※この作品はR-18です。

二匹だけの軍隊   作:S文字

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新たな護符

 白いバンが暗い山道を走っていた。

 

 未舗装路に入ってから、車体は頻繁に揺れた。乗り心地はかなり悪い。

 

 その後部座席では、セルゲイ・マルコフ軍曹が銃を膝の上に乗せて座っている。

 

 それなりに年を重ねているのか、短く刈った金髪には白いものが混じり始めていた。

 

 彼の周囲には、同じ使命を帯びた十一人の兵士が黙って身を寄せている。

 

 第四八二独立特殊任務中隊。

 

 在東アスカニア・ロヴァルナ連邦軍が、空軍基地の最奥に秘匿駐留させているスペツナズ(ロヴァルナ語で特殊任務部隊)の内の一つである。

 

 第三次星欧大戦の勃発に備え、敵後方における特殊偵察や重要拠点への攻撃を遂行するために組織された。

 

 スペツナズには、その正体を秘匿するため、軍管区ごとに異なる呼称が与えられている。

 

 アスカニア駐在の部隊は、軍内部では「レイドヴィキ」、すなわち「襲撃隊」と呼ばれている。

 

 レイドヴィキは編制上、正規軍に属しているが、オルクセン国内において犯罪組織を隠れ蓑に、破壊工作や暗殺を行う非公然部隊として活動していた。

 

 その中隊隷下の第一特殊偵察グループに所属するマルコフたちは今、ロヴァルナ連邦が長年かけて築いてきたオルクセン国内の工作網を守るための「掃除」に動員されていた。

 

 浸透工作の存在を察知した二名の魔種族の排除である。

 

 当初は現地に潜伏するKGBの工作員が試みたものの、返り討ちに遭ったという。もはや工作員の手に負える相手ではないと判断した党上層部は、GRU(参謀本部情報総局)の直轄部隊に対処を命じた。

 

 そこで、マルコフたちに白羽の矢が立ったというわけだった。

 

 だが、マルコフの心境は晴れなかった。

 

 今回の標的の一人が、並の相手ではないことが気にかかっていた。

 

 白エルフ族、ローアン・イヴェットの経歴に目を通して驚愕した。彼女はオルクセン連邦軍の特殊部隊出身であり、あの泥沼のヴェスラム戦争を戦い抜いた、正真正銘の実戦経験者だ。

 

「……また難しい顔をしているな、軍曹。まだ気にしているのか?」

 

 対面に座るアレクセイ・ズヴェレフ中尉が声をかけてきた。

 

 短く整えた黒髪に細い顔立ちをしている。まだ二十代半ばだが、その態度には若さとは不釣り合いなほどの自信があった。

 

 ルイコフ高等空挺指揮学校を卒業したばかりにもかかわらず。

 

 もっとも、その卒業は本人の実力だけで辿り着いたのかと聞かれれば、マルコフは首を縦には振らない。

 

 ズヴェレフの父親はKGBの将軍だった。

 

 入学から卒業、その後のスペツナズ配属まで、何かと便宜を図ってもらったという話は中隊の中でも知られている。

 

「簡単な任務だ。薄汚い獣を二匹、予定通りに片付ける。それだけだろ?」

 

 マルコフはすかさず反論する。

 

「同志中尉、相手はただの獣ではありません。片方のオークは四年間の兵役だけで、さほどの脅威ではないかもしれませんが、もう一人のエルフは別です。ランサンやカンプチェトラで六年以上、特殊偵察に従事していた。彼女が戦っていたのは、今の我々が演習で想定している以上の地獄です」

 

 ズヴェレフは鼻で笑い、腰のホルスターを軽く叩いた。

 

「ヴェスラム人など、党の教義さえ理解できん野蛮人の集まりだ。そんな連中を相手に何年過ごそうと、大した経験にはならんよ」

 

(……これで将校か。軍人の風上にも置けない)

 

 マルコフは内心で毒づき、荷室の前寄りに座るアルマズ・アサノフ二等兵へ目を向けた。

 

 ズヴェレフに次ぐ不安要素だった。

 

 ロヴァルナ連邦中央道洋部の出身で、ロヴァルナ語もまだ拙い。個人戦闘訓練を一通り終え、部隊演習に参加している最中に今回の任務へ加えられた。実戦はこれが初めてだった。

 

 アサノフは小銃を両手で強く握りしめている。指先には力が入りすぎ、視線も落ち着かない。車体が大きく揺れるたびに肩を震わせ、周囲の隊員たちへ何度も目を向けていた。

 

 できることなら、もう少し部隊に慣れさせてから連れてきたかった。

 

 シャモヴォズ(傲慢わがまま上官)とケプカ(新兵)。

 

 よりによって、その二人を抱えて敵国の山中へ入らなければならない。

 

 しかも、不安なのはその二人だけではなかった。

 

 マルコフは他の隊員たちを見回した。

 

 彼らも、実戦経験があると言っていいのか怪しい。

 

 これまで彼らが国内で「掃除」してきた魔種族は、所詮、犯罪組織の構成員や素人に毛の生えたような連中だった。

 

 そんなヤクザどもを相手にした戦闘など、マルコフにしてみればぬるま湯のようなものだった。

 

 その中で唯一、頼りにできるのがドミトリー・ゾーリン伍長だった。

 

 少し離れたところに座るゾーリンへ目をやる。

 

 太い首に広い肩をした大柄な男だった。

 

 瞑想にでも耽っているのだろうか、小銃を膝の間に立てたまま目を閉じている。

 

 マルコフは彼と共に数々の秘密作戦を生き残ってきた。

 

 今回の任務で安心材料と呼べるのは、ゾーリンがそばにいることくらいだった。

 

 それだけに、一つ腑に落ちないことがある。

 

 なぜ党は、数あるレイドヴィキチームの中から、まだ部隊として十分に仕上がっていない自分たちを選んだのか。

 

 その理由として思い当たるのは、今回の作戦地域だった。

 

 険しい山岳地帯に、鬱蒼と広がる森林。

 

 レイドヴィキは、オルクセン国内の犯罪組織が拠点を置く港湾地区や市街地での作戦を主に想定して編成されている。

 

 隊員たちは一通り森林戦の訓練を受けているが、実戦で経験した者は少なく、部隊としても習熟しているとは言い難い。

 

 その中で、マルコフとゾーリンだけは違った。

 

 三年前、アフェリカ大陸で起きたアンガラ内戦で、二人は同じ班に所属し、何度もジャングルの中で作戦に参加している。

 

 おそらく、それを買われたのだろう。

 

 マルコフが考えに耽っていた時、バンの助手席に座っていた現地協力員が後部との仕切り窓を叩いた。目的地が近いのだ。

 

 ズヴェレフは居住まいを正し、隊員たちに呼びかけた。

 

「同志諸君、まもなく作戦区域に到着する。現地工作員と合流後、直ちに作戦準備に入る。緊張するなよ。簡単な仕事だ」

 

 車がゆっくりと停止し、サイドブレーキの引かれる音が聞こえた。

 

 観音開きの後部ドアが外側から開けられる。夜の冷気が一気に流れ込み、汗ばんだ隊員たちの肌に冷んやりと染み込んだ。

 

 イリヤ・ヴォルコフ伍長を先頭に、男たちは次々と車外へ降り立ち、周囲の警戒に散った。

 

 彼らの視線の先、木々の影に紛れるようにして、一人のオークが立っていた。

 

 現地工作員、暗号名『ペペル』

 

 オーク族にしては痩せた牡だった。深く被った帽子の下には、ひどく疲れた顔が見える。頬はこけ、目にもほとんど力がなかった。

 

 ズヴェレフ中尉が歩み寄り、習いたての低地オルク語で問いかけた。

 

「昨日の火は消えたか?」

 

 ペペルは、視線を動かさずに、掠れた声で答えた。

 

「……灰の中には、まだ熱がある」

 

 ズヴェレフは傲岸な態度を隠そうともせず、本題に入る。

 

「目標は?」

 

 ペペルは、背後に広がる暗い山地を指差した。

 

「二人は四日前、この先の山地に入った。」

 

 ズヴェレフは眉をひそめた。

 

「なぜ追わなかった。道中で始末できたのではないか」

 

「あんたらをお出迎えしなきゃならなかったんでね。……もっとも、俺一人で十分なんだがな。無駄に大荷物を連れてきやがって」

 

 その言葉に、ズヴェレフの顔が険しくなった。

 

「党は貴様のような家畜にこの任務は荷が重すぎると判断したのだ。大人しく我々の手伝いをしろ」

 

 ペペルがゆっくりと顔を上げた。

 

 さっきまで虚ろだった目が、今はまっすぐズヴェレフを見ている。

 

 一瞬、空気が凍りついた。マルコフは反射的に銃の安全装置に指をかけた。

 

「……睨むなよ、冗談だ。協力に感謝するよ」

 

 ズヴェレフは気圧されたことを誤魔化すように、肩をすくめて笑うと隊員たちを振り返った。

 

「装備を点検しろ。地形の確認も済ませておけ。その後はここで待機する。暗闇の中、勝手の分からない山へ入る必要はない」

 

 そして付け加えた。

 

「さて、同志諸君。夜が明けたら、魔女狩りだ」

 

 マルコフは山の方を見た。

 

 暗いが、稜線がかろうじて見える。風が吹くたび、木々がざわざわと音を立てていた。

 

 

 ◆

 

 

 ゴルドブルン市から南へ行くと、ディンメル山地がある。

 

 ディンメルと聞けば、この土地に暮らす者なら誰しも、かつて連邦が王国だった時代を思い起こす。

 

 石炭の豊かな埋蔵によって、王政期における産業革命を支えたからだ。

 

 昔は、この辺りのあちこちで石炭を掘っていた。今ではほとんどが閉山し、山中には古い坑口や使われなくなった施設が残っているだけだが……

 

 そもそも、この土地で石炭を掘り始めたきっかけは、実はロザリンド会戦であった。

 

 エルフィンドによる迫害でドワーフたちは国を失い、オルクセンへ逃れてきた。

 

 彼らのうち、ディンメルに移り住んだ者たちが、石炭層を見つけたのだ。

 

 何もなかった山間の街は急速に発展し、鉱夫たちで賑わった。ヴィッセンほど多くの石炭は採れなかったが、ディンメルから出た石炭は確かにこの国の繁栄に貢献したのだ。

 

 山地の中央にはツヴァイリヒト山が聳え立っている。

 

 山では、霧の中に差し込んだ光によって、登山者の影が大きく映し出されることがある。「ツヴァイリヒト現象」と呼ばれるもので、昔の人々はそれを魔女の仕業だと考えていた。

 

 そう、ディンメルには魔女が出るという伝説がある。

 

 年に一度、エルフの魔女が山へ集まって宴を開き、攫った子供を儀式の贄とする。

 

 グライフェンシュタインの『黒き書:ユールハルト伝』は、この伝承を題材にしたものだ。

 

「悪さをすれば、魔女が迎えに来るよ」

 

 子供を叱る時に、そんな言葉を使う母親もいた。

 

 ローアンが監視拠点を置いたのは、ツヴァイリヒト山から南東へ伸びる稜線の、頂上から少し下がった斜面だった。

 

 稜線の上まで出れば、空を背景に姿が浮かんでしまうが、ここならその心配もない。

 

 そのうえ、登山道からも古い炭鉱道からも離れており、周囲は傾斜がきつい。左右には膝まで埋まるほどの藪が広がっていた。

 

 わざわざこんな場所まで入ってくる者は、まずいないだろう。

 

 拠点には迷彩布を掛け、その上から周囲の草や枝を被せてある。

 

 正面の斜面を下った先には、谷あいの開けた土地があり、その端にシュテファンの狩猟小屋が建っていた。小屋の隣には、ここまで乗ってきたレンツェが停めてある。

 

 拠点からは、小屋とその周囲を見張ることができた。

 

 もちろん、それだけを頼りにしているわけではない。

 

 ローアンは山中のあちこちに振動検知器を埋めていた。

 

 尾根の鞍部や支谷の合流点、傾斜の緩い斜面。谷筋や山腹にも間隔を空けて仕掛けてある。

 

 狩猟小屋を目指す者なら、途中でいくつもの検知器の範囲を通るよう配置されていた。

 

 これだけの数の検知器を持ち出したことを必死に誤魔化す、シュテファンの姿が眼に浮かぶ。

 

 ここで疑問が浮かぶ。

 

 振動をつかむのなら、獣や登山客との区別がつかないのではないだろうか?

 

 それは問題なかった。

 

 この検知器は優れもので、四足歩行や落石による振動はある程度除外され、二足歩行により生じた振動を優先して拾うようになっていた。

 

 おまけに、ここら一帯は一般の登山道から離れているので、何も知らない登山客に反応する可能性は低いだろう。

 

 侵入者が検知器の周囲三十メートル圏内を歩けば、山中の中継器を経由して拠点の受信機へ無線信号を送る。

 

 受信機に点灯した番号を見ればどの検知器が反応したかが分かり、どの順番で反応したかを考えれば、そいつがどこへ向かっているのか、おおよその見当をつけることができるようになっていた。

 

 さらに、万一、敵に拠点の位置を知られた場合に備えて、拠点の周囲には複数のカーテナ地雷が仕掛けられていた。

 

 接近する者が仕掛け線に触れれば作動する。起爆系統は拠点内部にも繋がれており、必要なら手動で爆発させることもできた。

 

 拠点の内部は、頭上を迷彩布で覆われ、朝になっても仄暗い。霧と夜露を吸った布からは、水滴が絶えず落ちていた。

 

 その中心では、地面を深く掘った火床の底で小さな炎が揺れている。少し離れた場所に設けた吸気口とは地下で繋がっており、そこから空気を取り込んでいた。炎は地表から見えにくく、普通に火を焚くより煙も少ない。

 

 火床の上には二つのキャンティーンカップが並べられていた。湯が沸き始めると、金属の底がカタカタと鳴った。

 

 二人は、オルクセン軍の冬季森林迷彩服を着ていた。顔には黒と茶のドーランがべったりと塗りたくられている。

 

 ヴェルナーは、監視所を覆う迷彩布に設けられた小さな覗き口越しに双眼鏡を構え、木々の向こうにあるシュテファンの狩猟小屋を見張っていた。

 

 その隣では、ローアンが偵察用レーションの包みを開けている。

 

 ヴェルナーは双眼鏡から目を離し、ローアンの方を見た。

 

 ローアンの銀髪は短く切られ、その上からバンダナで頭を覆っていた。森の中では目立ちすぎる明るい髪色を隠すためなのだろう。

 

 ヴェルナーは、その姿を見ながらふと思った。

 

 ヴェスラムにいた頃も、このような姿で、戦場を歩いていたのかもしれない。

 

「……なぁ、ローアン」

 

「小屋から目を離すな」

 

 顔を上げることもなく言われ、ヴェルナーは双眼鏡を覗き直した。

 

「ちゃんと見てる」

 

「そのまま続けろ」

 

 ローアンはキャンティーンカップを火床から下ろし、自分とヴェルナーのレーションの袋へ順番に湯を注いだ。

 

 残った湯でコーヒーを淹れると、火床へ土を被せた。小さな炎はすぐに消えた。

 

 ヴェルナーは小屋を見張ったまま、思い切って口を開いた。

 

「……さっきから考えていたんだが。なぜあんたの軍歴は、どこを調べても一切出てこないんだ。警察の記録にも、軍の公式名簿にもだ。まるで最初から存在していなかったみたいに」

 

 ローアンはすぐには答えなかった。

 

 袋の口を少し広げ、中身をかき混ぜる。フリーズドライ製法のアイントプフだ。湯を含んだ乾燥野菜と肉が、じわじわと本来の形を取り戻していく。

 

「オルクセンが秘密戦を行ったという証拠を、残すわけにはいかないからだ。特殊部隊員の軍歴は、捕虜になった時点で抹消される」

 

 一口食べてから続けた。

 

「入隊した記録も、どこの部隊にいたかも、いつ転属したかも消される。受けた殊勲も、給与の記録もだ。最初から、そんな軍人はいなかったことにするんだ」

 

 国家が存続するためなら、自分が消されることも構わないと言っているようだった。

 

 ヴェルナーには、どうしても納得できなかった。

 

 刑事ゆえの正義感か。それとも、国家に反発していた頃の名残なのかもしれない。

 

 ローアンは残っていたアイントプフを食べ終えると、空になった袋を折り畳んだ。

 

「代わるよ。あんたの分もできてる。コーヒーも淹れてあるから、冷めないうちに飲みなよ」

 

 ヴェルナーは双眼鏡を渡し、監視位置を譲った。

 

 ローアンは覗き口の前に収まると、すぐに狩猟小屋の監視を始めた。

 

 ヴェルナーは温かいレーションの袋を拾い上げると、覗き口から少し離れたところへ腰を下ろした。

 

 スプーンを手に取り、スープを掬って、一口食べる。

 

 野菜は少し柔らかすぎたが、塩気の強いスープは冷えた身体には悪くなかった。肉も思ったより入っている。

 

 続けてコーヒーの入ったキャンティーンカップを手に取った。

 

 ここ数日、何度か彼女の淹れるコーヒーを飲んでいたが、ヴェルナーには少し濃い。

 

「……なぜだ」

 

 ヴェルナーはカップを手にしたまま尋ねた。

 

「なぜ、そこまで国を庇う?」

 

 返事はなかった。

 

「あんたは白エルフだろう。オルクセンはエルフィンドを併合した。あんたたちの故郷を奪った国なんだぞ」

 

 ローアンの耳が、ほんのわずかに動いた。

 

「それなのに、どうしてそこまでしてオルクセンのために犠牲になれるんだ」

 

 彼女は鼻を指で擦ると答えた。

 

「……あんたも、私をエルフィンドの民だと思ってるんだな」

 

 低い声だった。

 

 明らかに気を悪くしているようだった。

 

「エルフィンドに誇りを持っているんじゃないのか?」

 

「私は、そんな国知らない」

 

 ローアンの視線が谷の斜面をゆっくりと移っていく。

 

「生まれた頃には、もうオルクセンだった」

 

 少し間を置く。

 

「それに、私は同じ白エルフたちから拒絶された」

 

 片手を胸元へやり、迷彩服を少し開いた。

 

 エルフ族なら肌身離さず首から下げているはずの護符は、そこにはなかった。

 

「幼い頃、村の外から来た奴らに攫われたんだ」

 

 ヴェルナーはカップを口へ運びかけた手を止めた。

 

「同じ白エルフなのに、私を人間族に売り渡そうとしたんだ」

 

 ローアンの声は淡々としていた。

 

「連中は、最初に護符を奪った」

 

「なぜそんなことを?」

 

「身元につながる物を残したくなかったんだろう。それに」

 

 ローアンの指先が、胸元を一度なぞった。

 

「護符を奪って、それでも生きていられる子供だけを残すためだ。すぐ失輝死する奴は、商品にならないからな」

 

 ヴェルナーは眉を寄せた。

 

「護符をむしり取られた時、目の前が真っ暗になった。底のない穴をどこまでも落ちていくような感じがして、このまま死ぬんだと思った」

 

 胸元に触れていた指先が止まった。

 

「でも、死にたくなかった。何があっても生きてやるって、こんなところで死んでたまるかって。他の子供たちは死んでいった。でも、私は生き残った」

 

 言葉が一度途切れた。

 

「しばらくして警察が踏み込んできた。助けられたが、護符は見つからなかった。捨てられたのか、壊されたのかも分からない」

 

 ローアンは胸元から手を離し、迷彩服を閉じた。

 

「村には戻れたよ。だが、元通りにはならなかった」

 

 護符のない白エルフ。

 

 白銀樹との繋がりを失った者。

 

 人買いのもとで何をされたのか分からない。不浄なものを持ち帰ったのではないか。いつ失輝死を起こすか分からない。

 

 そんな言葉が、少しずつ彼女の周囲に積み重なっていった。

 

「大人は可哀想な子だと言った。だが、自分の家に置こうとする者はいなかった」

 

 ローアンは鼻で笑った。

 

「子供はもっと正直だったよ」

 

 昔呼ばれていた名を、淡々と並べる。

 

「護符なし。光なし。人買いの子。白銀樹に見捨てられた化け物」

 

 迷彩布から落ちた水滴が、地面に小さな染みを作った。

 

「あの頃は、誰のことも信用できなかった。こいつらも私を売るんじゃないかって、ずっと思ってた」

 

 ヴェルナーは何も言えず、カップを握ったまま黙っていた。

 

「ある時、同級生に大怪我をさせた。あいつが先に仕掛けてきたんだ。だが、それで村を離れることになった」

 

 都会の施設なら専門の世話を受けられる。村より良い教育も受けられる。

 

 そう説明され、ローアンは村を出された。

 

「まあ、体よく厄介者を追い出したと言うわけさ」

 

 施設へ移ってからも、生活が落ち着いたわけではなかった。

 

 喧嘩は絶えなかった。何度か警察の世話にもなり、そのうち暴力沙汰を起こして留置場へ入れられた。

 

「その時に、少佐と会った」

 

 ある日、留置場に一人の軍人がやってきた。

 

 緑色のベレーを被り、ぱりっとしたトゥーフロックを着て、磨き上げられた空挺ブーツを履いていた。

 

 彼女はダークエルフだった。

 

 白エルフ族とダークエルフ族の間には、百年前の虐殺以来、今でも深い溝が残っている。白エルフを露骨に嫌うダークエルフも珍しくなかった。

 

 だが、その女はローアンを見ると、穏やかに笑った。

 

「最初は何か企んでると思ったよ」

 

 その日のうちに、ローアンは留置場から出された。

 

 何をどうしたのかは知らない。ただ、少佐が一言口を利いただけで、話は決まったらしい。

 

「その後、毎日のように私を訪ねて来た。頼んでもいないのにな」

 

 ローアンは最初、まともに相手をしなかった。話しかけられても無視し、何を聞かれてもろくに答えなかった。

 

 それでも、少佐はやって来た。

 

 そして、たわいのない話をしだした。

 

 その日の天気や、街で見かけたもの、新聞の記事、食べ物の話。

 

 ローアンもそのうち口を開くようになった。施設であったことを話し、気に入らない相手の悪口を言い、昨日食べたものの話をした。

 

 少佐は、そんな話でもちゃんと聞いていた。

 

 やがて彼女は、ローアンが知らないことをいろいろ教えるようになった。

 

 他者と話す時の振る舞い。新聞の読み方。歴史や政治。学校でろくに身につけられなかった勉強。

 

 本を渡されることもあった。

 

「最初は面倒だったよ。そんなこと知らなくても生きていけると思ってたからな」

 

 だが、分かることが増えてくると、少しずつ面白くなった。

 

 新聞を読んで分からないことがあれば自分から聞いた。渡された本も、次第に言われる前に読み終えるようになった。

 

 少佐は時々、ローアンを街へ連れ出した。

 

 一緒に食事をしたり、映画を見たりした。

 

 ローアンにとっては、どれもそれまでほとんど経験したことのないものだった。

 

「少佐のことは……そうだな、あんたらの言う『親』に近く思っていたのかもな」

 

 その言葉だけは、少し言いにくそうだった。

 

 今まで、それほど自分のために時間を使い、いろいろなことを教えてくれた者はいなかったのだろう。

 

 その女を親のように思ったのも無理はない、とヴェルナーは思った。

 

「ある時、彼女は言ったんだ。誰かから必要とされる仕事に就いてみないかって」

 

 それが軍隊だった。

 

「それで、入隊したんだ」

 

 ローアンは照れ臭そうに笑った。

 

「まあ、最初はあの緑のベレーと、ぴかぴかのブーツが格好よく見えただけなんだけどな」

 

 軍に入ってから、ローアンは初めて自分の居場所を見つけた。

 

 そこでは護符があるかどうかなど、誰も気にしなかった。

 

 同じ制服を着て、首から認識票を下げていれば、それでよかった。

 

 教えられたことは何でも覚えた。武器の扱いも、地図の読み方も、軍人として必要な知識は全て身につけた。

 

 訓練はきつかったが、最後までやり遂げて少佐に褒められると、それまでの疲れなどどうでもよくなった。

 

 空挺降下課程を修了し、特殊部隊の選抜にも合格した。

 

 そして、ついに少佐と同じ緑のベレーを手に入れた。

 

「嬉しかったよ。最初に少佐を見た時から、ずっと欲しかった。でも、あの時は、彼女と同じものを被れたことの方が嬉しかったのかもしれない」

 

 ローアンは迷彩服の胸ポケットへ手を入れ、小さな布切れを取り出した。

 

 色褪せ、端のほつれたオルクセンの国旗章だった。

 

 掌に載せ、ヴェルナーの方へ差し出す。

 

「私にとっては、これが護符だったんだ」

 

 ローアンは親指で、布章のほつれた端をなぞった。

 

「軍にいた頃の物で、今も残ってるのはこれだけだな」

 

 自嘲気味に笑った。

 

 それを失えば、再び、何者でもない護符のない子供へ戻ってしまう。

 

 ローアンは、どこかでそう恐れているのではないだろうか。

 

 彼女は、しばらく眺めたあと、傷めないように布章を折り、内ポケットへ戻した。

 

「私はエルフィンドなんか知らない」

 

 少し間を置いた。

 

「私の祖国は、オルクセンだ」

 

 ヴェルナーは、最初に彼女と出会った時、その荒んだ風体から単なる社会の落伍者としか見られなかった自分が恥ずかしくなった。

 

 彼女は逆境の中から自分の居場所を見つけ、這い上がったのだ。

 

 少佐という理解者なしには成し遂げられなかったにしても、自分に同じ真似ができるとは思えなかった。

 

 しかし、そこで一つの疑問が浮かんだ。

 

 ヴェルナーはカップに残っていたコーヒーを飲み干した。

 

「……じゃあ、どうして道洋から還った後、浮浪者になったんだ?」

 

 空になったカップを脇へ置き、ローアンへ視線を向けた。

 

「あんた、軍籍を消されたと言ったな。だが、軍には仲間も、その少佐とやらもいたんだろう。誰かに助けを求めることはできなかったのか?」

 

 その端正な横顔がわずかにこわばった。唇を一度結ぶ。

 

「親しかった連中は、ほとんど死んだ。ヴェスラムから帰ってきた頃には、シュテファンくらいしか残ってなかった」

 

「だったら、そのシュテファンを頼れば――」

 

「会いたくなかった」

 

 ローアンはヴェルナーの言葉を遮った。

 

「あの頃の私は、おかしくなってた。酒ばかり飲んで、些細なことで怒鳴って、誰かと喧嘩して……そんな姿を、あいつには見せたくなかった」

 

 ローアンは小さく息を吐いた。

 

「……少佐を頼ったよ。どうにかしてくれると思った」

 

「それで?」

 

「何度か会った。だけど……そのうち、連絡が取れなくなった」

 

 ローアンはそこで口を閉ざした。

 

 ヴェルナーはしばらく待ったが、その先は続かなかった。

 

 胸の奥に込み上げてきたものを、とうとう抑えきれなくなった。

 

「見捨てられたんだ」

 

 ローアンの呼吸が一瞬止まった。

 

「存在を消したはずの軍人が帰ってきて、都合が悪くなったから、軍は放り出した。しかも心の傷が深く、もう以前のようには使えない。だから少佐も連絡を絶ったんだろ?」

 

 ヴェルナーはさらに続けた。

 

「それが、あんたが命を捧げた国の答えじゃないか」

 

 何か言い返そうとしたのか、ローアンの口がわずかに開いた。だが、言葉は出てこなかった。

 

 しばらくして、ようやく口を開いた。

 

「必要だったんだ……。捨てられたわけじゃない。軍は、少佐は、分かってくれていたはずだ」

 

 声がかすかに震えていた。

 

「わからないのか!?」

 

 思ったより強い声が出た。

 

「ここまでされて、それでもまだ庇うのか? どうして怒らないんだ!」

 

 ローアンは体を揺すり始めた。

 

 首を掻きむしる。

 

 それでも、双眼鏡から目を離すことはなかった。

 

「捨てられるなんて、そんなことはありえない。……でも、もし、捨てられたとしても、私はオルクセンを見捨てない」

 

 最後の言葉だけは、はっきりしていた。

 

 ヴェルナーにだって祖国への愛着はある。国家や権力に反発していた時期はあっても、オルクセンそのものを嫌っていたわけではない。

 

 ローアンの忠誠は、ヴェルナーの抱く愛国心とは違っていた。

 

 いくら少佐に恩義があり、軍に居場所を与えられたからといって、ここまで国に尽くせるものなのだろうか。

 

 少佐は、ローアンに何を教えたのだろう。

 

 国家のためなら、自分の過去も名誉も、何もかも消し去って構わないと思わせるようなものだったのか。それとも、自分には理解できない何かが、二人の間にはあったのか。

 

 これまでヴェルナーは、ローアンに惹かれていた。

 

 自分にはない、種族の壁をも超える彼女の強さに憧れていた。

 

 だからこそ、それほど強い彼女が、なぜ酒に溺れ、職にも就かず街を彷徨っていたのかが気になった。

 

 戦争中の話を聞いてからは、過去の記憶に苦しんでいたからではないかと思うようになった。

 

 今は事件を追っているから動けているだけで、すべてが終われば、また元の生活へ戻ってしまうかもしれない。

 

 何とかしてやれないかと、ずっと考えていた。

 

 だが、自分が捨てられたことすら認めない、認知が歪んだ相手に、何を言ったところで届くのだろう。

 

 しかも、仮にローアンが立ち直ったとして、その先に戻る場所があるのか。

 

 ペペルを捕らえ、ピサーリの正体を暴いたところで、消された軍歴が戻るわけではない。

 

 ローアンは、永世中立を掲げるオルクセンが秘密裏に異国の戦争へ関与していたことを知る、生きた証拠である。

 

 そのような者が注目を浴びることを、国は良しとしないだろう。

 

 下手をすれば、今度は殺されるかもしれない。

 

 それでもローアンは、必要なことだったと言って受け入れるのだろうか。

 

 考えるほど、腹立たしかった。

 

 何を言っても、彼女は都合の悪い現実には目を向けようとしない。

 

 だが、そんな相手に腹を立てていることさえ、次第に馬鹿らしくなってきた。

 

 もう、いいんじゃないか。

 

 この事件が終わるまでは付き合う。ここまで来た以上、それは最後までやるつもりだった。

 

 だが、それが済んだら、彼女とは距離を置こう。

 

 ローアンは強い。自分がそばにいなくても、生きていける。

 

 何を信じるかも、どう生きるかも、本人が決めればいい。

 

 自分まで、そのすべてを背負う必要はない。

 

 そう考えると、少しだけ気が楽になった。

 

 その時、耳につけたイヤホンから短い電子音が鳴った。

 

 狩猟小屋から北へ離れた支谷に仕掛けておいた振動検知器が反応している。

 

 侵入者の足取りを示す信号だ。

 

 ヴェルナーがその事を口にするよりも、ローアンの動きの方が早かった。

 

 彼女は傍らにあった小銃を手に取ると、ヴェルナーを一瞥することさえせず、陣地を出ていった。

 




(「狩られる者」に続く)
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