……
………
…………いつのまにか本当に眠ってしまっていたようだ。
廊下から、慌ただしい足音が聞こえてきて目を覚ました。
「こちらです! 確かに、この廊下に……!」
「落ち着いて。何を見たの?」
「浮いていたんです! 人が……いえ、子供のようなものが……!」
「子供?」
「本も浮いていて……それで、こちらを見たら、急に消えて……!」
夜中に出会った侍女たちの声だった。
俺は布団の中で、さらに身体を縮めた。
お願いだから、こっちには来ないでくれ。
しかし、そんな願いは通じなかった。
扉が開く音がした。
「ルシアニウス様は?」
「お休みになっているはずです」
セレナの声だ。
いつも冷静な彼女の声だったが、今日は少しだけ緊張しているように聞こえた。
「念のため、確認を」
足音が近づいてくる。
寝台の脇で止まった。
「ルシアニウス様?」
セレナが俺を呼ぶ。
俺は目を閉じたまま、寝息を立てるふりをした。
「……ご無事のようですね」
セレナはそう言って、俺の寝台から離れた。
どうやら、疑われてはいないらしい。
どちらかというとさらわれてないか心配している感じだった
俺は胸をなで下ろした。
助かった。
そう思ったのも束の間だった。
「本当に見たんです! 空中に浮かぶ人影を!」
「わかりました。詳しく話を聞きますから、まずは落ち着いてください。それと、屋敷内の見回りを増やしてください。念のため、使用人たちにも知らせておきましょう」
「は、はい!」
……まずい。
これは、かなりまずい。
屋敷の中を自由に探索するどころではない。
見回りが増えれば、魔法の練習も難しくなるかもしれない。
俺は布団の中で頭を抱えた。
いや、実際には頭を抱えることもできない。
寝たふりを続けているのだから。
しばらくして、足音が遠ざかり、扉が閉まった。
俺はゆっくりと目を開けた。
部屋には誰もいない。
ようやく安心した俺は、長く息を吐いた。
……やってしまった。
完全にやってしまった。
魔法を使えることが知られたわけではない。
少なくとも、今のところは。
だが、屋敷に幽霊が出たという噂は、間違いなく広まるだろう。
そして、その噂の原因が自分だと知られたら。
母は心配するだろう。
ノーラ姉さんは呆れるかもしれない。
リーザ姉さんは面白がるかもしれないが、最後には怒るだろう。
セレナは……。
俺は、セレナの顔を思い浮かべた。
あの冷静な侍女が、もし本気で怒ったら。
想像するだけで、背筋が寒くなった。
その日は、もう魔法の練習をする気にはなれなかった。
俺は大人しく寝台に横になり、布団をかぶった。
今後は、もっと慎重に行動しよう。
そう心に誓った。
……もっとも、好奇心を完全に抑えられるとは思っていなかったが。
◇
翌日から、屋敷の様子が少し変わった。
使用人たちの間で、妙な噂が広まっていたのだ。
曰く、夜の廊下に幽霊が出る。
曰く、何もない空中に人影が浮かんでいた。
曰く、その幽霊は本を読んでいた。
俺は母さんの膝の上で絵本を読んでもらいながら、そんなことを考えていた。
「最近、屋敷で不思議なことが起きているみたいなの」
母さんが、心配そうな顔で言った。
「ふしぎなこと?」
俺は幼児らしく首を傾げた。
内心では、冷や汗が止まらない。
「ええ。誰もいない廊下で、妙なものを見たという人がいるのよ。大きな声を出して驚いた人もいるみたい」
母さんは俺を抱きしめ、優しく頭を撫でた。
「でも、ルシーは心配しなくていいからね。何かあったら、すぐに母さんのところへ来るのよ」
「うん」
俺は素直に頷いた。
……ごめんなさい、母さん。
その幽霊、俺です。
とはいえ、正直に打ち明ける勇気はなかった。
母は俺を抱きしめたまま、侍女たちに指示を出していた。
屋敷の見回りを増やすこと。
夜間の廊下には不用意に近づかないこと。
不審なものを見た場合は、すぐに周囲に知らせること。
どうやら、思っていた以上に大きな騒ぎになっているらしい。
俺は心の中で反省した。
今後は、探索の時間と場所を考えなければならない。
そもそも、ダミー人形を置いただけで安心していたのが間違いだったのだ。
人に見られたときの対策も必要だし、魔法の使い方そのものも、もっと工夫する必要がある。
やはり、何事も準備が大切だ。
……次からは、本当に気をつけよう。
◇
幽霊騒動は、数日たっても収まらなかった。
目撃した侍女たちは、今でも廊下を歩くたびに周囲を気にしているらしい。特に、最初に俺を目撃して漏らした侍女は、あの廊下を通るのを嫌がっていると聞いた。
……本当に申し訳ない。
俺も、そこまで怖がられるとは思っていなかった。
とはいえ、空中に浮かぶ幼児と、宙を漂う本。
冷静に考えれば、かなり異様な光景だ。
俺が悪い。
そこは認めよう。
そして、騒動が始まってから数日後。
屋敷に一人の来客があった。
その日、俺はアンネリーゼと一緒に客間へ向かっていた。
もちろん、今度はちゃんと自分の足で歩いている。
魔法で浮かんでいるところを見られるわけにはいかない。
客間の前には、普段より多くの侍女が控えていた。
部屋の中からは、アンネリーゼと誰かが話す声が聞こえる。
「お待ちしておりました」
侍女の一人が扉を開けた。
アンネリーゼに手を引かれ、俺は客間へ入った。
そこにいたのは、見知らぬ女性だった。
年齢は、アンネリーゼより少し下だろうか。
落ち着いた色合いのローブを身にまとい、腰には小さな杖を下げている。装飾は控えめだが、衣服の仕立てや持ち物には上質さが感じられた。
何より、彼女の雰囲気が独特だった。
柔らかく微笑んでいるのに、どこか隙がない。
周囲を見渡す目は鋭く、客間の調度品だけでなく、窓や扉、壁の隅まで確認しているようだった。
そして、彼女が身につけている魔法具らしき装飾品からは、かすかに魔素の気配が感じられた。
……魔術師だ。
俺はすぐにそう判断した。
「わざわざ足を運んでいただき、ありがとうございます」
アンネリーゼが丁寧に頭を下げる。
「いえ。魔法に関わる異常が起きている可能性があると聞きましたので。こういうことは、早めに調べておくに越したことはありません」
女性は穏やかに答えた。
「屋敷に幽霊が出るという話でしたね」
「はい。使用人が二人、空中に浮かぶ人影を見たと申しております。何かの魔法によるものではないかと思いまして……」
「なるほど」
女性は顎に手を当て、少し考え込んだ。
「目撃した方々から、詳しい話を聞かせていただけますか。何を見たのか、どこで見たのか、何時頃だったのか。それから、周囲で何か変わったことがなかったかも」
その口調は落ち着いていた。
幽霊という言葉に怯える様子もなければ、最初から魔法だと決めつける様子もない。
ただ、情報を集め、原因を探ろうとしている。
その姿勢に、俺は少し興味を持った。
この人は、かなり頭が切れるのかもしれない。
「私は魔法に関する調査や研究を長く続けております。目撃されたものが本当に幽霊なのか、それとも魔法による現象なのか、まずは確かめてみましょう」
女性はそう言って、客間の中をゆっくりと見渡した。
そして、不意に俺へ視線を向けた。
「それで、こちらがルシアニウス様ですね?」
「ええ。私の息子です」
アンネリーゼは微笑み、俺の肩に手を置いた。
「ルシアニウス、ご挨拶して」
「……お初にお目にかかります。ルシアニウス・ヴァレンシュタインと申します。」
俺は教えられたとおり、ぺこりと頭を下げた。
女性は一瞬だけ目を見開き、それから微笑んだ。
「まあ。ご挨拶が上手ですね」
「ありがとうございます」
「ふふ。ずいぶんとしっかりしたお子様だこと」
女性はそう言って、俺をじっと見つめた。
その視線に、妙な居心地の悪さを覚えた。
まるで、何かを観察されているような感覚だった。
もちろん、二歳程度の子供が礼儀正しく挨拶をしたからといって、特別なことではないのかもしれない。
だが、彼女の目は、俺の表情や仕草を注意深く見ているようだった。
……気のせいだろうか。
「それでは、さっそく調査を始めさせていただきます」
女性はアンネリーゼに向き直った。
「屋敷の中を一通り確認したいのですが、よろしいでしょうか」
「もちろんです。必要なことがあれば、何でもお申しつけください」
「ありがとうございます。まずは目撃された場所から調べてみましょう」
そう言って、女性は立ち上がった。
アンネリーゼとセレナが案内のために動き出す。
俺もついていこうとしたが、母さんに優しく抱き上げられた。
「ルシーは危ないから、私と一緒にいましょうね」
「……うん」
俺は大人しく頷いた。
内心では、かなり焦っていた。
まさか、ここまで大事になるとは思っていなかったのだ。
しかも、やって来たのは魔法の専門家。
俺が使った魔法の痕跡を調べられたら、何かがわかってしまうかもしれない。
いや、そもそも魔法の痕跡など残るのだろうか。
俺にはわからない。
だからこそ、怖かった。
女性は客間を出る前に、もう一度だけ俺を振り返った。
「ルシアニウス様。また後ほど、お話しできるとよいですね」
にこりと微笑む。
俺も笑顔を返した。
しかし、その女性の目は、最後までどこか鋭いままだった。
――まずい人が来たかもしれない。
俺は、そんな予感を覚えた。