ーグレーテ視点ー
私の名はグレーテ。
ヴァレンシュタイン領軍の責任者を務めている。
軍の責任者という立場は、決して楽なものではない。兵士たちの訓練計画を立て、装備の状態を確認し、領内の警備体制を整え、必要があれば周辺地域の調査にも人員を割かなければならない。領主であるアンネリーゼ様への報告も欠かせない。
まして、ここは王都から遠く離れた辺境だ。
王都のように物資が潤沢に届くわけではない。人員の補充も簡単ではなく、領内で何か問題が起きれば、限られた兵力で対処する必要がある。
だからこそ、私は自分の仕事に手を抜くつもりはなかった。
たとえ、この領地に来た理由が、純粋な忠誠心だけではなかったとしても。
「グレーテ隊長、本日の訓練計画について確認をお願いします」
「ええ。そこに置いておいてちょうだい。先に昨日の報告書を確認するわ」
「承知しました」
副官が書類を机に置き、敬礼して退室する。
私は報告書を手に取り、内容に目を通した。
訓練の参加人数、武器の損耗状況、兵士たちの体調、次回の訓練に向けた改善点。記載内容に目立った問題はない。
いくつか修正を指示する箇所に印をつけ、書類を脇へ寄せる。
「……よし、これでいいわね」
椅子の背もたれに身を預け、軽く肩を回した。
仕事は順調だった。
兵士たちの練度も、着任当初に比べれば着実に向上している。もちろん、まだ改善の余地はあるが、日々の訓練を怠らなければ、十分に戦力を維持できるだろう。
私は剣を振るうことだけが取り柄の人間ではない。
そう言うと、昔の知人たちは意外そうな顔をするかもしれない。
なにしろ、かつて王都で働いていた頃の私は、剣の腕前ばかりが評価されていたからだ。
当時の私には、剣聖という呼び名があった。
剣の腕で私に並ぶ者はいない。
少なくとも、王都で働いていた頃は、そう評されていた。
騎士たちとの模擬戦で負けた記憶はほとんどない。剣術大会では何度も優勝し、実戦でも数々の功績を挙げた。魔法を併用する剣士であっても、純粋な剣技で私を上回ることは難しかった。
あの頃は、よかった。
努力した分だけ強くなり、強くなった分だけ評価された。
剣を振るうことが好きだったし、自分の腕に誇りも持っていた。
ただ、一つだけ問題があった。
私は、王都で働いていた頃から、男性に目がなかったのだ。
いや、正確に言うなら、男性に対する欲求を抑えることが、あまり得意ではなかった。
この国では、男性は希少な存在である。
女性が圧倒的に多い社会において、男性は大切にされる。貴族の家では特にその傾向が強く、男性の機嫌を損ねないよう、周囲が気を配ることも珍しくない。
もっとも、だからといって、男性に何をしても許されるわけではない。
それくらい、私にも分かっていた。
分かっていたのだが……。
「……はあ」
私は机に頬杖をついた。
思い出したくもない過去が、頭の中をよぎる。
王都にいた頃、私は王配であるリヒャルト様に、少々積極的に接近しすぎた。
最初は、ただ遠くから眺めているだけだった。
王配としての立場にありながら、政治にはほとんど関与せず、穏やかに過ごしている姿。公の場で見せる柔らかな物腰。周囲の女性たちに囲まれても、嫌な顔をせずに接する態度。
それらを見ているうちに、私はすっかり惹かれてしまった。
そのうち、もう少しお話ししたいと思うようになり、さらに距離を縮めたいと思うようになった。
そして、気がつけば、やってはいけないところまで踏み込んでいた。
王配という立場の方に、色目を使い、個人的な関係を期待して接近したのだ。
結果は、言うまでもない。
王都から追放された。
剣の腕前を評価されていた私でも、王家の権威を損なうような行為が許されるはずはなかった。
今思えば、当然の処分だったと思う。
……いや、当時も、処分そのものに不満があったわけではない。
問題は、その後だった。
剣の腕を頼りに仕事を探しても、王都を追放された女を雇いたがる者は少なかった。腕前を認めてくれる者はいても、王家と揉めた人物をわざわざ抱え込もうとする者はいない。
私は王都を離れ、あちこちを渡り歩くことになった。
剣の腕だけなら、どこでも通用する。
しかし、剣を振るう場所がなければ意味がない。
騎士団への再就職は難しく、傭兵として生きることにも、あまり魅力を感じなかった。
そんなとき、耳に入ってきたのが、ヴァレンシュタイン領で男児が生まれたという話だった。
辺境の男爵家。
領主は女性で、跡継ぎとなる長女もいるらしい。
そして、男児が一人。
その話を聞いた瞬間、私の中で、ある考えが浮かんだ。
――男の子に気に入られれば、将来、何かよいことがあるかもしれない。
今思えば、我ながら実に浅ましい発想だった。
しかし、当時の私は仕事を失い、先の見えない生活を送っていた。
それに、男性に好かれることは、私にとって単純にうれしいことでもあった。
もちろん、子供に対して無理なことをするつもりはなかった。
ただ、近くで世話をし、信頼してもらい、成長したときに頼ってもらえるような立場になれれば。
そうすれば、将来、何かしらお情けをいただける可能性もあるのではないか。
……そんな下心が、まったくなかったと言えば嘘になる。
それで私は、ヴァレンシュタイン領へやってきた。
幸い、剣の腕前は本物だった。
そして辺境男爵領は人手不足だった。
アンネリーゼ様に認められ、私は職を得ることができた。
着任後は、軍の立て直しに真面目に取り組んだ。
訓練計画を見直し、兵士たちの装備を確認し、規律を整えた。辺境という土地柄、実戦を想定した訓練も欠かさなかった。
その結果、兵士たちからの信頼も得られた。
ここでの仕事に不満はない。
むしろ、剣を振るい、兵士たちを鍛え、領地の安全に貢献できることには、やりがいを感じていた。
ただし。
本来の目的を忘れたわけではない。
私は、まだ見ぬ男児の成長を、密かに楽しみにしていたのだ。
その少年が、ルシアニウス様だった。
初めてお会いしたとき、私は思った。
なんてかわいらしい男の子なのだろう、と。
控えめで、礼儀正しく、こちらが話しかけると少し恥ずかしそうにする。
その様子が、何とも愛らしかった。
もちろん、私は軍の責任者だ。
公私の区別はつけなければならない。
だから、訓練の見学に来られた際も、私はあくまで軍人として振る舞った。
……振る舞ったつもりだった。
兵士たちがルシアニウス様の姿を見て浮き足立つのを抑え、訓練を滞りなく進める。必要な説明を行い、危険な場所へ近づかないよう気を配る。
それらは、すべて仕事の一環だ。
けれど、内心では、かわいらしい男の子が自分の近くにいるというだけで、かなり気分がよくなっていた。
あのとき、ルシアニウス様が女性兵士たちの訓練を興味深そうに見つめていた姿を思い出す。
目を輝かせて、剣を振るう兵士たちを見ていた。
あの表情は、なかなか忘れがたい。
できることなら、また近くでお世話をしたい。
そう考えていたところだった。
「隊長、そういえば聞いた話なんですが」
その時は、仕事がひと段落して副官と雑談をしていた。
「以前から、マルティナ殿が魔法の指導をされていることはご存じかと思いますが、最近は剣術の基礎も教えていらっしゃるそうですね」
「……何ですって?」
思わず聞き返した。
マルティナ。
その名前には、もちろん覚えがある。
王都の魔法研究院に所属する魔法使いであり、魔法の研究者としても名の知れた人物だ。
私が王都で働いていた頃、彼女の名前を聞く機会は何度もあった。
魔法の制御や研究に熱心で、興味を持った対象には驚くほどの集中力を発揮する。研究に関する話を始めると、周囲が止めるまで延々と続けることもあるという。
実際に顔を合わせたこともある。
礼儀正しい態度を崩すことはないが、目の前の現象に興味を持つと、相手が誰であろうと質問を重ねるような人物だった。
魔法使いとしての実力は確かだし、研究者としての能力も高い。
それは認める。
認めるが……。
「どうして、マルティナ殿が剣術まで教えているの?」
「そこまでは分かりません。ただ、基本的な構えや足運びなどを教えているようです。最近、ルシアニウス様のご
指導に関わる時間が増えていると聞きました」
私は黙り込んだ。
魔法の指導だけでも、十分に羨ましい立場だというのに。
剣術まで教えている?
いや、マルティナは魔法使いだ。剣術の専門家というわけではないだろう。
それなのに、ルシアニウス様と一緒に訓練する時間を持っている。
一方、私はどうだ。
軍の責任者として、訓練を見学していただく機会こそあったものの、個人的に剣術を教えるような立場にはなっていない。
「……そう」
私は平静を装った。
「あ、もうこんな時間ですね。私は仕事に戻ります」
「……わかったわ」
副官が退室する。
扉が閉まると、私はゆっくりと息を吐いた。
「……やられたわね」
思わず、そんな言葉が漏れた。
彼女は研究者だ。興味を持った相手に指導を頼まれれば、真面目に取り組むはずだし、ルシアニウス様の魔法に関心を持っているのも理解できる。
それに、剣術の基礎を教えること自体は悪いことではない。
幼いうちから身体の動かし方を学ぶのは、将来的にも役立つだろう。
頭では分かっている。
分かっているのだが。
「……私だって、剣なら教えられるのに」
机の上に置いた手に、少し力が入った。
私は剣聖と呼ばれた人間だ。
剣術を教えることに関しては、マルティナよりも適任だと自負している。
もちろん、幼い子供に剣を持たせるなら、年齢に応じた指導が必要だ。いきなり実戦的な訓練をさせるつもりはない。
まずは正しい姿勢。
足の運び方。
重心の置き方。
身体を無理なく動かすための基本。
そうしたことを、少しずつ教えていけばいい。
何より、剣術の指導なら、私が直接ルシアニウス様のお相手をできる。
……これが重要だった。
というかあの女ぜったいにルシアニウス様に取り入る気だ
間違いない
私は椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。
夜の庭を眺めながら、考えを整理する。
マルティナは、魔法の指導を通じてルシアニウス様と親しくなっている。
それに加えて、剣術の基礎まで教えている。
このままでは、ルシアニウス様にとって、魔法も剣術もマルティナから学ぶものになってしまう。
それは、少しばかり面白くなかった。
いや、正直に言おう。
かなり面白くなかった。
「……私も、何かしなければ」
私は腕を組んだ。
剣術の指導を申し出るのはどうだろう。
いや、申し出るだけでは足りないかもしれない。
アンネリーゼ様の許可が必要なのは当然だが、ルシアニウス様ご本人にも、私から教わりたいと思っていただかなければ意味がない。
幸い、私は軍の責任者だ。
ルシアニウス様が以前、軍の訓練を見学されたこともある。剣を振るう兵士たちに興味を持たれていた様子だった。
ならば、その興味をきっかけに、剣術の指導を提案することはできるはずだ。
「まずは、アンネリーゼ様に相談ね」
私は小さく頷いた。
もちろん、ルシアニウス様の安全を最優先にする。
五歳の子供に無理な訓練をさせるつもりはないし、指導時間も短くする。魔法の勉強や貴族教育の妨げにならないよう、日程を調整する必要もあるだろう。
軍の仕事を疎かにするわけにもいかない。
私は軍の責任者なのだから、兵士たちの訓練や領地の警備に支障を出すことは許されない。
それらをすべて考慮したうえで、実現可能な計画を立てる。
そう、これはあくまで合理的な判断だ。
ルシアニウス様に必要な指導を提供するため。
剣術の専門家である私が、適切な教育を担当するため。
決して、マルティナに対抗したいからではない。
……少しは、そういう気持ちもあるかもしれないが。
「ふふ……」
思わず笑みがこぼれた。
剣を教えるとなれば、ルシアニウス様と一緒に過ごす時間も増える。
訓練の合間に話をすることもできるだろうし、少しずつ信頼関係を築いていくこともできるはずだ。
そして、いつか、あの方が私を頼ってくださるようになれば。
剣のことでも、それ以外のことでも。
そう考えると、胸の奥が妙に弾んだ。
もちろん、まだ五歳の男の子だ。
今から将来のことを期待しすぎるのはよくない。
本人が望まないのであれば、無理に距離を縮めるつもりもない。
ただ、将来、成長されたルシアニウス様に、私のことを頼りになる存在だと思っていただけたら。
そして、少しでも好意を持っていただけたら。
……お情けをいただける可能性だって、ゼロではないだろう。
私は、そこで一度考えを止めた。
「……いけない、いけない」
思わず自分の頬を軽く叩く。
また、下心が先に立ってしまった。
王都での失敗を、もう忘れたわけではない。
相手の立場や気持ちを考えず、自分の欲求を優先すれば、どれほど実力があっても信用を失う。
あの経験から、それくらいは学んだつもりだ。
だからこそ、今回は違う。
まずは、軍の責任者として真面目に仕事をする。
剣術の指導を任されたなら、責任を持って教える。
ルシアニウス様が何を学びたいのかを聞き、その気持ちを尊重する。
それができて初めて、信頼していただける可能性が生まれるのだ。
「よし……」
私は机に戻り、明日の予定を確認した。
まずは午前中に訓練を監督し、午後はアンネリーゼ様に相談する時間を設けてもらおう。
剣術指導の内容も、あらかじめ考えておく必要がある。
五歳児に適した訓練とは何か。
身体に負担をかけず、楽しみながら基礎を学べる方法はないか。
武器を使う前に、身体の動かし方から教えたほうがいいだろう。
考えるべきことは多い。
けれど、不思議と面倒には感じなかった。
むしろ、久しぶりに新しい目標ができたような気分だった。
「待っていてくださいね、ルシアニウス様」
誰もいない執務室で、私はそっとつぶやいた。
「剣のことなら、私が誰よりも上手に教えて差し上げますから」
その言葉には、軍人としての自信があった。
そして、それ以上に。
かわいらしい少年と、もう少し近くで過ごしたいという、ひどく個人的な願いが込められていた。
もっとも、本人にそのことを知られるつもりはない。
私は表情を引き締め、再び書類に目を落とした。
明日も、軍の仕事がある。
ルシアニウス様の指導を実現するためにも、まずは自分の責任を果たさなければならない。
剣聖と呼ばれた女は、こうして新しい目標を得た。
そして翌日、私はアンネリーゼ様に剣術指導の許可を求めるため、いつもより少しだけ念入りに身支度を整えることになるのだった。