1話 平穏に堕ちる影
繁栄と堕落を繰り返すたび、孕む闇を深めていく享楽の巨大都市、突如として顕れた妖魔の進撃によって崩壊した、日本の元首都 トーキョー。
人間によって作られた街並みは荒れ果て、街のあちこちに触手と思われる肉がこびりついている。
高層ビルの壁面には爪痕が走り、地下鉄の入口からは黒い瘴気が漏れている。
誰が最初にそう呼んだのかは分からない。
だが、崩壊したトーキョーを見た者たちは、自然とその名を口にするようになった。
魔胎都市と。
無論、人類がただ黙って滅びを待っていたわけではない。
退魔省。
退魔庁。
円城家、神守家、二条家、荒神家といった日本の退魔名家。
教会直属の実働退魔組織、イバラの姉妹。
民間退魔師、在野の術者、フリーの退魔師。
人の世の裏に生きてきた者たちは、表舞台へ引きずり出されるようにして、この魔胎都市へ集められた。
そして、多くの退魔師の犠牲を払い、遂にそれは成し遂げられた。
1人の退魔師が妖魔の母である魔胎神を討伐したのだ。
霧月姫丸。
退魔庁へ出向していた、退魔師の少女。
長いピンク色の髪を揺らし、赤いマフラーをなびかせる少女めいた姿の女。
だが、その見た目に反して、彼女の戦闘能力は規格外だった。
霧月の里において、義務教育が終わる前に奥義を極めた天才は、対人戦闘において敗北を知らず、忍刀、隠形、奇襲、急所攻撃のすべてを高い次元で扱っていた。
ただ、彼女には難点があった。
性格が恐ろしく悪いのだ。
いや、正確に言えば悪人ではない。
助けを求める者を見捨てるほど冷酷ではなく、任務を放棄するほど無責任でもない。
金さえ払われれば仕事はするし、一度引き受けた任務なら最後までやる。
ひたすらに傲慢だった。
自尊心が高く、自信過剰で、クソがつくほど生意気。
格下と見れば舐め腐り、格上と聞けば鼻で笑い、どれほど危険な任務であっても、最後に自分が立っていれば勝ちだと本気で考えていた。
彼女が退魔師をしているのも、世界を救いたいから等という崇高な理由ではない。
お金が欲しいから。
以上。
どれほど凄惨な戦いを体験しようが、任務中に不覚を取って屈辱的な目に遭おうが、最終的に生きて帰り、お金を貰えば勝ちなのだ。
そして、好きな物を根こそぎ買い尽くす。
それが霧月姫丸という女なのだ。
そして、彼女は最強の妖魔である魔胎神に勝利したのだ。
母なる魔胎神を失った妖魔は統率を失い、他の退魔師たちによって狩られていった。
それが1年前の話である。
現在は、妖魔の残党は世界各地に逃げ回り、退魔庁や名家、教会勢力による掃討作戦によって、少しずつ数を減らしている。
魔胎都市と呼ばれるトーキョーもまた、人間たちの涙ぐましい努力によって、徐々に以前のような活気あるトーキョーに戻りつつあった。
しかし……その裏で、1つの影が落ちていたことを、退魔省は知ったのだ。
「なんの冗談だ?」
デスクに並べられた報告書を見た退魔省の高官はそう呟く。
冗談であってほしかった内容がその報告書に記載されていた。
早急に手をうたねば、今度こそ世界は終わりへと向かうだろう。
高官は立ち上がり、目の前に青ざめた表情で立ち尽くす部下に命令をする。
「直ぐにその者を探し出せ! さもなくば……」
その後の言葉が出なかった。
言いたくなかった。
言ってしまえば、それが現実になると思ってしまったからだ。
あと1年で魔胎神が、更に強力な力を得て復活する。
その絶望的な現実に。
─3日後の夜─
一方、魔胎神を倒し、多額の報酬金を得て悠々自適な生活を送っていた姫丸は……。
「お金がないんだけどーー!!」
自室の床に散らばった領収書と通販の明細を前に、愕然としていた。
30億円という学生が持つには勿体なさすぎる大金を手にした姫丸は豪遊に豪遊を重ねた。
高級ブランドの服、限定品の靴、予約困難なスイーツの取り寄せ、ゲーム機、最新の美容機器、ワカヤマにある高級旅館、オーサカのウメダにある懐石料理、目玉が飛び出るぐらいの価格の化粧品、オナニー用の最新鋭の多機能ディルドなどなどなど。
数々の女退魔師は魔胎神に心と身体を壊されてしまったが、姫丸は魔胎神に金銭感覚を壊されてしまった。
「おかしい」
姫丸はボソリと呟いてから、床に散らばった領収書を1枚ずつ拾い上げる。
「三十億あったのよ? 三十億。普通なくなる? なくならないでしょ。どう考えても世界の方がおかしいわ」
もちろん、世界はおかしくない。
おかしいのは霧月姫丸の金銭感覚である。
30億という大金。
姫丸はそれらを、ほとんど一年で使い切った。
「いや、待って。絶対おかしい。三十億って、一生遊べるお金でしょ」
姫丸は領収書の束を握りしめたまま、床に座り込んでいた。
部屋の中は、彼女がこの一年で買い漁った品々で埋め尽くされている。
魔胎神討伐報奨金の残骸である。
「私は悪くない」
姫丸は真顔で言った。
「世の中に欲しいものが多すぎるのが悪い」
もちろん悪いのは姫丸である。
その時、床に転がっていた端末が震えた。
画面に表示された退魔省文字を見た瞬間、姫丸の目が細くなる。
「……なによ。今は忙しいんだけど」
主に金がないという現実から目を逸らす作業で忙しいのだ。
悪態をつきながらも、姫丸は通話ボタンを押す。
「なに?」
『霧月姫丸だな?』
端末越しに聞こえてきたのは、聞き覚えのある男の声だった。
退魔省の責任者、西九条 天満である。
魔胎神討伐作戦の時、何度も姫丸へ作戦説明をしてきた男である。
『緊急招集だ。シャレにならんことが起きている』
「シャレにならないこと?」
姫丸は床に散らばった領収書を見下ろした。
「こっちも十分シャレになってないんだけど。30億が消えたのよ、30億が」
『お前の浪費癖の話をしているんじゃない』
「浪費じゃないわよ。経済を回したの。魔胎神を倒した女が社会貢献してあげたんだから、むしろ感謝されるべきでしょ」
『いいから来い。退魔省本庁、地下第七会議室だ』
その言葉に、姫丸の表情がわずかに変わった。
地下第七会議室。
そこは、ただの作戦会議に使われる場所ではない。
魔胎神に関連する会議でなければ使われない場所だ。
姫丸は床に散らばる領収書に視線を寄せてからニヤリと微笑む。
「……地下第七会議室ってことは、相当ヤバい案件ってことよね」
『あぁ、そうだ』
「で、ヤバい案件ってことは、当然それなりの報酬が出る」
『……お前なぁ』
「何よ。私は退魔師よ? 危険な仕事をする。対価を貰う。何も間違ってないでしょ」
金がない状態からの退魔省から緊急招集。
しかも地下第七会議室。
姫丸の中で、金の成る木が出来上がった。
「いいわ。行ってあげる」
『最初からそう言え』
「ただし、安かったら帰るから」
『魔胎神に関わる話だ』
「そいつなら、私が殺したでしょ」
『本体はな』
「……なに、その言い方。ものすごく気に入らないんだけど」
『来れば分かる』
「今言いなさいよ」
『電話越しでは話せない。国家機密事項だ。外部に漏れるのは避けたい』
姫丸はしばらく黙った。
それから、深く息を吐く。
「分かった。すぐ行く」
『助かる』
「勘違いしないで。助けるためじゃないわ。報酬の匂いがしただけ」
『あぁそれでいい。迎えは既に手配している』
通話が切れる。
姫丸はしばらく端末を見下ろしていた。
先程の西九条の言い方が、妙に耳に残る。
「……ほんっと、死んでからまで面倒くさい奴ね」
姫丸は舌打ちし、床に散らばった領収書を足で踏みつけながら、部屋の隅に置かれた姿見の前へ向かう。
金はない。
だが、姫丸がみすぼらしい格好で退魔省へ行くなどありえない。
彼女は自身の退魔忍スーツに着替えた。
「よし」
鏡の中には、魔胎神を倒した女がいた。
姫丸は満足げに笑う。
「報酬の匂いがするわ」
姫丸はルンルンとした足取りで自宅を飛び出し、玄関口で迎えが来るのを待った。
「おっキタキタ。お金の音♪」
数分後に黒塗りの公用車が姫丸の前に止まった。
扉が開き、目の中を金に変えた姫丸が後部座席にドサッと座り込んだ。
そして車は走り出す。
「で? あんたは何か聞いてるの?」
頬杖しながら写り行く景色を見ながら姫丸は運転手にそう聞いた。
「……」
運転手は、バックミラー越しに一瞬だけ姫丸を見た。
黒いスーツを着た退魔省職員。
彼は表情一つ変えずに「詳しい内容は、私には知らされていません」と言った。
「ふぅん」
姫丸はそれだけ言ってから続けて「じゃあ、誰を迎えに行くかくらいは知ってたわけ?」と聞いた。
「はい。霧月姫丸様を、退魔省本庁地下第七会議室へお連れするようにと」
「様はいらない。気持ち悪いから」
「それは失礼しました」
「謝るくらいなら最初から呼ばないで」
姫丸は足を組む。
そこから退魔省に着くまで車内は無言に包まれた。
聞こえるのは車のエンジンの音だけだ。
車はやがて、退魔省本庁の駐車場へと滑り込んだ。
退魔省本庁はただの巨大な官庁ビルに見える。
硝子張りの壁面、整えられた植栽、警備員の立つ正面玄関。
「相変わらず、外面だけは立派ね」
姫丸は車を降り、退魔省本庁を見上げながら呟いた。
正面玄関から入るや否や、待機していた職員が姫丸へ頭を下げた。
「霧月姫丸様ですね。こちらへ」
「だから様はいらないって言ってるでしょ」
「失礼しました、霧月姫丸。こちらへ」
「呼び捨てにしろとは言ってないんだけど」
「……こーちーらーへー」
「はいはい」
職員に案内され、姫丸は退魔省本庁の奥へと進んだ。
表向きの退魔省本庁は、清潔で、静かで、どこにでもある官庁の顔をしている。
だが、奥へ進むにつれ、その顔は少しずつ剥がれていった。
一般職員の出入りする廊下を抜け、警備員の立つ扉を越え、さらに奥の認証区画へ。
そこから先は、巨大な封印施設のようだった。
壁には退魔省の紋章が刻まれ、その下を無数の結界線が走っており、その周囲には武装した警備職員が立っていた。
それを見た姫丸は若干呆れた口調で言葉を吐きだす。
「相変わらず厳重ね」
「地下第七会議室ですので」
「知ってるわよ」
「それでは霧月姫丸、入退出管理カードをこちらに」
「はいはい」
姫丸は腰のポーチから黒いカードを取り出し、職員へ手渡した。
カードを読み取った端末が、低い電子音を鳴らす。
直後、扉の左右に刻まれていた結界線が淡く光った。
他にも様々なセキュリティ、そのすべてを通過して、ようやく重い扉が開く。
「めんどくさ」
「地下第七会議室ですので」
「それ二回目」
「重要なので」
「そういうとこ、退魔省って本当に退屈」
姫丸は肩をすくめ、職員の後に続いた。
扉の先には、下へ続く長い廊下があった。
照明は最低限で、壁面には退魔省の紋章が一定間隔で刻まれていた。
外の官庁ビルめいた清潔さとは違う。
ここは、明らかに人の世の裏側だった。
姫丸は靴音を響かせながら歩く。
退魔師スーツを身に纏う彼女の格好は、ひどく浮いていた。
しかし姫丸本人は、そんなことを気にも留めていない。
むしろ、当然のように胸を張っていた。
魔胎神を倒した女。
その肩書きは、彼女の態度をさらに大きくしていた。
そして、姫丸たちは1つの仰々しい扉の前で立ち止まる。
「地下第七会議室ね……本当に魔胎神絡みって事ね」
姫丸の口が緩む。
また三十億。
いや、今度は倍の六十億でもいい。
それくらい貰って豪遊しようと心の中で企んでいた。
そんな彼女の企みなんて露知らず、案内人が扉の左右に仁王立ちになっている警備員に、扉を開けてもらうよう指示する。
指紋や霊紋、網膜など変わらずの厳重な認証を終え、やっと扉が開いた。
「どうぞ」
「はいはい」
姫丸は軽い足取りで中へ入った。
地下第七会議室。
天井の照明は薄暗く、中央に置かれた長い黒檀の机だけが、青白い光に照らされていた。
机の向こう側には、すでに何人もの大人たちが座っている。
黒いスーツをビシッと決めた偉そうな男たち、その中央に座っていたのが西九条天満だった。
魔胎神討伐作戦時、各組織の調整と作戦立案を担当していた男である。
年齢は30代半で痩せ気味の身体。
きっちりと整えられた髪に、狐目をした、パッと見官僚とは思えぬ怪しげな風貌の男性だ。
姫丸はその顔を見て、軽く手を上げた。
「久しぶり。で、今度はいくら?」
西九条は、深くため息を吐いた。
「開口一番それか」
「当たり前でしょ。地下第七会議室に呼び出すような案件よ? 安い仕事なわけないじゃない」
「お前は本当に変わらんな」
「変わる必要ないし。私は魔胎神を倒した女よ。むしろ周りが私に合わせなさい」
会議室にいた数人の官僚が眉をひそめる。
だが、誰も強くは咎めなかった。
それも当然だった。
霧月姫丸は、態度こそ最悪だが、実績は本物だ。
この場にいる誰もが、彼女の功績を否定できない。
まぁ、ぶっちゃけこの会議室で1番強いのは言わずとも姫丸なのだから、咎めることなんてできるわけが無い。
西九条は机の上で指を組み、姫丸を正面から見た。
「金の話は後だ」
「後にされると困るんだけど。私、今かなり切実なのよ」
「三十億を一年で使い切った女の切実さなど知らん」
「使い切ってないわよ。ほんの少し残ってるし」
「いくらだ」
「……23000円」
会議室の空気が、一瞬だけ止まった。
西九条は額に手を当てた。
「30億が23000円になるのか」
「だからおかしいって言ってるでしょ。世界が」
「おかしいのはお前の金銭感覚だ」
「説教なら帰るわよ」
「説教ではない。任務の話だ」
その一言で、姫丸はようやく椅子に座った。
ただし、態度は最悪だった。
椅子の背に身体を預け、足を組み、赤いマフラーの端を指先で弄びながら、西九条を見る。
「で? 魔胎神絡みなんでしょ」
「ああ」
「そいつなら、私が殺した」
「本体はな」
姫丸の眉がぴくりと動いた。
「さっきも言ってたわね、それ」
西九条は頷く。
「ああ。魔胎神の本体は、お前が討った。それは間違いない。魔胎都市に巣食っていた本体は消滅し、妖魔どもの統率も失われた」
「なら終わりでしょ」
「終わっていなかった」
西九条がそう言った瞬間、会議室の空気が沈んだ。
姫丸は不機嫌そうに目を細める。
「……その言い方、嫌いなんだけど」
「俺も好きで言っているわけじゃない」
西九条は机の上に置かれていた黒い封筒を手に取った。
封筒には、退魔省の極秘指定印が押されている。
それを見た姫丸は露骨に嫌な顔をする。
「うわ、なにそれ。めんどくさいやつじゃない」
「めんどくさいどころではない」
封筒の口が開き、中から出てきたのは、数枚の報告書と、一枚の写真だった。
西九条は写真を机の上に滑らせる。
写真には1人の男性がカフェでコーヒーを飲んでる姿が映っていた。
年齢は若い。
どこにでもいそうな、穏やかな顔立ちの男。
荒廃した魔胎都市にも、退魔省の地下会議室にも、妖魔討伐の戦場にも似つかわしくない。
あまりにも普通の男だった。
「小野寺智樹という男性だ」
「誰?」
姫丸は写真をつまみ上げ、興味なさそうに眺めた後、写真をひらひらと振る。
「で? この普通そうな男が何? 違法術者? 妖魔協力者? それとも魔胎神の信者?」
「どれでもない」
西九条は短く答えた。
「小野寺智樹は一般人だ。犯罪歴もなし。思想的危険性もなし。調査上は、極めて善良な一般市民だ」
「じゃあ、ますます分からないんだけど」
姫丸は椅子にもたれ、足を組み直した。
「なんでそんな普通の男の写真を、地下第七会議室で私に見せてるわけ?」
西九条はしばらく黙っていた。
その沈黙だけで、姫丸は嫌な予感を覚えた。
「……なに。その間」
「小野寺智樹の体内から、魔胎神の因子が検出された」
続く