ーマルティナ視点ー
王都アストリアの一角に、王立魔法研究院の研究棟は建っている。
王城ほど華美ではないものの、広大な敷地にはいくつもの研究施設が並び、朝から晩まで多くの研究者が行き交っていた。敷地の隅には実験用の建物があり、その周囲には魔法の暴発に備えた結界が幾重にも張られている。ときおり聞こえる爆発音や、空へ立ち上る色鮮やかな光も、ここで働く者にとっては珍しいものではなかった。
私、マルティナも、その研究棟の一室を自分の研究室として使っている。
机の上には、魔法制御に関する論文が積み重なっていた。壁際の棚には実験記録や参考書が詰め込まれ、窓辺には使用した魔法器具が乾かされている。片付けているつもりではあるのだが、興味を引く研究を見つけるたびに資料を引っ張り出してしまうため、いつまでたっても整然とした研究室にはならなかった。
「……違うわね。ここはもう少し条件を変えて考えるべきかしら」
私は手元の記録を見つめながら、羽根ペンを指先で回した。
現在取り組んでいるのは、魔法を行使する際の制御精度に関する研究だ。
魔法の威力や魔力量を高める研究は、昔から盛んに行われてきた。一方、魔法をどれだけ細かく、意図したとおりに扱えるかという問題は、個人の才能や経験に帰されることが多い。
だが、本当にそれだけなのだろうか。
魔法の制御が上手な者と、そうでない者。その違いは、魔素を感じ取る能力にあるのか。それとも、魔法を組み立てる際の思考方法にあるのか。あるいは、魔素を動かす過程そのものに、まだ知られていない規則性があるのか。
考え始めると、疑問は次々に湧いてくる。
「先生、また記録を読み直しているんですか?」
扉の向こうから声がした。
振り返ると、研究助手が書類の束を抱えて立っていた。彼女は私の机と、その周囲に広がる資料の山を見比べ、少し困ったような顔をした。
「ええ。昨日の実験で、どうしても気になるところがあって」
「昨日も同じことをおっしゃっていましたよ」
「そうだったかしら?」
「はい。お食事の時間にも、同じ話をされていました」
「……あら」
どうやら、私は思っていた以上に夢中になっていたらしい。
助手は慣れた様子で書類を机の端に置いた。
「こちらが、昨日お願いされた実験記録です。それと、先生宛てのお手紙が届いております」
「手紙?」
私はようやく羽根ペンを置いた。
研究院の研究者には、各地の貴族や魔法使いから手紙が届くことがある。研究への協力依頼、魔法器具の鑑定、魔法を使った事件の調査。内容はさまざまだが、私宛ての手紙の多くは、何らかの魔法に関係するものだった。
助手から封筒を受け取り、差出人の名前を見る。
アンネリーゼ・ヴァレンシュタイン。
「……アンネリーゼ様?」
思わず声に出していた。
その名前には覚えがある。
辺境に領地を持つ女男爵であり、以前、少しだけ縁があった人物だ。
私は封筒を裏返し、封蝋を確認した。間違いない。ヴァレンシュタイン家の紋章が押されている。
数年前、ある不思議な事象に関する相談を受けて、私はヴァレンシュタイン家を訪問したことがあった。
その際に会ったのが、アンネリーゼ様と、まだ幼かった息子のルシアニウスだった。
もっとも、当時の私は屋敷で起きた不可解な出来事の調査に意識を向けていたため、少年と長く話をしたわけではない。
それでも、彼の姿は印象に残っていた。
こちらから挨拶をすると、少し緊張した面持ちで頭を下げた。私が質問をすれば、幼いながらも一生懸命に答えようとしていた。人見知りなのか、母親の近くからあまり離れようとはしなかったが、礼儀正しく、とてもかわいらしい男の子だった。
私の記憶にあるルシアニウスは、それだけだ。
もちろん、魔法を使うところなど見ていない。特別な魔法の才能があると聞いた覚えもなかった。
「何かあったんでしょうか……?」
助手が尋ねる。
「さあ。まずは読んでみないと分からないわね」
私は封を切り、便箋を取り出した。
冒頭には、久しぶりの連絡を詫びる丁寧な挨拶が記されていた。アンネリーゼ様らしい、簡潔で礼を失わない文章だ。
その後には領地の近況が少し書かれていたが、私の目はすぐに本題へと移った。
――このたび、息子ルシアニウスの魔法について、ご指導をお願いしたく存じます。
私は文章を読み返した。
息子の魔法。
その一文だけでは、何も分からない。
講師を頼むにしてもわざわざ私を選んだということはそれなりの理由があるのだろう
魔力量が多いのだろうか。特定の魔法に秀でているのだろうか。それとも、魔法を使うこと自体はできるものの、制御に問題があるのだろうか。
考えられる可能性はいくつもあった。
私は続きを読み進めた。
どうやら、ルシアニウスは最近、家族の前で魔法を披露したらしい。その際、アンネリーゼ様をはじめとする周囲の者たちは、彼の技術を十分に理解し、適切に指導できる人物が必要だと判断したようだった。
そのため、専門家である私に指導を依頼したいという。
「……ふうん」
気がつけば、私は便箋を持ったまま考え込んでいた。
アンネリーゼ様は慎重な人物だったはずだ。
領主としての責任を理解しており、息子を大切にしていることも、以前の訪問でよく分かった。そんな彼女が、わざわざ王都の研究者にまで指導を頼むのだから、何かしら事情があるのだろう。
しかし、魔法の指導が必要だというだけでは、どれほどの能力なのか判断できない。
「先生?」
助手の声に、私は顔を上げた。
「何か、珍しいご依頼ですか?」
「ええ。以前お会いした男の子に、魔法を教えてほしいそうなの」
「以前お会いした男の子、というと?」
「ヴァレンシュタイン家のルシアニウス様よ。まだ小さな子だったわ」
私は手紙を机に置き、当時の記憶をたどった。
あの少年が魔法を使う。
想像してみたが、うまく像を結ばない。母親のそばで控えめに立ち、私の言葉に一生懸命耳を傾けていた姿ばかりが浮かんでくる。
あの子が、いったいどんな魔法を使うというのだろう。
「魔力量を測る必要があるのかしら。それとも、基礎から教え直すべきなのか……」
私は独り言をこぼした。
助手は苦笑した。
「先生、まだ何も分かっていないのではありませんか?」
「そのとおりね」
「でしたら、実際にお会いしてから考えればよいのでは?」
「ええ、もちろん。そうするつもりよ」
そう答えながらも、私はすでに、どのような指導方法が考えられるか頭の中で検討し始めていた。
もし魔力量が大きいなら、制御を誤った際の危険性を教える必要がある。
もし制御が苦手なら、基本的な魔法を通して感覚を身につけてもらうべきだろう。
逆に、基礎を飛び越えて高度な魔法を使っているのなら、既存の教育課程そのものを見直す必要があるかもしれない。
……いや、さすがにそこまでのことはないだろう。
私は一度、考えを打ち切った。
まだ会ってもいない少年に、あれこれ想像を膨らませるのは早計だ。
けれど、好奇心が芽生えてしまったことも確かだった。
知らないものを知りたい。
分からない現象を理解したい。
それは研究者として当然の欲求であり、私がこの仕事を続けている理由でもあった。
私は便箋を丁寧に折りたたみ、机の上に置いた。
「返事を書かなくてはね」
「お引き受けになるのですか?」
「ええ。日程を調整する必要はあるけれど、できるだけ早く伺うことにするわ」
助手は頷き、研究室を出る準備を始めた。
私は新しい便箋を取り出し、羽根ペンにインクをつけた。
まずは依頼を受ける旨を伝え、訪問できる日程を相談する。指導を始める前に、本人がどのような魔法を使えるのか、できる範囲で教えてほしいとも書き添えた。
筆を進めながら、ふと、数年前に会った少年の顔が浮かんだ。
礼儀正しく、かわいらしい男の子。
あの子がどのように成長したのか、再会するのが楽しみだった。
そして、どんな魔法を見せてくれるのか。
もしこのまま気に入られたらこの枯れた女にもワンチャンスあったり…?
そのことを考えると、自然と筆が速くなった。
「……早く会ってみたいわね」
思わず口にした言葉に、自分で小さく笑った。
このときの私は、まだ何も知らなかった。
あの少年が、一般的な魔法教育の枠に収まらない考え方を身につけていることも。
ただ、少し気になる少年から指導の依頼が届いた。
それだけのことだった。
けれど、研究者の好奇心というものは、時として人生を大きく変える。
私にとって、その手紙は、まさにその始まりだったのだ