その日も、いつもと変わらない一日だった。
午前中はマルグリット先生の授業を受け、午後は歴史や地理の勉強。合間にはセレナと一緒に学んだ内容を整理し、夕食の席では母や姉たちと今日あったことを話した。
最近は貴族教育にも慣れてきた。覚えることは多いものの、前世の知識が役立つ場面もあり、学ぶこと自体は嫌いではない。
ただし、一つだけ困ったことがあった。
――自分の時間が、どんどん減っている。
俺には、誰にも知られていない秘密がある。
それは、魔法の特訓だ。
幼い頃に魔素の存在を知って以来、俺はこっそりと魔法の練習を続けてきた。最初は水を生み出したり、本を浮かせたりする程度だったが、今では魔法の仕組みを考えながら、より少ない魔素で同じ現象を起こす方法を探っている。
最近は、生成する水の量や勢いを細かく調整する練習をしていた。
魔法を使うこと自体は、それほど難しくない。
問題は、どこまで正確に制御できるかだ。
入力と出力の関係を考え、無駄を減らし、再現性を高める作業は性に合っていた。
もっとも、機械と違って、魔法には目に見えない要素が多い。感覚に頼る部分もあり、まだまだ改善の余地はある。
だからこそ、練習を続けていたのだが……。
その日は、少し疲れていた。
昼間の授業が長引き、夕食の後には母様から領地の税についても教わった。さらに、寝る前にはセレナが翌日の予定を確認してくれたため、いつもより遅い時間になっていた。
それでも、少しだけなら問題ないだろう。
俺は寝室の扉を確認し、周囲に人の気配がないことを確かめた。
そして、いつものように魔素を感じ取る。
空気中に漂う、目には見えない力。
それを集め、形を与え、現象へと変える。
まずは少量の水を生み出す。
問題ない。
次に、その水を空中に浮かせる。
これも問題ない。
続いて、一定量の水を生成し、決められた方向へ押し出す練習に移る。
水を作るだけなら簡単だ。しかし、作った水をどれほどの速度で動かすか、どの方向に力を加えるか。その調整を誤れば、思わぬ結果につながる。
だからこそ、慎重に行う必要があった。
……はずだった。
◇
「……あれ?」
違和感を覚えたのは、水を生成し始めてからだった。
いつもより魔素の流れが滑らかではない。
疲労のせいだろうか。集中しているつもりなのに、出力の感覚が妙に曖昧だった。
いったん中止するべきだった。
今なら、そう思える。
しかし、そのときの俺は、あと少しだけなら大丈夫だと考えてしまった。
生成する水の量を調整し、前方へ押し出す。
その瞬間だった。
「――っ!」
水が止まらなかった。
想定していた量を大きく超える水が、一気に生み出された。
しかも、押し出すための力まで過剰になっている。
膨大な水が、狭い部屋の中で猛烈な勢いを持ち始めた。
まずい。
このままでは、部屋の中が水浸しになるどころではない。
とっさに魔法を解除しようとしたが、制御を失いかけた水は、俺の操作に素直に従わなかった。
前方には壁。
横には家具。
どちらに向けても、被害が出る。
残された選択肢は、一つしかなかった。
「上っ!」
俺は両手を天井へ向けた。
水の進行方向を、無理やり上方へ変更する。
次の瞬間。
――轟音。
ズドォォォォォンッ!!
耳をつんざくような音とともに、天井が吹き飛んだ。
いや、正確には、天井の一部が粉々に砕け、屋根までまとめて破壊されたらしい。
大量の水が夜空へ向かって噴き上がり、瓦礫と木片が四方へ飛び散る。
窓が激しく震え、部屋に置かれていた本や椅子が倒れた。
あまりの衝撃に、俺はその場で固まってしまった。
やがて、水の勢いが弱まり、最後の飛沫が夜空へ消えていく。
静寂が戻った。
俺はゆっくりと顔を上げた。
そこには――。
ぽっかりと穴の開いた天井。
そして、その向こうに広がる、満天の星空。
「…………」
きれいだった。
雲一つない夜空に、無数の星が瞬いている。
普段なら、思わず見とれてしまうような光景だろう。
だが、今の俺には、そんな余裕はなかった。
なぜなら。
――俺の部屋の天井が、なくなっているからだ。
「……どうしよう」
思わず呟いた声は、誰もいない部屋に虚しく響いた。
いや、誰もいないというのは、正確ではない。
屋敷のどこかにいる人々は、今の轟音を聞いているはずだ。
それどころか、屋敷の外にまで響き渡ったに違いない。
俺は恐る恐る窓の外を見た。
その瞬間、ぽつり、と頬に冷たいものが当たった。
「……雨?」
ぽつり、ぽつり。
やがて、領都の夜空から水が降り注ぎ始めた。
先ほど空へ吹き上げた水が、落ちてきたのだ。
それも、尋常な量ではない。
屋敷の庭も、街路も、広場も、短時間で雨に打たれていく。
数十秒ほどで雨は止んだものの、後には濡れた地面と、雨に驚いた人々の声が残された。
――明日の朝、領都では謎の夜雨が話題になるだろう。
そんなことを考えていると、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ルシアニウス様っ!」
勢いよく扉が開いた。
飛び込んできたのは、寝巻姿のセレナだった。
普段は冷静沈着な彼女が、顔色を変えて室内を見回している。
「ご無事ですか!? お怪我は――」
そこで、彼女の動きが止まった。
視線が俺に向き、次に倒れた家具へ。
そして最後に、天井へと移動する。
数秒間、セレナは何も言わなかった。
ただ、穴の開いた天井を見上げていた。
「…………ルシアニウス様」
「は、はい」
「これは……いったい、何があったのでしょうか?」
「ええと……」
俺は引きつった笑みを浮かべた。
「ちょっと、失敗して……」
「失敗?」
「……はい」
セレナの表情が、すっと変わった。
その瞬間、俺は悟った。
――あ、これ、絶対に怒られるやつだ。
◇
セレナに続いて、何人もの侍女が部屋へ駆け込んできた。
「何事ですか!?」
「爆発音が聞こえたのですが!」
「ルシアニウス様、ご無事ですか!?」
侍女たちは俺の無事を確認すると、すぐに部屋の惨状に気づき、そろって絶句した。
その後、アンネリーゼがやってきた。
「ルシーっ!」
アンネリーゼは俺を見るなり駆け寄り、頭から足先まで念入りに確認した。
「怪我はない? どこか痛いところは? 火傷は?」
「だ、大丈夫です、母様。どこも怪我していません」
「本当に?」
「はい……」
アンネリーゼは俺を強く抱きしめた。
いつもの優しい抱擁だったが、今は少し苦しい。
「よかった……本当に、よかったわ……」
声が震えている。
俺は、自分がとんでもないことをしてしまったのだと改めて実感した。
続いて、エレオノーラとエリザベートも駆けつけてきた。
「ルシー! いったい何があったの!?」
エリザベートは、俺が無事だとわかると、ほっと息を吐いた。
一方、エレオノーラは部屋の状況を冷静に確認していた。
「……天井が、なくなっているわね」
「うん……」
「屋根も?」
「……たぶん」
「たぶん?」
エレオノーラの笑顔が、少しだけ怖かった。
俺は思わず視線を逸らした。
アンネリーゼは俺を抱きしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。
そして天井を見上げた
顔が引きつっている
ゆっくりと顔をおろして俺を見た
「ルシー」
「は、はい」
「何がどうなっているのか、説明してちょうだい」
優しい声だった。
こうして俺は3度目の事件を起こしたのだった