目が覚めると、見知らぬ天井があった。
……いや、もう何度目だろうか。
この数か月、目を覚ますたびに同じ天井を見上げている。正確には、天井の模様を眺めるくらいしか、やることがない。
何しろ、俺は赤ん坊なのだ。
前世では三十代のエンジニア。理系の大学院まで出て、メーカーに勤めて仕事に打ち込んできた。
それが今では、寝返りを打つのも一苦労。手足を思うように動かすことすらできず、腹が減れば泣き、眠くなれば眠る。
人間、ここまで退化することがあるのか。
いや、退化というより、最初からやり直しているのだから当然なのだろうが。
「……あぅ」
試しに声を出してみる。
返事はない。
まあ、当たり前だ。
俺はベッドの上で、むにむにと手を動かした。
この体になってから、数か月が経過している。
生まれた直後は、自分が本当に赤ん坊になったという事実を受け入れるだけで精いっぱいだった。今ではさすがに慣れてきたが、だからといって不自由なものは不自由だ。
それでも、少しずつわかってきたこともある。
まず、俺は男だった。性別が前世と同じなのはありがたい。
TSは守備範囲外だ
そして、俺がいる場所は、どうやらかなり裕福な家らしい。
寝かされているベッドは大きく、柔らかな寝具が使われている。部屋は広く、壁や家具には細かな装飾が施されていた。窓には厚手のカーテンがかかり、床には毛足の長い敷物まである。
少なくとも、一般的な農家の家ではなさそうだ。
そして、何より特徴的なのが、人の多さだった。
俺の世話をする女性が、常に何人もいるのだ。
食事の時間になると食事を運ぶ人が現れ、部屋が汚れたら掃除をする人が現れ、衣服や寝具を整える人も現れる。
しかも、彼女たちは互いに指示を出し合い、実に手際よく働いていた。
これは、もしかして……。
貴族の家なのではないだろうか。
前世の知識を当てはめるなら、そう考えるのが自然だった。
広い屋敷。大勢の使用人。上質な家具。赤ん坊一人に何人もの人間がつきっきりになる生活。
一般家庭では、なかなかこうはいかないだろう。
もちろん、この世界の常識が前世と同じとは限らない。裕福な商人の家という可能性だってある。
しかし、少なくとも貧しい家ではないようだ。
転生先としては、かなり恵まれているのかもしれない。
……もっとも、俺自身にはまだ何もできないのだが。
◇
ある日の午後、妙齢の女性が俺の寝ている部屋に入ってきた。
生まれて泣いていた時に抱きかかえて何度も名前を呼んでくれていた人だ。
おそらく俺の母親であろう。
その後ろには、二人の少女がついてきている。
いや、少女というには、片方はまだ幼い。
二人とも、俺を見るなり嬉しそうに顔を輝かせた。
「…………!」
「…………!」
何やら声を上げながら、俺のそばに駆け寄ってくる。
俺は二人を見つめた。
片方は、落ち着いた雰囲気の少女だった。
もう片方は、活発そうで、今にも飛び跳ねそうな勢いがある。
年齢は違うようだが、母親も含めて3人ともよく似た顔立ちをしている。
母親は二人に何かを言い、俺を抱きかかえて、少し身をかがめた。
すると、二人は一斉に俺の顔を覗き込んできた。
近い。
近い近い。
顔が近い!
俺は思わず目を見開いた。
少女たちは楽しそうに笑いながら、俺の手や頬に触れてくる。
片方が俺の指をそっと握った。
もう片方は、俺の頬をつついている。
……なるほど。
この二人は、俺の姉の可能性が高い。
母親が二人に向けて口にした名前らしき音を、俺は以前にも聞いたことがあった。
もちろん、まだ確証はない。
だが、母親と二人の少女が一緒にいる様子を見る限り、家族と考えて間違いないだろう。
つまり、俺には姉が二人いるらしい。
前世では一人っ子だった。
それが今では、母親がいて、姉が二人いて、さらに大勢の使用人がいる。
ずいぶんと賑やかな環境になったものだ。
姉たちは俺を交互に抱きかかえ、手を握り、頬をつつき、楽しそうにあやしてくれた。
特に活発そうな方の姉は、俺が少し手を動かすだけでも大喜びする。
俺が指を握り返すと、まるで大発見でもしたかのように母親に報告していた。
……いや、それは赤ん坊なら普通の反応ではないのか?
そう思ったが、もちろん口には出せない。
俺は姉たちにされるがまま、いじられていた。
不思議なものだ。
最初は、誰かに触れられたり、抱き上げられたりするたびに戸惑っていた。
だが、何度も繰り返されるうちに、少しずつ慣れてきた。
もちろん、恥ずかしいことは恥ずかしい。
前世の記憶がある以上、赤ん坊として扱われることに複雑な気持ちがあるのは変わらない。
それでも、こうして家族に囲まれていると、悪い気はしなかった。
……むしろ、少しだけ嬉しい。
俺はもう一度、姉たちの顔を見上げた。
この二人が、俺の姉なのだ。
まだ名前もよくわからない。
性格も、好きなものも、どんな生活をしているのかも知らない。
けれど、これから長い時間を一緒に過ごすことになるのだろう。
ならば、少しずつ知っていけばいい。
今は、それで十分だ。
◇
母親。
姉二人。
世話をしてくれる侍女たち。
俺と接触があるのはおそらくこのあたりの人たちだろう。
この人たちとこれから家族としてやっていく必要がある。
それにしても。
この屋敷には、女性しかいないように見える。
俺が目にする人間は、今のところほとんどが女性だった。
もちろん、部屋の外に男性がいないとは限らない。
俺はまだ、部屋の外を自由に歩くことすらできないのだ。
見えていない場所に男性がいる可能性は十分にある。
そもそも、赤ん坊の世話をするのは女性が中心なのかもしれない。
前世でも、乳児の世話は母親や女性の保育者が担うことが多かった。
この世界でも似たようなものなのだろう。
そう考えれば、特に不思議ではない。
というかみんな美人なのでむしろ眼福である
それに俺は今赤ん坊だ
正直役得である
ほっぺたにキスは当たり前のようにしてくれる
なにより抱きかかえられたときに目の前におっぱいがあるのだ
顔をうずめても、つかんでも、もんでもみんな笑って許してくれる
……それどころか喜んでいるようにも見える
赤ん坊は偉大だ
俺の息子はまだまだ偉大じゃないが
もんでみると思ったより硬い感触が返ってくる
おそらくブラジャーみたいなのを付けているのだろう
この世界にも下着というものはあるようだ
……話がそれてしまったが、父親らしき人物を一度も見たことがないのは気になった。
母親がいて、姉が二人いる。
ならば、父親もいるはずだ。
だが、俺の部屋に男性が訪ねてくることはなかった。
母親が誰かと話しているときにも、男性の姿は見かけない。
俺の知らないところで仕事をしているのかもしれない。
もしくは出張だろうか
領主のような立場なら、屋敷を離れることも多いだろう。
……いや、そもそも、ここが本当に貴族の家なのかも、まだ確定していないのだが。
というか俺が寝ている間に来ている可能性もある
なんせ1日の半分は寝ているからな
それでも、父親らしき人物を一度も見ていないのは、少しばかり疑問を感じた。
赤ん坊が生まれたばかりなのだから、もう少しそばにいてやってもいいのではないか。
そんなことを考えながら、俺は母親の腕の中であくびをした。
父親については、いずれわかるだろう。
今は、考えても仕方がない。
情報が少なすぎるのだ。
まずは、もっと周囲を観察する必要がある。
そう結論づけ、俺は再び目を閉じた。