五歳の誕生日を迎えてから、俺の生活は少しずつ変わり始めた。
これまでも本を読んだり、屋敷の中を歩き回ったりと、それなりに忙しい毎日を送っていた。しかし、五歳になった今、俺には新たな日課が加わった。
貴族教育である。
「ルシアニウス様、本日の授業の準備が整いました」
「……はい。今、行きます」
朝食を終えて自室に戻ると、セレナがいつもの落ち着いた声で告げてきた。
俺の専属侍女となった彼女は、以前と変わらず身の回りの世話をしてくれる。それに加えて、勉強の予定を管理したり、必要な教材を用意したり、家庭教師との連絡を取ったりと、仕事の幅が広がっていた。
まさに、俺が望んでいた秘書のような役割である。
「今日はどのような内容ですか?」
「午前中は文字と計算の確認、それからアウレリア王国の歴史について学びます。午後は礼儀作法と地理の授業が予定されております」
「……歴史と地理ですか」
「はい。以前から本を読んでいらっしゃいましたから、興味を持っていただけると思います」
セレナはそう言って、机の上に数冊の本を並べた。
俺はその中の一冊に目を向けた。
表紙には、アウレリア王国の紋章が描かれている。
歴史か。
前世でも歴史の勉強は嫌いではなかったが、機械設計の仕事に直接関係する機会はあまりなかった。今世では、貴族として暮らしていく以上、この国の歴史や制度を知っておくことは重要だろう。
特に、領地を豊かにしたいと考えている俺にとって、政治や経済の仕組みを理解することは避けて通れない。
「……頑張ります」
「はい。ですが、無理はなさらないでくださいね」
セレナは微笑み、俺の服装を整えてから、勉強部屋へと案内してくれた。
ちなみに透視魔法の改善は芳しくない
やはり昼間は目立つようなので最近は控えている
……なにより結構覗きには満足した
◇
貴族教育の最初の授業は、文字と計算の確認だった。
家庭教師を務めるのは、マルグリットという女性である。落ち着いた雰囲気の人で、教え方も丁寧だった。
「それでは、ルシアニウス様。こちらの文章を読んでいただけますか?」
「……はい」
俺は差し出された本に目を落とし、文章を読み上げた。
この世界の文字は、前世の日本語とも英語とも異なる。最初は覚えるのに苦労したが、毎日少しずつ練習してきたおかげで、今では日常的な文章なら問題なく読める。
ただし、貴族向けの文書となると話は別だ。
古い言い回しや独特の敬語が多く、意味を理解するのに時間がかかることもある。
「はい、よく読めていますね。それでは、こちらの文章の意味を説明していただけますか?」
「……えっと」
俺は少し考えた。
単語の意味は分かる。しかし、文章全体が何を伝えようとしているのか、うまく説明できなかった。
「……すみません。もう一度、読んでもいいですか?」
「もちろんです。焦らず、ゆっくり考えてみましょう」
俺はもう一度、文章を読み直した。
前世の記憶があるからといって、何でも簡単にできるわけではない。そもそも、言語が違うのだから、覚えなければならないことは多い。
それでも、こうして一つずつ理解していく過程は嫌いではなかった。
しばらくして、ようやく文章の意味が分かった。
「……つまり、領主が領民から税を集めるときは、決められた規則に従わなければならない、ということですか?」
「そのとおりです。よく理解できましたね」
マルグリット先生が微笑んだ。
税についての文章だったらしい。
税金。
前世でも社会を支えるために必要な仕組みだったが、こちらの世界では領主の役割と密接に結びついている。
税を集めるだけではなく、そのお金を何に使うのかも重要だろう。
道路や橋を整備したり、治安を維持したり、農業や商業を支援したり。
領地を豊かにするためには、収入を増やすだけでなく、集めたお金をどう使うかも考えなければならない。
そんなことを考えていると、先生が次の問題を出してきた。
「では、こちらの計算をお願いします」
紙に書かれた数字を見て、俺は少しだけ安心した。
計算なら得意だ。
前世で大学院まで進み、エンジニアとして仕事をしていた俺にとって、基本的な四則演算で困ることはない。
この世界の単位や貨幣の換算には慣れる必要があるが、計算そのものは難しくなかった。
俺は問題を解き、答えを書いた。
「はい、正解です。計算はかなり得意なようですね」
「……ありがとうございます」
褒められると、少し恥ずかしい。
俺は小さく頭を下げ、次の問題に取りかかった。
◇
午前中の授業が終わると、少し休憩を挟んで歴史の勉強が始まった。
セレナは俺の隣に座り、教材を開いてくれた。
「本日は、アウレリア王国の成立と、現在の王家について学びます」
「……王家ですか」
「はい。貴族として暮らす以上、王家や有力貴族について知っておくことは大切です」
セレナの言うとおりだった。
俺は王国の名前や王都の名前、現在の国王がアーデルハイトであることなど、基本的な情報はすでに知っている。
しかし、それぞれの貴族家がどのような役割を持ち、どんな関係にあるのかまでは、十分に理解できていなかった。
「アウレリア王国は、複数の有力貴族家がそれぞれの領地を治めることで成り立っています。王家が国全体を統治していますが、領地ごとの運営は、それぞれの領主に大きく任されているのです」
セレナは本の図を指しながら説明してくれた。
「ヴァレンシュタイン家は男爵家ですので、王国全体に対する影響力は限られています。しかし、領地を治める責任があることに変わりはありません」
「……領主の仕事って、いろいろあるんですね」
「ええ。領民の生活を守り、税を管理し、治安を維持する。必要であれば、他の貴族家と交渉することもあります」
俺は説明を聞きながら、頭の中で整理した。
領主というのは、単に土地を所有しているだけではない。
領地を維持するために、多くの人と関わり、さまざまな問題を解決していかなければならないのだ。
前世の会社でも、設計の仕事を進めるには、製造部門や調達部門など、いろいろな部署との連携が必要だった。
一人の力だけで何かを成し遂げることは難しい。
領地経営も、それに似た部分があるのかもしれない。
「……セレナ」
「はい、ルシアニウス様」
「母様も、こういうことを全部考えているんですか?」
「もちろんです。アンネリーゼ様は領主として、日々さまざまな判断をなさっています」
セレナは少し誇らしげに答えた。
「領地の収支を確認し、家臣たちと相談し、必要な政策を決める。それだけでなく、周囲の貴族家との関係にも気を配っていらっしゃいます」
「……大変そうですね」
「ええ。ですが、アンネリーゼ様は領地のことをとても大切に考えていらっしゃいます。領民の暮らしが少しでもよくなるよう、いつも努力されているのですよ」
俺は母様の姿を思い浮かべた。
普段は優しく、俺を甘やかしてくれる母様。
けれど、領主として仕事をしているときは、きっと違う顔をしているのだろう。
そう考えると、少しだけ母様のことを尊敬し直した気がした。
俺は頷き、再び本に目を落とした。
◇
午後の授業では、地理と礼儀作法を学んだ。
地理の授業では、アウレリア王国の地図を広げ、王都アストリアと各貴族家の領地について教わった。
地図を見るのは好きだった。
前世でも、設計図や配置図を見ることには慣れていた。全体を俯瞰し、位置関係や距離を把握するのは、得意な方だと思う。
ただ、この世界の地図は、まだ十分に正確とは言えない部分もあるらしい。
測量技術が発達していない地域では、山や森の位置が大まかに描かれていたり、距離が実際とは異なっていたりすることもある。
続く礼儀作法の授業は、地理とは違った意味で難しかった。
「ルシアニウス様。貴族同士の挨拶では、相手の身分や立場に応じた振る舞いが必要になります」
先生の指示に従い、俺は何度も頭を下げたり、決められた言葉を口にしたりした。
相手との距離、視線の向け方、言葉遣い、挨拶の順序。
覚えることが多い。
前世の会社でも、上司や取引先への礼儀は必要だったが、この世界の貴族社会では、もっと細かい決まりがあるようだった。
特に厄介なのは、相手の爵位や立場によって対応を変えなければならないことだ。
誰に先に挨拶するのか。
どの程度まで頭を下げるのか。
どのような言葉を使うのか。
間違えれば失礼にあたることもあるらしい。
「……難しいです」
思わず本音が漏れた。
先生は苦笑した。
「最初から完璧にできる方はいませんよ。繰り返し練習して、少しずつ身につけていきましょう」
「……はい」
俺は素直に頷いた。
こういうものは、知識として覚えるだけでは足りないのだろう。
実際に何度も練習して、自然にできるようになる必要がある。
機械の操作と同じだ。
手順を知っていても、実際に動かしてみなければ身につかない。
そう考えると、少しだけ気が楽になった。
◇
授業が終わると、俺は自室に戻った。
さすがに疲れた。
五歳の体では、長時間集中して勉強するだけでも大変だ。
ソファに腰掛けると、セレナがすぐに飲み物を用意してくれた。
「お疲れさまでした、ルシアニウス様」
「……ありがとう、セレナ」
俺は飲み物を受け取り、ゆっくりと口をつけた。
甘い香りが広がり、少しだけ気持ちが落ち着く。
「本日の授業はいかがでしたか?」
「……覚えることが多くて、大変でした。でも、面白かったです」
「それは何よりです」
セレナは微笑みながら、机の上に数枚の紙を置いた。
「こちらは、本日の授業内容を簡単にまとめたものです。後で見直す際に、お役立てください」
俺は紙を手に取った。
そこには、歴史の要点や、地理の授業で出てきた貴族家の名前、礼儀作法で注意するべきことなどが、分かりやすく整理されていた。
「……これ、セレナがまとめてくれたの?」
「はい。ルシアニウス様が復習しやすいよう、要点を整理いたしました」
「ありがとう。すごく助かるよ」
「お役に立てたのなら幸いです」
俺は紙を眺めながら、感心した。
必要な情報を整理し、重要な部分を抜き出し、後から見直せるようにまとめる。
こういう作業は、意外と時間がかかるものだ。
それをセレナは、俺が授業を受けている間に進めてくれていたらしい。
やはり、彼女を専属侍女に選んで正解だった。
「……セレナがいてくれて、よかった」
俺がそう言うと、彼女は一瞬だけ目を丸くした。
それから、いつもの落ち着いた表情に戻り、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。これからも、ルシアニウス様のお力になれるよう努めてまいります」
その声はいつもどおり冷静だったが、どこか嬉しそうにも聞こえた。
俺は少し照れくさくなり、再び紙に目を落とした。
◇
その日の夜。
俺は寝る前に、セレナがまとめてくれた授業の内容を見直していた。
歴史、地理、税、礼儀作法。
どれも、すぐに何かを生み出せるような知識ではない。
けれど、どれも将来のために必要なものだ。
もし本当に領地を豊かにしたいのなら、魔法の研究だけをしていても駄目だろう。
どんなに便利な技術を生み出したとしても、それを使う人がいなければ意味がない。
作ったものを広めるためには、お金も必要だし、人手も必要だ。領地の仕組みを理解し、関係する人たちと協力しなければならない。
そうしたことを考えると、今日の勉強も決して無駄ではないと思えた。
「……よし」
俺は紙をまとめ、机の上に置いた。
明日も授業がある。
少しずつ覚えていけばいい。
魔法の研究も、貴族教育も、領地について学ぶことも。
焦らず、少しずつ進めていこう。
そう考えながら、俺は寝台へ向かった。
五歳になって始まった貴族教育。
それは単に貴族らしい振る舞いを身につけるためだけのものではない。
いつか自分のやりたいことを実現するために、必要な知識を積み重ねていく時間でもあるのだ。
俺はまだ、その入り口に立ったばかりだった。