Alter √B──Bad ヒウンシティ day3
◆
「──はぁ、っ、はぁ、」
……どれだけの時間、そうして走り続けていたのでしょう。もうとっくに息はあがっていますし、胸の中では心臓がバクバクとうるさいくらい激しく鼓動の音を響かせているのがわかります。
足も身体もとても重くて、気を抜けば今すぐにでもふらりと走る勢いのまま倒れこんでしまいそう。
けれど、駄目。それは駄目です。もつれそうになる足を、それでも必死に動かして。行く先もわからないまま走り続けなくてはいけない自分にそう言い聞かせながら、挫けかけの気持ちと一緒にだんだんと下に、前に傾いていく身体に力を入れて、どうにか走る姿勢だけは崩さないようにします。
積み上げられたコンテナと暗く沈んだ色の海、等間隔で立ち並ぶ鈍色の建物で囲まれた場所で始まったその逃避行は、そうやって今も続いていました。倉庫街に築かれた迷路の中をぐるぐると。後ろから聞こえてくるその声に、ただ追いつかれないようにするために。
「──はぁ、っ、は、ぁ、っ、……ぅ……っ!」
遠くに見える街に灯る眩いばかりの光は、けれど空に浮かぶ星の灯りを隠すばかりで、都市の中心から少し離れた場所にあるこの倉庫街までは照らしてくれません。敷地内に所狭しと置かれた物でたくさんの影が作られた足元は暗いまま。そんな暗闇を切り裂くように、辺りには低く鋭い音が響いていました。
それはわたしの後ろから迫ってくるポケモンたちが上げる鳴き声。
最初に目にした時は、確か三匹。転ばせて群れから引き離した一匹がその中にいないのなら、残りはもうあと二匹だけのはず。けれど今もわたしを追いかけてきているその脅威の数は減るどころか、むしろ増えているような気さえします。
それに、さっきそうやってわざで足止めをしてくれた
「っ──」
時間が経つほどに状況が悪くなっているように思えるのは、きっと気の所為なんかじゃないはずです。そうやってどんどん自分が追い詰められていっていることを理解して。けれどそれを意識すると胸の中には自分がそんな状況に置かれていることへの確かな実感と、すぐ側まで迫ってきているものへの背筋が冷たくなるよう恐怖がわいてきて。
──怖い。怖くて、それはとてもとても恐ろしい思いでした。どうにかしなくちゃと考えを必死に巡らせても、頭の中はそうやってどんどん膨らんでいく気持ちでもうぐちゃぐちゃで。逃げるため動かし続けている身体は更に重く、足どりは今にも転んでしまいそうなほど覚束ないものになっていきます。それはまるで怯える気持ちが意思を持って、わたしの身体を押さえつけているみたいに。
(せめて、みんなの治療を。どこかに身を隠せる場所があれば……でも、そんな場所)
このまま、走って。走り続けたとして。たとえそうして追手を振り切ったとしても、はたして本当に逃げることはできるのでしょうか。倉庫街の外、人気のある街の方まで。
……ううん、そんなふうに何事もなく敷地の外に出られる保証なんてありません。そもそも、さっき入口で見かけた守衛の方だってもうとっくに持ち場に戻っているはずです。それにこの倉庫街には他にもっとたくさん、今も追いかけて来ているヘルガーたちに、これから訪れる船の積み荷となるものをどこかへ運んでいる様子だったローブシンやカイリキーといった力自慢のポケモンさん。そしてもちろん、そのポケモンたちにそういった指示を出しているトレーナーの方だって、ここには──街で攫われたポケモンたちが捕えられているはずのこの場所にはいるはずでした。
たまたま、まだ追手の数が少ないから逃げることができているだけ。まだそのトレーナーの方たちにまで姿を見られたわけではないから、こうしてここに忍び込んだわたしのことを誰も探そうとしていないだけ。
だから、そう。きっとそのうち、今度はヘルガー以外の何かに、誰かに見つかって、逃げられなくなってしまう可能性の方がずっと高いはずで。
……でも、本当に? 本当にそうなのでしょうか。
もしかしたらもう、とっくのとっくに──
(──駄目。今は、考えちゃ)
建物の角を曲がって、更にその先へ。逃げなくてはいけないから、もっともっと遠くへ。疲れを通り越してズキズキと痛みを感じ始めた足を無理に前に押し出して。ただそれだけを考えてわたしは止まることなくまた一歩踏み出します。けれど、だからこそきっと。ただ走り続ける以外になくなっていたわたしは、本当にそれしかできなくなっていたから。
「っ、きゃあっ!?」
爪先に一瞬触れた、その硬い感触から何かに躓いたのだということは理解できました。けれど、腕が。横合いから伸びてきた誰かの腕が、地面に倒れ込みそうになったわたしの身体を無理やり上ヘ引き上げていて。
「──おっと」
その声が聞こえてきたのはすぐ近く。今も響いている遠吠えよりもずっとずっと近い場所。わたしの身体の、すぐ側からです。
それは男の人の、それも大人の方のものでした。きっとこんな状況でなければなんの変哲もないものとして感じていたはずのその声は、ひどく重々しい響きを持っているように感じられて。まるで恐ろしい怪物があげるようなものとしてわたしの耳に届いていた気がします。
「……ひ、っ……! ぁ、っ……ぅ……」
胸の中で膨れあがっていく恐怖に。そうしてそれ以上に、キリキリと身体に走る痛みに声を上げて。視界に映っていたのは、指先が食い込むほど強く握られたわたしの腕。それを掴む誰かの方、タトゥーの刻まれた腕が続く先をたどっていけば、そこには想像していた通りの光景が、見知らぬ大柄な男性の姿がありました。その方の視線は、当然こちらに向けられていて。
「んだよ。
けれど今目の前にある光景も、耳に届くそんな言葉も、どこか遠くに、他人事のように感じられます。ずっと思考が巡っていた頭の中は状況を理解することを放棄したみたいに空っぽに。それは緊張と、疲れからでしょうか。だんだんと遠のいていく身体の感覚と一緒に、まるで感じる恐怖すらどこかへ消えてなくなってしまうようで。
……なのに。それなのに、背筋に走る寒気は今でも、とても恐ろしい何かが確かにそこにあることを訴えてきて。そうして向けられるその視線と、掴まれた腕の痛みをはっきりと意識するたびに。走り続けて火照っているはずの身体からは体温が奪われて凍りついていくような錯覚に襲われます。
「お嬢ちゃん、どうしたんでちゅかー? お友達と夜の倉庫に肝試しにでも来たんでちゅかねー?」
ビクリと。感じる恐怖を示す素直な反応。口調こそまるで冗談を言うときのような軽いものでしたけれど。たとえ思考を挟まなくてもその震えは、わたしの身体は向けられる思いや敵意を、耳に届く言葉が持つ意味以上にはっきりと伝えてきて。
「──まさかただ道に迷ってここにいる、なんて言わねぇよな? おい」
どこか嘲りを含んだ、馬鹿にするような口調から一転して、重く低く響く声。脅かすような言葉とともに近づけられた顔に浮かぶ表情は、そうとわかるほど睨みつけるような、より恐ろしいものになっています。
何か言おうと、口を開きかけて。けれどさっき咄嗟にあげた悲鳴のようには出てきてくれません。ただひゅうひゅうと、乾ききった口の中では言葉にならない掠れた吐息が、空っぽの肺が、それでも空気を吐き出そうとする音だけがずっと響いていました。
「おいおいビビって声も出ねぇか? あぁ!? どうにか言えやコラ」
「……は、な──て……」
「あん?」
「離して、ください……っ」
やっとどうにか声に、言葉として口にすることができたのはそれだけ。そんな一言です。
確かに自分が発したはずのその声は身体と同じようにひどく震えていて、一瞬それがわたしのものだと思えなかったくらい。それは目の前のこの方が短く聞き返してくる言葉、きっとあえて声量とトーンを落としたその声よりもずっと小さく、弱々しく聞こえるもので。
「ほらよ」
「ぇ──きゃああっ!?」
けれどそれが、その時のわたしにできた精一杯。それでも口にした言葉と一緒に、はっきりと反抗する気持ちを込めて今も険しい視線を向けてきている相手の瞳を見返して──そうして、その後。その直後に、わたしはまた悲鳴のような声を上げていました。
帰ってきた言葉は、予想もしていなかったもの。けれどそんなことが理由なのではなく。それが耳に届いた後に感じた浮遊感と、衝撃にです。
「ぁ、ぅ……っ!?」
大人と子供。その身長の差もあって、さっきからずっと腕だけで釣られるように立たされていたわたしの身体はそれを掴んでいた相手の手が離されたことで簡単に支えを失い、そのままバランスを崩して地面へ倒れ込んでしまいます。
ずっと走り続けてクタクタに疲れ切った状態では、急に足に力が入るはずもなく。そうして視界いっぱいに広がる、コンクリートで固められた埠頭の地面。目の前のそれが一気に近づいて。そこに叩きつけられた身体は、すぐに痛みを訴えてきます。
何よりも鮮明で鋭いその感覚は、さっきと同じように──ううん。さっきと比べてもずっと置かれている状況の厳しさを、向けられる敵意が、どれだけ恐ろしいものなのかを伝えてきて。きっといつもなら少し声を上げるだけで済むようなその痛みに蹲って震えながら、わたしは硬い地面の上をのたうちました。
けれど早く立ち上がらないと。今すぐ、ここから離れないと。そんな中でも頭に残っていた思考と感じる恐怖に突き動かされて、ただそれだけを考えながらまたこの場所での逃避を続けるため、痛む身体にそれでも力を込めてわたしは立ち上がろうとして。
「──ぇ、っ? あ……っ、返して!?」
けれど肩を、背中を。何かが通り抜けていく感覚がありました。見慣れた自分の鞄。今着ているワンピースと同じように、もうずっと使っているものです。わたしの目に映っていたのは、肩に掛けていたそれが身体から離れていく様子で。その光景に、反射的に荷物を取り返そうと手が伸びます。その中にはボールが、わたしの手持ちのみんながいて。けれどただ立ち上がることすら今のわたしには難しかったみたいで、よろよろと弱弱しく踏み出した勢いのまま何もない地面に躓いて、身体はまた前へと倒れていってしまいます。
「おいおいどうしたよ? ほら、お嬢ちゃんの大事な荷物はこっちだぜ」
しゃがんでこちらを見つめる目は、さっきの言葉と同じように嘲りを含んだもの。恐ろしさを感じていたその顔に浮かぶ表情もどこかにやついた、嫌らしさのある笑みへと変わっています。
ちょうど今取り上げられた鞄は、わたしが手を伸ばせばすぐ届く位置に。けれどもう一度反射的に伸ばしたそれは、今度は手首を掴まれたことで止められて、そこに届くことはありませんでした。
「いた、痛いっ……離して、っ、返して、ください!」
「離せか返せかどっちだよ。どっちも駄目に決まってんだろ」
太く硬いその指先はきつく身体に食い込んでまたキリキリと締め付けられる痛みを与えてきます。けれど伸ばされたその腕を掴んで引き離そうとしても少しもそれが動く様子はなく。……わたしの、掴まれている方の腕もまたまるで重い岩の間にでも挟まれているようにビクともしません。それは大人と子供の、ポケモンさんがいなくては決して覆せない力の差を教えてくるようで。
「どうして、って目をしてるな。まあ別に離してやってもいいんだが。仕事だって今日はまだまだ残ってることだしな」
もがいて、暴れて。……そうやって抵抗するたび、更に強い力で掴んだ腕を捻り上げられてわたしはだんだん続く言葉さえ口にすることができなくなっていって。それでもせめてと、視線だけは前に向け続けていたわたしの目を見て、その人はそう言います。
けれど取り合うつもりはないとでも伝えるようにすぐに背を向けて、こちらから視線を外したその人はわたしの手を掴んでいる方の腕を突然、思いきり力を込めて引いていきました。
そうして、そんなふうに急な力がかかった身体はまるで引きずられていくみたいに。地面にへたり込んでいた状態から無理やり立たされ、その人が視線を向ける方向へと動いていって。
「ぁ、っ」
──背中から、全身に。身体を突き抜けていくような痛みと衝撃。視界は回ってぐらぐらと。腕を引っ張られるその勢いのまま、傍にあった何かに叩きつけられたのでしょうか。けれど、理解できたのはそれだけ。身体中を巡る感覚に、それ以上は何も考えることができません。
目の前には、こちらを見下ろすその人の姿。さっきよりも目線が高い位置にあるような気がするのは、きっとまたわたしが地面に腰をつけているからです。背中にはスカート越しに感じる地面のものとはまた違った冷たくて硬質な感触。鈍い音が響いていたことから、そこにあるのが近くに積まれていたコンテナだということに気がついて。けれど周りの状況をだんだんと把握できるようになってくるのと一緒に、身体もまたはっきりとより鮮明な痛みを訴えてきます。
「──ぅ、ぅ……っ!? っ、けほっ、ぁ……ぅ」
痛みよりも熱さを感じる、そんな激痛です。今度は悶える声すら出せずまるで肺の中まで焼けていくような感覚にそのまま咳き込んで。息苦しさとあまりの激しい痛みに身体からは力が抜けて、だんだんと真っ暗になっていく視界の中。けれど肩に、背中に、足に。わたしの身体に何かが触れる感触がありました。
そうして絡みついて全身を締め上げていくのは
「──ゃ、ああっ!?」
その感触にパニックを起こしたみたいに、わけもわからないままわたしは大きな声で叫びを上げて。けれど、むしろそれがきっかけになったのでしょうか。その触手はコンテナの側面をずるずると引きずるようにしてわたしの身体をゆっくりと持ち上げていきました。そうして足は地面から離れて、そのまま背中をコンテナに張り付けた状態で釣られるように宙に固定されます。
「よーしよしよし、いい子いい子。ほんといい子だな、お前は」
宙ぶらりんのまま見下ろすように向けた視線の先。さっきとは違い、正面よりもずっと低い位置にその人はいます。けれど今そうやって話しかけているのは、わたしに対してではないようです。その言葉を向けているのはたぶん、きっと。わたしの身体に巻き付いている、この触手の持ち主。
(これ、この触手、もしかして──)
首だけを動かして、今度は視線を上の方へ。コンテナの天辺を見上げてみます。肩までがっちりと固定されているせいで身体はそれほど自由には動きませんけれど、意外なほど近くにいたその存在をどうにか視界の端に捉えることができました。
丸く、つばのついた帽子や傘のようにも見えるシルエット。コンテナの上にへばりつくように居座っていたのは、わたしにとってもよく見知ったポケモンの姿で。けれどそれは水棲の、本来は陸の上ではなく水中でこそ自由に活動ができるはずのポケモンでした。
「ドク……クラゲ……?」
遠いパルデアでその姿が見られる陸棲のリククラゲではなく、水辺で見かけるポケモンとしてこちらでもよく知られている方。ドククラゲと呼ばれるそのポケモンはある意味とてもありふれていて、住んでいる場所に関わらずきっと多くの人が一度は目にしたことがあるような存在です。ハウオリシティの海岸やハノハリゾート、アローラでよく知られるリゾート地のような浅く穏やかな海域の側ではあまり見かけることはありませんが、けれどそうではない大抵の水辺においてはとても数が多く、広く生息地を持つ生き物。
その生態は、一言で表すならとても獰猛なもの。水と毒。併せ持つ二つタイプのその片方の性質を示すように、メノクラゲから進化した際には元々有している攻撃性が更に増すことで知られています。けれどその気性も能力も多くは縄張りを広げていく中で獲得していったものらしく。そうしてそれを得たからこそ、海に住まうポケモンとしてこれだけ多く数を増やすに至ったのだと──博士のところでお世話になっていた時に読ませてもらった本には確か、そう書いてありました。
海流の変化や地震などの影響でたまに異常発生すると、その海域のポケモンの数がドククラゲの群れに食べ尽くされて一気に減ってしまうというのはスクールで使われる教科書にも乗っているような有名な話で。他にもいくつかあるエピソードの中では、その傘のような構造の身体の下に80本以上も生やしている伸縮自在の触手で獲物を絡め取るということと──
そうして、今わたしを捕まえているこの触手の中には、当然のようにそのための器官。わざに使う猛毒が蓄えられた、毒腺だって通っていたはずです。
「っ、ゃ──!」
それはほとんど無意識に。ただ引き剥がしたい一心で絡みつく触手を掴んで叫びます。けれどそうやってもがいても、暴れても。どれだいけわたしが力を込めてもきつく身体に巻き付いたそれは離れてはくれません。
「おいおい、そんなに騒ぐなっての。まだ荷運びも終わってねえのに、他の奴らの作業の邪魔になっちまうだろ? そいつはちゃんと躾けてあるから、指示もなしに人を刺したりはしねえよ。しねえから暴れんな」
ぎちり、ぎちりと。こちらを見上げる視線の主。宙に吊られたままもがき続けるわたしを見て投げかけられた言葉とは反対に、まるでその声を合図にしたみたいに身体に巻き付くドククラゲの触手は締め上げる力を強めていきます。
夜の海風。日が落ちて冷え切ったそれが汗が滲む肌を撫でて。べたつくような不快な感覚は全身から。そうして、そこに混じる痛みもまた更に強く、激しく。疲労と緊張と恐怖の中、どこか遠く、ぼやけた身体の感覚でもはっきりと捉えられるほど、服の生地越し、肌の上で蠢くそれの存在は伝わってきました。
「けどまあ、なんだ。それでもよ」
宙に浮くわたしの身体を引き伸ばすみたいに足首を絡め取って、引っ張っていたそれは足の先から段々と身体を登っていって。その先端で手のひらを撫で、手首を締め上げていたものは腕を伝いもっと下へ。肩を、背中を。頭上から新しく伸ばされた触手もまた全身を這うように撫でながら、それはきっと、身体の中心に近い場所へと向かって。
──そして。
「大人の仕事の邪魔をしに来るような、悪い子には」
ぴとり、と。頬に、首筋に。身体の急所。太い血管が通る場所に、猛毒が蓄えられた触手の、その先端が触れて。
「──とりあえず、お仕置きはしておかないと……だよな?」
◇
「──ぁ、っ!? ぅ、ぁ、ぅうぅ!?」
「おーおー、いい暴れっぷりだなおい。息上がってたんじゃないのかー?」
喘ぐように声を上げて、苦しさに叫んで。それはさっきからずっとずっと。終わることなく続けられている責めに対するわたしの反応です。
身体は感じる恐怖と与えられる刺激から逃れることを求めてただひたすらに。動かない両手と両足には力がこもって、もがくようなその動きはほとんど無意識に出ているものでした。そうして、そんなささやかな抵抗は今もまだ続いていて。けれどその度に頭上から伸ばされている触手は更に強く身体に巻き付いて、きつく、痕が残ってしまいそうなほどの力で縛められた箇所には強い痛みが走ります。
「ゃ、やめて、っ!? これ、嫌っ!? いやですっ!?」
ぞりぞりと、そんな音が聞こえてきそうなほどに。視界の中にいくつも存在するそれは激しい動きで身体中を這い回って、休む間もなくとても辛く、耐え難い感覚を与えてきます。触れる場所はどれも神経や太い血管が集まる重要な部分。けれど備えている毒針がそこに突き立てられることはなく、それを引っ込めたままの触腕を上下に。わたしのすぐ真上に居座っている
「ぃ、ゃあああああ!? ぁ、は、っ──あはっ、ひゃぅ、あははは!?」
そうして絞り出されるのは笑い声。悲鳴のように響くそれはもちろんわたしが上げさせられているものです。声を上げて笑うという反応を無理やり引き出され続けて痛みを感じ始めた喉からは、時間が経つほどより悲痛な形で。掠れた声で上げる叫びが、だんだんと細く短くなっていく吐息と一緒に口からこぼれていきます。
「もう、っ、やめてくださ……ぅ、ゃ、これ、苦し──」
「やめねぇよバーカ。だから続けてるんだろうが」
じゃないとお仕置きにならねえからな?と。こちらを見上げて、もう何度も目にしたその嘲るような視線とともに口にされたそんな言葉が耳に届きます。
お仕置き。そう称して行われているのが、さっきからずっと続けられているこれ。おそらくは目の前に立つこの方の手持ちのポケモンさん。そのわざを使った、拷問のような行為です。
"くすぐる"というわざは、ごくまれにですけれど、広い海で生活する中で
「は、ぁっ、ん、ぁぅぅ!? ぅぅ、っ──ぁ、ああああああ!」
ぞりぞり、ぞりぞりと。時間を置いて緩急をつけるように。
触手の動きは肌の表面を撫でるようなものからより強く、その先端を押し付けるような触り方に。そうしてまた変化した力加減で責められるのは、頭の上の方にピンと、万歳をするように伸ばされた腕の付け根、脇の下。着ていたワンピースの構造上剥き出しになっている場所です。心臓や頭が近い位置にあることもあって神経が多く通っている、つまりは刺激に対して敏感な部分。
当然、耐えられるはずありません。もしそんな場所に触れられば驚きますし、声だって出ます。それはたとえ触手ではなく人の手で、誰かの指でこんなふうにされたとしても。
そうして思い出すのは昔の、わたしがまだアローラにいて、
同年代の相手と……お友達とそんなふうにふざけ合うのなんて、それまで全く経験のないわたしでしたから。他人に身体をそういう形で触れられることがなかったのも当たり前といえば当たり前で。けれど当時のそんな経験からわかったのは、悪戯をしてきた
つまりこうして、あの時とは違って途中で気遣われることもなく。苦痛に感じる刺激を、休むことなくずっと与えられ続けるというのは、とてもとても辛いことで。
「──っ、ぁ、いやああぁぁっ!? あはっ、はぁっ、や、ぁ、あああ!」
悲鳴とも笑い声ともつかないようなそれは、一体もうどれだけの間、この倉庫街に響いているのでしょう。けれど反射で出ている動作は我慢しようと思ってできるものではなくて。当然、その間は呼吸するための動きを遮られてほとんど息を吸うこともできなくなります。そうして、酸素が足りない状態がずっと続いているせいでしょうか。頭はズキズキとした痛みを訴えてきて。肺は感じる苦しさを超えて、まるで呼吸することを忘れたみたいに、与えられる刺激に対してただ痙攣するような動きを続けています。もう限界だという身体のサイン。けれどいくらそれを言葉にしても、その懇願が聞き入れてもらえるはずもありません。
「ぁ〜〜は……っ、ぁ、かえ、して……、っ、ぅ──」
涙と額から滲む汗でだんだんとぼやけていく視界の中。頭上から伸びる触手にきつく縛められて動かない腕を、それでも、そこに映る光景を前にそちらへと向けようとします。
そうして手を伸ばそうとした先には見慣れた
「おーおー、必死でボールの外に出ようとしてるぜこいつら。見てみろよ、ほら」
わたしが向ける視線を感じたのか、顔を上げてそう語りかけてくるのは当然真下に立つその人。奪ったボールを、きっとあえて見せつけるようにわたしの視界に収まる位置で弄ぶその様子はあくまでも先ほどと同じ。けれどより深まった笑みを顔に浮かばせて自分が目にしたその光景をわたしに伝える声色は、
「ま、こんだけ暴れても、こんな小さなカプセルの蓋一つ開くこともできねえのになぁ。主人を思う健気な様子にこっちまで笑えてくるぜ、おかしくてよ」
視界の中でチカチカと瞬く光は、身体を縮ませてボールの中に収まるポケモンさん、それがそこから出ようとした時に灯るもの。
……そのはず、でした。
けれど本来なら
だから当然、わたしを助けてくれることも。
「ポケモントレーナーなら誰もが扱うこのボールだがよ。丈夫なわりに造り自体は単純だから、こうやって開かないようにするだけなら簡単なんだわ。勉強になったなぁ? スクールじゃ教えてくれないだろ? こういう大人の悪知恵は」
ボールを持っていない方の手、ポケットから無造作に取り出したそこに握られていたのは小さな機械。そうして話しているその内容から、それがボールの開閉する機能を停止させて中にいるポケモンさんたちを外に出さないようにするものだとわかりますが、理解できたのは本当にただそれだけです。保護したポケモンを盗難から守るため財団に置かれているものとは違う、きっともっと別の用途で使われる装置なのだと。
途絶えることのない苦しさと
「ふ──ぁ、んっ……、ぇ……?」
くちり、と。湿った音。まるでそんな状況が変わったことを告げるみたいに。それが響いてきたのは抱えるように持ち上げられた脚の間。いつの間にか新しく触手が伸びてきていた、その場所からです。
けれど変わったのは更に、もっと悪い方へ。そう理解して、察して、感じて目にして──だからこそ何も、何一つとしてわたしには。目の前にある|その光景
「ゃ、嘘です……!? こんな、っ、嘘──どう、して……!?」
女の子の、きっと女性なら誰にとっても大事な部分。その、それがどうして、どういう理由でこんなふうになってしまうのか。……もうそれを知らないわけじゃありません。
だけどわたしの知識の中にあるような理由だけでなく、それ以外にも。元々それは身体が傷つきやすいデリケートな部分を守ろうとする反応。だからたとえば痛みや、強い恐怖を感じることでそうなることもあるのだそうです。
……けれどそれは、あとで知った話。この時のわたしが、そんなことを知っているはずもありません。
ただ、考えもしなかったような変化に。自分の身体が見せた反応。それが信じられなくて、否定したくて、わけがわからなくてぐちゃぐちゃになった頭で、心で、だけど今度は自分の意志で叫ぶような声を上げます。
それはきっと、心を守るため。もうこれ以上傷つかないために。
けれど、自分が笑っているのか。目の前のこの辛く苦しい現実に泣いているのか、それともやっぱり叫んでいるのか──もうそれすら、わからないまま。