赤ん坊としての生活には、言語以外に別の問題もあった。
たとえば、排泄である。
前世では、当然ながら自分でトイレに行っていた。
ところが今の俺は、自分で寝返りを打つことすら満足にできない。
当然、排泄の始末も人任せだ。
ある日の朝。
「ルシアニウス…、………………………」
侍女が俺の服を整えながら、何やら優しい声をかけてきた。
……来たか。
俺は心の中でため息をついた。
この時間は、どうにも落ち着かない。
いや、仕方がないことだとはわかっている。
赤ん坊なのだから、自分でできないのは当然だ。
世話をしてもらわなければ生きていけない。
それは理解している。
理解しているのだが……。
前世の記憶がある身としては、どうしても複雑な気持ちになる。
いい年をした大人だったのだ。
そういう癖があるわけでもない。
それが今では、服を脱がされ、体を拭かれ、排泄の始末までしてもらっている。
恥ずかしい。
ひたすらに恥ずかしい。
できることなら、せめて自分で体を動かせるようになってからにしてほしい。
……いや、無理か。
そんなことを考えている間にも、侍女は手際よくおむつを交換していく。
慣れたものだった。
こちらが少し身じろぎしたところで、まったく動じない。
むしろ、俺が大人しくしているのを見て、微笑ましそうに笑った。
「……………………♪」
……やめてくれ。
なぜ俺の排泄物を処理するのにそんな上機嫌なんだ
俺は三十代の男なんだ。
いや、今は赤ん坊なのだが。
前世の自尊心と、現在の肉体の間で、俺の心は複雑に揺れ動いていた。
しかし、結局のところ、どうすることもできない。
今の俺にできるのは、せいぜい顔を背けて、恥ずかしさをごまかすことくらいだった。
……まあ、いつまでもこのままというわけではないだろう。
いずれ成長すれば、自分のことは自分でできるようになる。
それまでの辛抱だ。
そう自分に言い聞かせることにした。
◇
そして、赤ん坊としての生活には、一つ楽しみがあった。
食事である。
といっても、今の俺が食べられるものは限られている。
母親の乳。
それだけだ。
別に特別おいしいということもない。
ただ、合法的に美人のおっぱいを吸えるのだ。
しかもほんとに母乳が出る女性のだ。
……まあ母親だから当たり前ではあるが。
ついでに俺のちっちゃい手で、もみもみすることもできる。
そういう癖はなかったはずだが、目覚めそうだ。
いや、もう目覚めているかもしれない。
母親であるアンネリーゼが俺を抱き上げて授乳してくれると、温かく、安心でき、空腹が満たされていく。
おなかがいっぱいになったら、やさしくげっぷを促されてげっぷをする。
そして母親の腕の中で寝る。
ついでにエッチな気分にもなれる。
気分だけだが。
すべての欲求を一気に満たすことができる。
ここは天国だ、パラダイスだ。
やはり俺はあの時死んで天国に来ていたのかもしれない。
アンネリーゼは俺を抱きかかえ、優しく声をかけながら授乳してくれる。
俺はその腕の中で、安心しきっていた。
そして、時折、アンネリーゼが俺の顔を覗き込んでは、何とも言えない表情を浮かべることがあった。
優しい。
それは間違いない。
だが、ただ優しいだけではないような気もする。
何というか……。
妙に熱っぽい視線を向けられているような……。
そういえば俺の世話をしてくれている侍女たちからも時折妙に熱っぽい視線を向けられているような気がする。
いや、気のせいだろう。
生まれたばかりの赤ん坊なのだから、母親が愛情を注ぐのは当然だ。
それに、俺は今、何もできない。
食事も、排泄も、移動も、すべて誰かに頼らなければならない。
そんな状態なのだから、心配されているのだろう。
……うん。
そういうことにしておこう。
◇
それからも、俺の毎日は似たようなものだった。
目を覚ます。
周囲を観察する。
腹が減ったら泣く。
アンネリーゼや侍女に世話をしてもらう。
姉たちがやってきて、遊んでくれる。
そして、眠くなったら眠る。
単調といえば、単調な生活だ。
しかし、よく観察してみると、毎日少しずつ違いがある。
侍女たちが使う道具。
部屋の配置。
食事の時間。
人々の表情。
それに、魔法。
あれから注意して見ていると、魔法らしき現象は、思っていた以上に頻繁に目にすることができた。
掃除の際に物を浮かせる。
水を発生させる。
火を起こす。
少なくとも、俺が知る限り、ここでは魔法は特別な儀式ではないらしい。
家事の一部として、ごく自然に使われている。
つまり、この世界では魔法が日常生活に浸透しているのだ。
使用人が当たり前のように使っているなら、仕組みを学ぶ機会もあるかもしれない。
もちろん、俺自身が魔法を使えるかどうかはわからない。
そもそも、魔法を使うために何が必要なのかすら知らないのだ。
それでも、可能性があるなら試してみたい。
俺は、魔法を使う人間を見かけるたびに、目を凝らした。
どんな動作をするのか。
何かを口にするのか。
手をどのように動かすのか。
何か道具を使っているのか。
観察できることは、すべて観察する。
……ただし。
興奮のあまり、また手足をばたつかせてしまうこともあった。
そのたびに侍女たちは慌てて俺の様子を確認し、体調が悪いのではないかと心配する。
申し訳ないとは思う。
思うのだが、魔法が目の前で使われているのだ。
仕方がないではないか。
俺は心の中でそう言い訳した。
◇
そして、ある晩。
アンネリーゼが俺を寝かしつけようとしていたときのことだ。
いつものように俺を抱きかかえ、優しく揺らしながら、何かを話しかけてくる。
言葉はわからない。
けれど、声は穏やかだった。
俺はアンネリーゼの顔を見上げた。
整った顔立ち。
柔らかな表情。
そして、俺を見つめる瞳。
その目には、確かな愛情があった。
それは、言葉がわからなくても理解できるものだった。
母親は、俺の額にそっと口づけた。
それから、何度も名前らしき音を口にする。
ルシアニウス。
ルシー。
やはり、俺の名前なのだろう。
愛称のようなものもあるようだ。
その音をしゃべるたびに、アンネリーゼの表情が柔らかくなる。
……不思議なものだ。
俺は、この女性のことをほとんど知らない。
名前すら、まだ正確には聞き取れていない。
それなのに、この人が俺の母親なのだということは、なぜか自然に受け入れられた。
前世の母親とは違う。
前世の家族とも違う。
それでも、今の俺にとっては、この人が母親なのだ。
そして、姉たちもいる。
侍女たちもいる。
この屋敷には、俺を大切にしてくれる人が何人もいるらしい。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
……もっとも、気になることがないわけではない。
父親のこと。
この国のこと。
魔法のこと。
俺自身のこと。
わからないことだらけだ。
だが、焦る必要はない。
今の俺は、まだ生まれて数か月の赤ん坊なのだから。
できることは少ない。
けれど、時間はたっぷりある。
まずは、言葉を覚える。
体を動かせるようになる。
そして、この世界について知る。
その先に、魔法がある。
……もちろん、その前に、赤ん坊としての生活を乗り越えなければならないのだが。
俺はアンネリーゼの腕の中で、ゆっくりと目を閉じた。
温かい。
安心する。
今は赤ん坊だ。
自分では何もできない。
だから、今だけは甘えてもいいのだろう。
そう自分に言い聞かせる。
……まあ、せっかくの第二の人生なのだ。
少しくらい、楽をしても罰は当たらないだろう。
そんなことを考えながら、俺は眠りについた。
幼少期のエピソードで書きたいことが多くてなかなか成長しなさそう(・ω<)ゞ