翌朝。
俺は、アンネリーゼの執務室に向かっていた。
昨夜、魔法の練習に失敗して天井を吹き飛ばしたことを考えれば、当然のことだろう。部屋の修繕はすでに手配されていたが、俺自身の問題は何一つ解決していない。
むしろ、これからが本番だった。
「ルシー、こちらへいらっしゃい」
「はい、母様」
部屋に入ると、アンネリーゼのアンネリーゼが机の向こうに座っていた。その隣には、アンネリーゼの秘書であるイザベラ。そして、壁際にはセレナとグレーテの姿もある。
グレーテは領軍の指揮官だ。魔法にも武術にも精通しているらしく、昨日の事故を受けて、魔法の確認に立ち会うことになったらしい。
全員の視線が、俺に集まっていた。
「まずは、昨日のことです」
アンネリーゼが口を開いた。
「ルシーが無事だったことは、本当によかったと思っています。ただ、あのような事故を二度と起こさないためにも、あなたがどの程度魔法を使えるのか、きちんと把握する必要があります」
「はい」
「今日は、これまでに使えるようになった魔法を見せてください。危険だと思ったら、すぐに中止してください。わかりましたね?」
「わかりました、母様」
俺は素直に頷いた。
今回ばかりは、隠し事をせずに見せるしかない。
もっとも、すべてを見せるつもりはなかった。
透視魔法と盗聴魔法。
この二つについては、まだ秘密にしておきたい。どちらも他人に知られたときの影響が大きく、使い方を間違えれば深刻な問題にもなりかねない。
それに見せてもはたから見るとよくわからない
アンネリーゼたちに魔法を学ぶことを認めてもらうのが今回の目的だ。わざわざ余計な心配の種を増やす必要はないだろう。
「それでは、始めます」
俺は部屋の中央に立ち、まずは簡単な魔法から披露することにした。
◇
「水を出します」
右手を前に出す。
空気中の魔素を感じ取り、必要な量を集める。水の構造を思い浮かべながら、生成するための魔素を組み立てていく。
すると、俺の手のひらの上に、透明な水の球が現れた。
「水の生成ですね。これは基本的な魔法ですが……」
アンネリーゼが説明しかけたところで、俺は水の球を動かした。
球体はゆっくりと宙に浮かび、滑らかな軌道を描いて部屋の中を移動する。大きさを変え、細長い帯のような形に変化させ、最後には小さな輪になった。
水の表面は波打つこともなく、まるで透明なガラス細工のように形を保っている。
「……あら?」
アンネリーゼが首をかしげた。
俺はさらに水を分割した。
いくつもの小さな水滴が、それぞれ異なる軌道を描いて宙を舞う。互いにぶつかることもなく、一定の間隔を保ちながら、同じ速度で円を描き続けた。
最後に、すべての水滴を一つにまとめ、元の球体へ戻す。
「以上です」
俺がそう言うと、部屋の中が静まり返った。
「……今のは、どうやったのですか?」
最初に口を開いたのはイザベラだった。
「水の形と動きを、個別に制御しました」
「個別に……?」
「はい。水を一つの塊として扱うのではなく、いくつかの部分に分けて、それぞれに動きを指定しています」
前世でいえば、複数の物体を同時に制御するようなものだ。
もちろん、魔法には魔法特有の難しさがある。それでも、構造を理解し、処理を分けて考えることで、制御はずっと楽になる。
「……そのような操作ができるのですね」
グレーテが、興味深そうに水の球を見つめていた。
俺は少し緊張しながら、次の魔法へ移ることにした。
「次は、炎を使います」
今度は手のひらに小さな炎を灯す。
炎はゆらゆらと揺れながら、少しずつ形を変えていった。
頭部ができ、胴体ができ、四本の脚が伸びる。
やがて、手のひらほどの大きさのライオンが完成した。
炎でできたライオンだ。
俺が指を動かすと、ライオンは前脚を上げ、首を振り、尻尾を揺らした。小さく口を開け、威嚇するような仕草までしてみせる。
もちろん、本物の生き物ではない。あくまで炎を立体的に制御し、形と動きを与えているだけだ。
だが、見た目だけなら、今にも歩き出しそうなほど精巧だった。
「…………」
アンネリーゼは黙っていた。
セレナも、イザベラも、グレーテも、何も言わなかった。
俺は少し不安になった。
もしかして、あまりにも子供っぽい魔法だったのだろうか。
そう思いながら、炎のライオンを机の上に降ろす。
ライオンは机の上を歩き回り、端まで来ると器用に方向転換した。そのままアンネリーゼの前まで進み、ちょこんと座る。
「……がお」
小さな声で鳴くような動きをさせてみた。
そこでようやく、アンネリーゼが口を開いた。
「……ルシー」
「はい」
「これは、何という魔法なの?」
「特に名前はありません。炎を作って、形を整えて、動かしているだけです」
「……だけ?」
アンネリーゼの声が、わずかに裏返った。
俺は首をかしげた。
「はい。水でも同じことができます」
「水でも……」
アンネリーゼは額に手を当てた。
どうやら、思っていた反応とは違うらしい。
しかし、まだ披露は終わっていない。
「次は、浮遊魔法です」
俺は自分の身体を軽く浮かせた。
足が床から離れ、ゆっくりと宙に上がる。
そのまま天井近くまで浮かび、部屋の中を横方向に移動した。急停止しても身体が揺れることはなく、前後左右へ自在に動ける。
昨夜の事故を思い出し、速度は控えめにしておいた。
「……自分自身を浮かせているのですね?」
「はい。身体全体に働く力を調整しています」
「それは、どなたかに教わったのですか?」
「いいえ。自分で考えました」
アンネリーゼの顔が、少しずつ引きつっていく。
俺は床へ戻り、今度は机の上に置かれた紙を一枚、宙に浮かせた。
「次は、これです」
紙がひらりと持ち上がる。
その紙を空中で折り曲げ、角を合わせ、折り目をつける。左右の端を重ね、翼を作り、最後に尾の部分を整えた。
数十秒後。
空中に、一羽の折り鶴が完成した。
俺は折り鶴を軽く動かし、翼を上下させる。鶴は部屋の中をふわふわと飛び、アンネリーゼの肩の近くを通り過ぎた。
「……紙を、空中で折ったの?」
セレナが、珍しく驚きを隠せない声を出した。
「はい。紙を何か所かに分けて、それぞれを動かして折りました」
「指で折るのと同じように……?」
「そうですね。折り目をつけるところに力を集中させれば、できます」
前世の折り紙の知識と、魔法による精密な操作。その組み合わせにすぎない。
少なくとも、俺にとってはそうだった。
しかし、四人の反応を見る限り、この世界では当たり前のことではないらしい。
それなら、最後にもう一つだけ見せておこう。
「最後は、少し変わった魔法です」
俺は手を前に出し、魔素を集めた。
これまでの魔法とは違い、少しだけ慎重に構造を組み立てる。
指先に、小さな光が走った。
パチッ。
青白い火花が散る。
さらに魔素を制御すると、指先と指先の間に、細い放電が生じた。
バチバチッ、と乾いた音が鳴る。
俺はすぐに出力を下げ、放電を止めた。
「……電気、です」
しばらく、誰も反応しなかった。
やがてグレーテが、一歩前に出た。
「ルシアニウス様。それは、雷の魔法でしょうか?」
「……そうですね。ものすごく小さい雷みたいなものです」
「なる…ほど…」
「ですが、これはまだ詳しく調べている途中です」
もちろん、この世界の自然現象が前世と完全に同じ仕組みである保証はない。
それでも、電気に相当する現象を魔法で再現できることは、俺にとって大きな発見だった。
もし、安定して発生させたり、蓄えたり、制御したりできるようになれば――。
いや、今はそこまで考えなくていい。
俺は魔法を止め、手を下ろした。
「……以上です」
沈黙。
水の球は消え、炎のライオンも折り鶴も、すでに片付けられている。
それでも、部屋の中には奇妙な静けさが残っていた。
アンネリーゼは俺を見つめたまま、口を半開きにしている。
イザベラは手元の書類を持ったまま固まり、セレナはいつもの無表情を保とうとしているようだが、目が大きく見開かれていた。
そしてグレーテは、腕を組んだまま、何かを考え込んでいる。
四人とも、開いた口がふさがらない。
……そんなにおかしなことをしただろうか。
俺は少し不安になって、アンネリーゼに声をかけた。
「……母様?」
「…………」
「母様、あの……」
「……ええ、聞こえているわ」
アンネリーゼは、ようやく我に返ったように答えた。
だが、目はまだ俺から離れない。
「ルシー。あなた、今の魔法を全部、自分で考えたの?」
「はい。基本的には、そうです」
「誰にも教わらずに?」
「……はい」
「いつから?」
「小さい頃から、少しずつ……」
アンネリーゼは再び黙り込んだ。
俺は困った。
どうすればいいのだろう。
昨夜の事故を反省し、これからは安全に魔法を学ぶために、できることを見せたつもりだった。
ところが、披露すればするほど、アンネリーゼたちの表情が険しくなっていく。
もしかして、まだ何か問題があるのだろうか。
「……あの、母様」
「なにかしら?」
「……ごめんなさい」
「……いいえ。そういうわけではないの」
アンネリーゼは、どうにか笑顔を作った。
しかし、その笑顔は明らかにぎこちなかった。
「少し、考える時間が必要なの。ルシー、今日はここまでにしましょう」
「……もう、大丈夫ですか?」
俺は戸惑いながら尋ねた。
「ええ。午後はいつもどおり、普通に授業を受けてちょうだい。魔法については、私たちで相談してから、改めて話をします」
「わかりました」
俺は頭を下げ、部屋を出た。
廊下にはセレナがついてきたが、彼女も何か言いたそうな顔をしていた。
ただ、結局何も言わず、僕を見送った。
セレナも用事があるのだろうか
俺は少しだけ首をかしげながら、いつもの勉強部屋へ向かった。
――魔法の披露は、ひとまず成功した。
……成功したはずだ。
◇
ルシアニウスが退出した後。
アンネリーゼ、セレナ、イザベラ、グレーテの四人は、しばらく誰も口を開かなかった。
やがて、母親であり領主でもあるアンネリーゼが、深々と椅子に腰を下ろした。
「……どうしましょう」
その声には、普段の威厳がなかった。
イザベラは手元の書類を机に置き、額を押さえた。
「正直、想定していた範囲を大幅に超えています」
「そうね……」
アンネリーゼは、先ほど見た魔法を思い返した。
最初は、水の生成と操作。
それだけなら、少々器用な子供だと考えられたかもしれない。
だが、複数の水滴を個別に制御し、複雑な形を作り、動きを与える。
炎を立体的な生き物の形に変え、それを人形のように操る。
自分自身を浮かせ、空中で紙を折り、さらには電気のような現象まで発生させる。
しかも、本人はそれらを特別なことだと思っていない。
アンネリーゼは、もう一度額を押さえた。
「私は、あの子が魔法を使えると聞いても、せいぜい基本的な魔法を器用に扱える程度だと思っていたのよ」
「私も同じです」
セレナが静かに答えた。
「以前、魔法に興味を示された際、幼いこともあり、もう少し大きくなってから学ばれるのがよいと考えておりました。まさか、独力であそこまで習得されているとは……」
「それに、昨夜の事故もあるわ」
アンネリーゼはため息をついた。
「魔法の出力調整に失敗しただけで、屋根まで吹き飛ばしてしまった。あの力を本人の判断だけに任せるわけにはいかない」
「その点は、私も同意します」
グレーテが口を開いた。
領軍を率いる彼女は、戦闘に使う魔法についても十分な知識を持っている。
「ただ、今日の魔法を見た限り、単純に魔素の量が多いという話ではありません。むしろ、制御の精密さが異常です」
「やはり、そう思う?」
「はい。水の動きを思い出してください。複数の水滴を別々に動かしながら、互いにぶつからないように制御していました。あれほど細かな操作を、あの年齢で行うのは普通ではありません。いえ、あの年齢でなくてもあんな細やかな操作ができる者を見たことがありません」
グレーテは腕を組み直した。
「炎のライオンもそうです。炎を維持するだけでも難しいのに、脚や尻尾を別々に動かしていました。戦場で使われる一般的な魔法とは、発想そのものが違います」
「それに、あの電気という魔法……」
イザベラが言った。
「あのような魔法を見たことがありません。既存の魔法を応用したものなのか、それともまったく新しいものなのか……」
「本人は、まだ調べている途中だと言っていたわね」
「はい。つまり、あれでも完成形ではない可能性があります」
再び、沈黙が落ちた。
完成していない。
あの精度の魔法ですら、本人にとっては研究途中なのだ。
アンネリーゼは、ゆっくりと背もたれに身体を預けた。
「……私は、自分で指導するつもりだったのよ」
彼女は魔法の扱いを知らないわけではない。貴族として必要な教育を受け、実戦で使う魔法についても一通り理解している。
それに、グレーテがそばにいれば、危険な魔法の指導にも対応できると考えていた。
「多少、才能がある程度なら、私たちで教えられると思っていたの。でも……」
「……難しいでしょうね」
グレーテは率直に答えた。
「私が教えられるのは、基本的な魔法の使い方や、戦闘における応用です。しかし、ルシアニウス様が行っていることは、それらとは別の分野に踏み込んでいます」
「つまり、教える側の知識が足りないということ?」
「そうなります」
グレーテは迷いなく頷いた。
「無理に既存の方法へ当てはめれば、かえって才能を潰すことにもなりかねません。それに、また隠れての練習を始められるかもしれません。安全管理は私たちでもできますが、魔法そのものを指導するには、専門家が必要です」
アンネリーゼは、深くため息をついた。
まさか、五歳の息子の教育方針を決めるために、これほど頭を悩ませることになるとは思わなかった。
「……講師を呼びましょう」
そう言ったのは、イザベラだった。
「ルシアニウス様の魔法を正しく評価でき、今後の研究についても助言できる方を招くべきです」
「そうね。けれど、誰を呼べばいいのかしら……」
アンネリーゼは考え込んだ。
魔法の知識が豊富な人間なら、王都にも何人かいる。
だが、今回必要なのは、単に魔素の扱いに長けた魔法使いではない。
既存の魔法を教えるだけでなく、本人が独自に編み出した魔法を理解し、その先へ導ける人物だ。
それほどの人材となると、候補は限られる。
しかも、相手はまだ五歳の男児である。
希少な男子に会いたいという理由だけで近づいてくる者もいるため、人選には慎重にならなければならない。
「魔法学院の教師を呼ぶのはどうでしょう?」
セレナが提案した。
「一般的な教育という意味ではよいでしょう。ただ、今回の件に対応できるかどうかはわかりません」
イザベラは首を横に振った。
「それに、王都から教師を招くとなると、手続きにも時間がかかります」
「では、研究者は?」
「優れた研究者が、必ずしも指導に向いているとは限りません。ルシアニウス様の魔法を理解できる方となると、さらに絞られます」
誰もが思案に暮れる。
そのときだった。
「……マルティナ様はいかがでしょうか」
イザベラが、ふと思いついたように口を開いた。
その名を聞き、アンネリーゼが顔を上げた。
「マルティナ……あのマルティナ先生?」
「はい。以前、屋敷で起きた幽霊騒ぎの際に、調査に来てくださった方です。魔法に関する知識も実力も申し分ありませんし、何より、ルシアニウス様の魔法について一度は調査された方です」
確かに、適任かもしれない。
マルティナは、王国でも名の知れた魔法使いだ。
魔法の扱いに長けているだけでなく、珍しい現象や未知の魔法にも強い関心を持っている。
「……そうね。彼女なら、何か手がかりを得られるかもしれないわ」
アンネリーゼはしばらく考えた後、頷いた。
「マルティナ先生に連絡を取りましょう。事情を説明して、ルシーの魔法を見てもらいたいとお願いするの」
「承知いたしました。すぐに手配いたします」
イザベラが一礼する。
こうして、ルシアニウスの魔法教育をめぐる方針は、ひとまず決まった。
もっとも、四人の悩みが解消されたわけではない。
むしろ、これから何が起きるのか、誰にも予想がつかなかった。
アンネリーゼは窓の外を見つめた。
「……あの子、いったいどこまでできるのかしら」
誰も答えなかった。
答えられる者が、まだいなかったからだ。
そして数日後。
ヴァレンシュタイン家からの連絡を受け取ったマルティナは、再び領都ヴァルデンを訪れることになる。
今度は、幽霊の正体を探るためではない。
五歳の少年が独力で生み出した、常識外れの魔法を確かめるために。