アンネリーゼの部屋に入ると、そこにはいつもと変わらない落ち着いた空気が流れていた。
窓際には小さなテーブルと椅子が置かれ、壁際の棚には書類や本が整然と並んでいる。部屋の奥にある執務机には、領主としての仕事に使うと思われる書類が積まれていた。
アンネリーゼは俺をソファに座らせると、自分も向かい側に腰を下ろした。
「ルシー、今日は五歳の誕生日おめでとう」
「……ありがとう、母様」
改めてお祝いを言われ、俺は少し照れくさくなった。
大勢の人に祝ってもらったことは嬉しかったが、こうして母と二人きりになると、どうにも落ち着かない。
俺は昔から、大勢の人の前で話すのが得意ではなかった。前世でも、仕事の打ち合わせなら必要なことを話せたが、雑談や人付き合いはあまり得意ではなかったのだ。
今世でも、その性格はあまり変わっていない。
五歳児としてはかなり話せるようになったものの、自分から積極的に話題を振ることは少ない。家族相手なら多少は気楽だが、それでも口数が多い方ではなかった。
そんな俺の様子を見て、アンネリーゼは優しく微笑んだ。
「さて、今日はルシーに、これからの生活について話しておきたいの」
「これからの……生活?」
「ええ。五歳になったでしょう? これからは、今までよりも少しずつ学ぶことが増えていくわ」
やはり、貴族教育についての話らしい。
俺は小さく頷き、母様の話に耳を傾けた。
◇
「まず、これからは貴族として必要な知識や作法を学んでもらうことになるわ」
アンネリーゼはテーブルの上に置いてあった書類を一枚手に取った。
「文字の読み書きや計算は、今までも少しずつ勉強してきたわね。これからは、それに加えて歴史、地理、貴族社会の仕組み、礼儀作法なども学んでいくことになるわ」
俺は頭の中で、これから学ぶことを整理した。
歴史や地理は、本を読んで、ある程度の知識を得ている。計算や読み書きも、前世の記憶があるおかげで苦労は少ない。
ただ、この世界の貴族社会については、まだ分からないことが多かった。
「それから、ヴァレンシュタイン家の領地についても、少しずつ知っていってほしいの」
アンネリーゼは窓の外へ目を向けた。
「この領地には、領都で暮らす人々もいれば、農村で働く人々もいるわ。森で木材を採る人もいれば、薬草を育てたり、加工品を作ったりする人もいる。それぞれが自分の仕事をして、この領地を支えてくれているのよ」
俺は静かに頷いた。
領地を豊かにしたい。
この世界に生まれてから、漠然とそう考えることがあった。
前世で機械設計の仕事をしていた俺にとって、技術や仕組みを工夫して、物事をよりよくすることは好きなことだった。
この世界でも、自分の知識を活かして何かを作ったり、生活を便利にしたりできれば面白いと思う。
けれど、領地を豊かにするためには、魔法や技術の知識だけでは足りない。
領地で暮らす人々が何を必要としているのか。何が作られ、どこへ運ばれ、どのように売られているのか。
そうしたことも知る必要があるのだろう。
「……僕も、領地のことを勉強したいです」
少し考えてから、俺は口を開いた。
「あら、嬉しいわ」
アンネリーゼは目を細めた。
「もちろんよ。すぐに難しいことを覚える必要はないわ。まずは身近なことから学んでいきましょう」
「はい、母様」
それからアンネリーゼは、教育の進め方について説明してくれた。
基本的な読み書きや計算は家庭教師をつけて学ぶこと。礼儀作法や貴族同士の付き合い方については、アンネリーゼ自身も教えてくれる。歴史や地理については、書物を読みながら少しずつ知識を増やしていくこと。
また、将来的には領都へ出かけたり、領地内の施設を見学したりする機会も設けるらしい。
机の前に座って勉強するだけではなく、実際に自分の目で見て学ぶことも大切だ。
その方針には、俺も賛成だった。
知識だけでなく、実物を見ること。
これは、世界が変わっても変わらない大切なことなのだろう。
そう考えると、これからの勉強が少し楽しみになった。
「……大変そうだけど、頑張ります」
俺がそう言うと、アンネリーゼは嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。でも、頑張りすぎなくてもいいのよ。ルシーはまだ五歳なのだから、遊ぶ時間も大切にしてちょうだいね」
「はい」
そう言われると、少しだけ安心する。
前世の記憶があるせいか、どうしても自分が五歳の子供だという感覚が薄くなりがちだ。
だが、今の俺は五歳で、体もまだまだ成長途中である。
無理をすれば体調を崩すことだってあるだろう。
それに、せっかくの第二の人生なのだ。
勉強ばかりではなく、遊ぶことも楽しみたい。
◇
貴族教育について一通りの説明を終えると、アンネリーゼは手にしていた書類をテーブルへ置いた。
「さて、ルシー。これからのことは、ひとまずこんなところね」
「はい、母様」
「それで、もう一つ聞きたいことがあるのだけれど」
アンネリーゼは少しだけ首を傾げた。
「何か欲しいものはないかしら? 今日のお誕生日のプレゼントとは別に、これからの生活で必要なものや、してほしいことがあれば教えてほしいの」
「欲しいもの……ですか?」
「ええ。勉強のために必要なものでもいいし、生活の中で困っていることでもいいわ。何か要望があれば、できる限り聞いてあげたいと思っているの」
俺は少し考え込んだ。
欲しいものと言われても、すぐには思いつかない。
本や紙、筆記用具なら、今日の誕生日にたくさんもらった。
玩具もあるし、屋敷の中で過ごす分には不自由していない。
魔法の研究に必要なものも、今のところは工夫すれば何とかなる。
……いや、一つだけ、前から欲しいと思っていたものがあった。
「……あの」
「なあに、ルシー?」
「イザベラさんみたいな人が、僕にもいたらいいなって……」
俺は少し恥ずかしくなり、視線をテーブルへ落とした。
イザベラはアンネリーゼの秘書を務めている女性だ。
いつもアンネリーゼのそばで仕事をしており、書類を整理したり、予定を管理したり、必要な情報をまとめたりしている。
アンネリーゼが忙しいときでも、イザベラがいるおかげで仕事が滞りなく進んでいるように見えた。
以前、アンネリーゼとイザベラが話しているところを見かけたことがあるが、二人のやり取りはとても円滑だった。
アンネリーゼが短く指示を出すだけで、イザベラは何をすべきか理解して動いていた。
ああいう人がそばにいてくれれば、いろいろと助かるだろう。
俺自身、これから勉強することが増える。
学んだことを記録したり、調べたいことを整理したり、必要な本を探したり。
前世でいえば、仕事を補助してくれる秘書のような存在がいれば便利だと思ったのだ。
「イザベラのような人、というと?」
アンネリーゼは不思議そうに聞き返した。
「えっと……僕が勉強するときに、いろいろ手伝ってくれる人がいたら、嬉しいです。本を探したり、覚えたことをまとめたり……」
そこまで言って、俺は少し言葉に詰まった。
五歳の子供が秘書が欲しいと言うのは変なのだろうか。
普通なら、玩具や菓子をねだるところなのかもしれない。
そう考えると、なんだか急に恥ずかしくなってきた。
「……変、ですか?」
恐る恐る尋ねると、アンネリーゼは一瞬きょとんとしたあと、口元に手を当てた。
そして。
「ふふっ……」
小さく笑い始めた。
「母様……?」
「ごめんなさいね、ルシー。変だと言いたいわけではないのよ」
アンネリーゼは微笑みながら、俺の頭を優しく撫でた。
「五歳になったばかりなのに、イザベラのような秘書が欲しいだなんて。ふふっ、本当に面白いことを考えるのね」
「……だって、便利そうだったから」
「ええ、そうね。確かにイザベラはとても有能だもの」
アンネリーゼは楽しそうに頷いた。
「勉強を手伝ってくれる人が欲しい、ということなら、いい考えだと思うわ。これから学ぶことも増えるし、ルシーが自分で調べたり、考えたりする時間も必要になるでしょうから」
どうやら、否定されることはなさそうだった。
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
「それなら、ルシーの専属侍女を決めましょうか」
「専属……侍女?」
「ええ。今までは、必要に応じていろいろな侍女があなたのお世話をしていたでしょう? これからは、ルシーの身の回りのお世話を中心に、いつもそばで支えてくれる人を一人つけるの」
アンネリーゼは指を一本立てて、説明を続けた。
「その人には、普段のお世話だけでなく、勉強の準備や予定の管理なども手伝ってもらいましょう。ルシーが望むのなら、イザベラのように、秘書に近い仕事を任せてもいいわ」
「……本当に、いいんですか?」
「もちろんよ」
アンネリーゼは当たり前のように答えた。
「ただし、ルシーのことをよく理解して、安心して任せられる人がいいわね。侍女の中から、好きな人を一人選んでちょうだい」
好きな人は一人。
その言葉を聞いて、俺は少し考えた。
侍女たちは、みんな優しい。
身の回りの世話をしてくれる人もいれば、本を読み聞かせてくれる人もいる。俺が何かに興味を持てば、できる範囲で協力してくれる。
誰を選んでも、きっと困ることはないだろう。
けれど、勉強や研究の手伝いまで頼むのなら、ただ優しいだけではなく、頭の回転が速く、物事を整理するのが得意な人がいい。
そして、俺の考えをある程度理解してくれる人。
できれば、あまり大げさに騒がず、落ち着いて対応してくれる人がいい。
……そんな人なら、すぐに思い浮かんだ。
「……セレナがいいです」
俺が答えると、アンネリーゼは少し意外そうに目を瞬かせた。
「セレナ?」
「はい。セレナなら、いろいろなことを知っているし、僕の話もちゃんと聞いてくれるから……」
セレナは、俺が幼い頃からそばにいてくれた侍女だ。
落ち着いていて、頭がよく、仕事もできる。
俺が本を読みたがれば、読み聞かせをしてくれた。何かを尋ねれば、分かる範囲で丁寧に答えてくれる。
もちろん、魔法を学びたいと頼んだときには断られたこともあるが、あれは俺の安全を考えてのことだったのだろう。
それに、俺が何かをしようとしているとき、セレナは必要以上に口を出さず、こちらの様子をよく見てくれている。
ついでにおっぱいもおおきい。
「そう……。セレナなのね」
アンネリーゼは少し考えるように目を伏せたあと、穏やかに微笑んだ。
「ええ、いいと思うわ。あの子なら、ルシーをしっかり支えてくれるでしょうね」
「……ありがとうございます、母様」
「ふふっ。お礼を言うのはまだ早いわ。まずは本人に話をしてみないとね」
アンネリーゼはそう言って、部屋の扉の方へ目を向けた。
「セレナを呼んできてもらいましょう」
◇
ほどなくして、扉がノックされた。
「失礼いたします。お呼びでしょうか、アンネリーゼ様」
「ええ、入ってちょうだい」
扉が開き、セレナが入室した。
いつもと変わらない、落ち着いた表情だった。
セレナはアンネリーゼに一礼し、それから俺にも丁寧に頭を下げた。
「ルシアニウス様も、ご用件をお伺いいたします」
「……うん」
俺は少しだけ緊張した。
普段から話をする相手ではあるが、改まった場で何かを頼むとなると、どうにも気恥ずかしい。
アンネリーゼが説明を始めた。
「セレナ。今日からルシーも五歳になりました。これから貴族教育が本格的に始まるので、身の回りの世話だけでなく、勉強の準備や予定の管理なども手伝ってくれる人をつけようと思っているの」
「かしこまりました」
「それで、ルシーがあなたを希望しているのよ」
その言葉に、セレナの視線が俺へ向いた。
「……私を、でございますか?」
「はい……。僕、セレナにお願いしたいです」
俺は少しだけ背筋を伸ばした。
「勉強のこととか、本を探すこととか……いろいろ手伝ってほしいんです」
言い終えると、なんだか恥ずかしくなってしまい、俺は視線を少しだけそらした。
セレナはしばらく俺を見つめていた。
いつも冷静な彼女のことだ。すぐに返事をするかと思っていたのだが、意外にも、ほんのわずかに目を見開いていた。
やがて彼女は、いつもどおりの落ち着いた表情に戻って、深く一礼した。
「承知いたしました。ルシアニウス様のお役に立てるよう、誠心誠意お仕えいたします」
その声には、普段と変わらない落ち着きがあった。
けれど、俺には彼女がほんの少しだけ嬉しそうに見えた。
「ありがとう、セレナ」
「もったいないお言葉でございます」
セレナは静かに答えた。
アンネリーゼは二人のやり取りを見て、満足そうに頷いた。
「それでは、これからセレナをルシーの専属侍女としましょう。身の回りの世話はもちろん、勉強の予定や必要な資料の準備なども任せることにします」
「かしこまりました」
「ただし、仕事を抱え込みすぎないようにね。必要であれば、ほかの侍女にも手伝ってもらいなさい」
「はい。承知いたしました」
こうして、俺の専属侍女が決まった。
……いや、専属侍女というより、俺にとっては秘書に近い存在になるのかもしれない。
「ルシー」
アンネリーゼが優しく声をかけてきた。
「セレナと相談しながら、いろいろなことに挑戦していきなさい。ただし、困ったことがあったら、いつでも私に相談するのよ。」
「はい、母様」
「ふふっ。頼もしいわね」
アンネリーゼは俺の頭を撫でたあと、セレナへ視線を向けた。
「セレナ、ルシーのことをよろしくね」
「はい。必ずや、お支えいたします」
セレナはもう一度、深く頭を下げた。
その姿を見ながら、俺はこれからのことを考えた。
五歳になり、貴族教育が本格的に始まる。
そして今日からは、専属侍女という名の秘書もできた。
これまでの俺は、興味を持ったことを一人で調べ、試してみるだけだった。
だが、これからは少し違う。
自分の考えを整理し、必要な情報を集め、できることを増やしていく。
そんな環境が整いつつある。
もちろん、いきなり何か大きなことができるわけではない。
俺はまだ五歳だ。
けれど、焦る必要はないだろう。
今できることを一つずつ積み重ねていけばいい。
……まずは、セレナにどんなことを頼めるのか、考えてみよう。
俺は隣に立つ彼女を見上げた。
「セレナ……これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。ルシアニウス様」
セレナはいつもの落ち着いた笑みを浮かべた。