この世界について知ることが増えるにつれ、俺は一つのことに気づき始めていた。
侍女たちの態度が、少し変なのだ。
いや、正確には、俺に対する評価が、妙に高い。
「ルシアニウス様は、本当に礼儀正しくていらっしゃいますね」
ある日、俺が飲み物を受け取ったときのことだ。
侍女がカップを差し出してくれたので、俺は両手で受け取り、小さく頭を下げた。
「ありがとう」
それだけである。
普通のことだ。
前世でも、何かをしてもらったら礼を言う。
それは当たり前のことだった。
ところが、侍女は目を輝かせた。
「まあ……! きちんとお礼を言ってくださるなんて」
……え?
俺は首を傾げた。
お礼を言っただけなのだが。
別の日には、俺が侍女の持っていた布を落としてしまったとき、拾って渡したことがあった。
それも、特別なことではない。
目の前に落ちたものを拾っただけだ。
だが、侍女は感激したように胸元へ手を当てた。
「ルシアニウス様は、本当にお優しいですね」
……いや、布を拾っただけだ。
さらに別の日。
俺が遊んでいる侍女の服を引っ張り、構ってほしいとアピールしていたときのことだ。
彼女が仕事の手を止めて俺の相手をしてくれると、俺は満足して手を離した。
すると、侍女は微笑んだ。
「お仕事中だとわかって、気を使ってくださったのですね」
……違う。
単に満足しただけだ。
そもそも、俺は構ってほしくて服を引っ張ったのだ。
気を使ったどころか、完全に邪魔をしている。
しかし、侍女はそうは受け取らなかったらしい。
「ルシアニウス様は、まだ小さいのに、周囲のことをよく見ていらっしゃいますね」
そう言って、頭を撫でてくれた。
……うーん。
何かがおかしい。
もちろん、俺が前世の記憶を持っていることは、周囲には秘密だ。
だから、年齢に比べて落ち着いて見えること自体は、不思議ではないのかもしれない。
それに男が珍しいのも知っている。
しかし、それにしても褒められすぎではないだろうか。
俺は特別に礼儀正しいつもりも、優しいつもりもない。
ただ、普通に接しているだけだ。
それどころか、侍女の後ろをついて回ったり、構ってほしくて小さないたずらをしたりしている。
むしろ、手のかかる子供なのではないだろうか。
俺は少し考えた。
……もしかして、末っ子だからだろうか。
母も姉たちも、俺を甘やかしてくれる。
侍女たちも、俺のことをかわいがってくれる。
だから、何をしても好意的に受け取ってくれるのかもしれない。
そう考えれば、一応の説明はつく。
俺は納得した。
◇
読み聞かせを通じて得られた知識は、男女比や家族のことだけではなかった。
俺が最も興味を持っていた魔法についても、少しずつ情報が集まり始めていた。
ある日の午後、セレナが一冊の本を持ってきた。
表紙には、手をかざす人物と、その周囲を漂う点のようなものが描かれている。
以前、書庫で見つけた本と似た挿絵だった。
「こちらは、魔法についての本でございます」
セレナが説明してくれた。
「文字はまだ少し難しいかもしれませんが、絵も多いので、ルシアニウス様にも楽しんでいただけるかと思います」
俺は目を輝かせた。
魔法の本。
しかも、セレナが俺のために選んでくれたものだ。
これは期待できる。
俺は彼女の隣に座り、本を開いてもらった。
そこには、魔法の基本的な考え方が、挿絵とともに説明されていた。
まず、空気中には、魔法に利用できる目に見えない物質が存在する。
その物質を感知し、操作することで、魔法を発動させる。
物質の量や操作の精度、そしてイメージの明確さによって、魔法の結果は変わる。
……なるほど。
以前、俺が挿絵から推測したことは、大きく外れていなかったらしい。
ただし、本を読み聞かせてもらうことで、さらに重要なことがわかった。
この世界では、その目に見えない物質を魔素と呼んでいるのだという。
魔素は大気中に漂っており、魔法を使う者は、それを感知して操作する。
魔素を扱えなければ、魔法を発動させることはできない。
また、魔素を扱える量には個人差があり、その差は才能だけでなく、訓練によっても変わるらしい。
……これは面白い。
魔素というものが、実際にどのような性質を持っているのかは、まだわからない。
だが、少なくとも、この世界の魔法は、完全に何でもありの力というわけではないようだ。
魔素を感知する。
魔素を操作する。
目的に応じた現象を生み出す。
この一連の流れには、何らかの規則性がある。
俺は本の挿絵をじっと見つめた。
俺は興奮を抑えきれず、セレナを見上げた。
「セレナ」
「はい、ルシアニウス様」
「ぼくも、まほうをおぼえたい」
自分でも驚くほど、はっきりと言葉が出た。
セレナは少し目を丸くした。
「魔法を、でございますか?」
「うん」
俺は頷いた。
「これ、やってみたい」
そして、本の挿絵を指さした。
魔素を操作する人物の絵。
魔法を使っている様子が描かれたページ。
俺はそれを、何度も指さした。
魔法を覚えたい。
自分で魔素を操作してみたい。
実際に魔法を使い、その仕組みを確かめてみたい。
その気持ちは、もう抑えられなかった。
しかし。
セレナの反応は、俺の期待とは少し違っていた。
「……そうでございますか」
彼女は困ったように微笑んだ。
「ルシアニウス様は、まだお小さいですからね。少々早いかもしれません」
「でも……」
「それよりも、絵を描いたり、お人形で遊んだりする方が、今はよろしいのではないでしょうか」
……は?
俺は固まった。
お人形。
絵を描く。
いや、別にそれらが嫌いというわけではない。
だが、俺がやりたいのは魔法の研究だ。
それなのに、なぜお茶会なのだろう。
俺は少し考え、もう一度尋ねた。
「……まほう、だめ?」
「だめというわけではございませんよ」
セレナは優しく答えた。
「ただ、魔法は危険なこともございますし、ルシアニウス様には、まだ早いかと存じます」
「……なんで?」
「ルシアニウス様は男の子でいらっしゃいますから……」
その言葉を聞いて、俺は再び固まった。
……男の子だから?
魔法と性別に、何の関係があるのだろう。
この世界では、男性が魔法を学ぶこと自体、あまり一般的ではないのだろうか。
俺は首を傾げた。
「ねえさまたちは、まほうをならってる?」
「はい。魔法を学ぶ女性は多くいらっしゃいますよ」
「おとこのひとは?」
「男性にも魔法を使う方はいらっしゃいますが、女性ほど多くはありませんね。それに簡単な魔法しか使われない場合が多いので幼少期から学ぶ方はほぼいません」
……なるほど。
男女比の影響もあるのかもしれない。
男性が希少で、社会的にも大切にされている。
だから、危険なことや難しいことをさせるよりも、穏やかに過ごしてもらう方がよいと考えられているのだろう。
理屈はわからなくもない。
だが、俺は納得できなかった。
魔法は、俺にとって、この世界で最も興味深いものだ。
前世では触れることのできなかった、まったく新しい現象。
それを、男だからという理由だけで遠ざけられるのは困る。
俺は本を見下ろした。
……どうすればいい。
母に頼むか。
姉たちに相談するか。
いや、セレナの反応を見る限り、簡単には許してもらえないだろう。
ならば、どうするか。
俺は少し考えた。
そして、一つの結論にたどり着いた。
――こっそり練習すればいいのではないだろうか。
◇
その夜。
俺は寝台の中で、じっと天井を見つめていた。
部屋の明かりは消えている。
窓から差し込む月明かりが、床に淡い光を落としていた。
隣の部屋では、侍女が控えている気配がする。
いつものことだ。
失踪事件以来、俺が眠っている間も、誰かが近くにいることが多くなった。
……本当に、過保護である。
しかし、今はそれが都合よかった。
俺は寝台の中で、そっと目を閉じた。
今日、セレナに読み聞かせてもらった本の内容を思い返す。
空気中に漂う魔素。
それを感知し、操作することで魔法を発動させる。
魔素を扱える量には個人差がある。
そして、魔法の精度や効率も、使い方によって変わる。
ならば、最初にやるべきことは何だろう。
いきなり火を出そうとするのは危険だ。
水を作るのも、物体を浮かせるのも、仕組みを理解していないうちは難しいだろう。
まずは、魔素を感じ取ること。
それができなければ、何も始まらない。
俺は呼吸を整えた。
そして、周囲の空気に意識を向けた。
何かが見えるわけではない。
何かが聞こえるわけでもない。
ただ、そこに何かが存在していると仮定して、意識を集中させる。
目に見える現象だけでなく、その背後にある仕組みを想像する。
空気中には、目に見えない魔素が漂っている。
それを感知する。
そして、少しずつ、自分の意思で動かす。
……何も起きない。
当然だ。
初めてなのだから。
俺は諦めず、もう一度試した。
魔素がどこにあるのか。
どのような感覚で捉えられるのか。
何か、手がかりはないだろうか。
何度も考え、意識を集中させる。
やはり、何も起きない。
だが、そこでやめるつもりはなかった。
俺は寝台の中で、静かに意識を集中させ続けた。
しばらくして、眠気が襲ってきた。
……まずい。
この身体は、まだ二歳だ。
夜更かしをするには早すぎる。
しかし、今やめるわけにはいかない。
俺は必死に目を開け、もう一度、周囲の空気へ意識を向けた。
そのときだった。
ほんの一瞬。
何かが指先の近くにあるような感覚がした。
目には見えない。
触れることもできない。
それでも、確かに何かがそこにあるような気がした。
……今のは?
俺は息を止めた。
もう一度、同じ感覚を探そうとする。
だが、今度は何も感じられなかった。
気のせいだったのかもしれない。
眠気のせいで、感覚が曖昧になっただけかもしれない。
それでも、俺の胸は高鳴っていた。
もしかすると、今の感覚が魔素を捉えたものだったのだろうか。
もしそうなら、最初の一歩を踏み出せたことになる。
俺は興奮を抑えながら、ゆっくりと息を吐いた。
……明日も試してみよう。
いや、明日だけではない。
毎日、少しずつ練習しよう。
誰にも知られないように。
俺は小さな手を胸の前で握りしめた。
夜の静けさの中、二歳の少年は、誰にも知られない秘密の特訓を始めたのだった。
補足:作中で男の子が魔法や剣などの座学以外を学ぼうとするのは、現実で女の子が機械系や電気電子系に進むくらい珍しいという想定です