……。

 

 オルクセンを構成するあらゆる種族が、顔にべったりと暗緑色のドーランを塗り込み、見たこともない武器を携行していた。

 

 ヴェルナーは助手席へ目をやった。

 

「……そうか。あんたは、あの連中の一人だったんだな」

 

 かつて滑走路の向こうから眺めていた兵士の一人が、十五年後の今、すぐ隣に座っている。

 

 ローアンは前を向いたまま言った。

 

「私たちは道洋へ送られた」

 

 ヴェルナーは黙って続きを待った。

 

 彼女はぽつりぽつりと話し始めた。

 

 その声に、鳥の鳴き声と虫の羽音が重なっていく。

 

 

 ◆

 

 

 九七〇年 ランサン(道洋)

 

 そこは、巨木に囲まれた薄暗い山中だった。

 

 枝葉が頭上を覆い、地面まで届く光は少ない。足元は腐葉土と泥で湿り、踏むとぬちゃぬちゃとした感触がある。

 

 雨季に入ると、山の様子は一晩で大きく変わってしまう。

 

 前日まで通れた斜面が崩れ、細い踏み跡が雨水で削られることも珍しくない。

 

 航空写真も、事前の空中偵察も、もはや当てにはならない。

 

 空挺降下してから三週間が経っていた。

 

 当初八人いた偵察チーム(RT)は、今や三人にまで減っている。

 

 それに、命に代えても連れ帰らなければならない「お客」が一人。

 

 全員が、すでに限界を超えていた。

 

 野戦服に仕込まれた低残滓型冷却系刻印魔術式金属板は、熱帯の酷熱を中和しようと微かな振動を続けているが、溢れ出る焦燥までは消し去れない。歩くたびに、濡れた靴下が足へまとわりついた。

 

 隊列の先頭を進む白エルフは、足を速めながらも絶えず周囲へ目を配っていた。ぬかるんだ地面を避け、木の根や倒木を跨ぎながら、時折足を緩めて前方の茂みへ視線を走らせる。

 

 彼女の野戦服はオリーブドラブを基調としていた。もとは無地だったが、今は黒い塗料で太い縞や斑点が不規則に描き加えられている。三週間に及ぶ行動で泥と雨にまみれ、袖は枝に引っかかって裂け、膝のあたりも擦れて傷んでいた。

 

 短く切った銀髪はバンダナで覆われている。肩には装備用サスペンダーを掛け、腰の弾帯には弾倉を詰めた水筒カバーや手榴弾がいくつも取り付けられていた。

 

 小銃を胸の前で構えたまま、彼女はさらに数歩進むと、不意に足を止めた。

 

 片手を挙げると、後続も一斉に動きを止めた。

 

 そのすぐ後ろで、無線機を背負ったドワーフ族の士官、シュテファン・ラムブレヒト中尉が膝をついた。筋骨隆々とした彼の体躯も、連日の行軍と飢えで一回り小さくなったように見える。

 

 白エルフ――ローアン・イヴェットは後方を振り返り、耳を澄ませた。

 

 雨に濡れた葉から落ちる水滴の音。遠くで鳴く鳥。虫の羽音。

 

 敵の物音は、まだ聞こえない。

 

 だが、いつまでも逃げ続けられるとは思っていなかった。

 

 NVA(北ヴェスラム軍)の大部隊が、ローアンたちを捜索していたのだ。

 

 空中偵察がないため、正確な規模までは分からない。だが、先ほど木々の隙間から見えた隊列は長く、兵士の間には士官や通信兵らしき姿も混じっていた。

 

 中隊規模か。それとも、大隊か。

 

 どちらにせよ、航空支援もない数人の偵察チームだけで相手にできる敵ではなかった。

 

 ローアンは最後尾のオークと目を合わせると、片手で短く合図を送り、『お客』と共に周囲を警戒するよう命じた。

 

 二人が隊列の左右へ分かれていくのを確認すると、ローアンはシュテファンへ向き直った。

 

「私とテオで囮になる。中尉、あんたは『お客』を連れて南の回収地点(LZ)へ走れ」

 

「軍曹、しかしそれは――」

 

 ラムブレヒト中尉は言い淀んだ。

 

 通常の軍隊であれば、最も階級の高い者が部隊指揮官に選ばれるのが当然だろう。

 

 しかし、MACV-SOG(南ヴェスラム軍事援助司令部研究監視群)でその常識は通用しない。

 

 キャメロット軍の指揮下で、彼らはヴェスラム隣国の中立国であるランサンやカンプチェトラへ極秘裏に潜入していた。

 

 両国は表向きにはヴェスラム内戦への中立を掲げていたが、その領内には北ヴェスラム軍の補給路が延び、人員や武器、弾薬が絶えず南へ送り込まれている。

 

 だが、キャメロット軍が正規部隊を公然と越境させれば、重大な外交問題になる。

 

 そのため、補給路の偵察や破壊、敵兵の捕獲といった任務は、SOGの少人数で編成された偵察チームに委ねられていた。

 

 敵地深くへ潜り込み、発見されれば孤立したまま戦わなければならない。

 

 そんな任務では、階級よりも経験の差が生死を分ける。

 

 死傷率が百パーセントを超えるSOGでは、ほとんどの者が一年以内に戦線を離れる。

 

 故にキャメロット軍のヴェスラム内戦本格介入が始まった九六四年から六年以上戦い続けたローアン・イヴェット軍曹は、SOGの中で「生きる伝説」として扱われる存在だった。

 

 彼女の指揮下で戦うことは、士官にとっても名誉と言われた。それほど、彼女の戦歴は群を抜いていたのだ。

 

 シュテファンの表情が強張る。彼は無意識に唇を結び、頭を振った。

 

「俺にお前たち二人を置いて行けというのか」

 

 シュテファンは一歩踏み出した。

 

「ふざけるな、俺も戦う!」

 

「シュテファン……あいつの持つ『小包』が敵の手に渡ったら、国際問題に発展する。一三日間危機の再来だ。」

 

 ローアンは隊列の脇へ目をやった。

 

『お客』が、少し離れた木陰で周囲を警戒している。

 

 SAS、キャメロット陸軍特殊空挺部隊の兵士だった。

 

 背中には、人間族の標準的な軍装から見ても不釣り合いなほど大きな背嚢を背負っている。

 

 円筒状のそれは、一見するとただの小型ドラム缶のようだった。

 

 しかし、ローアンは知っている。

 

 あれは、半径一キロ圏内を焼き尽くす力を秘めた『悪魔』だ。

 

「だが……」

 

 シュテファンの喉がかすかに動いた。何かを言いかけ、結局その言葉を飲み込む。

 

 ローアンたちを置いていくしかない。それが最善だということは、頭では分かっていた。

 

 それでも、無線機のストラップを握る手に力が入る。

 

 シュテファンはローアンを見た。それから少し離れたところで周囲を警戒しているオークへ目を遣る。

 

 ここで別れれば、これが最後になる。

 

 二人とは、もう二度と会えないだろう。

 

 ローアンは小さく肩をすくめた。

 

「大丈夫だ。十分に引きつけたら撒く。私とテオならやれる」

 

 嘘だ。

 

 しかし、シュテファンは何も言わなかった。

 

 ローアンも、それ以上説得しようとはしない。

 

「命令だ。行け」

 

 しばらくして、シュテファンは頷いた。

 

 偵察チームにおいてワンゼロ(部隊指揮官)の命令は絶対だ。

 

 彼は無言でSAS隊員とともに回収地点を目指して走り出した。

 

 ローアンは、二人の背中が密林の奥へ消えるまで見送った。

 

 風が梢を揺らし、濡れた葉が擦れ合う。

 

「悲しいお別れだな、ローアン」

 

 隣でテオドール・ヴィッツェルが言った。

 

 オークはブーニーハットの縁を指で持ち上げ、不敵に笑っている。

 

 ローアンは横目で彼を見た。

 

 特殊部隊の訓練課程でバディを組んで以来、長く行動を共にしてきた相手だった。

 

 最初から気が合ったわけではない。

 

 直感で動くローアンに対し、テオドールは計画と反復を重んじた。互いのやり方を好ましく思わない時期もあったが、訓練を重ねるうちに、やがてその違いこそが自分には欠けているものだと気づいた。それからは、互いのやり方を認め、尊重するようになった。

 

 ヴェスラムへの派遣が決まった時、二人は揃って志願した。

 

 それまで実戦とはほとんど無縁だったオルクセン軍にとって、異例の任務だった。

 

 戦地に入ってから、二人は同じ偵察チームで戦い続けた。敵将校の捕獲をはじめ、困難な任務を何度も成功させ、キャメロット軍総司令官から表彰を受けたこともあった。

 

 いつからだったか、任務以外の時間も一緒に過ごすことが増えた。

 

 二人の距離が以前とは違うものになっていることに、周囲も気づいていた。

 

 それでも、誰も何も言わなかった。

 

 ローアンはテオドールの言葉に、わずかに首を振った。

 

「やめろよ」

 

 苦笑しながら背嚢を下ろし、上蓋を開く。

 

 中から指向性地雷を取り出した。

 

 カーテナ地雷――湾曲した箱状のケーシングに、七百個の鋼球を詰め込んだ爆発物だ。

 

 鋼球は樹脂で固定され、その背後にはC-4爆薬が収められている。

 

 起爆すると爆圧によって鋼球が前方へ一斉に放たれ、広い範囲を薙ぎ払う。

 

 しかし、今ローアンの手の中にあるものは、通常のものとは違った。

 

 背中合わせに組み合わされ、二つの爆薬は電気的につながっている。

 

 これは敵を倒すためのものではない。

 

 痕跡を消すためのものだ。

 

 全方向へ飛び散る鋼球で、足跡も踏み荒らした下草も滅茶苦茶になる。これなら、シュテファンたちがどちらへ向かったのか簡単には追えまい。

 

 彼女は地雷に取り付けた細長い遅延起爆装置を確かめた。

 

 真鍮と銅でできた小さな筒には、遅延時間を示す色付きの識別片が差し込まれている。

 

「この気温なら、三十分前後だろ」

 

 ローアンは識別片をもう一度確認すると、慎重に装置を作動させた。

 

 作戦は単純だった。

 

 四人はつい先ほど、どうにかNVAの包囲の隙間を見つけ、気づかれずに抜け出したばかりだ。今ならまだ、敵が進路の先へ回り込んでいるとは考えにくい。

 

 ローアンとテオドール、それにシュテファンだけなら、また囲まれたとしても敵をかわし続けることはできなくもない。

 

 ところが、『小包』を背負った人間族を連れたままではそうはいかない。次に逃げ道を塞がれれば、今度こそ抜け出せないかもしれなかった。

 

 だから、シュテファンに『お客』を連れて先に行かせたのだ。

 

 ローアンとテオドールは来た道を戻り、追手へ接触する。

 

 敵の先鋒を叩き、こちらの存在をはっきりと知らせたうえで、シュテファンたちとは別方向へ逃げる。

 

 NVAから見れば、逃げた偵察チームを再び捕捉したように見えるはずだった。

 

 こちらを包囲しようとしてくれれば、それでいい。

 

 その間に、シュテファンたちは少しでも遠くへ行ける。

 

 ローアンは地雷を慎重に設置しながら、追手のいる密林へ視線を向けた。

 

 今頃、奴らも偵察チームが包囲を抜けたことに気づいているはずだった。

 

 再び痕跡を追い、こちらを囲い込もうとしているだろう。

 

 二人は引き返し、待ち伏せに適した場所を探し始めた。

 

 しばらく進むと、不意に木々が途切れた。

 

 小河川のそばに、幅のある平坦な土地が開けている。昔は焼畑として使われていたらしいが、今は放棄され、低い草やシダに覆われていた。周囲には若木や竹が密生しているのが見える。

 

 待ち伏せにはもってこいだ。

 

 ローアンは広場へ着くと、すぐに背嚢を下ろした。

 

 これから敵のすぐ近くまで入り込むので、余計な荷物は邪魔になるからだ。

 

 テオドールが待ち伏せの準備を整えるまでの間、敵を撹乱しなくてはならない。

 

 おまけに、追手がちゃんと広場まで辿り着けるようお膳立てをしてやる必要もあった。

 

 背嚢を太い木の根元へ押し込み、上から濡れた葉を軽く被せてから、必要最低限の装備だけを身につけていることを確認した。

 

 テオドールも広場の周囲を見回し、すでに準備に取りかかっている。

 

 ローアンは一度だけ広場を振り返ると、そのまま一人で敵のいる方角へ向かった。

 

 木々の間へ入るなり、姿勢を低くする。

 

 太い幹や藪を遮蔽物にし、足音を立てないよう慎重に進んでいく。頭上の樹冠にはところどころ切れ目があり、白い陽光が差し込んでいる。そうした明るい場所には絶対に入ってはならない。

 

 木陰を伝うように少しずつ敵との距離を詰めていった。

 

 やがて前方から、下草を踏む音が聞こえてくる。

 

 ローアンは板根を張った巨木の根元へ身を寄せ、幹の脇から前方を窺った。

 

 いたぞ。

 

 NVAの先鋒だった。

 

 黄土色の薄手の野戦服に、同じ色のズボン。丸い硬質帽を被り、背嚢や水筒を身につけている。

 

 服も装備も雨と泥で汚れ、周囲の土や枯葉に紛れていた。

 

 ローアンは兵士たちを一人ずつ観察した。

 

 ただし、顔だけは見ない。

 

 より正確には、目を見ない。

 

 目を合わせれば、相手もこちらの顔を認識する。SOGでは、そんな話が半ば迷信のように信じられていた。

 

 敵の胸、腰、足元を見る。人数と間隔だけを拾い、相手の顔がこちらを向きそうになれば、顔は動かさずに視線だけを外した。

 

 かなりの数だった。

 

 先鋒だけでも十数人。その後ろにも影が続いている。

 

 ローアンはXL七七E二小銃を背中へ回し、腰のホルスターから拳銃を抜いた。

 

 キャメロット海兵隊が採用したばかりの新型消音拳銃だった。

 

 銃口には太い消音器が伸びている。内部にワイプを用いるため耐久性には難があったが、消音性能は高い。さらに発射時の機械音を抑えるため、遊底を固定する機構まで備えた、隠密行動に特化した拳銃だった。

 

 ローアンはそのまま敵の動きを追った。

 

 先頭集団の進路を確かめていると、奴らが右のほうに行くのが見える。

 

 先回りするために大きく迂回することにした。

 

 敵と並行して進む。蜘蛛の巣に触れたり、足元の枝を踏んだりしないよう注意しながら進んだ。

 

 やがて、前方に藪が見えた。

 

 ローアンは分け入った痕跡が残らぬよう、ゆっくりとその中へ潜り込んだ。

 

 葉が密生しているので、外からは見つかりっこない。

 

 彼女は身を伏せ、待った。

 

 しばらくして、枝葉を掻き分ける音が近づいてきた。

 

 先鋒が藪へ差しかかると、NVAたちは足を止めた。そのまま突っ切ろうとはせず、隊列を左右に分けて藪を迂回し始める。

 

 ローアンは音を立てないように様子を窺った。

 

 右からは足音が、左からは低い話し声が聞こえる。兵士たちは彼女の潜む藪を挟み、それぞれ反対側を進んでいった。

 

 狙っていた形だった。

 

 ローアンはゆっくりと拳銃を持ち上げ、葉の隙間へ銃口を差し向ける。

 

 左側を進む兵士たちの姿が、重なった葉の隙間から断片的に見えた。

 

 そのうち中央を歩いていた一人が足を止め、後ろを振り返る。

 

 ローアンはその胸へ照準を合わせた。

 

 ポシュッ。

 

 男がその場に崩れ落ちた。

 

 一瞬、周囲の兵士たちは何が起きたのか分からず動きを止めた。やがて一人が倒れた仲間に気づき、声を上げる。

 

『豚に撃たれたぞ!』

 

 その叫びに、藪の反対側を進んでいた兵士が反射的に身を引いた。

 

 ぱきり、と枝の折れる音がした。

 

 左側の兵士が顔を上げ、音のした方へ銃口を向ける。敵が動いたと思ったのだろう。

 

『あそこだ!』

 

 銃声が弾けると、反対側の藪から悲鳴が上がった。

 

『撃たれた!』

 

 怒号が飛び、撃たれた側も反射的に撃ち返した。

 

 木々の間を銃弾が走り、枝葉が弾ける。

 

『やめろ! 撃つな!』

 

 士官らしき声が響いた。

 

 だが、最初の数秒ですでに収拾がつかなくなっていた。

 

 ローアンはその騒ぎを背に、来た道を戻り始めた。

 

 背後ではまだ怒号と銃声が続いている。

 

 少し進んだところで、とうとう堪えきれなくなった。

 

(馬鹿どもがよ)

 

 ローアンは肩を小さく震わせた。

 

 声を上げるわけにはいかないが、しばらくニヤニヤと笑っていた。

 

 その時、シュテファンたちと別れた方角から、腹に響くような爆発音が轟いた。

 

 仕掛けておいた地雷が作動したのだ。

 

 これで、シュテファンたちが残した痕跡もほとんど残らない。

 

 こちらも十分に時間を稼いだ。テオドールなら、もう待ち伏せの準備を終えている頃だろう。

 

 あとは、怒り狂った連中をあの広場まで連れていけばいい。

 

 ローアンは、わざと痕跡を残すように走っていた。

 

 柔らかい泥を踏み、枝を折って、ところどころで下草を踏み倒してみる。足跡がありありと残っている。奴らは追跡がお得意だからこちらがどこへ向かったのかすぐにわかるはずだ。

 

 やがて木々の向こうに広場が見えてきた。

 

 ローアンは足を緩め、前方へ目を凝らしてみる。

 

 広場の向こう側、林縁近くの地面にテオドールが伏せているのが見えた。

 

 大きな身体を低くして、周囲のシダや草を使って輪郭を目立たなくしているようだ。

 

(なるほど。考えたな)

 

 ローアンは彼の意図がすぐにわかった。

 

 敵があいつのところまで辿り着くには、開けた広場を横切るしかない。

 

 それを避けようとすれば、左右の密林を大きく回り込まないといけない。

 

 テオドールのことだ。

 

 敵がそう動くことまで見越して、迂回路になりそうな場所にはすでに罠を仕掛けているに違いない。

 

 ローアンは広場を横切って、先ほど置いていった背嚢を拾い上げた。

 

 まだ遠くに怒号が聞こえている。

 

 あとは、連中がここまで追ってくるのを待つだけだった。

 

 テオドールの数メートル右に場所を決める。

 

「ローアン。右にトウポッパー、左にカーテナを仕掛けた」

 

 報告を聞きながら背嚢を下ろし、地面に伏せて小銃を構えた。

 

 ワン……ワン、ワン!

 

 密林の奥から、かすかに犬の鳴き声が聞こえた。

 

 追跡犬だ。

 

 人間族が古くから使役してきた小型の家畜で、匂いを嗅ぎ分ける能力に長けており、偵察チームのわずかな痕跡をたどってNVAの追跡者を導いてくる。知性は巨狼には遠く及ばない。だが、それは彼らにとって何の問題でもない。

 

 鳴き声に、低い唸りが混じった。

 

 もう、すぐそこまで来ている。

 

 テオドールがXL七七E二を構える。

 

 キャメロット軍の制式小銃L一六A一を切り詰めた型で、短銃身化によって増した銃口炎を抑えるため、銃口には大型の消炎器が取り付けられている。

 

 銃声は、NVAが装備するロヴァルナ製小銃によく似ており、敵が味方の射撃と取り違えることもあった。

 

 銃身の下には単発式の擲弾発射機が取り付けられている。小型の榴弾を発射し、密集した敵兵に対して絶大な効果を発揮した。

 

 ローアンも銃床を肩へ当て、広場の向こうへ視線を据える。

 

 やがて枝葉が揺れ、一人のNVA兵が姿を現した。

 

 小銃は持っていないようだ。彼の持つ引き綱の先では、一匹の犬がクンクンと地面を嗅いでいるのが見える。

 

 広場の縁まで来たところで、ふいに犬が足を止めた。

 

 地面に擦り付けていた鼻を上げると、明らかにこちらと目が合った。

 

 鼻に皺を寄せて吠え始めた。

 

(しゃべれもしない、人間族の奴隷のくせに、一丁前に威嚇しやがる)

 

 兵士も立ち止まり、犬が向いている方角へ目を凝らした。

 

 しばらく視線を巡らせた末に、広場の向こう側、草の間に身を伏せていたローアンの姿を捉える。

 

 兵士は目を見開き、何かを叫ぼうと口を開いた。

 

 ローアンが撃った弾は胸に当たり、兵士は仰向けに倒れた。手から引き綱が離れる。

 

 犬は主人の周囲をぐるぐると回りながら、鼻を鳴らして動揺を示した。

 

 しかし、それも束の間だった。

 

 次の一発がその首を撃ち抜き、小さな体が草むらへ沈む。

 

 その銃声を合図にしたように、密林の奥から怒号が上がった。

 

 敵の士官が怒鳴り、命令を飛ばしている。

 

 光の届かない密林の闇の中でも、それとわかるほどの数の影がうごめいていた。

 

 枝葉をかき分け、三十人ほどのNVA兵が次々と広場へ飛び出してくる。

 

 ローアンとテオドールは、先頭の兵士たちが十分に開けた場所へ入るまで待った。

 

 そして、ほとんど同時に発砲した。

 

 XL七七E二の短い連射音が鳴り、先頭を走っていた兵士たちが次々と低い草の上へ倒れる。

 

 五人、六人と胸にバースト射撃を受けて命を散らしていく。

 

 それでも後続はどんどん現れた。

 

 二人は射撃を続けた。

 

 倒れた兵士が十人ほどに達したところで、ようやく残った者たちは正面突破を諦めたようだ。

 

 広場の中央で立ち止まる者はいなかった。生き残った兵士たちは射線から逃れるように右へ流れ、次々と木立の中へ飛び込んでいくのが見えた。

 

 テオドールが小さく言った。

 

「右に行ったぞ」

 

 木々の陰を伝い、右側から回り込もうとした兵士たちが藪へ入る。

 

 その足元で爆発が起きた。

 

 赤土と下草が跳ね上がり、先頭の兵士が地面へ倒れる。続いて、今度はその後方でも立て続けに爆発が起き、悲鳴が重なって聞こえる。

 

 MK一四地雷、通称トウポッパー。

 

 小型の圧力式対人地雷で、人間一人を吹き飛ばすほどの威力はないが、足を破壊して行動不能にするには十分だった。

 

 その性質から、「トウポッパー(つま先飛ばし)」と呼ばれている。

 

 後続の兵士たちは足元を警戒して動きを止めた。

 

 右から迂回しようという気は失せたみたいだ。

 

 直後、木立の奥から激しい銃撃が返ってきた。

 

 弾丸が周囲の地面を叩き、風を切ってシュッシュッと嫌な音を立てる。ローアンは地面に伏せたまま、低い草の間から銃口を突き出し、銃口炎の見えた場所へ短く連射した。

 

 男の硬質帽が赤く染まるのが見えた。

 

 そいつのすぐ隣で別の兵士が銃を構えた。ローアンはそちらへ照準を移し、引き金を絞る。二発、三発。兵士は仰け反り、そのまま藪の中へ消えた。

 

 それでも銃撃は止まらない。ますます勢いが増していくように思えた。

 

 木々の隙間から銃口が次々と現れ、広場を挟んで銃弾が飛び交った。テオドールも敵が姿を見せるたびに撃ち返し、一人、また一人と地面へ倒していく。

 

 正面も右も突破できないと悟ったのか、敵兵が今度は左側へ回り始めた。

 

 テオドールは、左側に仕掛けたカーテナの起爆装置を握ったまま待った。

 

 まだ早い。

 

 木々の間へ一人、二人と姿が消えていく。その後ろから、さらに兵士たちが続いた。その間も敵の銃撃は絶えず、弾丸が二人の頭上を飛んでいく。

 

 十分に入り込んだところで、テオドールは親指を動かした。

 

「今だ」

 

 轟音が響いた。

 

 左側の密林でカーテナが炸裂し、前面へ放たれた無数の鋼球が周囲の草木ごと敵兵を薙いだ。

 

 藪の奥から悲鳴が重なる。

 

 何が起きたのかは、見なくても分かった。

 

「こいつも食らえ!」

 

 テオドールは続けて、もう一基の起爆装置を作動させた。

 

 だが、今度は様子が違った。

 

 爆炎が前方ではなく、真上へ噴き上がった。

 

 最初の爆発で設置位置がずれたらしい。

 

 その隙にも銃弾が飛んでくる。ローアンは銃撃の合間を見て小銃を持ち上げた。

 

「擲弾、撃て!」

 

 二人は銃身下の発射機を構え、続けて擲弾を撃ち込んだ。

 

 放たれた擲弾が広場の向こうへ飛び、敵兵の集まっていた木立で炸裂した。

 

 爆音とともに土煙が膨らみ、枝葉が弾けて散っていくのが見える。

 

 それまで絶え間なく続いていた敵の射撃が、一瞬だけ途切れた。

 

 ローアンは立ち上がった。

 

「後退するぞ! 援護しろ!」

 

 テオドールは動かず、そのまま敵の方へ短く連射した。

 

 ローアンはその間に後ろの木まで走った。幹の裏へ入ると振り返り、撃ち始めた。

 

 今度はテオドールが走った。

 

 二人は交互に援護しながら、シュテファンたちとは別の方向へ後退していった。

 

 背後から銃声や敵の怒り狂う声が聞こえる。弾丸が幹を削り、足元の赤土を跳ね上げた。

 

 やがて銃声が遠ざかった。

 

 ローアンとテオドールは、苔に覆われた石灰岩の露頭の傍まで来ると、一旦足を止めた。

 

「変だぞ……追ってこない」

 

 テオドールが汗をぬぐいながら、背後の静けさを窺った。

 

「回り込んで退路を断つ気だな。これ以上は逃げられない。あの丘に陣取る」

 

 ローアンが指さした先には、密林の中にぽつんと突き出した小高い丘があった。

 

 丘の斜面にはほとんど木がなく、ほとんどが赤土と岩肌だった。ところどころに低い草が生えているだけで、頂上近くにはキャメロットの爆撃でできたらしい大きなクレーターが残っていた。

 

 そこに上がれば周囲を見渡すことができるだろう。しかし、逃げることはできない。

 

「まさかエルフと心中するとは思わなかった」

 

 テオドールが乾いた笑いを漏らす。

 

 ローアンもわずかに口角を上げた。

 

「戦友となら、悪くないだろ」

 

「……ああ、違いねえ」

 

 テオドールは短く答えた。

 

 二人とも死を覚悟したことで、かえって頭は冴えていた。

 

 ふと、ローアンの脳裏に失った仲間たちの顔が浮かんだ。シュルツ、ヴェーバー、クライン、ハルトマン、セヴァナ。

 

 この秘密戦争を何年も生き延びてきた者たちが、ほんの三週間のうちに全員死んでしまった。

 

 自分とテオドールも、間もなくそちらへ行く。

 

 そう考えると、不思議と恐怖は薄れた。隣にはテオドールがいる。愛する牡と最後まで戦い、同じ場所で死ねるのなら、それでよかった。

 

 ローアンには、それが何よりも嬉しかった。

 

 丘へ着くと、二人はすぐに準備を始めた。

 

 通ってきた道には、牽引線式のカーテナを警報代わりに仕掛け、丘の中腹には残っていた地雷をすべて埋めた。

 

 頂上近くに残っていた爆撃のクレーターへ入ると、手持ちの弾倉と手榴弾を手の届くところへ並べる。

 

 一通り準備を終えたところで、ローアンはシュテファンのことを考えた。

 

 逃げ切れただろうか。

 

 気のいい奴だった。任務の合間には、テオドールも連れて三人でゴーゴーバーへ繰り出したことも一度や二度ではない。

 

「案ずるな、ローアン。俺たちの戦闘音以外、何も聞こえなかった。NVAは中尉たちに気づいちゃいないよ」

 

 テオドールが言った。

 

 ローアンは小さく頷いた。

 

 そうだ。

 

 シュテファンたちは今頃、回収地点でヘリを待っているはずだった。

 

 突然、丘の下から爆発音が轟いた。

 

 仕掛けておいたカーテナが炸裂したのだ。

 

 敵はもう麓まで来ている。

 

 ローアンはクレーターの縁から斜面を見下ろした。木々の間にNVA兵の姿が見える。

 

 小銃を構え、短く連射する。

 

 すぐに敵もこちらの位置を捉えた。斜面の下で人民華国製の軽機関銃が据えられ、銃口が丘の頂上へ向く。

 

 ローアンが身を伏せた直後、銃弾がクレーターの縁を叩いた。土と小石が弾け、ピシ、ピシと音を立てる。

 

 彼女は擲弾発射機を構え、下方へ一発撃ち込んだ。

 

 擲弾は機関銃手のすぐそばで炸裂し、銃の部品が散乱するのが見えた。

 

 その直後だった。

 

「RPG!」

 

 テオドールの声を聞くなり、ローアンはクレーターの底へ身体を投げ出した。

 

 その直後、頂上のすぐ近くでロケット弾が炸裂した。

 

 爆風が頭上を抜け、土がばらばらと降ってきた。今のはヤバかったぞ。頭が鈍く痛む。身体を投げ出した拍子にテオドールと頭をぶつけてしまったのだ。

 

 顔を見合わせて、思わず笑ってしまう。

 

「ローアン、ひどい顔だぞ」

 

「うるせえな。その石頭なんとかしろよ」

 

 耳の奥では、鐘が鳴るような音が響き続けている。

 

 下方からヴェスラム語の叫び声が聞こえてくる。

 

「さあ、奴らが来るぞ!」

 

 二人はクレーターの縁に再び取り付き、斜面へ銃を向けた。

 

 木々の間からNVA兵が次々と姿を現し、斜面を登ってくる。

 

 その先頭が中腹へ差しかかった時、足元でトウポッパーの小さな爆発が起きた。

 

 倒れ、苦しむ兵士を見て、後続が一瞬足を止めたが、すぐに左右へ散って登り始める。その途中でも別の地雷が炸裂し、斜面のあちこちから悲鳴が上がった。

 

 二人は死に物狂いで戦った。

 

 遠くの敵には単発でよく狙い、近づいてきた奴には短い連射を浴びせてから手榴弾をおみまいした。

 

 反撃が激しくなれば擲弾で面ごと破壊する。斜面にほとんど木が生えてないおかげで、固まった敵が倒れる様が見えて痛快だった。

 

 何人倒しても、木々の奥から次の兵士が現れた。

 

 ローアンは空になった弾倉を抜き、新しいものを叩き込む。

 

「テオ、弾倉があと三本だ。そっちは?」

 

「ほら、二本やる。節約しろよ」

 

 ローアンは片手で受け取った。

 

 やがて、あれほど激しかった銃撃が止んだ。

 

 二人も撃つのをやめて、様子を窺った。

 

 しばらくして、ローアンはクレーターの縁へ身体を寄せると、わずかに顔を出してみた。

 

 敵が退いたとは思えない。

 

(何を待っていやがるんだ? こっちはまだ戦えるぞ)

 

 木々の間で何かが動いた。

 

 襟に大尉の階級章を付けた人間族が姿を現す。手には拡声器を持っていた。

 

『潔く武器を捨てて投降しろ! 抵抗をやめれば命は保証する!』

 

 そこでローアンは合点がいった。

 

 殺すだけなら、迫撃砲で丘ごと叩けばいいんだ。わざわざ兵士を何人も失いながら、ここまで距離を詰めてくる意味はない。

 

 ローアンは銃を構え直した。

 

「……生け捕りにしたいのか。舐めやがってよ」

 

 身を晒さないよう、岩の隙間から拡声器を持った男を窺う。

 

 照準を合わせた。

 

 一発の銃声。

 

 男はその場に崩れ落ちた。

 

 直後、仇を討つように敵陣から一斉に銃弾が浴びせられた。

 

 ローアンはすぐに岩の隙間から身を引き、銃撃をやり過ごした。

 

 弾丸でクレーターの縁の土が絶えず飛び散って、口の中に入ってくる。

 

 ペッ、ペッと唾を吐きながら様子を見ていると、斜面の下から煙が広がり始めた。

 

 煙幕の向こうでNVA兵が動き出す。姿を隠しながら、次々と頂上との距離を詰めてきた。

 

 ローアンはクレーターの縁からわずかに身を乗り出し、煙の中に見え隠れする人影へ発砲した。

 

 反対側ではテオドールも射撃している。

 

 しかし、応戦虚しく敵との間隔は、見る間に縮まっていた。

 

(もう手榴弾もないぞ。……これで終いかな)

 

 ローアンはホルスターに収められた拳銃を意識した。

 

 自分とテオドールの分は残してある。

 

 すると、煙の向こうからヴェスラム語の声が聞こえた。

 

『お前ら、下がってろ!』

 

 何かがクレーターの中へ投げ込まれた。

 

(手榴弾か。だが、捕まるよりよっぽど……)

 

 ところが、投げ込まれたものを見てローアンは当惑した。

 

 黒い球体だ。

 

 見慣れた華国製の柄付き手榴弾ではない。表面には、小さな棘のような突起がびっしりと並んでいる。こんなものは今まで見たことがないぞ。

 

「テオ――」

 

 閃光が視界を覆うと同時に、凄まじい音が耳を打つ。

 

 ローアンには、自分が倒れたことすら分からなかった。

 

 頭がガンガン痛む。

 

 視界が白く焼け、耳鳴りがする。身体を起こそうとしても平衡感覚が戻らず、手を伸ばした先に銃がなかった。

 

 ぼやけた視界の中で、人影がクレーターへ飛び込んでくるのが見えた。

 

 NVAだった。

 

 ローアンは腰へ手を伸ばし、ホルスターの拳銃を抜こうとした。

 

 しかし、指先が銃に触れるより先に、兵士の足が目の前で止まった。

 

 思わず顔を上げる。

 

 振り上げられた小銃の銃床が見えた。

 

 そこで、ローアンの意識は途切れた。

 

 

 ◆

 

 

 彼女は、鈍い痛みの中で目を覚ました。

 

 頭の奥がぐわんぐわんと揺れている。喉は焼けつくように渇き、舌が粘膜に張りついて動かすと痛かった。

 

 眩しさを堪え、まぶたをわずかに開いてみる。

 

 ぼやけた光の向こうに、天井が見えた。

 

 編み込まれた竹。節のところどころが割れ、湿気と埃で黒ずんでいる。同じく竹でできた壁の向こうからは葉擦れと虫の羽音がかすかに聞こえている。

 

 自分が寝かされている鉄製の寝台以外に、その部屋には何もなかった。

 

 どう見ても医務室ではない。

 

 野戦服には、泥と乾いた血がこびりついている。

 

 装備は何も身につけていなかった。

 

 全身が痛んだ。脇腹や肩、背中には殴られたような鈍痛が残り、とりわけ左脚はひどかった。腿から膝にかけて腫れ上がり、麻酔をかけたようにほとんど感覚がないみたいだった。

 

 身体を起こそうとして、右腕が引っかかる。

 

 手首には手錠が嵌められ、その先は寝台の金具へ繋がれていた。

 

 そこでようやく、自分の置かれた状況を理解した。

 

 捕まった。テオは――。

 

 身体を捻ろうとした、その時だった。

 

 視界の端に人影が入った。

 

 長く尖った耳と白い肌。

 

 その姿を見た瞬間、以前からSOG内部で囁かれていた疑いは確信に変わった。

 

 戦争初期、SOGのオルクセン部隊は本部との連絡に魔術通信を多用していた。

 

 通常の無線は傍受される。だが、魔術を扱えない北ヴェスラムの人間族に、魔術通信を捕捉する術はないと考えられていた。

 

 最初の異変は、ベテランのダークエルフが率いる偵察チームに起きた。

 

 そのチームはヘリでランサンへ潜入した直後、魔術通信で本部へ潜入成功を報告した。だが、それを最後に連絡が途絶え、そのまま消息不明になった。

 

 その後も、似たような例がいくつか続いた。

 

 やがて司令部は、一つの可能性を疑い始めた。

 

 北ヴェスラム側にも、魔術を扱える者がいる。

 

 ローアンは目の前の白エルフから目を離さなかった。

 

 こいつだ。

 

 白髪のエルフが着ているのは、灰色の服だった。

 

 襟章も階級章もない。だが、仕立てや色合い、使われている生地からして、東側のものに違いない。

 

「ローアン・イヴェット軍曹」

 

 白エルフは淡々と名を呼んだ。

 

「いや――『ヴートヴォルフ』と呼んだ方がいいかな?」

 

 ローアンの顔を確かめるように眺める。

 

「話は聞いている。影の中から現れて同志を連れ去り、爆撃機を呼ぶ。キャメロットの秘密戦士――ようやく会えたな」

 

 口元にわずかな笑みが浮かぶ。

 

「まったく、君たちには散々煮湯を飲まされたものだ。……捕まえてみれば、意外とかわいいじゃないか」

 

 彼女は椅子を引き寄せ、ベッドの脇に腰を下ろした。指を組み、その上に顎を乗せてローアンを眺める。

 

 ローアンは何も言わず、自由になっている左手を、ゆっくりと野戦服の襟元へ伸ばす。

 

「お探しのものはこれですか?」

 

 白エルフの手に、銀色の小さなカプセルがあった。

 

 ローアンの手が止まる。

 

「敵に捕まれば自害する。大した忠誠心だ」

 

 白エルフはカプセルを指先で弄び、一度だけ宙へ放った。

 

 銀色の筒が小さく回転し、再びその掌へ収まる。

 

「残念だったな」

 

 ローアンは黙ったまま、彼女を睨んだ。

 

「私はロヴァルナから来たんだ」

 

 白エルフはそのまま続ける。

 

「あの国では、我々のような有能な魔種族は社会の一員として相応の役割を与えられる。住居も、食事も、仕事も保障される」

 

 白エルフは言葉を継いだ。

 

「誰かに搾取され、明日のパンを心配しながら生きる必要はない。勤勉に働けば、社会もまた君を見捨てない。それが統制された国家というものじゃないか?」

 

 口調には抑揚がない。だが、ローアンを見る目には、先ほどまでとは違うものがあった。

 

「いつまでオルクセンの豚どもに従うつもりだ。祖国を滅ぼし、土地を奪った連中に」

 

 白エルフはわずかに身を乗り出した。

 

「君が本当にエルフィンドの民なら、少なくとも誰が敵なのかくらいは分かるだろう」

 

 ローアンは小さく息を吐いた。

 

「エルフィンドなんて国は知らない。私はオルクセンに生まれた」

 

 白エルフの口元がわずかに歪んだ。

 

「……そうか。戦後生まれか」

 

 ローアンを見下ろす。

 

「飼い馴らされたものだな。かつて野を駆けた巨狼の誇りなど、貴様には分かるまい」

 

 ローアンは鼻で笑った。

 

「その巨狼を駆逐したのは、あんたらじゃなかったか」

 

 白エルフの眉が、ぴくりと動いた。

 

 ほんの一瞬だったが、ローアンは見逃さなかった。

 

「……君は負けたんだ」

 

 白エルフは言った。

 

「こちらはすべて把握している。黙っていても意味はない。それでも協力する気はないのか?」

 

 ローアンは黙って相手の顔をじっと見た。

 

 本当にすべてを把握しているのなら、こんなことを聞く必要はない。

 

 シュテファンたちを捕らえたのなら、それを先に示せばいいだけだ。

 

 何も言わないということは、あいつらは逃げ切ったんだ。

 

 ローアンの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。

 

 勝利の笑み。

 

 白エルフの目つきが変わる。

 

「……何がおかしい」

 

 ローアンは笑みを浮かべたまま、相手を見返した。

 

 白エルフは椅子から立ち上がった。

 

「そうか、わかった」

 

 指を鳴らす。

 

 扉の外から、人間族の大柄な男が入ってきた。ローアンの自由になっていた左腕を掴み、手首をベッドの金具へ手錠で固定する。

 

 ローアンは抵抗できなかった。

 

 左脚にはまだまともな感覚がないから動けない。他の部位もピリピリ痛む。もしかしたら何か盛られているかもしれない。

 

 白エルフは腰からナイフを抜いた。

 

 刃は赤茶けた錆に覆われ、ところどころ刃こぼれしている。切れ味はひどく悪そうだった。

 

「これはね。カンプチェトラで拾ったんだ」

 

 ナイフをローアンの目の前へ持ってくる。

 

「貴様に殺された同志が持っていたものだ」

 

 ローアンは刃を見たあと、白エルフへ視線を戻した。

 

「その耳は、お前には似合わない」

 

 白エルフはローアンの左耳を指で摘まんだ。

 

「オルクセンの軍旗に忠誠を誓う者に、エルフの誇りなどあってたまるか」

 

 刃が耳に触れる。冷たくひんやりとして、不覚にも心地よい。

 

 しかし、次の瞬間には鋭い痛みが走っていた。

 

「……ッ!」

 

 ローアンの身体が硬直した。拘束された両腕に力が入り、手錠が金具を鳴らす。

 

 白エルフは手を止めなかった。

 

「私はエルフィンド軍の将校だったんだ」

 

 その声は、変わらず抑揚がなく、気味が悪い。

 

「豚どもが来るまではね」

 

 ローアンは歯を食いしばった。

 

「国が滅んだあと、私は何十年も流れ歩いた。住む場所を変え、仕事を変え、その日を生き延びることだけを考えた」

 

 刃が前後に押され、さらに進む。

 

 神経がすり潰されるような痛みにもがき苦しむが、人間族が彼女を抑えた。 

 

「やがてロヴァルナへ流れ着いた。そこでようやく暮らしを立て直したと思った頃には、今度は革命だ」

 

 白エルフは淡々と続ける。

 

「洗濯場で他人の服を洗い、炭鉱でも働いた。食うためなら何でもしたんだ。……売春宿にいたこともある」

 

 血がローアンの耳元から頬を伝い、首筋へ流れ落ちる。

 

「それでも生きた」

 

 白エルフは耳を掴む指に力を込めた。

 

「オルクセンに、いつか報いを受けさせるためにな」

 

 ナイフが左耳から離れた。

 

 白エルフは切り取った耳の先を床へ落とすと、ローアンが息をつく間もなく反対側の耳へ手を伸ばした。

 

「今は国家保安委員会で、上級作戦将校をやらせてもらっている」

 

 血に濡れたナイフが、右耳に当たる。

 

「私が一言命じれば、百の命だって闇の中へ消えるんだ」

 

「クソ野郎! 殺してみやがれ!」

 

 ローアンは大声で叫び、もがこうとしたが、すかさず人間族が背後から頭を押さえつける。

 

 刃が動いて、右耳にも焼けつくような痛みが走ると、温かい血が耳の下を伝い、すでに赤く染まったシーツへ滴り落ちた。

 

 白エルフは刃についた血を眺めてから、何でもないことのように言った。

 

「君のお仲間の豚は、運が良かったよ」

 

 ローアンの呼吸が止まった。

 

「我々が取り押さえる前に、カプセルを噛みやがった」

 

 テオドール。

 

 ローアンは目を閉じた。

 

 テオだけを先に逝かせて、自分は生き残ってしまったのか。

 

 耳の痛みよりも、そのことの方が堪えた。

 

 

 ◆

 

 

 それからが、地獄の始まりだった。

 

 敵の白エルフは、ローアンたちが何を運んでいたのかを聞き出そうと、容赦のない拷問を繰り返した。

 

 使われたのは鞭だった。乾いた音が薄暗い小屋の中に響くたび、皮膚が裂けた。傷口には、あの刃こぼれのナイフが押し当てられ、鞭の痕に沿ってえぐられた。

 

 しかし、夜はもっと辛かった。

 

 捕虜収容所の所長は毎晩彼女の牢屋にやってきた。

 

 幸い、隙を見て奴の「大事なモノ」を潰して以来は来なくなった。その時は看守から顔面が腫れ上がるくらいボコにされたが、爽快だった。ざまあみろ。

 

 尋問も、頻度が減って、やがてはほとんどされなくなった。情報源として扱われなくなったのだと彼女は考えた。

 

 その頃には、気を失っている間にNVA兵から受けた打撲もようやく癒え、ほとんど感覚のなかった左脚も少しずつ動くようになっていた。

 

 体が完全に回復したと見做され、労働に繰り出されるようになった。

 

 斧を持たされ、森で木を伐り、今まで自分たちが破壊していたはずの補給路を切り開かされた。

 

 食事は減らされ、労働時間は延び、眠る時間まで削られた。どこまで酷使すればエルフの身体が壊れるのか、それを試されていたのだろうと彼女は思った。

 

 ローアンは耐えられると思っていた。

 

 だが、ジャングルの収容地で過ごす日々は、少しずつ確実に彼女を削っていった。

 

 食事は足りず、水も満足に与えられない。

 

 やがて目に映るものすべてが灰色に霞み始めた。足はもつれ、口から意味のない独り言が漏れるようになった。

 

 あれほど執拗に尋問していた白エルフも、いつしか姿を見せなくなっていた。

 

 別の任務へ移ったのか、それともローアンから引き出せるものはもうないと判断したのか。

 

 その理由を知ることはなかった。

 

 三日間、食事の支給が途絶えた。

 

 そのあと、NVA兵はローアンを地面に掘った穴へ閉じ込め、生きた蛇を一匹放り込んできた。

 

 泥の上をくねる蛇を、ローアンはぼんやりと眺めた。

 

 怖いとは思わない。とにかく腹が減っていた。

 

 蛇が近づいてきたところを両手で押さえ込み、首を捻った。そのまま皮を裂き、生の肉へ歯を立てる。

 

 せめて塩があったらな……と考えながらも硬い肉をグニグニと噛み切り、なんとか飲み込んだ。

 

 だが、弱りきった胃は受けつけず、すぐにほとんど吐き戻してしまった。

 

 ローアンはしばらく肉の破片と胃液の混じったドロドロの吐瀉物を見つめていたが、やがて泥の中から掬い上げ、もう一度飲み込んだ。

 

 それから数時間経った頃、熱に浮かされ、幻覚を見始めた。

 

 腹を下した。全身から力が抜け、手足もまともに動かせなくなったので、便も服の中に垂れ流すしかなかった。

 

 自分の糞尿に塗れながら、ふと、あの生肉による細菌や寄生虫の感染を疑った。

 

(ああ、クソ。ローアン・イヴェット軍曹、地獄の戦場を戦い抜き、下痢が止まらず死亡……か)

 

 これで、ついにあの世行きと思ったが、やがて熱は下がり、彼女はまた生き残った。

 

 それからも、穴へ入ってきた蛇や虫を食べた。時折、兵士が残飯を投げ込んでくることもあった。

 

 ニョクマムの染みた腐った飯のうまさに涙が出た。

 

 やがて再び労働へ出されるようになると、他の捕虜の姿も目に入った。

 

 大半はヴェスラム人だった。白人もいれば、山岳地帯に住む少数民族――魔種族のニャン族と思われる者も混じっていた。

 

 誰もが痩せていた。

 

 日に日に歩みが遅くなり、ある日倒れる。そのまま動かなくなった者は、兵士たちに引きずられてどこかへ運ばれていった。

 

 ここでは、それが珍しいことではなかった。

 

 脱出しなければならない。

 

 その考えがいつ芽生えたのか、ローアン自身にもはっきりした記憶はなかった。

 

 しかし、収容所は鉄条網と有刺鉄線に囲まれている。監視塔もあり、正面から抜け出すことはできない。

 

 狙うなら、収容所の外へ連れ出された時しかなかった。

 

 その機会は、週に一度の水浴びの日に訪れた。

 

 感染症を防ぐため、捕虜たちは作業の途中で川へ連れていかれ、身体を洗うことを許されていた。

 

 女の捕虜はローアン一人だったため、他の者から少し離れた場所を使わされていた。

 

 いつもなら監視兵は二人いる。

 

 だが、その日は一人しかいなかった。

 

 もう一人がマラリアで倒れたらしいという話を、前日に兵士たちの会話から聞いていた。

 

 ローアンは川へ入る前に、監視兵へ目をやった。小銃を肩に掛けたまま、こちらを警戒している様子には見えない。

 

 彼女は何も言わず、服を脱ぎ始めた。

 

 すると、やはり兵士の視線が変わった。

 

 こんなジャングルの奥地では、欲を発散する機会などほとんどないのだろう。それまで周囲へ向けられていた目が、ローアンの身体を追うようになる。

 

 ローアンは気づかないふりをして、川岸へ腰を下ろした。

 

 兵士はしばらくその姿を眺めていたが、やがて周囲を見回した。ほかの兵士がこちらを見ていないことを確かめると、ゆっくりと近づいてくる。

 

(そうだ。こっちへ来い。イイ思いをさせてやるぞ)

 

 そのままローアンのすぐそばまで近づくと、肩から小銃を外し、川岸へ置いた。

 

 金具の擦れる音がした、ベルトを緩めたのだろう。

 

 ローアンは逃げる素振りを見せず、機会を窺った。

 

 男の視線が自分の身体へ向いている隙に、身体の陰へ手を下ろし、足元にあった石を掴む。

 

 男が身を屈めた。

 

 その瞬間、ローアンは石を振り上げると男の側頭部へ叩きつけた。

 

 鈍い音がした。

 

 兵士はよろめき、反射的に小銃へ手を伸ばすが、ローアンは背後から馬乗りになり、もう一度石を振り下ろした。

 

 男の身体から力が抜けた。

 

 ローアンは首筋に指を当て、脈がないことを確かめた。それから身体を竹藪の奥へ引きずり、枝葉を被せて川岸から見えないようにした。

 

 戻ると、地面に置かれていた小銃を拾った。

 

 AG四九――グリゴリエフ。

 

 ロヴァルナ製の七・六二ミリ自動小銃だった。

 

 弾倉を抜いて残弾を確かめてから、槓桿を引き、初弾を薬室へ送り込んだ。

 

 久しぶりに握る銃はとても重かった。

 

 ジャングルの方を見遣る。

 

 現在地は、おおよそ見当がついていた。

 

 収容されている間も、ローアンは周囲を観察していた。竹壁の隙間から見える星の位置。日の出と日没の方角。山の稜線。流れる水の向き。労働へ連れ出された際には、地形や植生も頭に入れていた。

 

 ここは北ヴェスラム領内で、ランサンとの国境に近い山中だろう。

 

 西へ抜ければランサンへ入る。そこから山中を南へ下り、どこかで東へ折れる。南ヴェスラムまで辿り着ければ、味方の勢力圏だ。

 

 それしかなかった。

 

 ローアンは服を着直すと、小銃を手に西へ向かって走り出した。

 

 監視兵が倒れていることに気づかれるまで、そう時間はない。少しでも収容所から距離を取っておきたかった。

 

 だが、走り続けることはできなかった。

 

 国境を隔てる山地は険しく、密林に覆われた斜面には、まっすぐ走れるような場所などほとんどなかった。それでも無理に足を動かし続けたせいで、まだ本調子ではない左脚に次第に痛みが戻ってきた。膝に力が入らないので、足を引き摺り始めた。

 

 彼女は無理して走れば逃げ切る体力を失うと考え、速度を落とすと、それからは歩くことにした。

 

 尾根の頂上は避けて斜面を歩き、深い谷に行く手を遮られれば大きく迂回する。蔓を絡まれ、ぬかるみに足を取られ、ときには四つん這いになって斜面を這い上がった。

 

 ただし、追手への警戒は怠ることはできない。

 

 柔らかい地面はできるだけ避け、沢へ出ればしばらく水の中を歩いた。足跡を残さず、追跡犬にもどこで沢を出たのか簡単には分からないようにするためだ。

 

 いくつもの沢を越えるうち、やがて水の流れる向きが変わったことに気づいた。西へ向かっているようだ。

 

 分水嶺を越えたに違いない。

 

 ここはもうランサンだ。

 

 この辺りでは、山の稜線がそのまま国境になっているからだ。

 

 だが、ここからが本番だ。北ヴェスラム軍の補給路はランサン東部を南北に走っている。奴らはSOGの偵察チームを警戒して警備をどんどん厚くしている。広い道や轍を見つけても近づかず、車の音や人の気配があれば大きく迂回しながら、少しずつ南へ進んだ。

 

 夜になると藪の奥へ潜り込み、身体を休めた。眠りは浅く、少し眠っては目を覚ます。葉擦れや虫の羽音、獣の気配に耳を澄ませ、その中に人の足音が混じっていないことを確かめてから、また目を閉じた。

 

 幸い、追手には遭わなかった。

 

 収容所からどれほど離れたのかは、もう見当もつかない。

 

 食糧はほとんど得られなかった。食べられそうな木の実や果実を探した。肥えた虫はごちそうだった。水は沢を見つけるたびに飲んだが、見つからない時には、爆撃跡のクレーターに溜まった泥水を飲む羽目になった。

 

 地図もコンパスもなかったが、方角をなんとか見失わないようにした。昼は太陽を見て、夜は星を見る。尾根の走る向きや谷を流れる水を確かめ、頭に残っている地形と照らし合わせた。

 

 もっとも、山の中で真っ直ぐ南へ進めるわけではない。切り立った谷に阻まれれば尾根へ上がり、崖にぶつかれば引き返す。何時間も歩いた末に、ほとんど距離を稼げていないこともあった。

 

 倒れた際にできた傷は塞がらず、膿み、虫が集った。靴はとうに使い物にならなくなり、やがて裸足で歩くようになった。足の爪はいくつも剥がれ、踏み出すたびに痛んだ。大声を出して喚き散らしたかったが理性でどうにか抑えた。

 

 一度、岩場で脚を深く裂いた時には、出血がなかなか止まらなかった。布をきつく巻きつけ、その場で何時間も動けずにいた。

 

 倒れて、眠って、目を覚ます。

 

 立ち上がれた時だけ歩く。

 

 それだけを繰り返しながら、ローアンは南へ進み続けた。

 

 

 ◆

 

 

 一か月ほど経った頃。

 

 キャメロット軍陣地の歩哨が、密林から現れた人影を見つけた。

 

 やがて別の兵士も気づき、銃を構える。

 

 人影は裸足だった。

 

 泥と血にまみれたぼろ布を身体に巻きつけ、ロヴァルナ製の小銃を杖のように引きずりながら、一歩ずつ外周陣地へ近づいてくる。

 

「止まれ!」

 

 警告にも反応しない。

 

 兵士たちの間に緊張が走った。

 

「武器を捨てろ!」

 

 人影が顔を上げる。

 

 一人の兵士が息を呑んだ。

 

「おい……白人だ! あいつ、女だ!」

 

 その声が聞こえたのかどうか。

 

 ローアンは数歩進んだところで膝をついた。

 

 銃が手から滑り落ちる。

 

 そのまま前のめりに倒れ、動かなくなった。

 

 陣地は騒然となった。すぐに軍医が呼ばれ、医療テントの中で処置が始まった。

 

 ローアンの身体は、ひどく痩せていた。

 

 体重は四十キロを下回り、頬は落ちくぼんでいる。皮膚は乾燥し、全身に傷と感染した腫れがあった。髪もところどころ抜け、両足は泥と血で覆われていた。

 

 左脚はひどく腫れており、脈も呼吸もほとんどない。

 

 点滴。傷の洗浄。固定。抗菌薬。鎮痛薬。

 

 何人もの手が身体に触れていたが、ローアンには何をされているのか、ほとんど分からなかった。

 

 不意に、口元が歪んだ。

 

 声は出なかった。それでも渇ききった喉を震わせながら、ローアンは何度も笑った。

 

 自分でも、なぜこんなに可笑しいのか分からなかった。

 

 はた目には、狂っているように見えただろう。

 

 実際、そうだったかもしれない。

 

 応急処置を受けたあと、ローアンは秋津洲にある国際赤星十字病院へ移された。

 

 そこでしばらく治療を受け、長距離の移送に耐えられるまで容体が安定すると、本国へ送還された。

 

 その後、陸軍病院へ収容された。

 

 治療と並行して、上官や情報部員による事情聴取が始まった。

 

 誰も彼女の帰還を想定していなかった。

 

 それまで、SOGの作戦中に捕らえられたと確認された兵士は、例外なくその場で処刑されていたからだ。

 

 入院中、ローアンは厳重に隔離された。

 

 すべてが機密で、外部からの面会は認められなかった。

 

 病室には一人きり。

 

 窓の外からも、ほとんど音は聞こえない。

 

 規則正しく響く時計の針だけが、過ぎていく時間を教えていた。

 




(「古井戸亭」に続く)
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