問題は、情報が少なすぎることだった。
ここがどこなのか。
この国の名前は何なのか。
俺の家族は誰なのか。
この世界の文化や常識はどうなっているのか
知りたいことは山ほどある。
だが、周囲の人間が話している言葉は、いまだにほとんど理解できなかった。
耳に入ってくる音の響きは、日本語とは明らかに違う。
単語の区切りも、文法も、まるで見当がつかない。
それでも、毎日聞いているうちに、いくつかの音は覚えてきた。
特に、俺に向けて繰り返される言葉。
それから、家族や使用人の名前らしき音。
――ルシアニウス。
おそらく、これが俺の名前だ。
まだ確信は持てないものの、母親や侍女たちは俺を見るたびに、その音を口にする。ほかの言葉とは使われ方が明らかに違う。
名前だと考えるのが自然だろう。
そして母親の名前がアンネリーゼ
上の姉がエレオノーラ
下の姉がエリザベート
ということわかってきた
姉たちは母親からそれぞれノーラ、リーザと呼ばれることもある
おそらく愛称だろう
ちなみに俺のお気に入りの侍女ちゃんはセレナちゃんという名前らしい
仏頂面で眼鏡をかけたすごくまじめそうな子だ
しかし、俺が笑いかけると笑ってくれる
このギャップがたまらない
あとおっぱいが大きい
それにまだ10代くらいであろうに献身的に世話をしてくれる
あとおっぱいが大きい
ただ、名前以外はさっぱりだ。
人の顔と名前らしき音を結びつけることはできても、その人物が何を考えているのか、どんな立場なのかまではわからない。
会話を理解できないというのは、想像以上に不便だった。
前世では、わからないことがあれば調べればよかった。
資料を探し、実験し、誰かに質問する。
だが、今の俺は質問どころか、まともに言葉を発することすらできない。
何かを知ろうとしても、周囲の人間に尋ねる手段がないのだ。
……これは困った。
せめて、早く言葉を覚えたい。
もっとも、赤ん坊が急に流暢に話し始めたら、それはそれで大騒ぎになるだろうが。
今は聞くことしかできない。
ならば、せめて周囲の様子をよく観察することにしよう。
俺はそう決めた。
◇
それは、ある日の午後だった。
俺はいつものようにベッドに寝かされ、部屋の様子を眺めていた。
少し離れた場所で、二人の侍女が掃除をしている。
一人が床に落ちた小さなごみを見つけ、何かをつぶやいた。
すると――。
ふわり。
ごみが床から浮き上がった。
……ん?
俺は目を見開いた。
ごみは宙に浮いたまま、侍女の手元へと移動していく。
彼女はそれを小さな箱の中へ落とすと、何事もなかったかのように掃除を続けた。
…………。
………………。
……………………は?
今、何が起きた?
見間違いか?
いや、違う。
確かに浮いた。
床に落ちていたごみが、何の支えもなく宙に浮き、移動したのだ。
どういう仕組みだ?
糸か? 磁力か? 何かの装置か?
いや、そんなものは見当たらない。
そもそも、ごみを浮かせるためだけに、そんな仕掛けを用意するだろうか。
俺は必死に目を凝らした。
すると、今度は別の侍女が窓際へ向かい、何かをつぶやいた。
窓が、ひとりでに開いた。
風が吹き込み、カーテンが揺れる。
彼女は続けて手を動かす。
すると、床に置かれていた布がふわりと浮かび、空中で突如発生した水の中に入り洗浄された。
…………。
……魔法だ。
魔法に違いない。
前世では、魔法などは空想の産物だった。
小説や漫画、ゲームの中にしか存在しないもの。
だが、今の光景はどう説明すればいい?
ごみが浮く。
窓がひとりでに開く。
水が空中に突然発生する。
科学技術で説明できる可能性を探そうとしても、目の前の現象にはあまりにも無理がある。
マジックなんか仕事中にする意味も分からない
つまり。
この世界には、魔法が存在するのだ。
魔法が。
実在する。
俺の頭の中で、何かが弾けた。
魔法。
魔法だぞ。
この世界には、本当に魔法があるのか!
れっきとした男の子である俺にとって、未知の技術ほど興味をそそられるものはない。
そもそも、どのような原理で物質が動いている?
エネルギーはどこから供給されている?
術者は何を操作している?
再現性はあるのか?
条件を変えれば、現象はどう変化する?
知りたいことが次々と浮かんでくる。
そして、俺は興奮のあまり――。
「うあっ! あーっ!」
手足をばたばたと動かした。
――もっと見せてくれ!
――今のは何だ!?
――どうやったんだ!?
――俺にも教えてくれ!
言葉にならない叫びを上げながら、体をよじる。
当然、まともに動けるはずもない。
それでも、俺は全身を使って喜びを表現した。
「ルシアニウス…? ………………?」
侍女の一人が、慌ててこちらへやってくる。
何を言っているのかはよくわからない
俺は彼女の顔を見上げ、さらに手足を動かした。
「あーっ! あぅ! うーっ!」
――違う!
――そうじゃない!
――俺は魔法が見たいんだ!
――さっきのをもう一度やってくれ!
しかし、侍女には俺の意図が伝わらない。
彼女は心配そうに俺の額や体に触れ、具合が悪いのではないかと確かめているようだった。
もう一人の侍女も駆け寄ってきた。
二人は顔を見合わせ、何やら相談を始める。
……あ。
やってしまった。
赤ん坊が突然暴れ始めたら、そりゃあ心配するよな。
だが、興奮を抑えることはできなかった。
魔法があるのだ。
この世界には、前世では決して触れることのできなかった技術が存在するかもしれない。
そう考えると、どうにも落ち着かなかった。
想像が膨らんでいく。
俺は、まだ何も知らない。
魔法の原理も、限界も、使い方も。
だが、それは裏を返せば、これから知ることができるということだ。
……最高じゃないか。
こんな面白そうな世界で、もう一度人生をやり直せるなんて。
俺は再び手足をばたつかせた。
「うあーっ!」
「…………、ルシアニウス…。………………………。」
侍女は微笑みながら、俺を抱き上げた。
結局、その日は俺が落ち着くまで、侍女たちが交代であやしてくれることになった。
俺はその腕の中で、どうにか気持ちを落ち着けようとした。
魔法の研究は、もう少し先になりそうだ。
まずは、体を自由に動かせるようになること。
それから、言葉を覚えること。
そして、魔法についての情報を集めること。
やるべきことは多い。
だが、楽しみも増えた。
この世界で生きていく楽しみが、一つ見つかった気がした。
魔法はロマン