※この作品はR-18です。

貞操逆転世界の傾国記   作:熟睡枕

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第10話 失踪事件2

どれくらい時間が経ったのだろうか。

俺はすっかり本に夢中になっていた。

ページをめくり、挿絵を眺め、前のページに戻っては、似たような絵を探す。

文字は読めない。

それでも、絵の配置や繰り返し登場する記号を見ていると、何かしらの規則性があるように感じられた。

同じような点の模様。

人の手の動き。

炎や水が生まれるまでの過程。

それらを見比べているだけでも、考えることは尽きなかった。

……いや、これは本当に面白い。

できれば、この本を自分の部屋へ持って帰りたい。

そうすれば、何度でも読み返せる。

文字を覚えたあとに、もう一度読めば、今はわからない説明も理解できるかもしれない。

 

そう考えながら俺は、ページをめくろうとした。

そのときだった。

――何か、騒がしい。

遠くから人の声が聞こえてきた。

最初は、使用人たちが仕事をしている音だと思った。

だが、どうも様子がおかしい。

足音が増えている。

誰かが慌ただしく廊下を走っているようだった。

声も大きくなっている。

 

「まだ見つからないの!?」

「こちらの部屋にはいらっしゃいません!」

「廊下も確認して!」

 

……何だろう。

俺は顔を上げた。

どうやら、屋敷の中で何かが起こっているらしい。

しかし、せっかく見つけた本が面白すぎる。

今は、それどころではなかった。

俺は再び本に目を落とした。

ページをめくる。

次の挿絵を見る。

そして、考える。

……空気中の物質を操作するという考え方が正しいなら、魔法を使うためには、まずその物質を感知する必要があるのだろうか。

あるいは、感知せずとも操作できるのか。

使用人たちは、特別な道具を使っているようには見えなかった。

ならば、感覚的に操作しているのかもしれない。

それとも、訓練によって身につけるものなのか。

考えれば考えるほど、疑問が増えていく。

……ああ、早く文字を覚えたい。

 

しかし、今を何冊か見ていることでいくつか文字の規則性なども見えてきた

俺でも理解できる程度の簡単な単語であれば、文字と読みと意味を一致させることもできそうだ

謎解きみたいでワクワクしてきた

紙とペンがあればよかったがそんなものはないので複数の本を広げて予測できそうなものを探していく

 

バンッ!!!!

 

そんなことをしていると、突然勢いよく扉が開いた。

俺はびくりと肩を震わせ、本から顔を上げた。

扉の向こうに立っていたのは、母アンネリーゼだった。

 

「………っ!!、ルシーっ!!!」

 

アンネリーゼの顔を見た瞬間、俺は何が起こったのか理解できなかった。

いつも優しく微笑んでいるアンネリーゼが、今は明らかに乱れていた。

髪は少し乱れ、息も上がっている。

目には涙が浮かんでいた。

アンネリーゼは俺の姿を見つけると、一瞬だけ動きを止めた。

そして、次の瞬間。

 

「ルシー……!」

 

駆け寄ってきた母に、俺は勢いよく抱き上げられた。

ぎゅうっ、と。

息が詰まりそうなほど強く抱きしめられる。

 

「よかった……! よかったわ……!」

 

アンネリーゼの声が震えていた。

頬に、温かいものが落ちる。

涙だった。

アンネリーゼは泣いていた。

俺を抱きしめたまま、何度も何度も名前を呼んでいる。

 

「ルシー……ルシー……!」

 

……え?

何が起きているんだ?

俺は困惑した。

アンネリーゼがここまで取り乱す理由がわからない。

俺はただ、本を読んでいただけだ。

いや、文字は読めていないのだが。

とにかく、少し書庫へ来ただけである。

それなのに、なぜアンネリーゼは泣いているのだろうか。

 

「どうして……どうして何も言わずにいなくなったの……!」

 

母の声は、ほとんど悲鳴に近かった。

その言葉を聞き、ようやく俺は理解した。

……あ。

もしかして。

俺、行方不明になっていたのか?

 

◇

 

その後のことは、正直に言えば、あまりよく覚えていない。

アンネリーゼはしばらく俺を抱きしめ続けた。

俺が無事であることを何度も確かめ、頭を撫で、頬に触れ、再び強く抱きしめる。

そして、ようやく落ち着いた頃。

アンネリーゼは俺の顔を覗き込んだ。

 

「ルシー……」

 

優しい声だった。

だが、その瞳にはまだ涙が残っていた。

 

「どうして、こんなところにいたの?」

 

俺は本を指さした。

正確には、アンネリーゼの腕の中から、床に置かれた本へ手を伸ばした。

これを読んでいたのだ、と伝えたかった。

アンネリーゼは本を見た。

そして、俺を見た。

再び本を見た。

 

「……本を、読んでいたの?」

 

俺は笑顔を浮かべた。

そうだ。

そのとおりである。

俺は文字を覚えたくて、魔法について知りたくて、この書庫まで来たのだ。

少しくらい褒めてもらえるかもしれない。

そう期待した。

だが。

 

「ルシー!」

 

アンネリーゼの声が大きくなった。

俺はびくりとした。

 

「一人でこんなところに来てはだめでしょう!」

 

……はい?

 

「あなたがいなくなって、どれだけ心配したと思っているの!」

 

アンネリーゼの目から、また涙がこぼれた。

 

「部屋にもいない、廊下にもいない、どこを探しても見つからない……! もし、どこかで転んでいたら? 階段から落ちていたら? 誰かに連れていかれていたら……!」

 

アンネリーゼの声が震える。

最後の方は、言葉にならないようだった。

俺はようやく、自分がしでかしたことの重大さを理解し始めていた。

確かに、俺は一人で部屋を出た。

しかも、屋敷の中をあちこち移動した。

途中で転ぶ可能性もあったし、階段に近づく危険もあった。

今の俺は、まだ自由に歩くことすらできない赤ん坊なのだ。

そんな子供が突然いなくなったら、家族が心配するのは当然だろう。

……これは、完全に俺が悪い。

少し調子に乗っていたようだ。

ここは間違いなく天国ではない。現実の世界だ

アンネリーゼは俺を抱きしめ直した。

 

「お願いだから……勝手にいなくならないで……」

 

その声は、先ほどまでとは違っていた。

怒りよりも、不安が強かった。

俺はアンネリーゼの胸に顔を寄せた。

どうすればいいのか、わからなかった。

言葉で謝ることすら、まだできない。

だから、俺は小さな手でアンネリーゼの服を握った。

そして、できる限り素直な顔で、アンネリーゼを見上げた。

アンネリーゼはしばらく俺を見つめていた。

やがて、再び俺を抱きしめた。

 

「……もう。心配させないでちょうだい……」

 

その声を聞き、俺は胸の奥が少し痛くなった。

赤ん坊だから仕方がない、では済まされないこともあるのだ。

……反省しよう。

少なくとも、一人で屋敷を探検するのは、もう少し身体が成長してからにするべきだった。

いや、そもそも、母や姉たちになんとか伝えればよかったのだ。

本に興味があることを示せばよかったのだ

何も隠す必要はなかったのだ

そうすれば、普通に書庫へ連れていってもらえたかもしれない。

俺は心の中で、深く反省した。

もっとも、今の俺にその反省を言葉で伝えることはできなかったのだが。

 

◇

 

アンネリーゼに抱きかかえられて書庫を出ると、廊下には数人の侍女が集まっていた。

皆、どこか疲れたような顔をして目元を赤くしていた。

俺の姿を見つけると、彼女たちは一斉に駆け寄ってきた。

 

「ルシアニウス様!」

「ご無事でよかった……!」

「本当に、どこへいらっしゃっていたのですか……!」

 

口々に声をかけられる。

そして、アンネリーゼに抱かれている俺の頭や頬に、そっと触れてくる。

……ええと。

そんなに心配をかけてしまったのか。

俺は申し訳ない気持ちになった。

しかし、その一方で、少し不思議でもあった。

たかが赤ん坊が一人いなくなっただけで、屋敷中がこれほどの騒ぎになるものなのだろうか。

もちろん、家族が心配するのは理解できる。

だが、侍女たちまで涙を浮かべている。

アンネリーゼも、まだ俺を離そうとしない。

まるで、二度と会えなくなるところだったかのような反応だった。

……俺は、そんなに大切にされているのだろうか。

いや、大切にされていること自体は、普段の生活からもわかっている。

ただ、今回の反応は、少し度を越しているように思えた。

俺が考え込んでいると、アンネリーゼがこちらを向いた。

 

「ルシー。お母様のお話を聞いてちょうだい」

 

その声に、俺は意識を戻した。

 

「あなたが一人で動き回れるようになったのは、嬉しいことよ。でも、まだ何が危ないのか、自分ではわからないでしょう?」

 

俺はアンネリーゼの顔を見つめた。

 

「だから、行きたいところがあるときは、誰かに伝えてちょうだい。勝手にいなくなってはだめ。わかった?」

 

俺は小さく頷いた。

母は、ほっとしたように息を吐いた。

……よし。

どうやら、これで終わりらしい。

そう思ったのだが。

 

「それから」

 

母の表情が、少しだけ厳しくなった。

 

「今日は、きちんと反省しましょうね」

 

……はい。

ですよね。

どうやら、説教の時間が始まるらしい。

 

◇

 

その後、俺はアンネリーゼと数人の侍女から、たっぷりと叱られることになった。

もちろん、今の俺に長い説教の内容をすべて理解することはできない。

それでも、声の調子や表情を見れば、何を言われているのかはだいたいわかった。

勝手に部屋を出てはいけない。

危ない場所へ行ってはいけない。

どこかへ行きたいときは、必ず大人に伝える。

そして、皆に心配をかけてはいけない。

……はい。

ごもっともです。

俺は反省の意を示すように、アンネリーゼの顔をじっと見つめた。

ところが、アンネリーゼは話している途中で、突然俺を抱きしめた。

 

「……本当に、無事でよかったわ……」

 

ぎゅうっ。

またしても、強い抱擁だった。

アンネリーゼの肩が小さく震えている。

……泣いている?

俺は母の顔を見上げた。

やはり、目元が濡れていた。

 

「ごめんなさいね、ルシー。お母様、少し怒りすぎているかもしれないわね。でも……本当に心配だったのよ」

 

アンネリーゼは俺の頭を撫でた。

 

「あなたに何かあったらと思うと……」

 

そこで言葉を切り、再び俺を抱きしめる。

……いや、怒っているのか、心配しているのか、どちらなのだろう。

いや、両方なのだろう。

俺はようやく、そのことを理解した。

アンネリーゼは俺を大切に思っているからこそ、怒っている。

そして、怒っていても、無事な姿を見ると抱きしめずにはいられないのだ。

その後も、侍女たちが順番に俺に言い聞かせた。

 

「ルシアニウス様、もうあのようなことはなさらないでくださいね」

「本当に、心臓が止まるかと思いました……」

「どこかへ行かれるときは、必ず私たちを呼んでくださいませ」

 

皆、真剣だった。

しかし、話している途中で俺の顔を見ると、急に表情が緩む。

 

「……ああ、もう。そんな顔をされては、怒れません」

「でも、だめですよ。次は本当にいけませんからね」

 

そして、また頭を撫でる。

……なるほど。

これは、俺が何をしても最後には許されてしまうのではないだろうか。

いや、違う。

違うはずだ。

今回は、俺が悪かった。

だから、きちんと反省しなければならない。

俺はそう考え、母の服をぎゅっと握った。

アンネリーゼはその仕草を見ると、とうとう笑顔を浮かべた。

 

「……もう。ルシーは本当に、困った子ね」

 

そう言いながらも、母の腕は俺を離さなかった。

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