俺はもうすぐ5歳になろうとしていた
5歳になると本格的な貴族教育が始まるらしい
少し面倒だと考えながらいつものように本を読んでいると
「ルシアニウス様、イザベラです。少々お時間よろしいでしょうか?」
扉の向こうから声がした。
「…うん」
入ってきたのは、母の専属秘書であるイザベラである。
落ち着いた物腰で、いつも身だしなみが整っている女性だ。母の仕事を補佐する姿は実に有能だ
欠点は絶壁なことくらいだろう
「今日はエリザベート様がお話ししたいことがあるそうです。お姉様方と一緒に、少しお時間をいただけますか?」
「リーザ姉さまが?」
「はい。詳しいことは、ご本人からお聞きください」
イザベラは微笑み、俺を姉たちのいる部屋へ案内してくれた。
そこには、エレオノーラとエリザベートが待っていた。
「ルシー、ちょうどよかった!」
リーザが俺を見つけるなり、勢いよく駆け寄ってきた。
「今度、領軍の訓練があるんだって! 見に行ってもいいって母様が言ってくれたの!」
「領軍の訓練?」
「そう! 兵士や騎士たちが集まって、演習をするんだって。私、前から見てみたかったの!」
エリザベートは目を輝かせていた。
彼女は剣術の訓練に励んでおり、将来は騎士になりたいと考えている。実際に兵士たちがどのように戦うのか、興味があって当然だろう。
「お母様はお仕事があるから、今回は私たちだけで行くことになるわ。軍の責任者が案内してくださるそうよ」
そう説明してくれたのは、姉のエレオノーラだった。
「ノーラ姉さまも行くの?」
「ええ。領地を治める立場になるのなら、軍のことも知っておくべきでしょう?」
さすがは将来の領主である。
リーザが純粋な興味から見学を望んでいるのに対し、ノーラは自分の将来を見据えているようだった。
「それで、ルシーも一緒にどうかと思って」
リーザが俺の手を取った。
「きっと面白いよ!」
「……うん。僕も見てみたい」
俺は頷いた。
軍事演習か。
前世ではテレビや映像でしか見たことがない。実際に兵士たちが訓練する様子を間近で見られるなら、興味があった。
それに、この世界の軍事力について知るいい機会でもある。
魔法が存在する世界の軍隊は、前世の軍隊とは大きく異なるはずだ。
どのような武器を使い、どのような隊列を組み、どのように魔法を戦闘へ応用しているのか。
考え始めると、知りたいことが次々と浮かんできた。
「じゃあ、決まりね!」
リーザは嬉しそうに笑った。
こうして俺は、姉二人と一緒にヴァレンシュタイン領軍の演習を見学することになった。
◇
演習当日。
屋敷を出発した俺たちは、領都ヴァルデンの郊外にある訓練場へと向かった。
母のアンネリーゼは、領地経営に関する仕事があるため屋敷に残っている。
その代わり、軍の責任者であるグレーテが、俺たちを案内してくれることになっていた。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
訓練場に到着すると、出迎えてくれた女性が丁寧に頭を下げた。
背筋がまっすぐに伸び、立っているだけでも威厳が感じられる。軍人らしい簡潔な動作と、周囲を自然に従わせるような雰囲気があった。
さすがにこの状況では透視できないな…
「私はグレーテと申します。ヴァレンシュタイン領軍を預かっております」
「今日はよろしくお願いします、グレーテ様」
エレオノーラが代表して挨拶をした。
グレーテは穏やかに頷いたあと、俺へと視線を向けた。
「ルシアニウス様も、ようこそお越しくださいました」
「今日は見学させてくれてありがとう、グレーテさん」
俺がおじぎしながらそう答えると、グレーテは一瞬だけ目を見開いた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「これはご丁寧に。どうぞ、ごゆっくりご覧ください」
グレーテに案内され、俺たちは訓練場を見渡せる場所へと移動した。
そこには、すでに大勢の兵士や騎士たちが集まっていた。
剣を持った者、槍を構えた者、弓を手にした者。
装備や服装には違いがあるが、全員が規律正しく整列している。
訓練場の中央では、一人の女性が兵士たちに指示を出していた。
「各隊、配置につけ! 開始の合図まで、陣形を維持!」
よく通る声だった。
彼女の指示に従い、兵士たちが素早く動いていく。
その動きには無駄がない。
まるで、長年同じ訓練を積み重ねてきたかのように、全員が迷いなく自分の位置へ移動していた。
「演習の指揮を執っているのは、軍の副責任者です」
グレーテが説明してくれた。
「本日は小規模な演習ですが、実戦を想定した内容になっております。まずは歩兵隊同士の模擬戦、その後に魔法を用いた連携訓練を行う予定です」
「魔法も使うの?」
リーザが身を乗り出した。
「もちろんです。魔法は、現在の戦闘において重要な役割を担いますから」
グレーテはそう答え、訓練場を見渡した。
「ただし、皆が皆、攻撃魔法を得意としているわけではありません。防御、身体能力の強化、索敵、味方の補助など、役割はさまざまです」
なるほど。
魔法が存在する世界なのだから、当然といえば当然だ。
前世の軍隊でいえば、武器や装備の違いに加えて、個々人が魔法という特殊な能力を持っているようなものだろう。
その運用方法次第で、戦い方は大きく変わるはずだ。
「それでは、始めます」
グレーテが合図を送った。
訓練場の中央で、副責任者が剣を掲げる。
「第一演習、開始!」
鋭い声が響いた。
◇
最初に行われたのは、歩兵隊同士の模擬戦だった。
互いに木製の武器を持ち、決められた範囲内で戦う。致命傷を与えるような攻撃は禁止されているらしいが、それ以外はかなり実戦に近い訓練のようだった。
「行け!」
号令とともに、片方の隊が前進した。
盾を構えた兵士たちが横一列に並び、その後ろから槍を持った兵士が突き出す。
対する隊は、正面から受け止めるのではなく、左右に分かれて回り込もうとした。
そこへ、後方から魔法が飛ぶ。
地面が盛り上がり、前進する兵士たちの足元を崩した。
体勢を崩したところへ、別の兵士たちが一気に踏み込む。
その間にも、盾を構えた兵士たちが味方を守り、後方の魔法使いたちが援護を続けていた。
「すごい……!」
リーザが歓声を上げた。
「今の見た? 地面を持ち上げて、相手の動きを止めたのよ!」
「ええ。あの魔法は、相手の進路を制限するために使ったのでしょうね」
ノーラも興味深そうに戦況を見つめていた。
「ただ攻撃するだけではなく、味方が動きやすい状況を作ることも大切なのね」
二人は、それぞれ違った視点で演習を楽しんでいるようだった。
リーザは、実際に戦う兵士たちの動きに夢中になっている。
ノーラは、隊列や指揮、魔法の使い方を観察している。
将来の騎士と領主。
目指すものは違っても、二人とも真剣だった。
しかし、俺はというと――。
「…………」
声が出なかった。
目の前で繰り広げられる戦闘が、想像していたものとあまりにも違ったからだ。
兵士たちの動きが速い。
いや、単純に速いだけではない。
一歩強く踏み込むだけで、地面が少し割れる。木製の剣がぶつかるたびに、予想より大きな音が訓練場に響く。
盾で受け止めたはずの攻撃でも、受けた側の身体が大きく揺れていた。
もちろん、魔法の影響もあるだろう。
身体能力を強化できるのかもしれない。
それでも、あの動きは明らかに人間離れしていた。
前世で見た格闘技やスポーツの映像とは、根本的に違う。
体格の大きな兵士が、軽々と方向を変える。
複数人に囲まれた兵士が、ほとんど一瞬で包囲を抜ける。
剣を振るう速度も、踏み込みの鋭さも、俺が想像していた人間の身体能力を大きく超えていた。
そして、何より驚いたのは、兵士たちがそれを特別なことだと思っていない様子だったことだ。
訓練なのだから、当然なのかもしれない。
だが、俺には信じられなかった。
この世界の人間は、こんな動きができるのか?
俺が呆然としている間にも、演習は続いていく。
片方の隊が陣形を立て直し、反撃に出た。
前衛が敵の攻撃を受け止め、側面から回り込んだ兵士が相手の隊列を崩す。
さらに後方から魔法が放たれ、足場が変化する。
数分後、演習は一方の隊の降参によって終了した。
だが、兵士たちの動きは最後まで衰えなかった。
「……これ、訓練なんだよね?」
思わず口に出してしまった。
「ええ、そうですよ」
グレーテが、俺の方を見て答えた。
「実戦では、もっと厳しい状況になることもございます」
「……そうなんだ」
俺は、乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
この世界、想像していた以上に危険なのではないだろうか。
◇
その後も、演習は続いた。
次は少人数での模擬戦。
そして、複数の部隊が連携して目標を制圧する訓練。
最後に、魔法使いを含めた部隊同士の連携訓練が行われた。
どれも興味深い内容だったが、俺にとっては驚きの連続だった。
魔法を使って身体能力を強化したであろう兵士は、さらに動きが速くなる。
地面を蹴るだけで大きく跳躍し、普通なら届かないような距離を一瞬で詰める。
防御魔法を使う兵士は、攻撃を受けても簡単には体勢を崩さない。
そして、攻撃魔法を使う兵士は、敵の進路を制限したり、味方の攻撃を通しやすくしたりしていた。
魔法は単なる飛び道具ではない。
戦場そのものを変える力なのだ。
俺は、目の前の光景を見ながら、前世の知識と照らし合わせて考えていた。
地形を変えられるなら、陣地の構築や障害物の設置が容易になる。
身体能力を強化できるなら、兵士一人あたりの戦闘能力が大きく向上する。
防御魔法があれば、盾や鎧の役割も変わるだろう。
ただし、魔素の消費量には限界があるはずだ。
長時間の戦闘では、魔法をどの程度維持できるかが重要になる。
さらに、魔法を扱える量には個人差がある。
ならば、軍隊の運用では、魔素量や得意な魔法に応じた役割分担が必要になるのではないか。
そして俺は考えることをやめた
◇
演習の合間に、俺たちはグレーテから説明を受けていた。
「ルシアニウス様は、女性の身体能力について、どの程度ご存じでしょうか?」
不意に尋ねられ、俺は少し考えた。
「……男の人より、女の人の方が魔法をたくさん使えるんだよね?」
「はい。一般的には、女性の方が扱える魔素の量が多い傾向にあります」
グレーテは頷いた。
「ただし、それだけではございません。身体能力にも大きな差があります」
「身体能力にも?」
「ええ。成人した女性は、平均的な男性と比較して、筋力や瞬発力、持久力などの面で大きく優れているのです。もちろん個人差はありますが、魔法による強化を加えれば、その差はさらに広がります」
俺は思わず、先ほどの演習を振り返った。
あれが、女性の身体能力によるものなのか。
いや、魔法による強化もあるだろう。
それでも、俺の知っている人間の身体能力とは違いすぎる。
「例えば、一般的な女性兵士一人と戦う場合、男性兵士なら三人から四人ほどで挑んで、ようやく互角といったところでしょうか」
「……三人から四人?」
「はい。もちろん、武器や戦い方、魔法の得手不得手によって変わります。あくまで一つの目安です」
グレーテは、淡々と説明を続けた。
「もっとも、現在の貴族社会では、男性が兵士になること自体がないのですが」
「そ、そうなんだ……」
俺は曖昧に頷いた。
女性兵士一人に対して、男性兵士が三人から四人でようやく互角。
つまり、同じ人数で戦えば、女性の部隊が圧倒的に有利になる可能性が高い。
さらに、女性の方が魔素量にも恵まれているのなら、その差は単純な身体能力だけでは説明できないほど大きくなるだろう。
「ちなみに、グレーテさんはどのくらい強いの?」
俺は、ふと気になって尋ねた。
グレーテは少しだけ考え、それから穏やかに答えた。
「そうですね……。私の場合、男性兵士どころか女性兵士が何人集まっても、そう簡単には負けないと思います」
「…………え?」
「剣が得意なので」
俺は、思わず聞き返してしまった。
何人集まっても?
先ほどの説明では、女性兵士一人に対して男性兵士三人から四人で互角だったはずだ。
それなのに、目の前の女性は、何人いても余裕だと言った。
「もちろん、仮定の話です。実際に比較したわけではありませんから」
グレーテは、何事もなかったかのように微笑んだ。
……いや、そういう問題なのだろうか。
もちろん、この時の俺はまだ知らなかった。
グレーテがかつて、剣聖と呼ばれるほどの腕前を持ち、剣術に限れば大国でも並ぶ者がいないと評されていたことを。
そして、王都で王配に色目を使って職を失い、働き口を探していたところ、ヴァレンシュタイン領に男児が生まれたという話を聞きつけ、母アンネリーゼに拾われてこの地にやってきたことを。
彼女の過去を知るのは、まだ先の話である。
演習が終わる頃には、リーザはすっかり興奮しきっていた。
「すごかったね、ルシー!」
帰り道、彼女は何度も同じ言葉を繰り返した。
「特に、最後の模擬戦! あの人、相手の攻撃を避けて、そのまま後ろに回り込んだのよ! 私も、あんなふうに戦えるようになりたい!」
リーザは、将来騎士になるという目標を改めて強くしたようだった。
剣術の訓練に励む彼女にとって、今日の演習は大きな刺激になったに違いない。
「そうね。私も、とても勉強になったわ」
ノーラも満足そうに頷いた。
「軍がどのように動くのか、実際に見ることができてよかった。領地を治める立場になるなら、こうした知識も必要だもの」
姉たちは、それぞれ自分の将来に思いを馳せている。
騎士として戦うこと。
領主として領地を治めること。
二人の目標は違うが、今日の経験がそれぞれの役に立つだろう。
俺はというと、まだ頭の中が整理できていなかった。
女性の身体能力。
男性との圧倒的な差。
そして、魔素量の違い。
これらを考えれば、女性が社会の中心となっている理由も理解できる。
単に男性が少ないからというだけではない。
女性の方が戦闘能力に優れ、魔法の扱いにも恵まれている。
軍事力を握るのも、政治や行政の中心に立つことも、自然な流れだったのだろう。
男性が危険な仕事から遠ざけられ、家庭を支える役割を担うことが多いのも、こうした背景があるのかもしれない。
もちろん、すべての女性がすべての男性より強いわけではないはずだ。
個人差もあるし、知識や技術、経験によっても結果は変わるだろう。
それでも、社会全体で見れば大きな差がある。
俺は、ようやく実感を伴って理解した。
「……なるほどな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「ルシー、どうしたの?」
リーザが振り返った。
「ううん。すごいなって思って」
「でしょ? また見に行きたいね!」
「うん。僕も、また見たい」
俺は笑って答えた。
――女性が強く、男性が守られる世界。
その理由を、俺はようやく自分の目で理解し始めたのだった。