勇者の淫魔化トラップ譚 作:匿名希望
魔王討伐から数十年、あるいは百年という歳月が流れた世界。
『黒銀の樹海』の静かな洞穴で穏やかな日々を送るアリアは、ある日ふと思い立った。
「勇者アルス」と「女勇者アリア」の足跡が、今の人間社会でどのように語り継がれ、残されているのかを見て回る――己の「史跡巡り」の旅に出ることを。
かつての仲間も街の人々もすでにこの世を去り、自分の真実を知る者は誰一人としていない。
エルフの姿へと速やかに『擬態』したアリアは、落ち着いた若緑色のローブを纏い、一本の木杖を手に、歴史の観光客として人間たちの領土へと足を踏み出した。
第一の史跡:王都の大広場「二勇者の誓い像」
最初に訪れたのは、かつて旅立ちの地であり、魔王討伐の朗報に歓喜した王国の大都市であった。
中央広場の中央には、巨大な白亜の記念碑と、背中合わせに立つ二体の銅像が鎮座していた。
ひとつは剣を力強く掲げる凛々しい青年男性――「初代勇者アルス」。
もうひとつは、愛剣を胸元に抱き、静かに祈りを捧げる可憐な女性――「継承の女勇者アリア」。
銅像の足元には、多くの市民や観光客が色とりどりの花束を供えている。
「ご覧なさい、あのご高潔な眼差しを。アルス様が迷宮で散られた後、アリア様がその意志を継いで魔王を討ち倒したのです」
ガイドの老人が修学旅行の子供たちに向かって熱弁をふるっていた。
(……うわぁ……恥ずかしい……っ!)
群衆の端でフードを深めに被り直したアリアは、顔から火が出るほどの熱さを感じていた。
「二人は魂の伴侶であり、理想の絆であった」などと語られる伝説の尾ひれを聞くたび、背中の翼やお尻の尾が(擬態中であるにもかかわらず)不自然にキュッと縮み上がる。
銅像の「アルス」はあまりにも誇張されて男らしく、「アリア」はまるで汚れを知らぬ聖女のように美化されていた。
実際の自分は、触手トラップで男から女へと無惨に変えられ、果ては発情に耐えかねて魔物に襲いかかった末に淫魔へ堕ちた存在なのだから。
(みんな、ごめんなさい……。
あなたたちが祈っている英雄の正体は、いま目の前でエルフの耳を小さく震わせながら、冷や汗を流している私なんです……)
申し訳なさと羞恥心に耐えかね、アリアは逃げるように広場を後にした。
第二の史跡:討伐の起点「迷宮跡の記念館」
次に訪れたのは、かつて自分が男の勇者だった頃、触手トラップにかかってすべての運命が狂い出したいわくつきの古代遺跡――現在は「勇者受難と覚醒の地」として厳重に管理・観光地化された記念館であった。
入場料の銅貨を払い、展示室へと足を踏み入れためぐり旅のアリア。
ガラスケースの中には、当時の戦闘の凄まじさを物語る品々が展示されていた。
「こちらが、アルス様が最期まで手にされていた愛剣のレプリカです。本物は魔王城の崩壊とともに失われました」
案内板の説明を読みながら、アリアはそっと自分の腰元に目線を落とした。
(本物は……今、私の次元収納の中にちゃんと保管してあるけれどね)
さらに奥の展示室に進むと、思わず足を止めて絶句するコーナーがあった。
『体験コーナー:アルス様を襲った古代の魔の罠』
そこには、からくり仕掛けで動く無害な擬似触手が展示されており、子供たちがはしゃぎながら触っていた。
「わあー! 勇者様はこんな気味の悪いモンスターと戦ったんだね!」
「すごいや! でもアルス様は負けなかったんだよね!」
(……負けました。大負けしました。骨格から性別まで全部作り替えられて、なんなら種族まで変えられました)
心の中で激しいツッコミを入れつつ、アリアは引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
自分が悲鳴を上げ、全身の肉体を組み替えられて喘いでいたその現場が、今や子供たちの微笑ましい学習スポットになっているという現実は、歴史の滑稽さと残酷さを同時に突きつけてくる。
第三の史跡:決戦の地「旧魔王城跡の慰霊碑」
史跡巡りの最後にアリアが訪れたのは、かつて世界の命運を賭けた最終決戦の地、旧魔王城の残骸であった。
崩落した城郭の跡地は、今では緑豊かな丘野となり、遠くに海を見渡せる静かな景勝地となっていた。
かつて「女勇者アリアが散った」とされる最上階の崩落跡には、ぽつんと小さな石の碑が立っていた。
夕暮れ時、橙色の光が丘を染める中、アリアは静かに慰霊碑の前に佇んだ。周囲には人影もない。
「……ふぅ。散々な史跡巡りだったわね」
彼女はそっと擬態の魔力を解いた。
黄金のエルフの耳が消え去り、豊かな薄紫色の髪が夕風にたなびく。頭部からは滑らかな黒角が伸び、背中には漆黒の翼が広がり、腰からはハート型の尾がゆったりと揺れた。
お腹に刻まれた紫色の淫紋が、夕闇の訪れとともに静かに淡い光を放ち始める。
「アルスも、アリアも……みんないなくなって、残ったのは私ひとり。
世間じゃ『誇り高き英雄』として美化されているけれど……本当の私は、欲望と上手にお付き合いしながら生きている一匹の淫魔」
刻まれた石碑の文字を、爪先まで紫色の細い指で撫でる。
歴史は都合の良い美しい物語だけを残し、泥臭く、破廉恥で、けれど必死に生き抜いた真実を置き去りにしていく。
しかし、不思議と胸の中に悲しみや怒りは湧いてこなかった。
「でも……これで良かったのよね」
人々が平和を享受し、かつての自分たちの名を笑顔で語り継いでくれている。
ならば、自分がどれほど不条理な変化を遂げ、人知れず淫魔として生きることになろうとも、あの旅と苦闘には間違いなく意味があったのだ。
「みんなが作ってくれた平和な世界で、私は私なりに、これからもたくましく生きていくわ」
お腹の淫紋がじんと甘い熱を帯び、今夜もまた訪れる発情の周期を告げていた。
アリアは愛おしそうに己の尾をひと撫ですると、翼を大きく羽ばたかせた。
夕闇深まる空へと高く舞い上がり、自らの愛しい隠れ家――『黒銀の樹海』の深い緑へと向かって、静かに飛翔していくのだった。
『黒銀の樹海』の最奥で穏やかな隠遁生活を送るアリアは、史跡巡りから戻った後、ふと一つの疑問を抱いていた。
「私が人間をやめて淫魔になってから、すでに数十年の年月が流れている……。
あの時、一緒に魔王を倒した仲間たちは、今どうしているのかしら」
かつてのパーティーメンバー――前衛で無茶ばかりしていた脳筋の戦士、異端の魔法を研究していた天才魔導師、そして誰よりも冷静だった斥候の少女。
彼らもまた人間の身であれば、とっくに寿命を迎えてこの世を去っているはずだった。
「私だけが淫魔の肉体で不老のまま取り残され、みんなは歴史の彼方に消えていった」――そう思い込んでいたアリアだったが、ふとした好奇心に駆られ、エルフの姿へと『擬態』した彼女は、かつての仲間たちの現在をこっそり確かめに行くことにしたのだった。
第一の目的地:常軌を逸した「最強の道場」
最初にアリアが向かったのは、かつて前衛として共に戦った巨漢の戦士、ガルドが興したという辺境の武術道場だった。
「勇者アルスと魔王を討ち倒した戦士の流派」として名高いその道場に近づいたアリアは、遠目から中の様子を見て、思わず目を疑い、木杖を取り落としそうになった。
ドォン! と、常軌を逸した轟音が静かな山あいに響き渡る。
道場の庭で、数百キロはあろうかという巨大な隕鉄の塊を片手で軽々とジャグリングしながら、白髪交じりの大男――ガルドが平然と素振りをしていた。
いや、老けてはいるものの、その肉体は数十年前よりむしろ密度と魔力の輝きが増しており、一撃放つたびに周囲の空間が微かに歪んでいる。
「おらぁっ! 剣技が甘いぞ小僧ども! そんなパンチでは、そこらの暴走ドラゴンの一枚鱗すら剥がせせん!」
ガルドの怒声に合わせて、道場で稽古をつけていた門下生たちが凄まじいスピードで木刀を振るう。
だが、その門下生たちの動きもおかしい。
誰もが音速を超え、一振りの風圧だけで道場の外壁を木端微塵に吹き飛ばしている。
(……ちょっと待って、あれのどこが「人間の武術道場」なの……!?)
フェンスの陰でエルフ耳をピクピクさせながら、アリアは冷や汗を流した。
ガルドはただの人間であるはずなのに、闘気を極め続けた結果、肉体の限界を完全に突破し、もはや「神話の武神」のような領域に達していた。
人間の寿命などとっくの昔に筋力と気迫でねじ伏せ、気付けば不老の怪物肉体に進化していたのだ。
「フン、今日もいい汗をかいたわい。……なあ、アルス、お前ならこの一撃、どう受ける?」
ガルドがふと空を見上げ、亡き相棒の名を呟きながら懐かしそうに笑った。
その眼差しがあまりにも真剣で温かかったため、アリアは思わずフードを深く被り直し、「元気そうで何よりだけど、近づくのはやめておこう……」とそっとその場から退散したのだった。
第二の目的地:しれっと人間を辞めていた天才魔導師
次に向かったのは、かつてのパーティーで魔法担当だったエリスの拠点、大陸最高峰の魔法都市にある「星詠みの塔」だった。
エリスといえば、当時は人間の天才魔導師として持て囃されていたが、彼女もまた人間の寿命の壁にぶつかっているはずだった。
しかし、塔の最上階にこっそり忍び込んだアリアが目撃したのは、まったく老いていない――どころか、さらに人間離れした姿に変貌を遂げたエリスの姿だった。
「ふふふ……『物質界の肉体という制約』がこれほど非効率だったとはね。
細胞の劣化? 寿命? そんなものは、魂の魔力変換効率を99.8%まで引き上げれば一発で解決よ」
フラスコや魔導書が飛び交う実験室で、エリスは独り言を呟いていた。
彼女の背中からは、かつては存在しなかった美しい星屑のような光の環が幾重にも浮かび上がり、額からは透明な水晶の角のような魔導器官が神々しく煌めいている。
人間の肉体構造を自らの魔術改造によって完全に再構築し、肉体という概念を脱ぎ捨てて「高次の存在(アストラル生命体)」へと進化していたのだ。
(あ、あの人……! 人間の寿命を克服するとかいうレベルじゃなくて、自主的に『人外の何か』にクラスチェンジしてる……っ!)
アリアはエルフの姿のまま壁際に身を縮こまらせた。
エリスはふと気配を察知したのか、こちらを振り返った。
だが、その瞳は物理的な視覚を超越し、空間の魔力の揺らぎを直接見通していた。
「あら? そこにいるのは……どこかで見たような、懐かしい魔力の波長ねぇ……。
ま、いっか。どうせ私の新しい論文の実験台か、ただの通りすがりのエルフでしょう」
エリスは興味を失ったように再び研究に没頭し始めた。
「人間を辞める」という点においては、淫魔になってしまった自分を笑えないほどの変貌を遂げていた元仲間を目の当たりにし、アリアは複雑な笑みを浮かべながら、そっと窓から夜空へと抜け出した。
第三の目的地:今更判明する「初恋」の衝撃
かつての仲間たちの規格外すぎる生存っぷりに圧倒されながら、アリアが最後に向かったのは、パーティーの斥候であり、いつも一歩引いたところから冷静に全員を見守っていた少女――シエラの隠れ家だった。
深い森の奥、静かな湖畔に建つログハウスのテラスで、シエラは一人、優雅にハーブティーを飲んでいた。
彼女もまた、エルフの血が混じっていたわけでもないのに、当時の少女の姿のまま、一時の老いも見せずにそこに座っていた。
(シエラも……まさか、何か特別な方法で長生きしているのね)
アリアがエルフの変装を解き、本物の薄紫色の髪と黒角を見せながら、そっとテラスの前に降り立った瞬間だった。
「――遅かったじゃない、アルス」
シエラは驚く様子もなく、カップをソーサーに置き、冷たくもどこか甘やかな瞳でアリアを見据えた。
「え……?」
アリアは言葉を失った。
闇に紛れた自分の存在にその場で気づかれたことにも驚いたが、何より自分を「アルス」と呼んだことに動揺した。
「驚いた顔しないでよ。あんたがどんな姿に変わろうと、その魂の魔力と、不器用な気配まで変わるわけないでしょう」
シエラはふわりと微笑み、テラスの椅子を勧めた。
「……気づいてたの?」
「最初からね。というか、あんたが触手トラップで女体化した夜から、ずっと気づいてたわよ」
(――なっ……!?)
アリアの脳裏に、あの日の絶望の記憶が電流のように駆け抜けた。
あの時、誰も気づいていないと思い込み、一人で泥水をすする思いで秘密を隠し通していたつもりだったのに、まさか一番近くにいた斥候に見抜かれていたとは。
シエラはくすくすと思い出し笑いをした。
「あの時、男から女に変わって泣きじゃくっていたあんたを見て、私、心底思ったの。
『あぁ、この人はなんて可愛いんだろう』ってね。
魔王討伐の旅の最中も、ずっとその姿にドキドキしながら、どうやって言い寄ろうかタイミングを見計らっていたのよ。
なのに、あんたは勝手に一人で悩んで、勝手に失踪しちゃったんだから」
「ちょっ、ちょっと待って……それって……」
アリアの顔が、今までにないほどの勢いで真っ赤に染まった。
お腹の淫紋が恥ずかしさのあまり激しく脈動し、背中の翼がバサリと大きく広がる。
「そうよ。私にとっての生きる目的は、あの旅の時からずっと『アルス』だったの。
だから、あんたが人間を捨てて淫魔になったって聞いた時も、寿命なんてとうの昔に魔術と暗殺術の極意で超越して、こうしてずっとあんたを探し続けていたのよ」
シエラは立ち上がり、アリアの目の前まで歩み寄ると、その細い指でアリアの頬を優しく撫でた。
淫魔の敏感な皮膚に触れた瞬間、心地よい熱が全身を駆け巡る。
「人間をやめた戦士も、魔導を極めて概念になった魔導師も、みんなそれぞれの方法で寿命を克服して生き延びているわ。だからね、アルス……もう一人で隠れなくてもいいのよ」
エピローグ:新たな「日常」の始まり
『黒銀の樹海』の最奥。
かつては孤独な隠遁の地だったその洞穴は、今や少しだけ賑やかになっていた。
最強の武術を極めたガルドが時々差し入れの肉を持って訪れ、概念と化したエリスが空間転移で面白半分に研究道具を置き逃げしていく。
そして何より、かつての初恋の相手であり、同じように人間の枠組みを飛び越えたシエラが、今やアリアの隣で穏やかに微笑みながら寄り添っている。
「はぁっ……ん……シエラ、そこは……ダメ……っ♪」
発情の周期が訪れ、洞穴の寝台の上で淫魔としての熱に身をよじるアリアを、シエラは優しく、そして包み込むように抱きしめる。
かつては一人で耐えるしかえなかった甘い苦痛も、今は愛しい誰かと分かち合う確かな温もりへと変わっていた。
人間の寿命を全員で軽々と克服し、誰も彼もが常軌を逸した「人外の怪物」へと進化を果たしたかつての仲間たち。
その中心で、元勇者の淫魔は、隠し事をすべて打ち明けた解放感と、予想外すぎる初恋の成就に頬を染めながら、今日も穏やかで少し刺激的な日々を過ごしているのだった。