古いレンツェは走り続けていた。路面の凹凸を拾うたびに車体が細かく震え、窓の隙間から冷たい風が入ってくる。
「ヴェスラム戦争……キャメロット……」
ヴェルナーは口の中が渇き、うまく言葉が出ない。
「オルクセンは永世中立国じゃないか。だとしたら、政府はずっと国民に隠してたことになる」
隣に座るローアンは窓の外へ目を向けた。
「それに、ヴェスラム戦争といえば、キャメロットの侵略だって散々騒がれてたぞ」
ヴェルナーは横目で彼女を見た。
「オルクセンは、その侵略に手を貸したのか?」
「……」
ローアンの目は、遥か向こうの地平線へ向けられている。彼女の手は散弾銃に巻き付けられたダクトテープに爪を立て、カリカリと音を立てていた。
「だんまりか。まあ、いい。それで……あんたの戦友だったテオドールというオークが、俺たちを狙ってる『ペペル』だと言ってたよな。なぜそう言い切れるんだ?」
ローアンはすぐには答えられなかった。唇を強く噛んでいる。その端から、微かに血が滲んでいた。
あいつはテオドールだ。
作業灯が点いた瞬間、光の中に浮かんだ牡の顔をはっきりと見たんだ。
あの頃からずいぶん痩せていた。
頬はこけ、顔つきも変わっているようだった。
それでも、見間違えるはずがあるもんか。
左の鼻の孔が、右よりもわずかに小さい。昔から変わらない、歪な形の鼻だった。
敵地で何度も一緒に死にかけた。長いあいだ同じ部隊で過ごした彼の顔を、間違えるはずはなかった。
だから、あの瞬間は身体が動かなかった。
死んだと思っていたテオドールが、目の前に立っていたんだ。
(生きていた。……あいつは、生きていたんだ)
しかし、あいつは、シアン化物のカプセルを噛んだはずだ。
あの白エルフは嘘をついたのか?
それよりも、分からないことがある。
なぜロヴァルナの手先になった。
なぜ祖国を裏切り、かつての誓いを破った。
なぜ、あそこまで堕ちた。
膝の上に置かれたローアンの白い指先が、震えていた。
「……間違いない。あいつだ。わかるんだ」
ヴェルナーはそれ以上追及しなかった。
「ローアン、これからどうするつもりだ」
ヴェルナーの問いに、彼女はゆっくりと息を吐いた。
「テオドール……いや、ペペルはプロだ。一度標的を決めたら、地の果てまで追いかけ、殺す」
ローアンは目を伏せた。
テオドールも、あの時には追っている相手が私だと気づいていたはずだ。
「あいつは殺しに来る。たとえそれが私でもな……」
「じゃあ、逃げるのか?」
「いいや。ゴルドブルンの南東にディンメル山地がある。山奥にこもって、奴を待ち伏せ、捕らえる」
「あの殺し屋を?」
ヴェルナーはローアンを訝しげに見た。
「あの牡は、あんたと同じ訓練を受けて、一緒に戦ってきたんだろ? そんな奴を生け捕りにするなんて、俺には無理に思えるがな」
「あんた一人だったらな」
ローアンはヴェルナーを見返した。
「私がいるから大丈夫だ」
そう言って、膝の上の散弾銃へ目を落とした。
「奴を捕らえて、『ピサーリ』について聞き出すんだ。だが、あいつは相当な準備をして、持てる限りの火力を投入してくるはずだ。対抗するには、私たちもそれに見合った備えをする必要がある」
銃を軽く持ち上げた。
「そうなると、これでは力不足だ。自動火器が要るな」
「そんなものは手に入らないぞ」
「分かってる。まず市内で買い物を済ませる。そのあと寄ってほしい場所があるんだ。」
ローアンは必要なものを頭の中で一つずつ数え始めた。
◆
ラングハイム陸軍基地に着いたのは、正午を少し回った頃だった。
基地へ続く道路の両側には金網のフェンスが伸び、入口には赤白に塗られた遮断機が下りている。その脇の小さな哨舎には、迷彩服姿の歩哨が立っていた。
フェンスの向こうには兵舎や車庫が並び、その間を舗装道路がまっすぐ奥へ延びている。
ここはオルクセン連邦陸軍、第八山岳猟兵師団と第九降下猟兵師団が衛戍する、通称「イェーガー(猟兵)の聖地」だった。
そして広大な基地の奥には、基地勤務の兵士でさえ許可なしには入れない一画がある。
第五特殊部隊群の駐屯区画だ。
しかし、区画の入口には「第九五二整備大隊」としか書かれていなかった。
正門で、シュタールヘルムを被った若いウェルシュテリア種の衛兵がレンツェを止めた。
衛兵は運転席の脇まで歩み寄り、ヴェルナーに話しかけた。
「ご用件は?」
ヴェルナーが答えるより先に、ローアンが助手席から身を乗り出した。
「第九五二整備大隊司令部に伝言を頼みたい」
「どなたにお伝えすれば?」
「『ファルク』に。SOG・CCNの『ヴートヴォルフ』が来た。『古井戸亭』までご足労願いたい、と伝えてくれ」
若い衛兵は怪訝な顔をした。
「……何ですか、それ。暗号のつもりですか?」
「いいから、言った通りに伝えてくれればいいんだよ」
「お嬢さん、スパイごっこなら他所でやってくれませんかね?」
(何も知らないくせに、馬鹿にしやがって)
ローアンが助手席のドアへ手をかけた、その時だった。
「なんだなんだ。何を揉めてる」
低くうなるような声が割って入った。
衛兵が振り向くと、古参らしいドーベルマン種がこちらへ近づいてきた。
「ちょうどよかったです、曹長。この白エルフが、第九五二整備大隊司令部に妙な伝言を取り次げって言うんですよ」
「妙な伝言?」
「はい。『ソグ・シーシーエヌ』とか、『ヴートヴォルフ』とか……」
曹長の顔つきが変わった。
「待て。今、SOG・CCNと言ったのか?」
「え? はい」
曹長はローアンを一度見てから、若い衛兵へ向き直った。
「詰所へ行け。第九五二整備大隊司令部に、今この女が言った通り、一字一句変えずに伝えろ」
「えっ……これ、本当にそういうやつなんですか? 暗号とか――」
「いいから早く行かないか!」
「は、はい!」
若い衛兵はまだ腑に落ちない様子だったが、慌てて詰所へ戻り、受話器を手に取った。
◆
三十分後。
二人は、ゴルドブルン市シュタインガッセ通りにあるヴィルトスハウスの、使い込まれた木のカウンターに並んで座っていた。
ローアンの前には、牛肉を煮込んだグーラッシュと黒パンが置かれていた。
彼女はほとんど顔も上げず、肉を口へ運んでは、ちぎったパンを煮汁に浸してガツガツと食べている。
その様子を見て、口いっぱいに食べ物を頬張るところはハムスターに似ているな、とヴェルナーは思ってしまった。
彼は背筋を伸ばすと、店内をそれとなく見回してみた。
壁には部隊章や古びた写真が掛けられ、周囲では猟兵たちが昼食をとっている。
非番なのだろうか、中にはビールのグラスを傾けている者もいる。
精鋭に囲まれていると、自分だけがこの場所に馴染んでいないことを、嫌でも意識してしまう。
ツム・アルテン・ブルンネン(古井戸亭)
王政時代には宿屋として繁盛し、基地が造られてからは猟兵たちの安息所となってきた場所だった。
建物の裏手には、近代的な水道設備が導入されてから久しく使われていない石造りの古井戸が、今も残っているらしい。
「まさか、あんたが来るとはね。ローアン」
カウンターの向こうから、年配のオーク族の女が柔和な笑みを浮かべて話しかけてきた。
この店で彼女を本名で呼ぶ者はいない。皆、彼女を「ムッター」(低地オルク語で「おふくろさん」)と呼んでいた。
「ずいぶん久しぶりさね。あの頃はテオドールといつも一緒だったのに。今日はあの子は来てないのかい?」
ローアンは皿を空にしたところだった。
口を拭っていた手が止まる。
「……テオは、ちょっと来られないんだ」
「そうかい」
ムッターは何かを察したのか、それ以上聞かなかった。
彼女はローアンの前にコーヒーを置くと、隣のヴェルナーを悪戯っぽく見遣った。
「で、そっちの牡は何だい。あんたのいい人かい?」
「いや、俺は――」
そこで店の扉が大きな音を立てて開いた。
「イヴェット軍曹! 『ヴートヴォルフ』じゃないか!」
入ってきたのは、降下猟兵のものに似たトゥーフロック姿のドワーフだった。
シュテファン・ラムブレヒト。かつてランサンで、ローアンとテオドールが囮になって逃がした、あの無線手だ。
その顔を見た途端、ローアンはニヤリと笑い、立ち上がった。
「シュテファン! 『ファルク』! この野郎!」
二人はがっちりと手を握ると、そのまま互いに腕へ力を込めた。
最初は拮抗していた。
だが、やがてシュテファンの腕が少しずつ押し戻され始める。踏ん張って耐えようとするが、ローアンはじわじわと押し込んでいく。
シュテファンの髭面がみるみる赤くなっていく。
「ははっ、負けた! 降参だ!」
シュテファンはとうとう手を離し、ローアンの肩を抱いた。
「まさか、あんたが生きてるとはな……」
ローアンは笑いながら、ふと彼の肩章に目をやった。
「ん? シュテファン、大尉になったのか?」
「ああ」
「その歳でもう大尉か。おいおい、A分遣隊(特殊部隊小隊)なら隊長殿じゃないか」
シュテファンは思わず笑ってしまった。
「四十代で軍曹になったあんたに言われたくないな」
ローアンは首を振った。
「私のは例外だ。特殊部隊に入るには下士官じゃないといけなかったから」
それを聞いて、シュテファンは少し得意げに胸を張った。
「まあ、俺のは出世したって言っていいだろうな」
「そいつはめでたい。おめでとう、大尉」
「ありがとう、軍曹」
彼の目が、耳当ての下から覗く傷跡に止まった。
「……クソ。NVAの連中、俺たちの女神になんて真似を」
しばらく見つめたあと、ローアンの顔へ視線を戻した。
「……それで、『アッシェ』はどうした? テオドールは」
ローアンはムッターに聞こえないよう、声を落とした。
「あいつは……死んだよ」
口にしてから、ローアンは目を逸らした。
シュテファンは俯いたまま黙っていた。やがて席に着き、ムッターが置いたコーヒーを一口飲んだ。
◆
「……あんたたちは誰かに命を狙われている、というわけか」
事情を聞き終えたシュテファンが、険しい顔で二人を見た。
「相手は一人じゃない。私たちを殺すために、ヤクザを十人も送り込んできた。あれで仕留め損ねた以上、次はもっと手慣れた連中を寄越すはずだ」
ローアンは皿のビーネンシュティヒをフォークで一口分切り取り、口へ運んだ。
「だから、ディンメル山地へ誘い込んで迎え撃つことにした」
そこでシュテファンへ目を向ける。
「そのために、武器と装備を融通してほしい」
シュテファンの表情が固まった。
「待て。まさか軍の物を持ち出せと言ってるのか?」
「貸出票に名前を書けば機関銃を持たせてくれるとは、私だって思ってないさ」
「冗談じゃない。俺はC分遣隊(特殊部隊大隊司令部)の兵器担当将校だぞ。基地の武器を部外者へ渡したと知れれば、俺一人の処分では済まない」
思わずローアンを睨みつけた。
しかし、彼女は怯むこともなく、唇についたクリームを舐め取りながら、シュテファンをじっと見つめていた。
シュテファンから溜息が漏れた。
「警察なり国家憲兵隊なりに任せられないのか」
「奴の仲間がどちらにも潜んでる。誰が連中と繋がってるのか分からない。もう誰にも頼れないんだ」
シュテファンはカウンターへ目を落とした。
「軍の装備品を横流しなんて、重罪中の重罪じゃないか」
ローアンは申し訳なさそうにシュテファンを見つめた。
「分かってる。だけど、このままむざむざ殺されるなんてまっぴらなんだ」
少し間を置いた。
「シュテファン。頼むよ」
シュテファンはしばらく黙っていたが、やがて大きく息を吐いた。
「はあ……いくら俺でも、あんたの頼みを無下にはできないよな」
椅子へ深く腰を沈め、腕を組む。
「現用の装備は無理だな。数が合わなくなれば、すぐに問題になる。ただ、更新で余った物や廃棄処分を待ってるやつならいくらかある。訓練用へ回されたのも含めれば、俺の裁量でどうにかできるかもしれん」
シュテファンは顎髭を撫でた。
「必要な物を言ってみろ。出せる物があるか考えてやる」
「小銃が二挺。手榴弾、カーテナ地雷。それから、ケタミン(解離性麻酔薬)が欲しい」
シュテファンの目がわずかに細くなった。
「……麻酔薬か。生け捕りにする気だな」
ローアンは答えず、そのまま話を続けた。
「小銃はG四がいい。ヴェルナーは兵役時代に扱っている」
「G四か……」
シュテファンは少し考えた。
「それなら、もっと面白いものがある」
周囲に聞かれていないか確かめてから、声を潜めた。
「KR(コッホマン&リッター)三三SD。新型だぞ。操作系はG四を踏襲しているから、あんたの連れでも問題なく扱える」
ヴェルナーへ軽く目配せする。
「口径は西側の五・五六ミリ。専用の消音器を標準で備えている」
「それは現用じゃないのか? あんたが今持ち出せないと言ったばかりじゃないか」
ヴェルナーが尋ねると、シュテファンは口の端を上げ、含みのある笑みを浮かべた。
「あれはまだ正式採用されてない。評価用として俺の管理下に置いてるんだ。訓練へ回したことにして持ち出したってバレやしない……できれば返して欲しいがな」
「戦闘になれば、持ち帰れるとは限らないぞ」
「まあ、その時はその時で、破損したとか何とか言って、誤魔化すさ」
シュテファンは念を押すようにローアンを見つめた。
「ただ、敵にだけは渡すなよ。よし、二挺なら何とかしてみせる」
シュテファンは話を切り替えた。
「弾薬はどれくらい必要だ?」
「亜音速弾を二千発」
「戦争でも始める気か」
「どれほどの戦いになるか分からないからな。足りないよりはいいだろ?」
シュテファンは眉間に皺を寄せた。
「ちょっとは調達する側の気持ちにもなってくれよ」
シュテファンは額を指で押さえ、気を取り直すように顔を上げた。
「それで、手榴弾は?」
「破片手榴弾。DM四二がいい。それから催涙ガス手榴弾。手に入るなら、小型の破片手榴弾も欲しい」
ローアンは少し考えてから付け加えた。
「それと、殺さずに相手の目と耳を一時的に潰せるものがあれば、それも頼む」
シュテファンはその意味を察したらしく、何も聞かなかった。
ローアンはポケットから折り畳んだ紙片を取り出した。
「まだある。銃剣、冬季迷彩服、装備用サスペンダー、レインポンチョ、CIDGリュックサック、ジャングル・ブーツ。偵察用レーションを二ケース。粉末状のエリクシエル剤と、包帯、消毒薬、鎮痛剤。短距離無線機を二台。無線の中継装置。それから、張線式侵入検知器」
ローアンは紙片を下へずらした。
「震動検知器も欲しい。離れた場所から反応を確認できるものを、できるだけ多く」
シュテファンは呆れたように紙片を見た。
「随分な量だな」
「全部必要なんだ」
シュテファンは両手を頭の後ろで組み、椅子にもたれて天井を仰いだ。
「カーテナや手榴弾は、訓練用に回された物が残っていた気がするな。無線機とセンサーも余剰品が残ってるかもしれん。服や靴、食料まで基地から持ち出す必要はないだろう」
シュテファンは紙片の下から覗いていた、もう一枚の紙に気づいた。
「そっちは?」
「ああ、こっちはもう買ってきたんだ」
ローアンが二枚目を渡す。
シュテファンはそこに書かれた物を読み上げた。
「発光器、電源装置、電線、モーター、タイマー……」
シュテファンの目が、その先で止まった。
「……マネキン?」
「ああ」
「マネキンなんて何に使うんだ?」
「ちょっとしたトリックにさ」
ローアンは紙を受け取り、折り畳んだ。
シュテファンは顎に手を当て、しばらく考えた。
「医薬品も大半は外で揃えられる。ケタミンだけは少し面倒だがな……ほかにも員数外で使えそうな装備があれば、こっちで見繕っておくか」
「その分の金は用意してある」
ローアンがポケットへ手を伸ばしかけると、シュテファンが制した。
「店で買える物くらいは俺に払わせろよ。軍の物を売るつもりはないが、衣服や食い物なら話は別だ」
「そこまで世話になったら悪いよ」
「これは俺のためでもあるんだ」
シュテファンの声が少し強くなった。
「五年前、ランサンであんたが俺を逃がしてくれなかったら俺は女房にも子供にも会えなかった。ずっと返せなかった借りを、ようやく返せるんだ。ここで金を受け取ったら、俺の気が済まん」
シュテファンは腕時計を確認した。
「正規に手に入る物は、これから馴染みの放出品店を回って揃える。そのあと一旦別れよう。基地から出す物は、倉庫を当たって帳尻をつけるのに数時間はかかる」
少し声を落とした。
「今夜二十三時。放出品店の裏へ来い。それまでに、用意できるだけ用意しておく」
◆
ゴルドブルンの街には夜霧が出ていた。
街外れの放出品店、その裏手にある錆びた鉄扉の前で、レンツェへ荷物が次々と積み込まれていく。
樹脂製ケースに収められた自動小銃、いくつもの弾薬箱、カーテナ地雷を詰めた木箱。トランクだけでは収まりきらず、後部座席にも木箱や装具が積まれていった。
裏通りには軍用オイルの匂いが漂っていた。荷物を運ぶたび、装具の擦れる音がする。
最後にDM四二破片手榴弾のケースを後部座席の足元へ押し込むと、ローアンは後部ドアを閉め、続いてトランクをバタンと閉じた。
「……これで全部だ」
シュテファン・ラムブレヒトは、白い息を吐きながら、ローアンの前に立った。
彼は年季の入ったレザージャケットのポケットから、一本の小さな真鍮の鍵と、手書きの印がつけられた等高線図を取り出した。
「二年前、ディンメルの山中に狩猟用の丸太小屋を買ったんだ。地図のこの場所だ。周囲には何もない。……あんたたちが身を隠し、敵を迎え撃つには最適な場所だろう」
ローアンは鍵と地図を受け取った。地図が手の中でかさりと鳴った。
「恩に着る、シュテファン」
「礼なんていい。……それより、ローアン」
ドワーフの旧友は一歩前へ出ると、ローアンを真っ直ぐ見た。
その顔つきは、ヴェスラムにいた頃のものに戻っていた。
「……本当に、いいのか? 俺だってまだ衰えちゃいない。グリューネ・バレッテの誇りは、デスクワークごときで消えはしないんだ。俺も、一緒に行こう」
あの時、自分だけが無事に帰還した。そのことを、シュテファンは今も引きずっているのだろう。
ローアンの口元が、ほんの少し緩んだ。
「だめだ、シュテファン。……軍の物資をこれだけ横流しした上に、もしあんたに何かあったら、奥さんに合わせる顔がないよ」
彼女はシュテファンの肩に、そっと手を置いた。
「あんたには、守るべき家族がある。……カトリンによろしくな。あんたが生き延びて、彼女の元へ帰れたのは、私の誇りなんだ」
シュテファンは何か言い返しかけたが、やめた。
「……違いないな」
苦笑して、肩をすくめた。
「まったくだ。俺が死んだら、誰が女房に小言を言われる役を引き受けるんだって話だ」
ローアンは頷くと、助手席へ乗り込んだ。ドアを閉め、運転席のヴェルナーを促す。
ヴェルナーがキーを回すと、エンジンがかかった。
「行けよ、ローアン」
レンツェがゆっくりと動き出す。
シュテファンはその場に立ったまま、右手を上げた。
「……死ぬなよ! 豊穣の大地の御加護を! 生きて、また『古井戸亭』で飲み明かそうじゃないか!」
シュテファンの声が遠ざかっていった。
車はそのまま速度を上げ、ゴルドブルンの街を後にした。
ルームミラーに映っていたシュテファンの姿は次第に小さくなり、やがて見えなくなった。
(「新たな護符」に続く)