幕間1 アンネリーゼ
ーアンネリーゼ・ヴァレンシュタイン視点ー
痛い。
ただ、それだけだった。
何度か経験したはずの出産なのに、慣れるということはないらしい。
額から汗が流れ落ち、握りしめた寝具が皺だらけになっている。助産を担当する侍女たちが忙しなく動き回り、時折、励ますような声をかけてくれる。
それでも、痛みが消えるわけではなかった。
「アンネリーゼ様、もう少しでございます。どうか、もう少しだけお力を」
「……わかって、います……!」
息を整えようとしても、次の痛みが容赦なく押し寄せる。
私は目を閉じ、必死に耐えた。
エレオノーラを産んだときも、エリザベートを産んだときも、これほど苦しかっただろうか。
いや、きっと同じだったのだろう。
ただ、今は別のことが頭から離れなかった。
どうか、無事に生まれてきて。
それだけを願っていた。
「アンネリーゼ様、もう一度です!」
「……っ、ああああっ!」
最後の力を振り絞る。
そして。
ようやく、身体から何かが抜け出ていく感覚があった。
「生まれました!」
侍女の声が響いた。
終わった。
そう思った瞬間、全身から力が抜けた。
「……子供は?」
息も絶え絶えに、私は尋ねた。
「お、お待ちくださいませ……」
返事が妙に歯切れが悪かった。
私は薄く目を開けた。
侍女たちは赤子を取り囲んでいた。いつもなら、出産が終わればすぐに赤子の泣き声が聞こえてくるはずだ。
しかし、聞こえない。
部屋の中にあるのは、衣擦れの音と、侍女たちの慌ただしい息遣いだけだった。
「……どうしたのです?」
誰も答えない。
私は身体を起こそうとした。
「アンネリーゼ様、まだ動かれては……!」
「その子を、見せてください」
自分でも驚くほど強い声が出た。
侍女の一人が振り返った。
その顔は、明らかに青ざめていた。
「奥様……」
「見せて、と言っているのです!」
侍女が一瞬ためらい、それから赤子を抱き上げた。
小さな身体。
閉じた目。
動かない口。
泣かない。
どうして?
私はその光景を理解できなかった。
先ほどまで、確かにこの子は私のお腹の中にいた。
もうすぐ会える。
そう思っていたのに。
どうして、泣かないの?
「……ねえ」
声が震えた。
「この子は……どうしたの?」
「まだ、わかりません。ですが、今、処置を……」
助産を担当していた年配の侍女が、赤子の様子を確認していた。
彼女はこれまで何人もの出産に立ち会ってきた経験豊富な人物だ。普段なら、何が起きても落ち着いて対処する。
その彼女の手が、わずかに震えていた。
私は、それを見てしまった。
胸の奥が冷たくなる。
嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
この子を失いたくない。
エレオノーラも、エリザベートも、私にとってかけがえのない娘たちだ。
そして、今、生まれたばかりのこの子も。
名前をどうするか。
どんな顔で笑うのか。
何が好きになるのか。
まだ何一つ知らない。
それなのに。
「お願い……」
気がつけば、私は両手を合わせていた。
「どうか、この子を……」
祈ることしかできなかった。
◇
赤子の身体は小さかった。
当然だ。生まれたばかりなのだから。
それでも、侍女の腕の中でぐったりしている姿は、あまりにも頼りなかった。
「刺激を与えます。奥様、少々お待ちください」
年配の侍女が言った。
別の侍女が布を用意し、赤子の身体を支える。
そして、彼女は赤子の足を軽く刺激した。
反応はない。
「もう一度……」
再び刺激する。
赤子は動かなかった。
時間が、ひどくゆっくり流れているように感じた。
私は寝台の上で、ただ見つめていた。
何か言わなければ。
何かできることがあるはずだ。
けれど、何もできない。
私は領主だ。
領地の問題なら、どれほど難しいことでも考え、解決するために動ける。
交渉も、計算も、判断もできる。
しかし、今は違う。
目の前にいる小さな命に、何をしてやればいいのかわからない。
「……お願い」
もう一度、呟いた。
その声は、誰にも届かなかったかもしれない。
侍女たちは必死だった。
赤子を支える手。
布を用意する手。
様子を確認する目。
普段は頼もしく思っている彼女たちが、今は誰もが不安そうな顔をしていた。
そのとき。
「……もう一度、刺激を」
年配の侍女が、決意を固めたように言った。
彼女は赤子の身体をしっかり支え、尻を軽く叩いた。
ぺちん、と小さな音がした。
私は息を止めた。
ぺちん!
再び小さな音が響く
ぺちん!
そして――。
ぺちん!
「ふぎゃあああああっ!」
泣き声が響いた。
最初は小さく、かすれた声だった。
しかし、すぐに力強い泣き声へと変わった。
「……あ」
誰かが声を漏らした。
次の瞬間、部屋の空気が変わった。
「泣きました!」
「よかった……!」
「奥様、赤子が……!」
侍女たちの顔に、一斉に安堵が広がった。
私も、ようやく息を吐いた。
目の前が滲んでいた。
頬を伝うものが汗なのか涙なのか、自分でもわからない。
「……その子を、こちらへ」
声が震えた。
侍女が、泣き続ける赤子を私の腕へ運んでくる。
小さな身体を抱きしめた瞬間、胸の奥に詰まっていたものが、一気に溢れ出した。
「よかった……本当に、よかった……」
私は何度も繰り返した。
赤子は泣いている。
生きている。
それだけで十分だった。
侍女から赤子を受け取る
「アンネリーゼ様,元気な『男の子』です」
「…まあ!」
小さな指が、私の服に触れた。
その感触に、また涙がこぼれた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉だったのだろう。
神様かもしれない。
侍女たちかもしれない。
それとも、ようやく泣いてくれたこの子自身に向けた言葉だったのかもしれない。
私は赤子の額に口づけをした。
「あなたの名前は、ルシアニウスよ」
妊娠がわかった頃から、ずっと考えていた名前は女の子の名前だった。
まさか男の子だったとは
ただもし,もしも自分が生涯で男の子を生んだのなら
呼びたい名前がずっと胸の内にあった
ようやく、この子に名前を呼びかけられる。
「ルシアニウス……」
赤子は答えない。
ただ、泣き声を上げている。
それでもよかった。
今は、それだけでよかった。
そう思い何度も何度も名前を呼びかける
◇
しばらくして、私はようやく落ち着きを取り戻した。
赤子の様子を確認していた侍女たちも、少しずついつもの仕事に戻り始めていた。
ただし、皆、先ほどのことが頭から離れないようだった。
「奥様……」
年配の侍女が、私のそばにやってきた。
「本当に、申し訳ございませんでした。すぐに泣かせてあげることができず……」
「あなたが謝ることではありません」
私は首を横に振った。
「最後まで諦めずに処置してくださったのでしょう。感謝しています」
「ですが……」
「この子が無事だった。それが何よりです」
私は腕の中の赤子を見つめた。
小さな鼻。
柔らかな頬。
泣き疲れたのか、少しずつ目を閉じ始めている。
先ほどまでの恐怖が嘘のように、穏やかな時間が流れていた。
それでも、私は忘れないだろう。
あの静けさを。
誰もが青ざめ、言葉を失った瞬間を。
そして、初めて聞いた産声を。
「……この子は、私が守ります」
気がつけば、そう口にしていた。
侍女が私を見つめた。
「奥様……」
「何があっても、この子を幸せにします。エレオノーラも、エリザベートも。この子も、私の大切な子供たちですから」
私は微笑んだ。
領主として、私は多くの責任を負っている。
領民の生活を守り、領地を豊かにし、家を存続させなければならない。
だが、母親としての私が望むことは、もっと単純だった。
この子たちが、幸せに生きてくれること。
ただ、それだけだ。
腕の中で、赤子が小さく身じろぎした。
私はその身体を、もう一度そっと抱きしめた。
「おやすみなさい、ルシー」
まだ、この子が愛称を理解しているはずもない。
それでも、私はそう呼びかけた。
いつかこの子が大きくなり、私の声を理解し、自分の足で歩き、いろいろなことを知るようになったら。
そのときは、今日のことを話してあげよう。
あなたが生まれたとき、どれほど心配したのか。
どれほど泣き声を聞きたかったのか。
そして、あなたが無事に泣いてくれたとき、どれほど嬉しかったのか。
その日が来ることを願いながら、私は目を閉じた。
腕の中には、確かな温もりがあった。
もう、それだけで十分だった。