男は、憔悴していた。
深い森の中、ひとりぼっちで立ちすくむ。
いくら歩き回っても、登山道に出られない。
同じところを堂々巡りしているような気がする。
鳥の声も、虫の声も、聞こえない。
不気味な静寂がのしかかってくる。
真夏の、まだ日が高い山の中。
男の身体は、氷に触れたように冷え切っていた。
男は山歩きを趣味としていた。
この山は特に気に入っており、何度も来ている。
地図は完璧に頭の中に入っている。
目を瞑っていても、山頂にたどり着ける。
そのはずだった。
現在地が分からない。
GPSは動作していない。
コンパスは針がくるくると回るだけ。
遙か遠くに見える山嶺は、見覚えがあるのに。
地図にこんな場所は記されていなかった。
何か、悪いことをしたのか?
マナーについては気をつけている。
貴重な花を踏み荒らすこともなければ、ゴミを散らかすこともない。
山の神、という存在がいるならば、怒られることは何一つしていないはずだ。
しかし、現状においてそれは何の助けになっていないようだ。
男は目を見開いた。
ぎょろり、と舐めるように辺りを見回す。
見落としているものはないか。
道標でも、踏み跡でもいい。
獣道が、前と後ろに続いていた。
しかしこの道を辿っても、どこにも出られない。
道の向こう側も、見通せない。
鬱蒼と生い茂る木々が日の光を遮り、夜のように暗くなっている。
救助を呼ぼうにも、スマホの電源が入らない。
バッテリーは80%以上残っているのに、だ。
現在地も、時間も分からない。
時間なのだ――太陽の位置が変わらないから。
男は長い時間、迷っていたはずだ。
しかし、頭上から照らす太陽が動いていない。
時の流れから切り離されたようだ。
燦々と降り注ぐ陽光は温かいのに、男の身体は冷え切っていた。
走り出す体力はない。
現状に震え上がり、心も折れかかっている。
八方塞がりだ。男は木の根元に力なく腰を下ろした。
――――――――
男が顔を上げた。
何か、聞こえる。
それは、微風だった。
大気の粒子を、ゆったりと揺らす波。
木々がざわめく。
否、揺らいでいるのか。
伝わる波に合わせ、波打っていた。
風の波ではない、音の波だ。
虫の鳴きも、鳥の囀りも、その音に拍子を合わせている。
自然の中に溶け込んだ、心地良い音。
聞いているだけで、身体の内側から洗い流されるようだ。
人の声だ、と気付いたのはいつだったか。
これは、歌だ。
聞いたことがない音の羅列だ。
日本語でも、英語でもない。
歌だというのは分かる、その程度だった。
男の視界が、引き上がっていた。
前に突き進んでいく。
登山靴が獣道を踏みしめている。
どの道に入ったのか分からない。
止まれ。
頭のどこかが、そう告げていた。
しかし、足は止まらない。
いや――止めようとも思わなかった。
もっと聞きたい。
あの歌の近くへ行きたい。
そんな思いまで、自分のものだった。
それを、遠くから眺めている自分だけがいた。
◆ ◆ ◆
清浄な光が目を焼く。
ぎゅっと瞼を閉じ、それを遮る。
恐る恐る開ければ、そこは広場だった。
気配があった。
広場の真ん中に、人がいた。
深緑のマントを纏っている。
色合いが周りに溶け込み、森の一部だと錯覚させる。
波はそこから発生していた。
やはり、歌だった。
女の声だ。
音響設備はない。
声だけで、森の奥まで届いていたのだ。
朗々とは、していない。
がなり立てるのでも、ない。
大気の中に優しく溶け込んでいる。
震わされた粒子が、自分の意思で歌を運んでいる。
響くのではない、もっと違う感覚。
それが耳に滑り込んできていたのだ。
音が、止んだ。
女が男の存在に気付いたのだ。
男は辺りを見回した。
振り返り、瞠目した。
獣道は、存在していなかった。
女が、『語りかけてきた』。
素振りでそう見えただけだ。
何を言っているのか、分からない。
何語なのか見当もつかなかった。
覗き込む綺麗な瞳が印象的だった。
綺麗な女だった。
艶やかな金髪が木漏れ日に輝く。
見蕩れていれば、顔が目の前にあった。
視線を逸らすのが惜しくなるほど、整った顔立ちだ。
目線を落とせば、見事な胸の谷間。
マントの下にグラマラスな曲線を隠しているのか。
にこり、と女が微笑んだ。
美しい表情だ。
ふっくらとした、肉感的な唇が言葉を紡いだ。
「これで、分かる?」
優しい声だ。
そして、不思議な声だった。
耳ではなく、もっと奥に響いてくるようだ。
男は意識しないままに、聞き入っていた。
「迷ってしまったのね?」
男は、一言も発していない。
全て悟っているのか。
見つめてくる碧眼には奥まで映っているのか。
とても綺麗で、ずっと見つめていたかった。
「ここは、そういう場所なの」
問い返すことが出来ない。
女がそう言えば、納得してしまう。
男の顔に、緊張の細波が浮かぶ。
女の耳が見えたのだ。
耳の先が、僅かに尖っていた。
女が耳に軽く触れる。
揺すって見せ、作り物でないことを示した。
「……貴方が住んでいる所とは、少しだけ違う場所なの」
女が事情を説明した。
ここは、次元が交錯する場所。
稀に迷い人が現れること。
男とは時代も文明も、全てが違っていること。
自分はハーフエルフで、人間とは少しだけ異なる存在であること。
荒唐無稽に過ぎる話だが、男は聞き入っている。
そして、納得している。
耳のことすら含め、全く信じられないが、『そうなってしまう』。
甘い声が、疑念をぼかす。
緊張を優しく解き、言われるがままになるのだ。
「明日の朝には帰れるの。一晩、泊まっていくと良いわ」
妙齢の女性と一つ屋根の下。
反射的に男は、断った。
軒下で十分だ、そう頼んだのだが。
「夜の森は危険だから、ね」
女が顔を寄せ、囁きかけた。
吐息が吹き掛かる距離だ。
声よりも甘い香りが、男の鼻腔に入り込む。
魅力的な肢体が、すぐ側にある。
じわりと背筋を這うものが、痺れのように身体へ広がる。
ぼうっと、頭の中に霧が掛かったようだ。
「アキ・ローゼンタール。アキと呼んで」
女――アキが手を差し出す。
男は手を引かれ、ともに歩き出す。
アキの側にいるだけで、心が安らぐ。
手を引かれることに、もう抵抗はなかった。
どことも知れぬ森の奥へと、男は踏み入っていた。
――――――――
アキの家は森の奥にぽつんと立っていた。
石造りの、古風な構造だ。
もっとも、これが古いのかは分からない。
今、この瞬間における異邦人は、男の方だったから。
◆ ◆ ◆
「どうかしら。お口に合うと良いけれど」
自宅に男を案内すると、アキはすぐにキッチンに立った。
手慣れた様子で鍋を扱う姿は、森の中で歌っていた女とはどこか違って見えた。
深緑のローブの下は、白を基調に、若葉の色を差した衣装だ。
肩と胸元を大胆に開きながら、花を散らした意匠にはどこか森の気配がある。
ドレスのようにも見えたが、これがここにおける一般的な女性の格好なのか。
マントに隠れていた身体の線が思っていた以上にはっきりと分かる。
男は慌てて視線を料理へ戻した。
振る舞われたシチューが、男の臓腑に染み渡る。
もっとも、シチューと呼んでいるのは男の中だけの話だ。
煮込まれた肉も野菜も見覚えがない。
調理法と見た目から、そう呼んでいるに過ぎない。
それでも、美味しかった。
迷い込み、狼狽して、浪費した身体には極上の味だった。
腹が膨れれば、落ち着きが戻る。
男はアキにいくつかの質問をした。
森の奥で、若い女の一人暮らし。
その事への違和感を、拭いきれなかったからだ。
その一つ一つに、アキは静かに答える。
男の話を遮ることなく、全てを聞き終えてから。
受け答えはとても落ち着いていた。
異邦人を家に迎え入れることに、慣れているのか。
男の質問が終われば、アキは語った。
普段は人との関わりを避け、森の奥で暮らしていること。
完全な自給自足でもなく、人里に下りて仕事をしていること。
この森は迷い人が現れることがあり、その世話をする機会があること。
迷い人達は例外なく、次の日には元の場所に戻れていること。
森の夜は安全を保証できないので、こうして家に招いていること。
何故、接触を断っているのか。
アキほどの美貌ならば、伴侶を探すのも難しくはないだろう。
あるいは、アキ以外は人間の姿形をしていないのか。
男にとっては今のアキが、この世界の全てだった。
「私は、ハーフ、なんです」
少しだけ目線を逸らせ、アキは答えた。
この世界にも人間がいて、社会を築いている。
アキには、人ならざる種族の血が混ざっており、人里には馴染めない。
その血筋故に森には馴染めるが、精霊ではない。
森だけで暮らしを完結させることは出来ない。
生活のためには、人里で仕事をする必要がある。
「……色々、複雑なんです」
そして、この森には迷い人が現れる。
だから、こうして世話をすることもあるのだという。
寂しげな声色と共に浮かぶ笑みが、男の追及を遮った。
男もその笑みから視線を逸らし、もう一口。
その時、ふと脳裏に単語が浮かんだ。
『ヨモツヘグイ』。
異なる世界で飲食をすれば、戻れなくなる。
再び緊張の細波が走る。
その時――
「どうしたの?」
アキが、目の前にいた。
吐息が吹き掛かるほどの距離だ。
そこから、囁きかけていた。
「安心して。ちゃんと帰れるから」
見透かされているのか。
男は瞠目する、しかし――
「明日の朝には、ちゃんと。だから一晩、休んでいって、ね」
吸い込まれるような碧眼が見つめていた。
見つめ返すも、底知れない青が広がるばかり。
その意図は、読めない。
「今はちゃんと休んで。疲れたでしょう?」
そうだ、疲れていたんだ。
肩に疲労がのし掛かった。
途端に、重くなった。
そんな、気がした。
「裏の泉で、汗を流して。寝床は用意しておくから」
そこまでして貰えるなら、断る理由は、ない。
それならば、お言葉に、甘えよう。
何となく、そんな気がした。
「ごゆっくり。ふふふ……」
アキが、微笑んだ気がした。