夜の闇が森を覆う刻限。
男はベッドの上に座っていた。
落ち着きがない様子で、部屋の中を見回している。
なぜならばここは、アキの寝室だからだ。
この家はリビングに寝室と物置だけの簡素な構造だ。
男は毛布だけ貸してもらい、リビングで寝るつもりだった。
ところが、アキが申し出を断った。
疲れているだろうから、寝室を使って欲しいと。
アキが使っているベッドを貸して貰うならば、アキはどこに寝るのか。
話が見えない中、強引に押し切られてしまった。
男が落ち着かないのは、別の理由があった。
違和感がある。
言葉にできない感覚が、胸騒ぎを引き起こしていたのだ。
文明の違いは一目で分かった。
部屋の明かりは、壁に掛けられた光る石だ。
コードが伸びている様子もなく、コンセントも見あたらない。
アキに尋ねれば『魔法だと思ってください』、と返され、腑に落ちない。
壁が不定形で蠢いている、などと言うことはなく、ベッドも寝るには支障がない。
一晩の宿と割り切るならば、問題はなかった。
男が胸の内を言葉にするならば『らしくない』。
アキのイメージと、どこかずれる気がしていた。
部屋の隅など程々に雑然としており、女の一人暮らしと言えば納得できる。
生活臭のある部屋だった。
しかし最初に会ったときは、森の妖精を思わせる超然とした雰囲気を感じた。
そのズレが、どうしても腑に落ちない。
あの歌は、森の息吹だ。
太陽と水と、木々、虫や鳥。
根付く命の脈動を、歌声に乗せた。
自然と一体になっている、深森の歌姫。
最初に見たときは、妖精だと思ったのだ。
ふぅわりと、心地良い香りが鼻腔を擽る。
薔薇の香りだろうか。
男の知っている限りではそれが一番近かった。
この世界の薔薇がどんな花を咲かすのかは、想像もつかないが。
仕事のため、人里に下りると言っていた。
この香りを纏うのだろうか。
森住まいを生かすならば、花売りでもしているのか。
花を売るならば、香水を纏う必要はあるのか。
それとも、もっと華やかな仕事なのか。
人と会う仕事ならば、こんな香りも馴染むだろう。
あの歌声を生かすならば、それもあり得る。
ならば、どんな仕事か。
芸を披露する仕事なのか。
この世界にショーステージはあるのか。
あるいは、人の集まる酒場で歌うのか。
香り一つでも、想像が膨らむ。
とても親しみやすくて、優しい女性。
しかし、どうしても違和感が拭えない。
迷い人を気軽に家に招いたりと、つかみ所がない。
まさか、このまま取って食ったりするのか?
彼女の考えがどこにあるのか、全く読めなかった。
◆ ◆ ◆
考えに耽っていた男が顔を上げれば、部屋が薄暗い。
眠気が押し寄せているのか。
男が横になろうとした――刹那。
りん。
鈴が、鳴った。
ひたり。
足音だ。
靴の固さがない。
素足か。
りん。
また鈴の音だ。
ゆっくりと、近づいている。
芳香が、鼻腔を擽った。
何の匂いなのか。
花の甘い香りだとは、分かる。
この部屋の匂いではない。
妙な香りだった。
頭がスカッとする。
纏わり付くような、甘い香りなのに。
りん、りん。
鈴の音は、すぐ側まで来ていた。
そちらに目をやれば、アキがいた。
薄暗い部屋に、アキの肢体が浮かび上がった。
美しく輝く金髪が、艶めかしい光沢を帯びる。
真っ白な肌が、ぼんやりとした灯りの下で際立っている。
肌が露わな格好だが、裸ではない。
白の布地が、限られた場所だけ覆っていた。
背から回した布が胸元で捻られ、そのまま首へ掛かっている。
布地は乳房を包むように走り、乳首だけをかろうじて覆っている。
腰回りは、さらに扇情的だ。
サイドは細い金属の紐だけだ。
布地は局部をギリギリ覆うだけで、鼠径部が見えている。
前と後ろに布が垂らされ、股周りを視線から遮る。
中途半端にしか隠さないが故に、情欲を煽り立てるデザインだ。
腰元に、小さな鈴がいくつも括り付けられていた。
先ほどから聞いていた鈴の音は、これだったのだ。
何よりも目を引くのが、その身体だ。
肉の色香を存分に見せる体つきだった。
胸元、腰回り、共にとても豊かな曲線を描いている。
ウェストのくびれが整っており、メリハリが本能に強く訴えかける。
腿の肉付きも十分すぎるが、脹ら脛はすっきりと整っている。
必要な分だけ蓄えられ、無駄がない。
非常に贅沢なボディラインだ。
それが目の前に半裸で現れたのだ。
生唾と固唾を一度に飲み込み、男は指一本動かせなかった。
りん、りん、りん。
アキが、微笑んだ。
全くの別人の表情だ。
超然とした森の妖精は、いない。
本能に響く、魔性の微笑み。
見ているだけで吸い込まれていく。
怖い。
情欲を絡みとり、貪り食らう蜘蛛だ。
ぞくりと、全身の毛が逆立つ。
でも、捕らわれたい、食われたい、そう思う自分がいる。
すらり、と、アキが手を差し上げた。
人差し指が、男の瞳を指した。
アキが、手を返す。
招くような仕草だ。
迂闊に触れれば、取り込まれる。
アキが、微笑んだ。
にこりと、優しい笑み。
でも、胸がざわめく。
全身が熱くても、芯が冷えている。
りん――
もう一度、鈴が鳴った。
アキが、息を吐いた。
開演の合図なのか。
ゆったりとしたダンスだった。
手が頭上まで大きな弧を描く。
腰が、揺らめく。
腰しか、揺らめかない。
この世界にもベリーダンスはあるのか。
よく似た何かなのか、男には分からない。
りん――
非常に柔らかだ。
胸も足も、ほとんど動いていない。
腰だけが、滑らかに動く。
切り離されたように動いている。
身体は一つなのに、離れているのだ。
この踊りは、とても緩やかだ。
だから、誤魔化せない。
勢いで強引に流せない。
全てにおいて、一切の淀みがない。
スマートで、洗練された、身体操作だ。
見事な技術だ。
感動が、胸を満たした。
りん――
リズミカルに動き、鈴が律動を奏でる。
瞬きを忘れ、男は見入る。
アキのダンスに、伴奏は要らなかった。
規則正しい音の波が、夢の一時へ誘っていた。
りん、りん――
ただ腰を振るだけではない。
腰の揺らぎには、いくつもの種類があった。
体軸を中心として、大きな円を描き。
片足を軸に、対側の尻を突き出すように回し。
リズミカルに左右に揺らめかせる。
そのどれもが、艶やかで、美しい。
曲線美を芸術に昇華させた、見事な躍動だ。
男の鼓動にさらに力が満ちた。
りん、りん――
ゆったりとしたステップが、左右に流れる。
とても幻想的な光景だ。
微風に身を委ねているようだ。
そう、森を揺蕩う微風。
しかし、今のアキは、人だ。
妖精のような幻想を残しつつ、限りなく人だ。
女の色香を技術に昇華させたダンス。
纏う衣服が、人の営みを強く押し出している。
振り付けの全てが、『女』だ。
りん、りん、りん――
蛇を思わせる、柔らかな手の表現。
あの手は、男を抱くのだろうか。
しなやかに巻き付き、甘ったるく捕まえるのだろうか。
絡みつかれ、夢を見ているうちに、毒牙を突き立てられるのか。
こんな毒に犯されるならば、喜んで受け入れよう。
本能が、理性を揺さぶる。
りん、りん、りん――
ふぅわりと、緩やかにターン。
微風が気まぐれに、旋風を描いたようだ。
男の鼻腔に甘い匂いが忍び入る。
旋風が、アキの艶気を運んだのか。
その風が、男を包み込む。
まとわりついて離れない。
甘ったるくて、熱っぽい、濃密な空気だ。
りん、りん、りん、りん――
何か聞こえた。
リズミカルに聞こえる、これは何だ?
熱っぽくて、妙に湿っぽくて。
湿気だ。
肌に何かが、触れているんだ。
そうだ、これは人の熱気だ。
すぐ側に誰かがいて、体温が伝わっているんだ。
不意に男は、思い出した。
ここは、寝室だ。
アキが踊るステージはない。
限られたスペースで、アキは踊っていた。
アキは――
りん、りん、りん、りん、りん――
口の中が、甘い。
絡め取られ、さらに刻みつけられている。
肌が、心地良さに覆われている。
呼吸が、苦しい。
吹き付けられる息を、そのまま吸い込んでいるのか。
胸に押しつけられた質感が、とても心地良い。
色香を刻む蛇が這いまわり、身動きが取れない。
視界を埋めるのは、青。
吸い込まれるような青だ。
「――驚いた?」
間近に聞く、アキの声。
抱きしめられているのか。
背中には、ベッドの柔らかな感触。
押し倒されたのか。
風が、足を絡め取っていた。
柔らかで精微なステップを刻んでいた足が、絡みついていたのだ。
伝わる腿の質感が、本能を煽り立てる。
ダンスの終演は、これだった。
色香で絡め取って、そのまま「食べる」こと。
ここまでがアキのダンスだったのだ。
「私に任せて、ね」
吐息の中に潜んだ声は、とても甘かった。
甘さが染み渡り、男の理性を強く揺さぶった。