――温かい。
最初に感じたのは、そんな感覚だった。
俺は、死んだのではなかったのか。
ぼんやりとした意識のなかで、そんな疑問を抱いた。
体の周囲を何かが包み込んでいる。
柔らかく、温かい。
まるで布団にくるまっているようだった。
いや、違う。
もっと密着している。
体の周りには液体のようなものがあり、身じろぎするたびに、ゆらゆらと揺れる感覚があった。
――何だ、これは。
――夢か?
死ぬ直前の記憶は、妙にはっきりと残っている。飲み会。夜道。塀の角。頭に走った衝撃。
あれが夢だったとは思えない。
では、ここはどこなのだろう。
目を開けようとした。
しかし、うまくいかない。
手を動かそうとしても、思うように動かせなかった。体そのものが小さな空間に押し込められているようで、身動きが取れない。
不思議なことに、苦しくはなかった。
むしろ、ひどく安心するような温もりがある。
◇
しばらく過ごしていると意識は少しずつはっきりしていった。
音が聞こえる。
規則正しく、ゆっくりと繰り返される音。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓の音だろうか。
俺のものではない。
では、誰のものなのか。
考えようとしたところで、体が大きく揺れた。
押されるような感覚。
周囲から圧迫され、体が狭い場所を通っていく。
何が起きているのか、まるでわからない。
ただ、温かかった空間が少しずつ変化していくのを感じた。
圧迫が強くなる。
体が押し出される。
そして――。
突然、世界が変わった。
◇
眩しい。
いや、眩しいのかどうかも、よくわからなかった。
それまで全身を包んでいた温もりがなくなり、冷たい空気が肌に触れる。
体が持ち上げられた。
誰かに抱えられているらしい。
視界はぼやけていて、何もかもが曖昧だった。目の前に人影がある。女性だろうか。白っぽい布を身につけているように見える。
――ここは……どこだ?
――何が起きた?
――俺は生きているのか?
必死に考えようとした、そのときだった。
「…………っ」
女性が何かを言った。
言葉らしい音の連なりだったが、何を言っているのかまったくわからない。
日本語ではない。
英語でもない。
少なくとも、俺が知っている言語ではなかった。
いや、そもそも外国なのか?
頭をぶつけて救急搬送され、知らない病院にいるのだろうか。
そんな可能性を考えたものの、どうにも様子がおかしい。
体が動かない。
声を出そうとしても、喉がうまく働かない。
視界のなかで、人影がいくつも動いている。
誰かが慌ただしく動き、別の誰かが何かを叫んだ。
何を言っているのかはわからない。
だが、声の調子から、どうやら普通の状況ではないらしい。
そして、ふと気づいた。
周囲が静かすぎる。
いや、正確には、人の声は聞こえる。
けれど、それ以外の音が少ないのだ。
機械音も、電子音も聞こえない。
ここは本当に病院なのか?
俺は何とか目を動かし、周囲の様子を確認しようとした。
すると、視界の端に、自分の手が映った。
……小さい。
あまりにも小さい。
ぷにぷにとした、丸っこい手。
指は短く、手のひらは驚くほど小さい。
――何だ、これは。
――俺の手なのか?
信じられない思いで、手を動かそうとした。
小さな指が、かすかに動く。
自分の意思に反応している。
間違いない。
これは俺の手だ。
背筋が凍るような感覚が走った。
いや、待て。
落ち着け。
俺は三十代の男だ。
仕事をしていて、ついさっきまで酒を飲んでいた。
それなのに、どうしてこんな手をしている?
どうして体が動かない?
どうして、目の前の人間が話している言葉を理解できない?
混乱する俺をよそに、女性が俺の体を手際よく拭いていく。
そして、何かを確かめるように俺の顔を覗き込んだ。
その表情が、わずかに変わった。
「…………!」
女性が鋭い声を上げた。
周囲の空気が、一瞬で張り詰める。
別の女性が駆け寄ってきた。
二人が俺の顔を覗き込み、何かを言い合っている。
声が上ずっている。
さっきまでとは明らかに違う。
何かあったのか?
俺に何か問題でもあるのか?
どうにかして状況を確認しようとした、そのとき。
ぺちんっ!
――っっっっ!?
尻に衝撃が走った。
突然のことに、頭の中が真っ白になる。
――何だ!?
――何をするんだ、この人は!
ぺちんっ!
もう一度、尻を叩かれた。
痛いというほどではない。だが、意味がわからない。
なぜ俺の尻を叩く?
俺は何もしていないぞ!
抗議しようと口を開く。
やめろ、と。
いい大人に何をするんだ、と。
そう言おうとした。
しかし――。
「…………」
声が出ない。
いや、正確には、息が漏れるだけだった。
女性の顔がますます険しくなる。
別の女性が俺の胸元に耳を当て、何かを確認しているようだった。
周囲の人影がさらに増えた。
誰もが落ち着かない様子で、次々に声を上げている。
――何が起きているのか、誰か説明してくれ!
そう思った瞬間、また尻に衝撃が走った。
ぺちんっ!
――やめろ!
ぺちんっ!
――だから、何なんだ!
ぺちんっ!
――もういい加減に――!
「おぎゃああああああっ!」
…………。
………………。
……………………え?
今の声、何だ?
いや、待て。
俺が出したのか?
「おぎゃあああああっ! ああああっ!」
また聞こえた。
耳元で響く、甲高い泣き声。
しかも、泣き声は俺が息を吸うたびに途切れ、吐くたびに大きくなる。
周囲の女性たちが、一斉に動きを止めた。
そして。
「……ああっ!」
一人の女性が、ほっと息を吐いた。
それを合図にしたかのように、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
別の女性が胸に手を当て、安堵したように目を閉じる。
誰かが、涙ぐんだ声で何かを言った。
それに続いて、周囲から次々と声が上がる。
もちろん、何を言っているのかはわからない。
それでも、さっきまでの不安が消え、みんなが安心していることだけは伝わってきた。
どうやら、俺が泣いたことで、何かが解決したらしい。
……いや。
そもそも、なぜ俺は尻を叩かれていたんだ?
泣いたら安心された?
つまり、俺が泣くことに何か意味があったのか?
必死に考えていると、女性が俺を抱き上げ、優しく背中をさすった。
その手つきは、先ほどまでの慌ただしさが嘘のように丁寧だった。
俺の顔を覗き込み、何かを話しかけてくる。
もちろん、言葉はわからない。
けれど、声の調子は優しかった。
そして、ようやく少しだけ落ち着いた俺は、自分の体を改めて確認した。
小さな手。
短い指。
思うように動かない腕。
そして、泣くことしかできない喉。
……まさか。
いや、そんなはずはない。
ありえない。
だが、ほかに説明がつかない。
俺は死んだ。
そして今、赤ん坊になっている。
そんな馬鹿な。
そんなことが現実に起きるわけがない。
けれど、目の前の光景は、俺の常識を容赦なく否定していた。
知らない場所。
知らない人々。
知らない言葉。
そして、赤ん坊になってしまった自分。
……本当に、転生したのか?
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
俺は、もう元の体ではない。
それどころか、三十年以上生きてきた人間が、いきなり生まれたばかりの赤ん坊になっているのだ。
何がどうなっているのか、まったく理解できない。
だが、考えることはできる。
前世の記憶も、知識も、今のところ失われてはいない。
ならば、まずは状況を把握しなければならない。
ここはどこなのか。
目の前の人々は誰なのか。
なぜ自分が赤ん坊になっているのか。
そして、これからどうやって生きていけばいいのか。
問題は山積みだった。
……もっとも。
今の俺にできることは、ほとんどなかったのだが。
「……あぅ」
小さな声が漏れた。
女性が嬉しそうに微笑む。
そして、俺を胸元に抱き寄せた。
温かい。
柔らかい。
さっきまでの混乱が、ほんの少しだけ和らいだ。
女性は何かを繰り返し口にしていた。
同じ音の並び。
何度も、何度も。
そのなかに、ひときわ耳に残る音があった。
「……ルシアニウス」
……ん?
今、何と言った?
聞き取れたわけではない。
意味もわからない。
ただ、その音だけは、なぜか繰り返し耳に残った。
ルシアニウス。
ルシアニウス。
女性は俺の顔を見つめながら、何度もその音を口にしている。
ほかの言葉とは違い、その音を発するときだけ、どこか優しい表情を浮かべている気がした。
もしかして……。
これが、俺の名前なのだろうか。
確証はない。
言葉が理解できない以上、単なる推測にすぎない。
それでも、そう考えると、妙にしっくりきた。
ルシアニウス。
どうやら、今の俺はそう呼ばれているらしい。
その名前を頭の中で繰り返す。
ルシアニウス。
俺は、ルシアニウス。
……いや、まだ決まったわけではない。
そもそも、どうして俺がこんなことになっているのかもわからないのだ。
だが、今すぐ答えが出る問題ではない。
何より、ひどく眠い。
生まれたばかりの体というものは、どうやら思っていた以上に疲れやすいらしい。
女性に抱かれたまま、俺はゆっくりと目を閉じた。
意識が遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは、何度も繰り返される、あの聞き慣れない音だった。
ルシアニウス。
――それが、俺の新しい人生の始まりだった。
このときの俺は、まだ知らなかった。
この世界では、男という存在がどういったものなのか。
そして何より。
これから始まる第二の人生が、俺の想像以上に騒がしく、甘く、そして女性に囲まれたものになることを。
生まれました